第4話

 今から十数分前。

 『舌無しコウモリ』は、計画が思い通りに運ばす苛立っていた宵川斗紀夫の指示に従い、6年ぶりに醜悪な異形の者に変化するしかなかった。そして、八窪由真をおびき出すために、彼女は「レストラン 笑窪」の屋外ブレーカーを落としたのであった。

 20×6年8月4日より6年後の今日、あの日と異なり彼女の意識ははっきりとしていた。

 あの日、自分の中にいたもう1人の自分が”本当の”自分を押しのけて、異形の者に変化したこの体を好き勝手に動かし、青く骨ばったこの手でこの地を血に染めたのだ。高校の元同級生であった八窪真理恵のみならず、全くの無関係であった他9名の命を直接的にしろ間接的に奪った。今日はその罰をこの身に受ける日であった。

 だが先ほど、二度と見せたくなったこの姿を彼女が見せることになったのは、八窪由真だけではなかった。やたらに背の高い男と、夏だというのに長袖の薄汚れたボロボロの服を着た男も、八窪由真とともにいた。

 満月の下、自分に向かって、八窪由真はナイフを手に飛びかかってきた。

 そして、彼女の傍らにいたあの長袖の男も「殺してやる!」と叫び、自分に向かってきた。

 発せられた2つの殺意に飛びあがり、身を翻した。今は”当初”の打ち合わせどおり、八窪由真を八窪真理恵の最期の場所へとおびき出すために、極端に人通りの少ないこの道路を駆け上がっている。あの6年前の夜と同じく、冷えたアスファルトが自分の裸足の足裏を硬く擦り続けていた。だが、1つ違うのは、今夜の自分は『殺戮者』側ではなくて『獲物』であるということだった。

――今夜、私は遺族の手で殺される。私の人生が終わる。今日が私の最期の日。終わりの日。

 自分に向かって、ナイフを振り上げた八窪由真の顔を思い出す。

――許してください。

 だが、彼女は考える。遺族である八窪由真が自分を殺そうとしたのは最もなことだ、自分もそれを望んでいる、でもあの長袖の男は一体? と。

――まさか、あの男は?! 

 今、自分の目に映る夜空の彼方に捨て去ってしまいたかったあの日の記憶が、けれでも決して捨ててはいけない記憶が、夜風の中、走り続ける自分の脳裏で、ギュルギュルと巻き戻され早送りで展開され始めた――



 20×6年8月4日。

 26才。求職中であった。ハローワークの帰り、道を歩く自分の肌に、一番高いところに昇っている夏の陽が染み込むがごとく、照りつけていた。熱でほてった頬をかばうように、両手で包み込む。「日焼け止めをしていれば、少しはマシだったかも」と思ったが、そういった化粧品に割くお金を食費と家賃に回すことにしたため仕方ないと重い溜息をついた。

 求職中=無職というのは、経済的にもかなりきついものであった。前に勤めていた会社は薄給であり、ずっと1人暮らしをしていたため、家賃や光熱費にお金をとられ、貯蓄もほんの僅かしかなかった。

 だが「自分は働きたかったのに会社を辞めさせられたというわけではない。自分からあの職場に見切りをつけたのだから仕方ないのないことだ」と、自分の心を確認し、1人で暮らすアパートへと帰宅の足を向けた。

――今日、宵川先生に会える。先生が私にファンレターの返事をくれるなんて……不幸続きで何もいいことなんて、起こらないと思っていた私の人生だけど……

 けれども、これから長年のファンだった宵川斗紀夫に会えるという喜びよりも、自分が歩んできた不幸な人生における蘇らなくてもいい思い出の方が、より強く大きく心の中を埋め尽くしていった。

――そう、私は本当に不幸だった。いや、今も不幸だ。

 思い返す人生の原点はまず家庭であった。定職につかず自分の大好きな酒が飲めないとなると人が変わってしまうほどの父親と、自分の思い通りにならないとヒステリーを起こす母親の間に生まれた。碌に働かない父の代わりに一馬力で家庭を支えていた母であったが、仕事でのストレスや鬱憤がたまると、そのストレスのはけ口として自分を利用する時もあった。ちょっとした成績の下降にかこつけて、真冬にホースで水をぶっかけられたことも記憶に残っている。

 そういった愛の薄い家庭を原点として時は過ぎ、思春期を迎えた。人並みに恋もしたことあったが、同じ学校にいる他の女子生徒たちと比べて、自分の容姿はそう恵まれた方ではないということが次第に分かってきた。自分がそういったことを知りたくなくても、周りの男性教師や男子生徒の態度で分かってしまう。恋心を打ち明けたくても、自分にはそれができるパスポート(容貌の美しさ)がないと思い、中学生時代は奥底に淡い恋心をそっと封印し続けていた。


 父のようになるな、という言葉が口癖だった母の影響を如実に受け続け、勉強だけは頑張ったためか、高校は県内でも高レベルの進学校に進むことができた。当たり前だがそこにも、可愛い女子生徒や美しい女子生徒はいた。そして、自分に再び恋心を湧き起こせる男子生徒にも出会った。

 その男子生徒――Sは、学年で1番人気といってもいい男子生徒であった。8年たった今にして思えば、日本で暮らす大多数の人間が学生時代に1人ぐらいは巡り合うであろう、「運動部のエースで女子生徒に甘い歓声をあげられる爽やかな男子生徒」の雛形ような生徒でもあったのだが。

 自分の中で抑え続けるつもりであった恋心。けれども、高校2年生時の文化祭の準備期間にて、偶然Sとかつてないほど話をする機会に恵まれた。仲良く話をすることができた、Sの心に自分の存在が響いたような手ごたえがあった。

――もしかしたら、こんな私でも……

 思い切って人生初めての告白を彼にした。だが、「俺、彼女いるからごめん」との言葉を受けた。「自分の思いが受け止められなかった。それは仕方ないことだ。一時的であるにもせよ彼とたくさん話ができただけでも」と大人になったら学生時代の苦い思い出の1つになるだろう初めての失恋に、その夜は枕を涙で濡らした。

 だが、話はそれで終わらなかった。

 ある日、偶然、彼が校舎の裏でSが複数の友人と話をしている場面に鉢合わせた。そして、どうやら自分に告白されたことを話しているらしく、思わず校舎の陰に身を隠してしまった。けれども、聞きたくもない彼らの話は、自分の耳に入り響き渡った。

「俺、こないだ、また別の女から告白されたんだけどよぉ。無理だって。まず鏡見ろって」

 Sの言葉に周りから笑い声があがった。

「無理って女に限って、やたら積極的に迫ってくるんだよなあ」

「つうか、S、お前女いたんだ。この学校の女? それとも他校の?」

「八窪だよ。八窪真理恵」

 男子生徒から感嘆ともいえる声があがった。

「えっ? あの八窪? めっちゃいいじゃん!」

「やっぱ女は顔だよな、ブスだと勃たねえもんな」

「八窪とのハメ撮り写真とか撮ってねえの? あったら、見せてくれよ」

 彼らの声にSが溜息を吐きながら答えた。

「それがさあ、あいつまだやらせてくれねえんだよ。俺が告白してOKしたくせに、『学校ではあまりいちゃつかない様にしようね』とか『なんだか、あなた私が思っていた人と違う』とか訳わからねえこと言い始めてさ……」

「お前、性格悪いもんな」

「うるせえよ。とにかく俺はあいつと……」

 Sの言葉を最後まで聞かないうちに、その場から逃げ出していた。一世一代の大決心をして、自分の思いを打ち明けたのに、何の関係もない男子生徒との話の種にして、自分のことを嘲笑っていたS。

 そして、Sと付き合っている八窪真理恵は、自分と同じクラスで、学年でも美人との誉れの高い女子生徒の1人であった。同じ女という性に生まれたのに、ただの皮一枚でこんな仕打ちを受けるのかと、その日の夜、失恋のショックよりも、不美人に生まれてしまった自分の不幸を嘆き、再び枕を濡らした。

 Sとのことはそれで終わったが、更に自分の身に不幸は続いた。

 通っていた高校では、卒業後の進路に「就職」の道を選ぶのはわずか2%であった。その2%に自分が入るしかない状況となっていた。大学に進学し、心理学を学びたいという気持ちは強かった。けれども、日々生活していくのがやっとであった自分の家に、そんな大学進学のための費用があるわけがなかった。奨学金を受けて、大学へと進むことも検討したが、この日本で将来、ある意味借金ともいえる奨学金を返し、生活し続けることができる仕事に就けるという保証もなかった。

 こんな自分の目の前に開かれているのは「就職」というただ1つの道だけであった。不幸しか与えられなかった家を飛び出し、1人暮らしをしながら、18才より働き始めた。


――真面目に働いていれば、誰かが私を見つけてくれる。

 そう思っていたが、それも叶わなかった。それは、同期入社した同僚との評価の差であった。しかも、その同僚が格別に仕事ができたために生じたわけではない評価でだった。まず、第一にその同僚と自分との仕事量は、5:1ぐらいの差があった。それは自分の被害妄想ではなく、1年早く入社した女性社員も思っていたことであるらしく、上司に掛け合ってくれたこともあった。だが、待遇が改善されることはなかった。5:1の割合の仕事量によって、ミスも5:1の割合で生じていた。

 自分は毎日毎日、残業しなければならない状況に追い込まれていたのに、同僚はいつも定時退社であった。同僚が自分の仕事を手伝ってくれる、または形だけでも「手伝いましょうか?」という声をかけてくれていたら、違ったかもしれない。

 だが、同僚は定時前に化粧を直し、身綺麗な格好で、笑顔で帰宅していく。仕事の疲れと苛立ちは募っていった。その同僚は美人というよりも可愛いタイプであったが、男性上司たちに取り入るのが非常にうまく、まさに「愛される女」を体現しているかのような存在であった。

 自分が必死で仕事を片づけている時に、涼しい顔で「お先に失礼します」「でも、それって私の仕事じゃないですよね」と帰っていく同僚。改善されない仕事量の振り分け。自分は、この境遇に8年も耐え続けた。でも、何も変わらなかった。

 日々の仕事をこなしていくことに精一杯で、趣味や男性との出会いの場へと赴くような気力すら湧かなかった。毎日会う男と言えば、同僚だけを可愛がる上司しかいなかった。

 愛される者はますます愛され、その隅に追いやられたものはさらにゴミ箱のように扱われ、人から嫌なことを押し付けられ、または投げつけられる存在となってしまうのだ。

 ついに1か月前、思い切って仕事を辞めた。世にはリストラされて、窮地に追い込まれている人もいるだろう。でも、自分から仕事を辞めた今は、経済的には窮地に追い込まれていたが、精神はむしろ開放されていた。

――私は私の人生を、こうして歩いていくしかないんだ。

 と、さらに歩みを進めた時、背後より自分の名字を呼ばれた。

 思わず振り返ると、見覚えがある自分と同じ年ぐらいの女性――その彼女の名を思い出す前に高校の制服に身を包んだ彼女の姿が蘇ってきた。彼女は同じ高校を卒業した元同級生であった。

 「元気?」とやたら馴れ馴れしく話しかけてくるその彼女が、口元を動かす度に濃いファンデーションがよれ、妙な皺を作っていた。香水の強い匂いも鼻をつく。

 自分の返事も聞かないうちに、彼女は矢継ぎ早に彼女自身の近況をまくしたてた。高校を卒業後、隣の県の大学へと進み、現在はアパレルショップの店員として勤務していること、売上のノルマや服にお金がかかること、今日は店の定休日なんで、たまたま町をぶらついていたら懐かしい顔を見かけて声をかけたことのこと。

 高校時代、確かに同じクラスではあったが、そう親しいわけでもなかった自分に対し、値踏みをするよう視線を上下左右に動かしマシンガントークを続ける彼女の姿に、「彼女も私と同じで今、幸せというわけではないんだな」と思わずにはいられなかった。

 だが、彼女は話を聞く限り定職にはついているし、身に着けているのも高そうな衣服だ。左手に薬指はないけれども、全身からは明らかに男を知っているという雰囲気を醸し出していた。自分がまだ一度も知ったことのない男を知っている雰囲気を。

 一方的な会話に少しの間ができた時、彼女は唇の端をピクリと動かした。肌の上のファンデーションの粉っぽさがさらに目についた。

「ねえ、真理恵のこと、覚えてる? 八窪真理恵」

 なぜ、何の脈絡もなく、八窪真理恵の名前が出てくるだろうと思ったが、一応は頷いた。

「あの子さあ、離婚したんだって、離婚。今ここに戻ってきてるんだって」

 自分の返事を待たないうちに、彼女は嬉しそうに話を続ける。彼女の瞳の輝きは強く濃くなっていき始めた。

「せっかくの休みにわざわざ、結婚式に出てやったのに3年もたたずに離婚とかさあ……全くご祝儀返せっての」

「……離婚って、どうして?」

 思わず聞いてしまっていた。彼女は話したくてたまらなかったの、と言った風に顔をほころばせた。

「どうやら、旦那の浮気らしいよ。そりゃあ、都会にはあの子より美人もいっぱいいるだろうしねえ……」

「旦那さん側の浮気が原因なの?」

「そうらしいよ。でも、正直ちょっといい気味だよね。あの子、男にフられるっていうか、男を思い通りにできなかったことって今回が初めてだったんじゃないの?

高校時代もそりゃあ、モテてたもんねえ。それに周りには秘密にしてたみたいだけど、あの子とSくんって付き合ってもいたんだよ。真理恵から別れを告げたらしいけど」

 Sが校舎裏で他の男子生徒と話していたあの苦い記憶が生々しく、自分の心臓を脈打たせた。

 記憶の中で再生される高校時代の八窪真理恵。いつもアイロンがピシッときいたブレザーの制服、肩を少し過ぎたぐらいの柔らかそうな髪、プリーツがそろった制服のスカートから見えていた白く形のいい脚。綺麗な顔は優し気で、とにかくおっとりとして性格がよさそうといった印象を抱かせていた。だが、八窪真理恵は絶世の美女というわけではなく、他にも美人との誉れが高い女生徒は数人いた。現に、今自分の目の前にいるこの彼女にしたって、顔立ちが整っているという点では八窪真理恵と遜色ないくらいであった。それに、服ごしからでも、胸や臀部のボリュームが分かる。だが、彼女の目元や口元に剣がある表情は濃い化粧でも隠せず、それが彼女の魅力をかなり損ねてはいた。

 そんな自分の心の内には気づかず、更に彼女はうれしそうに言葉を吐き出し続ける。

「真理恵ってさ、Sくんと別れた後は、大学で出会った男と付き合ってて、そしてその男とも数年で別れて、大学4年時に引っ越した先のマンションの隣人の男と結婚だもん。台風で怖かった時に助けてくれたとかでさ。で、あの鬼瓦みたいな顔の父親の援助かもしれないけど、横浜のいいマンションに新居を構えてたのよ。一度遊びに行ったんだけど、20代の夫婦が住むには贅沢なマンションだったし」

 なんと言葉を返していいのかは分からなかった。そして、彼女は携帯を取り出し、自分の眼前に突き付けた。

「でもね、私、昨日、見ちゃったんだ。で、思わず、写真撮っちゃった」

 八窪真理恵の自宅前で撮られたと思われる写真。画質はそう鮮明ではなかったが、やわらかな髪を肩まで垂らし、シンプルなトップスに、風に揺れるようなスカートから白い脚を見せている八窪真理恵。その彼女の隣には、スーツケースを持っている背が高めの男。顔はよく見えなかったが、その男のスーツ姿は、まるで広告のモデルのように様になっていた。

「あの子、もう次の男を咥えこんだってわけよ」

「……え、この人、旦那さんじゃないの?」

「だからあ、離婚したってさっき言ったじゃん。それにあの子の元旦那って、なんていうか、もっと男くさい感じの人だったし」

 自分の頓珍漢な言葉に彼女はイラついたような声をあげた。

「それに次の男って、元旦那よりもいい男っぽいし。いかにもエリートって感じ醸し出しててさ。バツがついていても、モテる女はモテるんだよね。家も金持ちだしねえ。あの子、お金に困ることなんて、一生ないんじゃない?」

 彼女の嫉妬と羨望で歪んだ表情を見ているうちに、目の前にいるこの彼女の名前を思い出してきた。そして、彼女は八窪真理恵と一緒に行動していたグループにいたことも。

 その女子グループには、八窪真理恵とこの彼女の他に、八窪真理恵と同じ中学校出身であったテニス部に所属していた活発な女子生徒、そしてややぽっちゃりとした肝っ玉母さんを思わせる女子生徒もいた。当時は、4人とも非常に仲が良さそうに見えていたのに、今自分の前で友達であるはずの八窪真理恵の身に起こった”夫の浮気による離婚”という不幸を嬉しそうに話している彼女を見ていると、「まさにフレネミーってこういう人のことを言うのか」と思わずにはいられなかった。

「ほら、それにOっていたじゃん。ほら、あのちょっとデブってて、女捨ててる感じの……あの子、職場で旧家の御曹司に見初められてさあ。今、双子妊娠中だってさ」

 と、いきなり彼女の話が飛び困惑した。おそらく彼女が話しているのは、同じ女子グループにいたあのぽっちゃりとした肝っ玉母さん風の女子生徒のことだろう。

「ブスでも、デブでも結婚できるんだと、あのOには勇気をもらった気がするのよね。私も婚活がんばろっと」

 言いたいことだけを吐き出した彼女は、自分に向かって軽く手を振り、去っていった。彼女の香水の残り香だけが、鼻に甘ったるく残っていた。

 先ほどの彼女も自分と同じく、たった1人で人生の崖っぷちにいるような気でいるのだろう。だから、八窪真理恵やOという女生徒の歩んでいる人生を、羨んでいるに違いない。面と向かって、彼女にこう言ったら、きっと彼女は顔を真っ赤にして否定するとは思う。でも、自分はあの彼女の気持ちが痛いくらい分かった。


 自分が生まれる家を選ぶことはできない。酒好きの怠け者の父親、ヒステリーで暴力的な母親の元に望んできて生まれたわけじゃない。それに、生まれ落ちた時にすでに美醜という差は生じている。美醜の程度にもよるが、努力してももとから美しく生まれてしまった者には勝てない。この美醜という差は、頭脳や運動神経にも言えることだ。だが、自分は思春期に「もっと頭がよければ」「もっと運動ができれば」と思うよりも、「もっと可愛かったら」「もっと美人だったら」と思うことの方が多かったのだから、より美醜にこだわってしまうのだ。

 そのうえ、努力は必ずしも報われるわけではない、周りが正しく評価してくれるわけではないということを先日まで勤めていた会社で痛いくらい実感したのだ。

 必死で仕事をしていても、評価が高かったのは自分よりはるかに仕事量が少なく、こなせる仕事も少ない同僚であった。上司が必ずしも、公平に判断してくれるわけではない。そんなことを望むこと自体が、あの会社では無意味であった。

 そして自分は、26才の今現在まで男性と付き合ったことなど一度もなかった。先ほどの話を聞く限り、八窪真理恵は高校時代にはSから求愛され、それから1人の男と付き合い、3人目の男と結婚し離婚した。そのうえ、離婚して間もないのに、今4人目らしき男の存在がある。家だって金持ちだ。おそらく彼女は酒が飲めずにキレて暴れる父親を必死で止めようとしたことも、ストレスが溜まっていた母親に真冬にホースで水をかけられたことだってあるはずがないだろう。金を稼ぐことのできる能力のある父親と、優しい母親の元でずっと育ってきたに違いない。

 神に愛されて生まれた者は、ますます愛されていく。同じ人間、それも同じ女という性に生まれたのに。

 記憶の中にある、制服姿の八窪真理恵の姿が蘇ってきた。

 自分が低いところから、決して手の届くことのない、天よりも高いところにいる八窪真理恵を見上げているような気持ちであった。苦しかった。仮に彼女が自分とは縁のない世界の人間なら、例えば一般人ならとても近づくことのできない皇族や芸能人などであったら、この苦しさは少しはマシであったのだろう。だが、彼女は自分と同じ高校に通っていた。同じクラスで自分と机を並べていたのだ。


 重く疲れた足取りで家に戻った。憧れの作家である宵川斗紀夫との待ち合わせ時間までに、まだ数時間ほどあった。熱を持ち、汗ばんだ肌をシャワーでザッと流し、目覚まし時計をセットし、少しだけ眠ることにした。もともと眠りが浅い体質であるため、目覚ましがなったら、すぐに起きることができる自信はあった。

 だが、この時に限っては、すぐに深い夢の中へと落ちていった。そして、いつも見ているあの夢の中にいると気づいた。


 血の匂いが漂っているような暗く冷たい部屋。そこには、”いつものあいつ”がいた。深淵ともいえる闇の中より、赤く染まったそいつの2つの瞳が自分を見ているのだ。そして、”いつものように”そいつは手に持っている何かを自分に渡そうとしてきた。

 ”それ”が何であるのかは、まるでボカシがかかっているように自分には見えなかった。自分がこの不気味な夢を見続けて、もう1か月以上はたっているだろう。気味の悪さを感じていたが、自分の潜在意識の中にある鬱憤や怒りが、夢として表れているのだけに違いないと深刻には考えてはいなかった。

 そいつが渡そうとしている”それ”は、自分をこの辛い境遇から救い出してくれるものなのかもしれないと、ふと思った。その”それ”とは、正当に評価してくれる新しい職場であったり、こんな自分を愛してくれる男性であるのかもしれないとも。

 ふと、八窪真理恵がちらついた。記憶の中にある制服姿の八窪真理恵と、今日、あの元同級生に見せられた携帯の中の八窪真理恵。

――羨ましい。私だって愛されたい。評価されたい。認めてほしい。

 ついに、そいつに向かって、手を伸ばした。まるで内臓の一部のように妙な生臭さと柔らかさを持つ”それ”を自分が受け取った時、氷のように冷たい手をしていたそいつの唇の両端が耳へとズズッと近づいていき――


 目覚まし時計のけたたましい音で目は覚めた。蒸し暑い部屋でエアコンもつけずに寝ていたためか、体は妙にだるく熱っぽかった。

 もう一度、シャワーを浴び直し、残量が少なくなっている化粧品で目いっぱい化粧をし、手持ちの服の中から一番いいものを選んだ。

 そして、憧れの宵川斗紀夫との待ち合わせ場所に足を運んだのであった。

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