第9話

 炎の大蛇は、瞬く間に燃えさかる炎の壁へとなった。

 斗紀夫は思わず、自身の唇をその赤い舌で舐めまわしていた。炎の壁の中にいる八窪由真は、斗紀夫にとってまさに歪んだ欲望という檻の中にいる獲物であった。

 心に大きな傷を負いながらも今日のこの日まで生き続けてきた八窪由真。斗紀夫はあの”8月の死者たち”の命日となる今日に、八窪由真を主演とした犯罪の舞台計画を設けたのだ。

 協力者である松前不二男にこの計画を話した時、不二男は押さえた笑いをその口から漏らした。

「あんたが思っている通り、全てのことは運ばんと思うがな。あの店長、八窪由真にいくら姉の仇とはいえ、生身の人間を殺すことはできないだろう。あの女は、人として超えてはいけない一線は守ると思うぞ。俺たちとは違ってな」

 この松前不二男は、斗紀夫にとっても謎の多い男であった。

 独身の1人暮らし。年は”自称”48才。「レストラン 笑窪」のメインシェフ。そして、斗紀夫”たち”の同士。彼もあの夢で、受け取った者である。 

「殺したいんだ。その恍惚を味わいたいんだ」

 ポツリと呟いた不二男の瞳には狂気が宿っていた。そう、斗紀夫と同じ狂気が。

 殺人願望のある男。この松前不二男が協力者となってくれたのは、斗紀夫にとっても非常に都合がよかった。八窪由真が自分の思い通りに動かなかった時、すなわち『舌無しコウモリ』にその憎しみの刃を突き立てなかった時は、彼女の口を封じなければならない。自分が6年前の夏に、今はとうに更地となった沼工場でA子を使い、逢坂夏樹と彼と一緒に来てしまった櫓木正巳の口を封じたように。今回も”直接”の加害者となる気など全くなかった。口封じは松前不二男に任せる。このことは『舌無しコウモリ』にも知らせていなかった。斗紀夫と松前不二男だけの秘密であった。

 斗紀夫は炎にあかあかと照らされている由真を見た。彼女の表情は見えない。でも、再び迫りくる”死”に絶対絶命といったところであるだろう。

――俺、八窪由真の殺し方については、松前さんにはリクエストはしていなかったからな。先に知ってしまっては面白くないし。あのままだと焼け死ぬか、炎から逃れようとして6年前と同じく崖から転落するか、それともそれとも、自分の命可愛さに再びあの『殺戮者』に変身をした『舌無しコウモリ』に殺されるんだろうか?

 赤い炎を映し続けている斗紀夫の瞳は、爛々と輝いていった。これから目の前で起こる楽しみへの狂喜。だが、その楽しみに水を差しているのは――気味の悪い緑色の皮膚に全身を包まれた”松前不二男”に上からのしかかられ、手錠をかけられたまま、喚き続けている近衛仁郎であった。

――まったく、うるさい男だ。まあ、あの男も八窪由真が死んだ後に”松前不二男”が始末するだろうから、今は好きなだけ喚かせてやろう。ひょっとして、”松前不二男”は、あの男に八窪由真が死ぬ様子を見せたいんだろうか。彼がこの世で最期に見る光景として。悪趣味だし残酷すぎるな。堅物そうな仮面をかぶっていた、あの松前も俺に負けずの変態だ。

 吹き抜けた一瞬の風が、炎をさらに燃え上がらせた。外からその炎の壁を見ているのは、斗紀夫だけではなかった。八窪真理恵の元夫である吹石隆平も、唇をグッと一文字に結び、向こう側にいる由真と『舌無しコウモリ』を見ていた。

 斗紀夫は不思議に思う。

――あの男、なぜ、八窪由真を助けにいかない? 愛する元妻の妹が今にも、焼け死ぬかもしれないっていうのに。炎が怖いのか? いや、そんな訳はあるまい。さっき、あの気色の悪い化け物となった”松前不二男”にさえ命も捨てんばかりに向かっていったんだから……


 火の粉は由真の肌に襲い掛かった。由真は崖へと後ずさった。

 自分たちを取り囲み、刻々と迫ってくる炎。そう、自分たちに向かって迫りくる死。けれども、由真は落ち着いていた。自分でもこんな状況で冷静にいられるのが不思議であった。

 今のこの状況は、6年前のあの夜、真理恵を無惨に殺されたあの時に比べれば、まだ切り抜けることのできる状況であった。確かに道路に向かっての退路は断たれてしまっていた。だが、これだけ大きな炎がメラメラと燃えていることに、山の下付近に住んでいる住民が気付かない可能性は少ないだろう。通報も時間の問題だ。それにいざとなったら、6年前に『殺戮者』に落とされた崖の側面に手綱となる場所を見つけて、切り抜けることができるはずだ。ここはそれほど傾斜が激しい崖ではない。それでも腕や足の一本は折るかもしれないが……

 由真は唇を噛みしめ、決意した。

 生前の真理恵が自分に向けた「由真……生きて……」という最期の言葉が蘇ってきた。

――絶対に生き延びてみせる。そして、今夜のことを……

 由真の隣で、『舌無しコウモリ』はガクガクと震え続けていた。

 勢いを増し続ける炎は、彼女のその横顔を赤く照らし出していた。黒い毛布でその全裸の身をくるんでいる彼女のその肌にわずかに透けて見える血管が、命の生々しさを思わせた。ついに『舌無しコウモリ』は地面へとへたりこみ、顔を覆って泣き出した。由真の脳裏で、”松前不二男”が彼女にかけた言葉が再生される。

 

『なあ、『舌無しコウモリ』よ。お前が選べ。6年前、お前が殺し損ねた店長の――八窪由真の息の音を今度こそ完全に止めるか。それともお前が最初に望んでいた通り、今日というこの日をお前の最期の日とするか。前者を選んだなら、俺は助けてやる』


 『舌無しコウモリ』の号泣に、炎が立てるパキパキという音が重なった。由真は彼女と一緒に生き延びる気はなかった。それに、彼女は自分たちに向かって事件のことを謝罪した通り、自分の死を受け入れるつもりなのだろうとも。つまりは、”松前不二男”の言葉でいうと、後者を選んだのだと。

 彼女の口から「ごめんなさい」という言葉が発せられた。

 黒い毛布にくるまったままの『舌無しコウモリ』は震えていた。その彼女の体からは、白い湯気のようなものが立ち上がり始めていた。

 由真はそれが湯気ではないと気づき、ハッとする。なぜなら、彼女の体から発せられている冷気が由真のところまで漂ってきたのだから――

 突如、『舌無しコウモリ』はバッと立ち上がった。彼女の身をくるんでいた毛布は、宙に弾き飛ばされ、崖下の漆黒の闇へと吸い込まれていった。全裸となった『舌無しコウモリ』――身をかがめるかのような体勢を取った彼女の腹部から、そこを突き破るかのように、青い色の皮膚につつまれた”あの醜悪な顔”が現れ始めた―― 

 『舌無しコウモリ』が由真に向かって発した「ごめんなさい」という言葉。それは由真を再びその手にかけ、自分だけは生き延びることに対しての謝罪であったのだ。

 

「由真あああ!」

 仁郎が炎の壁に向かって絶叫した。

 彼にも、レストラン裏で見たあの化け物――身長などは自分よりも高いだろうし、とにかく人間とは思えない気味の悪い色の皮膚の女が現れ始めたのだ。

 後ろ手に手錠をかけられ、うつ伏せのその背中に”松前不二男”に重くのしかかられている仁郎はさらにもがいた。

「ちくしょう! いい加減どけよ、おっさん! 重いんだよ、ハゲ!!」

 仁郎の口から、自分に対して決して言ってはならない一語が発せられたのを聞いた”松前不二男”は漆黒の目をグッと吊り上げた。再度、仁郎の髪をわしづかみにし、彼の顎を上へと向かせ、頭髪を掴む手にギュっと力を入れた。髪が引っ張られる痛みに仁郎は顔をしかめる。

「……ハゲとは失礼な奴だな。お前も今ここで、未来の先取りをさせてやろうか? 俺と同じ頭にしてやってもいいんだぞ……お前はまだ若いから未来が遠くに思えているのかもしれんが、人間、年をとるのなんてあっという間だ。まあ、年をとることなく、あの世へと逝く人間も一定数いるけどな。それに……お前の出番は後だとさっき言ったろう」

「なんだよ出番って! 由真が死ぬのを何もせずに見てろっていうのかよ! 俺はあいつを助けたいんだよ! 頼む、行かせてくれええ!」

 仁郎は吠え続けた。”松前不二男”が溜息をつき、その緑色の手を仁郎の頭髪から放した。反動により仁郎の顎がアスファルトにぶつかった。

「近衛……今夜はお前の他に、もう1人飛び入りのキャストがいるんだ。今はそいつに任せようじゃないか……」


――今だ!

 隆平は勢いをつけ、地を蹴った。直前に”松前不二男”に強烈な一撃を食らった腹が痛み、吐き気を起こさせたが構わず駆けた。彼が向かう先は、あの火の壁である。

 隆平はこの機会を待っていた。『舌無しコウモリ』が再び『殺戮者』となる機会を――

 あの”松前不二男”に組み伏せられた時、あの男の牙は自分の喉笛を破らなかった。だが、その代わり、あの男は自分の喉元で囁いたのだ。


「俺はお前たち側だ。『舌無しコウモリ』をあの夜の化け物の姿に変身させてやるから、邪魔はするな」


 人間とは思えない化け物に変身した”松前不二男”の言うことをそう簡単に信じることはできなかった。だが、あいつはあっさりと自分を殺すことができたはずなのに殺さなかった。それは、由真や近衛仁郎についても同様であるだろう。あの男が言った”お前たち側”というのは、おそらく自分と由真の側に立っていることを意味している。

――あのおっさんは、あの作家や『舌無しコウモリ』の仲間のようでも、俺たちの憎しみと悲しみを昇華させるのに有利な機会を作ってくれようとしているとしか思えない。油断のならない奴であるが、今はあのおっさんを信じるしか……

 先ほど、その有利な機会を作るために、”松前不二男”は由真を利用しようとした。由真は傷つけさせまいと、隆平が”松前不二男”を止めようとしたら、彼の機嫌を損ねたのか、腹に強烈な一撃をくらった。自分が腹を押さえ、アスファルトに吐瀉物を落としている間、由真とあの『舌無しコウモリ』は彼の手により、燃えさかる炎の壁に閉じ込められてしまった。


 そして、ついに『舌無しコウモリ』は、”松前不二男”の策通り、『殺戮者』の姿を現した。真理恵の命を奪った『殺戮者』の姿を現わしたのだ!


――真理恵、お前の大切な妹は二度と傷つけさせないからな……由真ちゃんは俺が必ず助けて……俺は……

 が、後ろから片足を引きずりながら自分を追いかけてくる音に気づいた。次の瞬間、隆平はその肩をグッと掴まれた。自分の肩を掴んでいるのは、宵川斗紀夫であった。 

「いいところなんだから、邪魔はしないでください」

 そう言い放った宵川斗紀夫の瞳にも、炎が映っていた。彼の瞳は輝いていた。彼は喜んでいる、狂喜しているのだ。今にも人が殺されそうになっているこの光景に。彼のその整ったその顔立ちが余計に、人間とは思えない不気味さと気持ち悪さを際立たせていた。

――こいつ!!

 隆平の頭に、彼の全身で煮えたぎっている血管が全て集まった。彼の理性がその沸騰を止めるよりも先に、彼は宵川斗紀夫の顔面に右ストレートをくらわせていた。

 斗紀夫は隆平を片腕の男と侮っていたのだろう。受け身を取れずに、斗紀夫は地面へと倒れ込んだ。隆平は間髪入れず、その斗紀夫の腹に蹴りを入れた。

 鼻から血を吹き出し、体を折り曲げて、アスファルトの上で苦し気にのたうち回っている斗紀夫を見た”松前不二男”が、仁郎の上に乗ったまま言う。

「なかなかいい筋をしているじゃないか。それにやっぱり、優男は肉弾戦には弱いな」

 隆平は思う。”松前不二男”が6年前の事件に無関係な近衛仁郎の動きを封じ続けているのは、仁郎をこれ以上の危険から遠ざけたいがためかもしれない。自分の息子でもおかしくないくらいの年齢の同僚は、やっぱり彼にとっては可愛いのかもしれない。

 隆平は”松前不二男”に向かって、頷いた。”松前不二男”も彼に頷き返した。まるで「行ってこい」というように。

 そして――

「近衛……由真ちゃんのことは頼んだぞ……」

 隆平は”松前不二男”の下にいる仁郎にそう言い残し、燃えさかる炎へと――



 完全にその醜悪な姿を見せた『殺戮者』は、青い爬虫類のような触感のその細長い指を由真へとバッと伸ばした。真理恵たちを殺したその手で、再び殺戮を繰り返すために。

 『殺戮者』のその瞳は、爛々と輝いていた。口は耳元に届くかというほど裂け、そこから流れ出る臭気は生温かい風に乗り由真のところまで流れてきた。

 由真は身を翻し、逃れた。

 炎に近づいてしまっためか、火の粉が降りかかり、由真の肌にチリチリとした痛みを残した。『殺戮者』のバラバラとした干し草のような髪が揺れる。それと同時に、垂れ下がった2つの乳房とその先端の生臭い色の乳首も揺れた。

 やはり『殺戮者』にもわずかにためらいがあるのか、彼女のその動きは以前よりも鈍いものであると由真は思った。

 一瞬の風がザアッと吹き抜けた。その強い風は、炎がさらに勢いを増す役割を果たし、『殺戮者』の股間を覆う漆黒の陰毛までもをそよがせた。

――こいつは……自分が助かりたいがために……私を……!!!

 唇を噛み睨み付ける由真に向かって、『殺戮者』は再びその手を伸ばしてきた。由真はすばやくそれを避け、『殺戮者』の懐に入り体当たりをくらわせた。わずかによろめいた『殺戮者』は、その黄色い目をカッと見開き、由真の右頬を平手で打った。

 小さな由真の体は弾き飛ばされ、その背中から観音像に衝突した。

 痛みに顔をしかめながらも体を起こした由真の前で、観音像は赤々と燃える炎に照らされた。その観音像の元には、自分が真理恵のために備えた百合の花があった。

――姉さん……!

 愛人の娘であるという本来なら憎んでもおかしくない存在であった自分を優しく受け入れてくれた姉。産みの母に捨てられた自分を、本当の母にもできないほどの愛を与えて育ててくれた姉。何の落ち度も罪もなかったのに、この『殺戮者』に無惨に殺された姉。 

 由真はハッと気づいた。その供えられている百合の花の裏側に、自分がなくしたと思っていた物があることを。

――ナイフだ!

 そこにあったのは、松前不二男に拉致された時になくしたと思っていた、いつも自分のポケットに忍ばせていたあのナイフであった。

――まさか、松前さんがここにナイフを……!

 由真は素早くナイフを取った。慣れ親しんだ重みが手にかかる。

 自分がここに置かれているナイフに気づかない可能性だってあった。だが、目の前の『殺戮者』に対抗できる手段としてナイフは今、自分の手の内にあるのだ。

 ナイフを握りしめた由真は、『殺戮者』に向かって身構えた。

 由真の手にあるナイフは熱かった。それはきっと、燃えさかる炎のせいだけではないだろう。

 由真から発せられたその殺意に、一瞬たじろいだかに見えた『殺戮者』であったが、彼女もまた由真に向かって身構えた。

 ナイフを握り直した由真は、叫びながら『殺戮者』へと向かって、乾いた茶色い地面を蹴り、飛びかかっていった。炎を背景に立つ、地獄の悪鬼のごとき『殺戮者』へと向かって――

 『殺戮者』が身をよじったためか、由真のナイフが脇腹をかすった。だが、彼女の肉が裂けた。そこから赤い血が噴き出した。脇腹を押さえた『殺戮者』の青く細長い手が赤く染まる。そして、その血は地面にもボタボタと滴り落ち、染み込んでいった。

「ギエエエエ!」

 『殺戮者』は宙を仰ぎ見るかのようにのけぞり、奇声を発した。そして、由真にギュンと向き直り、両手を広げ、バッと飛びかかった。

「!!」

 『殺戮者』からの反撃。だが、由真は機敏に身を伏せ、横へと転がった。由真のつま先が崖下へと出た。小石と土埃が深淵のような崖下へと吸い込まれていった。

 由真は即座に身を立て直す。その間に『殺戮者』も、由真に身を向け直していた。彼女の足裏が地を擦るジャリという音が、やけに大きく響いた。

――こんな奴に……! 

 恐怖もあった。だが、それ以上にナイフを握りしめ、身構えている由真の手を震わせていたのは怒りであった。

 

 けれども……

 由真と『殺戮者』の間には大きな体格の差があった。そして、その力にも――

 再び、由真へと飛びかかった『殺戮者』は、ナイフを振り回し、身を翻そうとした由真の首を掴むことに成功したのだ。

  

 由真はついに『殺戮者』にその首をとらえられ、高く掲げられた。息苦しさにもがく由真は『殺戮者』に向かって足を振り回した。そして、由真は『殺戮者』のその指や腕を、右手に持つナイフで切りつけた。手のナイフは血に染まっていった。

 だが『殺戮者』は顔を少ししかめるだけで、自分の首を掴んでいる殺意を持ったこの力は何ら変わることがなかった。

 自分の首を掴む手の爬虫類のような触感と息苦しさに、由真の意識がぐらつき出した。

 仁郎が「由真あああ!」と叫ぶ声が聞こえた。そして、どこかで鳴り響くパトカーのサイレンの音も――

 由真を高く掲げた『殺戮者』は、崖ではなくて、燃えさかる炎の方へとその足を進める。

――焼き殺す気だ……!

 崖に落としたとしたら、6年前と同じく由真が助かってしまう可能性があると考えたのだろう。

 残っていた力を振り絞って、由真は脚をばたつかせもがいた。由真の首を掴んでいる『殺戮者』の手はわずかに震えている。けど、彼女の足は炎へ向かって、一歩、また一歩と距離を進めているのだ。

――姉さん、ごめんね……仇を取れなくって、ごめんね……!!

 由真が足先とふくらはぎの裏に、炎の熱を感じ始めたその時――

「うおおおおおおお!」

 唸り声をあげた隆平が熱い炎の壁を突っ切り、『殺戮者』に体当たりをくらわせたのだ!


 喉を押さえて、せき込みながら地面の上に立ち上がった由真が見たのは、炎に包まれた隆平が『殺戮者』に飛びかかっている光景であった。

 隆平と『殺戮者』は地面の上で、もつれあっていた。その肉体の大きさだけで言えば『殺戮者』の方に軍配があがるだろう。そのうえ、隆平には左腕がなかった。それにも関わらず、隆平の方が優勢であった。6年間、彼はその肉体の中で真理恵への愛と彼女を奪った『殺戮者』への憎しみを、その身を焦がさんばかりに燃え上がらせていたのだから……

「義兄さんん!」

 由真は隆平に向かって、手を伸ばした。『殺戮者』の上に乗ったまま、隆平が叫んだ。

「由真ちゃん、俺が決着を着ける! だから、あんたは生きろ!」

 言い終わらないうちに、隆平は『殺戮者』のその細長い左腕を炎の中へと押し込んだ。『殺戮者』はまるで鳥のような甲高い悲鳴でいなないた。隆平は右手で『殺戮者』の喉元を押さえ、彼女に自分の顔を近づけて言った。

「……お前は俺と一緒に地獄へ行くんだ」

 そう言った隆平は『殺戮者』ともに、燃えさかる炎の中へと飛び込んだ。


 「義兄さああん!」

 由真の叫びは、曇りなき夜空にこだました――


 さらに燃え上がる炎。

 その中で、獣の咆哮のような悲鳴をあげ、炎から逃げようとする『殺戮者』を隆平は逃すまいと押さえ込もうとしていた。

 人間の男と化け物の唸り声。そして、彼らの肉が焦げるにおいは”松前不二男”に押さえつけられている仁郎の鼻孔まで届いてきた。

――あの人は、由真のお姉さんの仇を取った後……死ぬつもりだったのか!?

 仁郎は吹石隆平のあの哀しい瞳を思い出した。最初は世の全てを憎んでいるかのように見え、凶暴さを感じていた。だが今は、彼の哀しみとやるせなさがそこにあったことが分かった。自分の手で最愛の者の仇を取り、そして命を絶つ。最愛の者を奪った者への憎しみ。それを昇華させるのは、彼は生きている限りできなかっただろうと。

 隆平たちが包まれている炎の後ろに由真が見えた。

 由真は泣きながら、隆平に向かって手を伸ばし、彼を炎の中から引きずり出そうと――

「由真!!」

 上体を震わせた仁郎の上で、”松前不二男”が息をつき、仁郎の両手首にかかっている手錠に手をかけた。そして、言った。

「そろそろ、お前の出番だ。頑張れよ。男としての見せ所だぞ」

 手錠の鍵が外れるカチリという音とともに、背中にのしかかっていた”松前不二男”の体重はなくなった。

 由真を助けようと即座に立ち上がった仁郎の背中に「元気で暮らせよ」という”松前不二男”の声が聞こえた。


「由真、つかまれ!」

 隆平と同じく、仁郎も炎の壁を突っ切り、由真へと手を伸ばした。由真の手を素早く掴んだ仁郎は、彼女を炎から守るように体の中に抱きすくめ、再びその炎の壁を突っ切った。

 由真は仁郎の手により、炎より脱出することができた。由真の肺に熱気を含んでいない空気が入ってくる。

「仁郎!」

 仁郎のシェフの制服に、まだ燃えさかる火がついているのを見た由真は、素手でその火を消そうとした。

「由真!」

 由真は仁郎に抱きすくめられた。仁郎の体温が由真にも苦しくなるくらい伝わってきた。


 由真たちは炎の中にいる隆平と『殺戮者』を振り返った。

 もう彼らは動かなくなっていた。

 だが、炎は彼らの肉体を焦がし続けていた。『殺戮者』の動きを封じるように、上に乗っかっている隆平の黒く焼け焦げた顔の中にある瞳は、固く閉じられていた。まるで眠っているかのように。

「……義兄さん」

 由真の瞳から涙がつたい、顎へと流れていった。由真を抱きかかえている仁郎も、荒い息をしたまま、隆平のその最期の姿を見つめていた。


 その時、由真たちの背後でアスファルトを引きずる音がした。

 振り返った由真たちが見たのは、人間の姿に戻った松前不二男がその肌色の尻を丸出しにし、気を失っている宵川斗紀夫を自分の車へと乗せている姿であった。

 車のドアはバタンと閉まった。松前不二男が運転するその車は豪快にアクセルをふかして走り去っていった。


 仁郎の腕の中にいる由真に、パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。

 先ほど『殺戮者』と対峙している時に聞こえたその音は、空耳でなかったという証明であった。

「……きっと、富士野さんが通報してくれたんだ」

 仁郎が呟く。由真はレストランに残してきた七海がどんなに心細かったろうかと思った。そして暴行を受けた直久のことも。

 サイレンの音は次第に大きくなってくる。

 息絶えた隆平の亡骸を見た由真の瞳からはまたしても涙が盛り上がってきた。

――義兄さん……義兄さん……

 由真が嗚咽をこらえるために、口元を覆ったその時だった。


 ガタガタという音。

 それはどうやら、宵川斗紀夫の車のトランクから聞こえている。

 身構えた由真たちの前で、トランクは勢いよく中から開いた。

 そこから身を出したのは――

「どこなのよ、ここは!? あっ! あんた、やっぱりあんたが斗紀夫の浮気相手だったのね?! 何他の男といちゃついてんのよ! 斗紀夫をどこへやったの?!」

 宵川斗紀夫の妻・宵川麻琴であった。トランクに潜んでいたらしい麻琴は、その汗ばんだ髪を振り乱し、鬼のように目を吊り上げ、喚き散らし始めた。

 勢いよくトランクから飛び出て、地面に着地した彼女の足元はふらついていた。けれども、目だけはギョロギョロと動いていた。

「斗紀夫をどこへやったのよ! この淫乱! 雌豚! 腐れ●ンコおおお!」

 由真に向かって唾を飛ばし喚いていた麻琴であったが、突如、白目を剥き、地面へバタンと倒れた。

 

 駆け付けた警察官たちは、由真と仁郎を保護し、まだ燃えさかる炎につつまれている隆平と人ならざるものの焼死体を見て、息を呑んでいた。そのうえ、何時間も車のトランクに潜んでいたらしく、脱水症状を起こし失神した麻琴の搬送の手続きも取っていた。そして由真たちは今夜の事件の事情聴取のため、警察へと向かう。


 由真がパトカーの中から見上げたその夜空で、満月が、そして星が切なくも美しい光を放っていた。

 静かに目を閉じた由真の手を、隣の仁郎が握った。彼の大きく骨ばった手の体温を感じながら、由真の意識は次第に遠のいていった。


 あの事件から6年後の今夜、またしてもこの地は血で染まった。

 今夜、流された血は、義兄・吹石隆平と『殺戮者』――あの事件の被害者と加害者のものであった。

 だが、今夜の死者は、隆平と『殺戮者』だけではなかった。

 翌日に、宵川斗紀夫の死体が発見されたというニュースが全国ネットで流れたのだから。

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