第8話
由真の背後に立っていた仁郎は、喉が詰まったような呻きを発し、前にいる由真へ向かってよろめいた。由真は彼の体重をとても支えきれず、彼とともにアスファルトへと倒れ込んだ。
「じ、仁郎?!」
仁郎にのしかかられるような形で、アスファルトに尻餅をついた由真は、彼の右肩にナイフが、それも明らかに人の手により研ぎ澄まされたナイフが刺さっているのを見た。
「ゆ……由真」
仁郎の薄い唇から、苦痛の吐息が漏れた。彼の額には脂汗が浮かんでいる。由真はハッと顔を上げた。
仁郎を傷つけたこのナイフが発射された先に、何かが、いや誰かがいた。
”その者”が立っている場所は、由真たちのいるところより、十数メートルは離れていた。だが、夜空に在る満月は、6年前の夜と同じく”その者”の姿をより鮮やかに映し出した。
冷えたアスファルトの道路の真ん中に仁王立ちをしている”その者”が、獣であったなら、二本足で立ち、その手に他数本のナイフを持つことなどできるはずがないだろう。そのうえ、”その者”が形どっているその輪郭は紛れもなく人間のものであった。身の丈だって、人間として規格外のサイズというわけではない。けれども、遠目から見ても、荒々しいまでに盛り上がった筋肉に支配された肉体。そして、その肉体は全身を緑色の皮膚につつまれていた。
6年前、この地を血で染めた『殺戮者』のような異形な者。だが『舌無しコウモリ』は、由真たちの後ろで震えながら立っているのだ。それに今、由真の視線の先にいる異形の者は、明らかに男の輪郭に縁どられていた。
その異形の者と由真の視線が、交わった。異形の者の三日月型の漆黒の2つの瞳が、由真を射抜いた。
異形の者は、由真へと向かってナイフを身構えた。
自分にのしかかってくる仁郎の体重により、由真は尻餅を着いたまま、その場を動くことができなかった。
再びナイフが風を切る鋭利な音が、由真の鼓膜を震わせた。
だが、思わず目をつぶった由真の耳へと届いたのは、ナイフが肉に突き刺さる音ではなく、ナイフがキンッとすぐ近くのアスファルトに跳ね返る音であった。異形の者が投げた2本目のナイフは外れた。”外した”のだ。
けれども、その異形の者の手には、まだナイフが1本握られていた。満月の光を受け、ぎらつくナイフが。
異形の者は、再び筋肉を盛り上げるように動かし、その最後のナイフを由真や仁郎ではなく、隆平へ向かって身構えた。3度目の風を切るその音。
だが――
「……あいにくだったな」
ナイフは、隆平の薄汚れたトレーナーの左の肘下部分に突き刺さったのだ。静かな憤怒の表情を見せた隆平が、そこから服を引きちぎるかの勢いでナイフを抜き取った。異形の者は、隆平の”左腕”を狙って、その手の内のナイフを投げたのだ。隆平が6年前に失った、今はなき”左腕”へと向かって。
「……由真……逃げろ……」
由真にのしかかっていた仁郎が苦し気に吐いた息が、由真の肩へとかかった。仁郎はなんとか体制を立て直し、その場に立ち上がろうと――それに由真は「仁郎」と、思わず彼を支えるため両手で抱きしめる体勢をとってしまった。
由真たちを見ていた斗紀夫が、車に背をもたせかけたまま「ラブラブですねえ」と気味の悪い薄笑いを浮かべて言った。
由真はギッと斗紀夫を睨み付けた。
斗紀夫は道路の先にいるあの異形の者を顎でしゃくる。
「八窪さん、”あの彼”はいつもあなたと一緒に働いていた人ですよ。『レストラン 笑窪』の厨房にてそこの彼と一緒に包丁を握り、肉や魚をさばいていた人ですよ」
「!!」
「夢の中で不気味な者より、”何か”をもらったのはこの世界で『舌無しコウモリ』さんただ1人だけではないんです。”彼”もまた同じくです。人の運命に多大な影響を与えることのできる選ばれた存在……まあ、外見は想像上の神や天使のように美しくはなく、ホラー映画ファンにはたまらないぐらいの化け物揃いですけど。ああはなりたくないって思うぐらいのね」
「まっまさか……あ、あれは松前さん?!」
呼吸を整えようと苦し気に息を吐き出す仁郎を抱きかかえたまま、真っ青になって混乱する由真の様子を見た斗紀夫は、満足げになおも言葉を続ける。
「ちなみにあの彼、松前不二男さんは、『舌無しコウモリ』さんのように、自分に歩むことができない人生を送っている人に対しての妬みや羨望で覚醒し、変身したわけではないんです。ごく普通の一市民として暮らしながらも殺戮を楽しみたいといったタイプで、まさに彼こそ異常者であり、真の『殺戮者』と呼ぶにふさわしい……」
由真は、得意げに語る宵川斗紀夫の声をどこか遠くで聞いていた。
あの松前不二男も、6年前の『殺戮者』と同じく化け物となった。すこぶる真面目でなおかつ寡黙で、休憩時間にたまに繰り広げられる仁郎と七海の夫婦漫才のようなやり取りに、いつも気難しそうなその顔の目じりを下げて微笑んでいたあの松前不二男も、この宵川斗紀夫や自分の姉を殺した『舌無しコウモリ』側の人間であったということ。自分が信頼していた人間が……
「八窪さん、あなたは俺が望んでいたとおりには動かなかった。それは仕方のないことです。でも、こうして俺が企んだ計画を知ってしまった。よって、誰かに喋るかもしれない。だから……誰にも話さないうちに、再びこのY市で起こった悲惨な殺人事件の被害者の1人としてお姉さんのところへ行ってもらおうと思うんですよ。今はこうして生きているあなたも、お姉さんのいるところへ行きたいと思ったのは、きっと一度や二度じゃないでしょう?」
「!」
――この宵川斗紀夫は、松前さんを使って、”私たち”の口封じをするつもりだ! ”私たち”を殺させるつもりだわ!!
3本のナイフを投げ終えた異形の者――”松前不二男”は、宵川斗紀夫の話が終わるまで待っていたのか、アスファルトへと視線を落としたままであった。
だが、彼は頭をあげた。彼の三日月形の漆黒の2つの瞳が、再び鋭く由真をとらえたのだ。両肩の筋肉をグッと盛り上がらせ、”松前不二男”は由真と仁郎の背中に向かって、地を蹴ったのだ。
「させるか!」
先ほど自分の服に突き刺さったナイフを右手に握った隆平が、由真たちをかばおうと、その迫りくる”松前不二男”に向かって駆け出した。
異形の化け物へと変身した”松前不二男”。満月と車のヘッドライトが照らしあげた”松前不二男”のその姿は、『殺戮者』に変身した『舌無しコウモリ』にも負けず劣らず、醜悪なものであった。
背丈は人間の時の松前不二男とそう変わりはない。だが、わずかに残っていたはずの頭髪は今は完全にない。衣服も何も身に着けていない。深い緑色のゴムのような触感を思わせる皮膚の隅々に、赤い血管の筋が生々しく浮き出て、鍛え上げられた筋肉をさらに示していた。股間には縮れた陰毛につつまれた男の証。隆平へと飛びかからんと地を蹴りながら、こっちへと迫りくる彼のその顔には、由真が知っている松前不二男の面影は微塵もなかった。気味が悪い緑色の顔の皮膚。ナイフで切り抜かれたような形のような切れ込みの中に漆黒の瞳があった。その瞳に白目の部分はない。深淵を思わせるような漆黒。そして、鼻はなかった。呼吸のためにつけられたような小さな2つの穴があるべき鼻の箇所に存在していた。そして、内臓の色のような色をしている分厚くはれ上がった唇が、緑の皮膚のなか、さらにその醜悪な存在感を際立たせていた。
鱗や水かきこそないものの、まるで想像上の半魚人を思わせるような化け物としての”松前不二男”は、その醜悪な口をカアッと開いて鋭い牙を見せ、自分の眼前に躍り出た吹石隆平へと飛びかかった。
”松前不二男”の右拳による最初の一撃が、隆平の手の内のナイフをバシッと弾き飛ばした。ナイフがキィンという音を立て、離れた先のアスファルトの上へと飛んだ。だが隆平はひるむことなく、”松前不二男”に体当たりをくらわせた。わずかによろけた”松前不二男”を、隆平が地面へとドッと押し倒した。だが、”松前不二男”も決して負けてはいない。
上に、下に、と冷えたアスファルトの上を1人の男と化け物がもつれあい、ゴロゴロと転がりあう――
「義兄さん!」
由真の悲痛な叫びに、斗紀夫はニタリと笑った。
「片腕がないのに、よく頑張るなあ。八窪さんのお義兄さんって、お姉さんのことよっぽど愛してたんでしょうね。社会生活も捨てて、そして今は命も捨てんばかりに、元妻の妹とその恋人を必死に守ろうとしている……」
由真は斗紀夫にまたしてもキッと視線を向けた。その時、由真の全身にのしかかっていた仁郎の体重が軽くなった。仁郎は由真の肩に手を置き、よろよろと立ち上がった。
「……由真、お前は逃げるんだ」
仁郎のその言葉に由真は、黙って首を振った。
――逃げることなんて、できやしない。もう、この地を血で染めさせやしない。もう、二度と大切な人を殺させやしないわ!
由真が見上げている仁郎は、苦し気に顔を歪めていた。
車に背をもたせかけた宵川斗紀夫は目の前で生身の人間が傷つけられ、殺されんとしているのを相変わらず嬉しそうに眺めていた。そして、あの『舌無しコウモリ』に至っては慈母観音像の近くの木の影に隠れて震えながらこちらの様子をうかがっていた。
隆平と”松前不二男”の吠える声が、満月が輝く曇りなき夜空にこだました。隆平はついに彼よりも数段発達した筋肉を持つ、”松前不二男”に組み敷かれてしまった。2本の腕を持つ”松前不二男”は、隆平の頑丈な肩を押さえ込んだ。
「……てめええ!」
劣勢にあるにも関わらず、なおも隆平はその闘志を捨て去ることなく、彼は”松前不二男”の頬を右の拳で殴りつけた。
隆平を助けるために、走り出した由真の肩を仁郎が「由真、俺が行く!」と掴んだ。
「2人とも来るな! 近衛、由真ちゃんを連れて早く逃げろ!」
”松前不二男”のに組み敷かれたままの隆平が喚いた。”松前不二男”は隆平の一撃にも一切動じることなく、隆平の右拳を掴み、ざらついたアスファルトに押し付けた。だが、隆平はなおもあきらめず、”松前不二男”の顔にペッと唾を吐きつけた。
その隆平のその行為に、”松前不二男”の漆黒の瞳が吊り上がった。そして、生々しい色をした分厚い唇をクワッと開いた。唾液が粘っこい糸を引いている2本の黄色い牙がむき出しとなり――”松前不二男”はそれを隆平の喉元へと――
「義兄さぁんん!」
「やめろおお!」
由真と仁郎は駆けた。2人とも武器になるようなものは何も持っていなかった。けれども、隆平が今にも殺されようとしているのだ。
隆平を助けようと走る由真たちには見えなかった。
”松前不二男”は、隆平の喉元でその口を動かして何かを呟いたことを。その言葉を聞いた隆平の目がさらにカッと見開かれたことも。
由真と仁郎の前で、”松前不二男”は隆平の喉元から、ゆっくりと顔を上げた。
人間とは思えないその顔の異様さは、由真たちの背筋を再び震わせた。だが、恐怖と生理的な嫌悪をもたせるその顔の口元には、由真たちが想像していた隆平の血も肉片も何も付いていなかった。そして”松前不二男”は、なぜか隆平に対する手の戒めをといた。その直後、彼の脚は地を弾き、天にまで届くかと思うほどの跳躍力を見せて宙に舞った。
ドシン! という音。
”松前不二男”の着地した先は、宵川斗紀夫の車のルーフだった。
腰を落とし、なおかつ大股を開いた格好の”松前不二男”は、自分をまるで汚いものでも見るような目で(その反面、興味深そうにも見上げている)宵川斗紀夫に言った。
「宵川、お前のライターと俺が預けていた手錠を貸してくれ」
発せられたその声は間違いなく、人間時の松前不二男のものであった。だが、彼のその口調は、普段とは別人と思えるほど違っていた。
斗紀夫は「はいはい」と言いながら、自分のポケットから手錠とライターを渡した。”松前不二男”はグリンと首を回して由真と仁郎を見た。まるで「次はお前たちの番だ」と言わんばかりに。
今にも自分たちに向かってこようとしている”松前不二男”の次なる攻撃。
由真は近くに転がっているナイフ――隆平の手から弾き飛ばされたナイフに駆け寄り、すばやく手に取って”松前不二男”へと身構えた。彼は自分たちに狙いを定めている。でも、彼は何か考えているようで、すぐには飛びかかってはこない。
――まさか、ゆっくりと嬲り殺しにする気?
ナイフを持つ、由真の手が震え出した。だが、由真はグッとナイフを握り直した。
――みすみす殺されてたまるもんか! あんな”奴ら”に……
由真は、変貌してその本性を見せた”松前不二男”には確かに恐怖を感じていた。だが、今のこの状況をまるで「観客」のごとく安全地帯から嬉しそうに眺めている宵川斗紀夫と、6年前の夜に姉や白鳥学たちを惨殺したにも関わらず、形だけの贖罪により自分や隆平の心をかき乱し、今は木の影で震えているばかりの『舌無しコウモリ』には憎しみしか湧かなかった。
車のルーフの上の”松前不二男”が、わずかに動いた。いや、彼の目は3点を捉えたのだ。彼は『舌無しコウモリ』、由真、隆平の順に、その漆黒の瞳を動かした。
「貸せ!」
由真へと駆け寄った仁郎が、由真の手よりナイフをもぎ取った。彼は由真をかばうように自分のその広い背中へと由真を隠した。
「駄目よ! 仁郎!」
由真が見上げる仁郎の右肩には鋭いナイフが突き刺さったままであった。突き刺さった箇所にひときわ大きく赤い染みができ、そこから大きな一筋と細い複数の筋が下へと向かって、血の道を作り、彼の白いシェフの制服を汚していた。
”松前不二男”がバネを思わせる強い跳躍力を再び見せた。
華麗ともいえる動きで、化け物が宙を舞う――
そして、仁郎と由真の眼前へと着地した。”松前不二男”の足裏の皮膚と固いアスファルトがこすれあうザリッという音が由真にも聞こえた。
”松前不二男”はゆっくりと由真へと、その赤い血管が緑のゴムのような皮膚に浮き出ている手を伸ばした。だが、仁郎が由真を再びその背に隠し、”松前不二男”へとナイフを突きつけた。
「なんでだよ! 松前さん!」
叫んだ仁郎が、手のナイフを”松前不二男”に向かって、振り回した。
「よせ! 近衛!」
立ち上がった隆平が叫ぶ。
仁郎が振り回したナイフが、”松前不二男”の平たいその緑の胸板をかすった。一筋の血の道ができた。そこから滲み出したその血は、もともとは人間であるという証であるかのように赤かった。
傷つけられた”松前不二男”は、仁郎に向かって、腫れ上がっているようなその唇より粘ついた唾液で光る牙を見せて、クワッと威嚇した。
そして、言った。仁郎が知っている松前不二男の声で……
「近衛、お前の出番はもっと後だ……」
「一体、何を言ってんだよ!」
仁郎は左腕で後ろに由真をかばい、後ずさりをしながら、なおも”松前不二男”に向かってナイフを振り回し続けた。
次の瞬間、”松前不二男”の動きがピタッと止まった。
そして、仁郎の懐に素早く入り込んだのだ!
仁郎が”松前不二男”に胸倉を掴まれたことを理解した瞬間、彼の体は宙に浮かんだ。
由真の眼前で、仁郎のその長身の肉体は大きな弧を描いた。彼は数メートル離れた場所に、アスファルトではなく道路外の柔らかな土や草が生えている場所へと放り投げられてしまった。
すぐに立ち上がろうと上体を起こした仁郎であったが、全身に走る打撲の痛みに顔をしかめ、地面へと倒れ込んだ。彼の肩には依然としてナイフが刺さったままであった。
「仁郎!」
それを見た宵川斗紀夫の「本当に役に立たない独活の大木だな」と嘲笑う声が由真にも聞こえた。即座に仁郎の元へと駆け付けようとした由真の腕を、”松前不二男”がガッと掴んだ。由真の細い腕は、”松前不二男”の片手でも余るぐらいであった。それこそ彼が力をこめれば、由真のその腕など折れてしまうぐらいの――
”松前不二男”は、仁郎だけでなく由真がいつも知っている彼の声でこう言った。
「店長、あんたには悪いが、少しだけ役に立ってもらう……」
抑揚のない言葉。深淵の中にある彼の2つの目が、じっとりと由真を見つめていた。
「……松前さん!!」
恐怖。由真の全身に駆け巡った恐怖は、6年前にあの『殺戮者』と対峙していた時よりも、さらにこの身を震わせた。
この変貌した”松前不二男”は、『舌無しコウモリ』とは違い、きちんと正気を保っている。自分がナイフを投げて刺したのも、今腕を掴んでいるのも、自分の同僚であると分かっている。それにも関わらず、危害を加え、殺そうとしているのだ。
「やめろぉ!!」
由真を助けようと駆け付けた隆平に、”松前不二男”に冷たい一瞥を投げかけた。そして、素早くあいている方の拳で隆平の腹に、ドスッと一撃をくらわせた。
「ぐう……っ!!」
腹を押さえ、隆平は地面へと倒れ込んだ。彼の口からは、粘り気のある透明な液体が滴り落ちた。彼のその姿を見て、”松前不二男”は吐き捨てるように言った。
「だから、俺の邪魔をするなと……それに早くしないと”あれ”が乾いちまう」
”松前不二男”は、由真の腕を握るその手に力を込めた。そして、由真をその肩へとかつぎあげた。
「松前さん!!! お願いです、下ろしてください!!」
由真がばたつかせた脚が、その肩の上で自分の腰をガッチリと固定している”松前不二男”の腹を蹴った。でも彼はびくともせず、そのまま由真を真理恵の最期の場所へと向かって――すなわち『舌無しコウモリ』のところへと運んでいる。
そこに近づくに連れ、今夜、由真がこの場所に足を踏み入れた時に、真っ先に嗅覚を刺激した、あのにおいはますます強くなってくる。強くなるにおいは、由真をさらに鳥肌だたせるのに充分な刺激を含んでいた。
――このにおいは絶対に……! それに、さっき松前さんは確かあの作家にライターを……
”松前不二男”は、由真を茶色い地面の上に乱暴に落とした。自分の足元に由真を落とされた『舌無しコウモリ』が後ずさった。すぐさま上体を起こした由真の手に、乾いた茶色い土ではなく、濡れた土がついた。そこから立ち上ってくる、におい。
――ガソリンだわ!
由真は理解したのだ。”松前不二男”の狙いを。
――私を焼き殺す気だ! あらかじめ、ここに浸み込ませておいたガソリンで!!!
ひきつった顔を上げた由真の視界には、”松前不二男”の逞しい両足ごしに3人の男の姿が見えた。痛む全身を押さえながらもこっちへと駆け始めた仁郎、腹を押さえながらも立ち上がった隆平、そして相変わらず車に背をもたせ、腕を組んで笑みを浮かべている「観客」のままの宵川斗紀夫。宵川斗紀夫の見た目は人間のままである。だが、彼のその姿に人としての心を持たない地獄の悪鬼が重なった。
「ま、松前さん……まさか……っ……」
先に声を発したのは、由真ではなく、彼女の背後にいる『舌無しコウモリ』だった。
「なあ、『舌無しコウモリ』よ。お前が選べ。6年前、お前が殺し損ねた店長の――八窪由真の息の音を今度こそ完全に止めるか。それともお前が最初に望んでいた通り、今日というこの日をお前の最期の日とするか。前者を選んだなら、俺は助けてやる」
『舌無しコウモリ』にそう告げた”松前不二男”は、またしても宙に飛んだ。彼が着地した先は、彼の車の近くであった。そして、彼は手のライターを――
小さな火がカチッという音ともに、闇の中に灯った。”松前不二男”は、その小さな灯火を地面へパッと落とした。
”松前不二男”があらかじめ地面に染み込ませておいたガソリンの導線への着火。
瞬間、灯火はおおきな炎へと姿を変え、まるで大蛇のように由真たちのいるところへと燃えさかり、襲い掛かってきた。
「由真!!」
炎の大蛇はまたたく間に炎の壁へと変化し、由真と彼女と助けようとしている仁郎と隆平の間を隔てた。
仁郎たちの目の前で、由真は『舌無しコウモリ』とともに、燃えさかる炎の壁の中へと捕らえられてしまった。
――由真、今行くからな! 絶対に俺が助けてやる!
打撲で傷んだ全身を奮い立たせ、仁郎は炎の壁へ向かって駆ける。
が、彼の目の前にまたしてもあの”松前不二男”が躍り出た。彼のその緑色の顔面を間近で見た仁郎はその醜悪さに思わず「ヒッ!」と喉を鳴らしてしまった。けれども――
「松前さん! どいてくれ!」
仁郎は、”松前不二男”の妙な弾力のあるその肩を乱暴に押しのけ、由真の元へと進もうとした。けれども、”松前不二男”はその仁郎の手をグッとつかみ、彼の後ろへとサッと回り込み、地面へとうつ伏せに押し倒したのだ。
仁郎の全身にまたしても、痛みが上書きされ、さらに強い痛みが彼の動きをより鈍いものとした。
”松前不二男”はのたうつ仁郎の背中に馬乗りとなり、彼の骨ばった大きな両手首にカチャリと手錠をかけた。
冷たいアスファルトが仁郎の顎をかすった。背中にのしかかってくる”松前不二男”の体重。”松前不二男”の2つの睾丸が、仁郎の背中の上で揺れた。
「どけよ! どけって! 由真を助けなきゃいけないんだよ! どけええ!!!」
必死でもがき喚く仁郎の上に乗っている”松前不二男”は、諭すように言った。
「落ち着けよ。お前、図体は馬鹿でかいけど、運動神経はそんなにいいわけじゃないんだな」
「何言ってんだあ!! 早くどけええ!!」
仁郎は口から唾を飛ばしながら、絶叫した。”松前不二男”は、仁郎の右肩に刺さったままのナイフに視線を移した。そして軽く息を吐き、一息でそのナイフを引き抜いた。苦痛の呻きが仁郎の口より漏れた。白いシェフの制服に血の染みがわずかに広がった。
「近衛、すまなかったな。まさか、お前がここまで追いかけて来るとは思わなかった。でも、ちゃんとナイフの急所は外しておいたからな」
「どけえ! 由真が死んじまう!」
「……人の話を聞けよ。店長のこと、好きなんだろ? 女は話をきちんと聞いてくれる男が好きだと思うぞ。俺ぐらいの年齢のおっさんのいうことはためになるぞ」
「何、こんな時にふざけてんだあ!!!」
”松前不二男”は、仁郎に自分の話を聞かせるためか、後ろから彼の脱色された髪をつかみ、その顎をグイッと上へ向かせた。
「なあ、近衛。さっき、あの片腕の男とやり会った時にあいつにも伝えたんだが、俺は”直接”手を下してお前たちを殺す気はない。俺にも一応、殺戮欲をそそる対象とそうでない対象があるんだよ。善良なお前たちは俺にとっては対象外だ。だから、殺す気なんてない」
「!」
「今、店長と『舌無しコウモリ』は対峙している。お前は6年前の事件については、加害者でもなければ被害者でもない。だから、安全な”ここ”にいろ。関係者だけで決着をつけさせようじゃないか。まあ、あの火を点けたのは無関係な俺だけどな。最後の”後始末”は俺がきちんとするつもりだ」
”松前不二男”に体の動きを封じられ、髪をつかまれたままの仁郎は、メラメラと燃える炎の壁の向こう側にいる由真を見た。
炎の壁の向こう側。
由真の背後にいる『舌無しコウモリ』は、再び嗚咽し始めていた。炎の壁は楕円を描き、横に逃げようにも由真の退路は完全に断たれてしまっている。
メラメラと激しさを増す炎と飛びかかる火の粉から逃れるように後ずさる由真の後ろには、観音像と6年前『舌無しコウモリ』に落とされた崖があるだけであった。
今夜、6年前の悪夢がこの地で再開された。
そして、その悪夢は八窪真理恵の最期の場所という、由真と『舌無しコウモリ』の双方にとって因縁の深い場所で、今、クライマックスを迎えようとしていた。
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