第7話

 覚悟を決めた『舌無しコウモリ』は夜の闇をかけていた。

――今日が私の最期の日。

 眼前に”あの場所”が近づいてきた。自分が八窪真理恵の下腹部を貫いた場所。何の罪もない彼女の人生を断ち切った場所。

――”ここ”が私の死に場所だ。私はどんな風に、処刑されるんだろう? 自分が彼女に、いや彼女以外の犠牲者に流させた以上の血を流して、私は地獄へと行くのだろう……

 『舌無しコウモリ』が辿り着いた先には、八窪真理恵のために建てられた観音像がある。満月の光はまるでその観音像だけを照らし出すように差し込んでいた。静かな微笑みをたたえているその観音像。その前には、百合の花が供えられていた。

――ごめんなさい。許してください……

 『舌無しコウモリ』は、醜悪な『殺戮者』の姿のまま、観音像に手を合わせていた。

 突如、頭が痛み始めた。あの6年前の夜に、殺戮を終えた後に転がり込んだ宵川斗紀夫の車の中で走ったあの痛み。頭蓋骨から脳みその中心へと突き刺さすように痛み始め、この青く、爬虫類のような肌も焼けるほど熱く――

 獣のような呻き声をこの口から発していた。 

 そして、またしても体の中心部に向かって、この細長い体躯が折りたたまれていくような――


 『舌無しコウモリ』は、人間の姿に戻った。

 痛みを切り抜けることができた、彼女の”黒い”両の瞳が確認したのは、自分が生まれたままの姿で、生温かい風が漂うなか、立ちつくしていることであった。だが、一瞬だけ吹き抜けた生温かい風が肌を震わせた。

 車の音に顔を上げる。ここへ近づいてくるのは、今夜の協力者である松前不二男の車であった。そして、あの車の中には八窪由真がいるはずであった。


 松前不二男の車が段々と近づいて来る――

 『舌無しコウモリ』は思わず、両手で自分の肌身を隠し、近くの木の影に隠れてしまっていた。

 車は停まった。

 だが、その車からは下りてきたのは、松前不二男1人だけであった。手に黒い毛布を持って下りてきた不二男は、全裸のままでいる『舌無しコウモリ』にそれを投げてよこした。

 黒い毛布を体に巻き付け、まるで本当にコウモリのような風情を醸し出した『舌無しコウモリ』は、松前不二男に恐る恐る問う。

「……あの……八窪さんは?」

 罪人である自分を処刑するはずの処刑人がこの処刑場に来ない。これは『舌無しコウモリ』は予想していなかった。

 シェフの制服に身を包んだままの松前不二男はポケットから、煙草を取り出し、ライターで火を点けた。そして、白い煙を一度吐き出す。

「店長なら、毛布にくるんで路肩に置いてきた。宵川が店長を見逃すなんてことはなだろう。もうじき、宵川の車でここまで来るさ」

「……なぜ、ですか?」

「宵川への俺なりの土産だ。あいつ、きっと今ごろ、セクハラ三昧だろう。店長には可哀想だがな」

 そういった不二男は、再び煙草を口にくわえた。『舌無しコウモリ』は、宵川斗紀夫の異常な性癖については理解していた。だが、この目の前の松前不二男は、一体何なのだろう、と。彼が全裸の自分におそらく気を使って、投げ渡してくれたこの黒い毛布すら、ゾワゾワと気持ち悪く肌にひっつき、投げ捨てたいくらいであった。

 松前不二男との連絡は宵川斗紀夫が中心となって行っていた。だから、『舌無しコウモリ』が彼について知っていることと言えば、彼はあの「レストラン 笑窪」のメインシェフであるということだけだ。どういった経緯や理由で自分たちのこの計画に手を貸すことになったのか分からなかった。

 『舌無しコウモリ』は、松前不二男の気難しそうな横顔を盗み見た。彼の薄い頭頂部は満月の光を受けて光っていた。

 松前不二男は美男でもなければ、醜男でもない。年齢はおそらく40代、いや50を超えているかもしれない。身長は平均的、いや宵川斗紀夫と比べると男性にしては低めの部類に入るかもしれない。だが、服ごしからも鍛え抜かれた筋肉につつまれていることが分かる。彼の全身から発せられている威圧感は、おそらくその体つきにあるだろう。

――この男が本気を出せば、私などほんの数秒で殺されるかもしれない……

 『舌無しコウモリ』がその身を震わせた時、不二男が振り向いた。そして聞いた。

「怖いのか?」

 不二男のその問いに『舌無しコウモリ』は何も答えることができなかった。彼はおそらく、これから自分が八窪由真の手で処刑されること、つまりは近づいてくる「死」への恐怖のために、この身を震わせたのだと思っているに違いない。

 続く沈黙に、不二男を宙を見上げるような動作をし、口から白い煙を吐き出した。煙は漆黒の空へとのぼっていった。

「想像だにしていなかった突然の死を、それも殺されるということで迎えるのと、長期間怯えながらその死という最期の時を待つのとでは、どちらが人間にとって、より恐怖に満ちたものなんだろうな?」

 独り言のように呟いた不二男の言葉に、『舌無しコウモリ』はやっと自分のカラカラに乾いてしまっていた口を開くことができた。

「……こっ、これから自分が死ぬと思うと怖いです。でも、私は6年前に、自分の命でも償えないようなことを、この手でしたんです……だけど、あの時は自分でもどうかしていたとしか思えない……」

「”どうかしていたとしか思えない”か……」

「でっ、でも、ちゃんとこの身に罰は受けます。あの夜に生存した4人のうちの2人が、八窪さんの異母妹と元夫であったことが、何かの巡り合わせであったとしか思えない……」

 自分が勝手に嫉妬や羨望を募らせ、残酷に殺害した八窪真理恵の関係者の手で、この首を打ち取られることになる。『舌無しコウモリ』は諦めと恐怖の混じった苦々しく匂いを放つ息を吐いた。

「まさか、あのホームレスが店長の姉の元夫だったとはな。思わぬ伏兵が近くに潜んでいたもんだ。時々、店長があのホームレスの飯を用意しているのは知っていたが、もっと気に留めておくべきだったな。ただでさえ、策略は思い通りにはいかないものなのに……」

 短くなった煙草を乾いた茶色い土の上に投げ捨てた不二男は、苛立たし気に煙草をギュっと踏みつぶした。

 『舌無しコウモリ』はレストランのブレーカーを落とす前に、つまりはこの人間の姿でいた時に、宵川斗紀夫からの連絡を受けた時のことを思い出す。当初は、斗紀夫が八窪由真をうまくこの場所へと誘い出すという、斗紀夫に言わせれば「至ってシンプル」な計画であった。だが、何か予想外のことが2つも起こったようだった。

 その1つは彼の妻が原因らしい。いつもの飄々とした斗紀夫らしくなく「あの歩く災いめ。弁護士使ってでも絶対に離婚してやる」と吐き捨てるように言っていた。あとの2つは、何かは知らないし、もうすぐ自分は死ぬのだから知ったって何の意味もないことだ。

 ここへと向かってくる、きっと八窪由真を乗せているはずの車の音が、生温かい風に乗せられて聞こえてきた気がした。

「そろそろか……」

 不二男が呟いた。不二男は自分の車へと歩いていき、そのトランクに手をかけ、”あるもの”を取り出した。

 そして、不二男は『舌無しコウモリ』に振り向いて言う。

「あんたの処刑の場をより派手な舞台にしたいと思ってさ」

「!!」

「なに、青くなってんだ。今日、死ぬことを受け入れたんだろ。いい加減に腹をくくれよ。どんな死に方しようが、1人の人間の肉体的な死は大抵1回限りだ」

 意図が全く分からない不二男のその行動に、『舌無しコウモリ』は後ずさりをしていた。足裏の柔らかい皮膚に、小石や土が擦れてわずかな痛みが走った。

「俺があんたを殺す気はない。当初の予定通り、あんたの”始末”は店長に任せるつもりだ。でも、あの店長に人間の姿のあんたは殺せないような気がするがな……そしてあんたもきっと……これはその保険だ……」

 不二男は、震えあがり何も話せなくなっている『舌無しコウモリ』の前で、自分の手の内にある重量のある容器を揺らした。タプン、とその中の液体が揺れる音がした。

 不二男が身を屈ませるようにし、その液体をダボタボと茶色い地面に浸み込ませ始める。不二男は自分の手元に目を落としたまま、『舌無しコウモリ』に向かって言う。

「なあ、秘密の話を聞かないか。この話を聞けば、あんたも少しだけ安心してあの世に旅立てるだろう……俺がこれから話すことは、あんたと俺だけの秘密だ」



 松前不二男から秘密の話を聞いた『舌無しコウモリ』は、この場所へと向かってくる宵川斗紀夫の車のヘッドライトが徐々に大きく、そして眩しくなってくるのをじっと見ていた。

 その車の運転席には、宵川斗紀夫とその彼の膝の間で心底嫌そうな顔をし、体を縮こまらせている八窪由真がいるようであった。

 もうすぐ、あの6年前の夜に自分が殺そうとした八窪由真と今夜の自分の立場が逆になる。

――今度は彼女の手が、私の血に染まるんだ……この私の……

 『舌無しコウモリ』は、思わず不二男の車の影に隠れていた。氷水につけられたかのように体は冷たくなり、震え始めていた。

――あと数時間後に自分は死ぬ。この体は冷たさも、痛みも何も感じなくなる!

 不二男が足元の土を踏む、ザリッという音が、あと数時間後に何も聞こえなくなるであろう耳に大きく響いた。

「俺はちょっと身を隠してる。さっき、あんたに秘密の話をしたように、俺と宵川の間にも秘密の話があるんだ。まあ、あんたは自分で決めたことを最後まで貫き通せばいい。きちんとな……」



 宵川斗紀夫の車は停まった。

 由真は一刻も早く逃れたかった宵川斗紀夫の両膝の間から転がるように、外へと飛び出した。後ろから「八窪さん、落ち着いて」と、斗紀夫の面白がるような声が追いかけてきた。

 外へと出た由真は気づく。この身を撫で上げる夏の夜の生温かい風の他に、何か別に匂いが含まれていることに気づく。これは6年前に流された血の匂いではない。

――この匂いはまさか……

 由真は思わず、鼻を押さえていた。けれども、彼女の眼前には、満月の光が照らしている凄惨なほど美しい佇まいの観音像と、松前不二男の車の影に隠れるようにしてまるでコウモリのように黒い布に包まっている1人の”人間”の女がいた。

 自分を気絶させた松前不二男の姿は見えかった。車の中か、それとも外に隠れているのか。

 由真がその身を奮い立たせるように、6年前のあの『殺戮者』とは似ても似つかない、自分と同じ人間の女の姿をしている者のところへ一歩を踏み出した。それと、同時に、後ろからもう1台の車が近づいてくる音がした。そう、近衛仁郎が運転する車が――

「仁郎!」

 由真は振り返った。宵川斗紀夫が「……空気の読めない男は困るな」と吐き捨てるように言った。仁郎が運転する車は、盛大な音を立てて止まった。

 仁郎は運転席から「由真!」と転げ落ちるように出てきた。そして、その後部座席からは6年前、愛する元妻と左腕を失った吹石隆平も飛び出してきた。


 6年前、20×6年8月4日の夜。この場所で八窪真理恵は殺された。

 それから6年後の今夜。漂ってくる風には、夏の暑さとは異なる不吉で異質な匂いが含まれ、ここに来ざるを得なかった者たちの素肌を鳥肌だたせていた。

 息苦しさを感じた由真は思わず、自分の胸を押さえていた。彼女の視界に映る真理恵のために建てた観音像が、哀しげに微笑んでいるように見えた。


「由真! 怪我はないか!?」

 仁郎が由真の元へと駆け付けた。由真は頷きながら、彼へと答えた。

「どうして? どうして、ここへ来たの? こんなことに巻き込……」

「放っておけなかったんだよ!」

 由真の言葉を遮り、彼女の片手をとった仁郎は、近くでニヤニヤしながら自分たちを見ている斗紀夫を睨み付けた。

「お前、うちのレストランによく来る作家だよな。こいつを誘拐するなんて、どういうつもりだよ! まさか、エログロのキモい話書いているうちに、空想と現実の区別がつかなくなったってオチじゃないだろうな?!」

 斗紀夫は腕を組み、自分の車にその背をもたせかけた。余裕綽々とした態度は全く崩さずに仁郎に答えた。

「俺はちゃんと現実を見てるさ。罪なき者が理不尽にその生活や人生を奪われる事件が起きるこの世界の現実をね。君の後ろにいる八窪真理恵さんの元旦那さんは、君よりちゃんと、今ここで起きようとしていることを理解しようとしているみたいだけどね」

 由真と仁郎は、背後の隆平を振り返った。彼もまた、松前不二男の車の影に隠れている”人間”の女に気づいていた。彼は斗紀夫に向き直り、一文字に結んでいたその唇を開いた。

「おい、あんた……あんたがこの状況を仕組んだんだろ。車の影に隠れているあの女は一体誰なんだ!? それに、あの松前っていうおっさんはどこへ行った!?」

 小麦色に焼け、様々なもので汚れた隆平の顔の中にある2つの瞳が、斗紀夫を射抜くように光った。そんな隆平の鋭い眼光をその身に受けても、斗紀夫は全く動じることなく、腕を組んだまま自分の車に背をもたせけていた。その彼の口元には、薄笑いすら浮かんでいた。彼は明らかにこの状況を面白がっている、この状況に喜びを感じているのだ。

 斗紀夫は自分に勢いよくまくしたてた隆平とは対照的に、わざとゆっくりと落ち着いた喋り方をする。

「それはあの彼女に聞いてください。今夜、ここにその八窪由真さんを呼んだのは彼女ですから。別にあなたとそこの独活の大木くんみたいな彼は呼んでなかったんですけどね」

 斗紀夫のその言葉に、仁郎がムッとし眉を吊り上げた。

「あ、『舌無しコウモリ』さん。もしかしたら警察がこの場所を早くに突き止める可能性もあるかもしれないので、話は巻きでお願いしますね」



 由真たちの前に、黒い毛布に身を包んだ女『舌無しコウモリ』は恐る恐る姿を見せた。

 年齢は30代半ばか。月と車のヘッドライトが照らしてる中にあっても、女の顔は青白く、表情は重いものであった。彼女の両目の下には、夜のなかにあっては余計に目立つような濃い隈が刻まれていた。

 由真も隆平も全く知らない女でもあった。知らない、見たこともない、この目の前の女はゆっくりと口を開いた……



 『舌無しコウモリ』の話を全て聞いた由真の拳は震えていた。それは隆平も同じであった。

「……ね、姉さんはそんなことで……殺されたの?……」

 今にもこの目の前の『Y市連続殺人事件』を引き起こした女、最愛の者の命を奪ったこの女に掴みかかっていきそうなのを必死でこらえていた。

 由真の脳裏に、無惨に殺された姉・真理恵のあの最期の姿が蘇る。地面に倒れ伏した真理恵のあの白く冷たい死に顔も。ちょうど、今、『舌無しコウモリ』が立っている、この場所で事切れ、明日という日を迎えることができなかった姉の姿を。

 怒りを抑えるために由真は大きく深呼吸をした。目じりに涙が滲んだ。

 だが、由真が涙を流すよりも先に、『舌無しコウモリ』がその顔を覆って嗚咽し始めた。嗚咽は慟哭へと変わっていく。その慟哭のなかに「ごめんなさい、ごめんなさい」という言葉が混じっていた。

「一言でいうと、ただの八つ当たりだったってことだよ」

 横から聞こえた宵川斗紀夫の声が、由真にはどこか遠くで聞こえているような気がした。

 由真の頭は、いろいろな思考のパズルのピースが散らばったり、集まったりを繰り返し続けていた。

――自分がつらい境遇にいた? そんな時、たまたま町で会った同級生から、姉さんの近況を聞いた? おかしな夢で気味の悪いものを渡された? 男の人に一度でいいから愛されてみたかった? 家庭環境に恵まれていなかった? 職場で不当な扱いを何年も受け続けていた? でも、姉さんには何の恨みもなかった? あの日、自分の心に反して、変身をしてしまった? 向かった先に姉さんと、たまたま他の被害者となった人がいた? 加害者と”なってしまった”自分もずっと苦しんでいた? あの時の自分はどうかしていた?

 目の前の『舌無しコウモリ』は吠えるかのように泣き続けていた。

――本当に、今、私の目の前にいる人が姉さんたちを殺したの? 涙を流す人間が、あの無慈悲な殺戮を行ったっていうの? あの殺戮は、いろんな偶然が積み重なり、行き当たりばったりに”たまたま”起こった事件だって……そんなことで姉さんは、いや、姉さんだけでなく、他の人達にだって人生はあったのに。誰かを大切に思い、またその人たちを大切に思っている人だっていたのに……

 由真は息を整えるために、もう一度深呼吸し、異常な匂いが含まれている空気を吸い込んだ。隣の仁郎は、ただ青い顔でその場に突っ立っていることしかできなかった。

 隆平は、自分を落ち着かせるように、息を吐き出した。重々しく苦しいその息を。彼は震える右の拳を押さえ込むように、自分の腹に擦りつけるような動作をした。目の前にいるのがあの化け物の『殺戮者』の姿のままの『舌無しコウモリ』であったら、即座にポケットの中のナイフを握り直し、青くざらついた肌に何度も刃を突き立てているところであっただろう。だが、目の前にいるのは、あの化け物の名残など見当たらないただの人間の女だ。それに、近くでこの状況を面白がってみている不気味な作家と、明らかにこの状況に加担したのに姿を消した松前という男もいる。今は下手に動くべきじゃない、と彼は再び震える拳をその腹に擦りつけた。

「……ずるいわ! ずるいわよ! あんな化け物の姿で、姉さんたちを殺したくせに、なぜ、今日のこの時に人間の姿で謝るの!? 涙を流す人間だったってこと?

 姉さんだって、他のあなたに殺された人たちだって、涙を流す人間だったのよ! みんな生きたかったのよ! 返してよ! 姉さんを返して!」

 由真の瞳から、ついに涙が溢れ出した。息苦しくなり、肩を上下させた由真に、仁郎が落ち着かせようと「由真」と肩に手を置いた。

 由真は思い出していた。

 6年前の夜、姉と白鳥学とともに、あの『殺戮者』から逃れるために、闇の中を駆けていたことを。ただ『生きたい』という一心で、この闇に差し込む光を求めて逃げていたことを。白鳥学も姉も殺され、ついに自分の番となり、『殺戮者』に首を掴まれた時、『殺戮者』のこの手によって先に殺された姉へと助けを求めていたことを。

 車に背をもたせかけていた斗紀夫が身を起こし、由真と『舌無しコウモリ』を交互に見比べて言う。

「これが日本を震撼させた事件の裏側だよ。拍子抜けして笑えますよね。でも、事件の裏側って、大抵、こんな風にいろんな要因が積み重なり……」

「あなたは黙っていてください!!」

 由真は涙に濡れた顔のまま、斗紀夫にきっと向き直った。由真は気づかなかったが、その由真の顔を見た斗紀夫の腹の下はまたしてもうずいたのだ。


 『舌無しコウモリ』は、頬を涙で濡らし続けている八窪由真へと一歩を踏み出した。『舌無しコウモリ』にとって、それは崖へと向かって一歩踏み出すほどの勇気がいることであった。八窪由真の後ろにいる、彼女と同じく怒りに満ちた表情をしている吹石隆平の存在が、なおさら一歩を踏み出すのを躊躇させていた。

 『舌無しコウモリ』はゆっくりと顔を上げて、まっすぐに由真を見た。

「お願い。私を殺して。私の罪は償える罪じゃないわ。だから、遺族の手で処刑してほしいの……お願い」

 正気とは思えない『舌無しコウモリ』のその願いに、由真は後ずさりしていた。由真の肩に置かれている仁郎の手にも力が入った。

「……そんなことできるわけないじゃない! 人を殺すなんて、できないわよ!」

 涙をぬぐいながら、由真は答えた。いつもポケットに忍ばせていたあのナイフは、おそらくレストラン周辺に落としたままだろう。姉の仇であったとしても、例え自分の手にナイフがあったとしても、目の前にいる”人間”を殺すことなどできるはずがなかった。

 しゃくりあげる由真の後ろより、隆平が一歩歩み出た。自分に向かって近づいてきた隆平に、今度は『舌無しコウモリ』が後ずさった。それは彼の手にナイフが握られていたためであった。

 隆平は黙って、『舌無しコウモリ』の足元にそのナイフを放り上げた。そして――

「あんたに選ばせてやるよ。そのナイフで自分で自分の喉を貫いて自殺するか、それともあの夜の『殺戮者』の姿になって俺に殺されるか、のどちらかを」


 数十秒の時間がたった。その間、異質な匂いを含む生温かい風は何度も、この場所を通り抜けていった。

 だが、『舌無しコウモリ』は茶色い地面の上で鋭い光を放っているそのナイフを手に取ることもなく、あの『殺戮者』に変身することもなく、ただ黙って俯いていた。

 しびれを切らしたように、隆平が言った。

「……どっちも選ぶことができんのだろう?」

 隆平のその言葉に『舌無しコウモリ』は、またしても顔を覆って嗚咽しはじめた。

「6年前のあの日のことは、俺や由真ちゃんにとっては、わずか数時間前のことにしか思えないが、実際にはあれから6年もの時間が経っているんだ。本当に自分の死で罪を償おうというのなら、とっくに実行に移しているさ。あんたはただ、自分が許されたかっただけだ」

 嗚咽は止んだ。『舌無しコウモリ』は、涙をぬぐい、黙って下唇を噛んでいた。

「真理恵はその手で殺したっていうのに、あんたは生きたいんだろう?」

 隆平の瞳から、一筋の涙が流れ、闇の中で光った。斗紀夫が口を挟む。

「……加害者にもいろんなのがいるんですよ。俺が知っている、X市出身のとある女子高生なんか、多分最後の最後までその罪の重さも分かろうとすることなく、被害者に成敗されましたからね。この『舌無しコウモリ』さんは、形だけでも反省しているだけでもマシでしょう。殺した人数はあの女子高生の3人に比べると、3倍以上だけど……」

「あんたは黙ってろ!」

 由真と隆平は、斗紀夫に向かって同時に声を荒げた。

 だが、斗紀夫はなおもにこやかな表情をたたえたままだ。由真の全身から、冷たい汗が噴き出し始めた。車の中で、斗紀夫にセクハラまがいの行為を受けている時よりも、もっと冷たく粘り気のある汗が。

 由真は仁郎と隆平に「逃げよう!」と叫んだ。

 6年間、地獄の業火に焼かれるがごとく、『殺戮者』に対しての憎しみを燃え上がらせていた。ついに、今夜、最愛の者の仇をとる機会を与えられた。けれども、今はある意味一番危険なこの宵川斗紀夫から逃げなければ――

――何なの、この人は? ここには無関係な仁郎だっているのに、自分たちの手の内を明かすなんて……私たちを生きて帰す気がないのだわ! それにずっとこの場に漂っている、このにおいは絶対に……

 またしても、由真が考えていることが分かったのか、斗紀夫は唇の端をさらに耳へと近づけた。彼の唇の間からわずかに見えた白い歯が、彼の唾液で湿り光っていた。

「やっぱり女性の方が、人の心の機敏さやその裏の感情を読むのがうまいですね。今日、八窪さんが、姉の仇とはいえ被害者から人を殺した加害者になったら、俺たちの間に共通の秘密ができる。犯した罪に震えるあなたをずっと見守っていくことができる。そう、思ってたんですが……うまくいかないもんですね。それに余計な者が2人もくっついてきて……」

 斗紀夫は溜息をついた。仁郎が斗紀夫につかみかかろうと一歩を踏み出したのを隆平が手で制した。そして、隆平は斗紀夫の胸倉を掴み、すごんだ。

「ふざけるな。ぶち殺すぞ」

 けれども、斗紀夫は平然としている。そして、ククッと笑った。

「ふざけてなんかいませんよ。きちんと計画を立ててこの日を迎えました。そして、その計画がうまくいかなかった時の予備の策もきちんと残してね」

「てめえ……!」

 隆平が斗紀夫の胸倉を掴む手に力を込めた、その時だった。

 隆平はハッとした。それは彼が真理恵の仇をとるために、Y市を練り歩いている間に培われていた野性的な勘、ここに迫りくる危険を知らせるものであった。

 斗紀夫の胸倉を掴んだまま、隆平はその危険へとバッと振り返った。

 そこにいたのは――

 そして、そいつが”狙っている”のは――


「近衛ぇ!!」

 隆平が叫ぶと同時に、後方から発せられたナイフが風を切り、由真をかばうように立っていた仁郎の右肩に突き刺さった。

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