第10話

 8月4日の夜。

 絶体絶命の極限状態に再び追い詰められた八窪由真。漆黒の夜の闇と彼女の周りで燃えさかる炎が”舞台”の凄みを増し、斗紀夫の瞳をさらに輝かせた。が、それを邪魔する者がいた。

 八窪真理恵の元夫である吹石隆平。呼んでもいないのに現れて、なおかつ水を差そうとしている。彼を止めようとした斗紀夫であったが、彼が残っていた右腕を大きく振ったのが見えた瞬間、目の前で火花が散った。倒れ込んだ斗紀夫の腹に、隆平はさらに蹴りを入れてきた。痛みと苦しさに体を折り曲げ、地面で呻いていた斗紀夫は、自分の鼻から生温かな血がドクドクと流れていることが分かった。

 だが、あの炎の向こうには八窪由真がいる。彼女の最期の姿を見逃すなんて、と、斗紀夫がアスファルトの上で炎に向けて身をよじった時だった。

 自分に近づいてきた重たげな足音。突如、首の後ろに与えられた衝撃。

 斗紀夫の意識は遠くなった。

 

 斗紀夫が意識を取り戻した時――

 彼の目にまず映ったのは、漆黒の闇だった。だが、その闇の中で満月が光り輝いていた。斗紀夫にはそれが獲物の狙う獣の片目に見えた。

 痛みを残している鼻に斗紀夫は手をやった。口にまで流れ込んでいた血はとうに止まり、鼻の下に乾いた血の道を残していた。

――あの男……!

 俺を殴り、あの炎の中に飛び込んでいったあいつはどうなったのか? そもそも、ここはどこだ? 近くに水が流れる音がするが川でもあるのか? と斗紀夫が右を向いた時――

「目が覚めたか?」

 運転席のハンドルに肘をもたせかけている人間の姿の松前不二男がいた。彼は部屋着のようなラフなTシャツと短パン姿であった。彼の腕や足の筋肉は鍛え上げられ引き締まっていたが、その下腹部は中年男性らしく少し出ていた。

 ここは松前不二男の車の中だ、と理解した斗紀夫の隣で、不二男はライターを取り出し煙草に火を点けた。

 不二男が「おまえも吸うか?」と斗紀夫に煙草を差し出したが、彼は黙って首を横に振った。

「……一体、どうなったんだ?」

 斗紀夫のその言葉に、不二男は可笑しそうに笑った。

「どうなったって……お前が今、ここにいるってことがあの舞台計画の結末だろ。本もたくさん出して、俺よりずっと頭いいんだろ、それくらい自分で考えろよ」

「……失敗した……のか?」

 全身を焦りに囚われ始めた斗紀夫のその横顔を見た不二男は、口から白い煙を吐き出し言った。

「まあ、教えてやるよ。女――『舌無しコウモリ』は死んだ。『殺戮者』としての姿のままな。あの片腕の男がケリをつけたんだ。見事に仇をとった。自分の命も恐れることなく……」

「そんなことより、八窪由真はどうなったんだ!」

 斗紀夫が声を荒げたが、不二男は変わらぬ調子で続けた。

「八窪由真なら、近衛の奴が炎の中から助けたさ」

「……八窪由真が助かった?! それはまずい! それにあの場所には俺の車が置いたままなんだ。警察が来る前になんとか……そもそもここはどこなんだ?!」

 助手席から飛びあがらんばかりに身を起こした斗紀夫の肩を、不二男がグッと押さえた。その力の強さは斗紀夫の肩の骨までも震わせるかのようだった。

「まあ、落ち着け。警察はとっくにあの場所に到着してるさ。そもそも、ここはあの場所からは数キロは離れている。今から、この車を走らせたって絶対に間に合いっこねえよ」

「……なんてことをしてくれたんだ! 八窪由真たちが警察に喋ったら、俺は終わりじゃないか!? いや、俺だけじゃない、あんたも終わりなんだぞ! 分かってるのか!」

 不二男は再び白い煙を吐き出した。彼のその横顔にある瞳にゾッとするような冷たい光が宿っていた。

「それくらい理解しているさ。俺はそれよりも他にしたいことがあったんだ」

「……そもそも、あんたは俺たちの協力者だったろう?! なのに、なぜ八窪由真たちを殺して口封じをしなかったんだ?! まさか、情が移ったなんていうんじゃないだろうな?!」

「まあ、俺も一応人間だしな。多少の情は移っていたさ、特にあの馬鹿でかいガキにはな」

 一瞬の沈黙。不二男は続ける。

「だが、俺は自分の欲望を満たすことを第一に動いたんだ。お前たちに歩み寄ったり、あいつらに歩み寄ったりして、まるでガキの読む本に出てくるコウモリのようにな。そして、今やっと……その欲望を実現できる」

 不二男はその冷たい光を宿らせたままの2つの瞳を斗紀夫に向けた。

「俺は殺したい。その恍惚を味わいたい。だが、その対象が誰でもいいってわけじゃないんだ」

 斗紀夫の額からタラリと一筋の汗が流れた。不二男は斗紀夫の顔を見たまま、わずかに身をかがめ、座席下にそっと手を伸ばした。

「なんだよ、その顔。いつも飄々としているお前がそんな顔するなんて、おかしな奴だな」

 そう言った不二男は目にも止まらぬ速さで、大きく体を動かし、その右手を斗紀夫の首筋に近づけた。

 斗紀夫の首筋にチクンと痛みが走った。目を大きく見開いた斗紀夫は、不二男の手に注射器が握られているのを見て、目をハッと見開いた。そして斗紀夫の視界は大きくぐらつき……

「いったい、なに……?」

「お前がそれを知ったとしても、”もう”どうしようもないだろう?」

 不二男は注射器をダッシュボードに無造作に放り投げ、ハンドルに手をもたせ掛け、続ける。

「宵川、お前は直接手は下してはいなくても、他の女を主人公にした舞台計画を練ったり、俺や『舌無しコウモリ』みたいな同士を使ってその尻拭いをさせたことは初めてではないだろ? でも、そいつらのことなんて、俺は知ったことじゃない。俺は必殺仕置き人を気取るつもりはない。ただ、俺は夢で受け取った同士たちをまるで共食いのごとく、殺したかったんだよ。俺は”もう一度”味わいたかったんだよ。あの恍惚を……」

 本物の殺意。斗紀夫は助手席に頭をもたせかけたまま、その口をわずかに開けていた。だが、彼の意識はまだあること、自分に死が近づいてくる恐怖、それも殺されてその生を終わらせられるという恐怖は、不二男にも感じ取れた。

「お前は人を信じすぎたんだよ。いや、お前にとっては俺たちは単なる駒だったんだろうな。だが、駒が自分のゲームを有利に進めるために、勝手に動きだすってこともあるんだぜ。まあ、俺だって根っからの鬼畜ってわけではない。お前に冥土の土産として八窪由真との2人だけの時間を与えてやったんだ」

 斗紀夫は抵抗するために、わずかにその口を動かした。彼の目じりには涙が滲み始めていた。

「……なんだか、”久しぶり”だからか今日は俺も饒舌になってるな。まあ、いろいろと聞かせてやるよ。警察がここまで追ってくるにはまだたっぷりと時間があるだろう。お縄になるつもりはないけどな。実はお前が八窪由真とあの場所に到着するまでに『舌無しコウモリ』と話をしたんだ。俺とあいつだけの秘密の話をな。あいつは口では死ぬことを恐れはしないとはいっていたが、本気で死ぬつもりはないのは分かっていた。だから、俺は自分のこの欲望を告げたんだ。あいつはビビっていた。だから言ったんだ。”俺が一番殺したいのは宵川だ”ってさ。あいつはわずかに安堵していた。どこまで自分が可愛い女だったんだか。まあ、あいつの始末はあの片腕の男に花を持たせてやったしな……さて、宵川、そろそろだな……お前は一度も変身することなかった。だから、俺も人間の姿のままお前を殺そうと思う……それが筋ってもんだ。ちゃんと他殺だと分かるように殺してやる。しばらくの間は、お前も世間で騒がれ……」

 喋り続けている不二男の言葉は、段々と聞こえなくなっていった。

 

 斗紀夫が意識を取り戻したとき、彼は暗闇にいた。そこはただの暗闇ではなかった。流れる冷たい水の中にいたのだから。

 斗紀夫の体の自由は奪われており、彼は指先と足先を動かすことができるだけだった。左足の古傷が鋭く、そして冷たく痛んだ。口からは大きな泡がゴボゴボと出た。その泡は眼前で流れる水へと吸い込まれていった。その流れの中に、斗紀夫は2人の女の顔を見た。

――千郷……千奈津さん……

 そこに浮かんでいたのは、相田千郷と谷辺千奈津であった。老いることのない6年前となんら変わらない彼女たちがいた。6年前に死んだ彼女たちは、ただ無表情のまま、斗紀夫をじっと見ているのだ。

――お願いだ、助けてくれ……頼む…… 

 斗紀夫の口から、さらに大きな気泡が彼女たちに向かって発せられた。だが彼女たちは何も言わず、ただ斗紀夫をじっと見つめていた。彼が自分たちのところに来るのを待ち構えているのだ。

 斗紀夫の意識は朦朧とし、頭と鼻の奥がさらにズゥンと痛くなり――

 動きを封じられた体で弱弱しくもがく斗紀夫の脳裏で、2つの信号が交互に瞬いていた。

 死、怖、死、怖、死、怖、死、怖、死、怖、死、怖、死、怖、死、怖、死、怖、……

 だが、それもやがて途絶え――

 20▲2年8月4日、深夜、宵川斗紀夫は死んだ。



 高藤永吾は枕元でけたたましい音を立てる目覚まし時計を止めた。

 時計は朝7時前を指している。軽く伸びをし、ベッドから出た永吾であったが、まだ自分の身に余韻として残っている昨夜の歓びを感じる。

――久しぶりだった。それも、あんなに可愛い……

 昨夜、勤務先の店長の八窪由真の従弟である八窪直久を犯した。

 永吾は自分の両手をじっと眺める。それと同時に彼の下半身も疼いた。そのまま、いつもの動きに入ろうかとも思った永吾であったが、一瞬の不吉さを感じた。

――大丈夫だ、きっと。バレるはずがない。俺は昨日、体調不良でまっすぐに家に帰ったことになっている。俺の普段の行いから、同僚たちが俺を疑うなんてことはないだろう。それに俺は”誰にも見られていない”はずだ。直久くんの視界もガムテープでふさいだし、ちゃんと軍手だって使用した。その軍手だって、もう処分済みだ。何より、ちゃんとコンドームは使ったからな。証拠なんて残っているはずがない。

 ふと、気になった永吾は、枕元の携帯を手にとった。昨日の夜、富士野七海に探りをいれるつもりで、早退したことの詫びの文面をLINEで送った。既読にはなっているものの、七海からまだ返事はなかった。

――いつもの富士野さんなら3分もたたないうちに返事をくれるはずなのに、まあ、あの彼女の女の勘とやらも俺についてはそう役には立たなかったな。

 先ほど一瞬感じた不吉さは、わずかに膨らんだようにも感じたが、永吾はそれを見なかったふりをして、昨夜”手に入れた”八窪直久を思い出した。

――男が男に犯されたなんて、女が男に犯されたというよりも、ある意味言いづらいだろうな。あの後、店長や近衛くんが彼を見つけても、まだ中学生の男の子の未来だって考えて、何もなかったことにする可能性が高いだろう。本当は……小学校中学年~高学年ぐらいの男の子が俺のストライクゾーンだった。発育は個人差があるけど、中学生にもなるとやけに雄くさいやつもいるからな。その点、中学生ということを差し引いても、あの直久くんは俺の好みにピッタリと合致していた。俺がずっとこのY市で築き上げてきた堤防を決壊させるほど……

 その”築き上げてきた堤防”について永吾は考える。

 あの「レストラン 笑窪」で働き始める前、永吾は大阪で会社員をしていた。その会社を退職した理由については、オーバーワークにより体調を崩したためと説明していた。だが、本当は違っていた。上司の家での宴会に参加した時、そこの上司の子供が自分の好みであったため、今回直久にしたようなことはしていないが、つい”必要以上”にスキンシップを図ってしまった。そのことが会社で面白おかしく噂され居づらくなってしまったため、退社するしかなかった。このY市では生活の基盤を守るために、同じ過ちを繰り返さないようにと、同僚たちが見ているところではそういった片鱗は見せないように注意してきた。

――まあ、今の職場ではその点は心配なかった。ただのおじさんと超長身男、そしてそもそも女2人は、最初から俺の対象外だからな。まあ、いい人たちだったけど。俺の好みは色白で睫が長くて女の子のような可愛さを持つ”少年”なんだ。そして、その気のない少年を無理矢理犯すのが、好きなんだ……必死で逃げようとするその姿……

 永吾が再び昨夜の余韻に浸っていた時、チャイムが鳴った。

 口元に浮かんでいた永吾の微笑みは途端に凍りつき、全身からドッと冷たい汗が噴き出し始めた。

――まさか、バレたのか? そんなはずはない、俺は誰にも見られなかったはずだ。

 チャイムはもう一度、鳴った。玄関の向こうからはは複数の人間の話し声がする。

 永吾は震える脚で玄関へと向かう。今にも崩れ落ちそうな崖を歩いているようであった。永吾は湿った手で、玄関のドアノブをゆっくりと回した。

 ドアをあけた先に立っていたのは――

 厳しい目つきをしている強面の3人の男性であった。そのうちの1人が永吾に無言で警察手帳を見せた。



 8月の終わり。

 車のハンドルを握る由真の手に照りつけるその夏の日差しは、数週間前までのものと比べるとわずかにやわらかった。それは8月の終わり、すなわち夏の終わりを告げていた。

 この8月に起こった数々の出来事――

 それを思い出した由真は、思わず肩を大きく上下させてしまった。

 助手席の仁郎が心配そうに由真を覗き込む。

「由真……やっぱり、俺が運転するよ。どこかで止まって……」

「いいの。仁郎は肩を怪我しているんだから」

 前に視線を向けたまま、由真はハンドルを握り直す。頭をかいた仁郎の膝の上にある2つの百合の花束がカサッと音を立てた。


 仁郎が”松前不二男”に投げられた鋭いナイフの刃は、”松前不二男”の言葉通り急所を外れていた。出血は多かったし、今もなお完治はしていないが、彼の命には別条はなかった。そして、彼が由真を炎の中から助けるために負った火傷も痕が残るものほどのものではなかった。由真は安堵した。そして、命も顧みずに自分を助けてくれた仁郎には感謝してもしきれないとも。

 翌日、病院で治療を受けていた自分たちのところに、涙目の七海がやってきた。たった一晩しか立っていないのに、愛らしい七海の丸顔の頬はゲッソリとこけていた。七海は由真と仁郎を見るなり「ほんとうに無事でよかったです」と目にたまっていた涙をドッと溢れさせ、肩を震わせながら泣いていた。

 現在、七海は実家へと戻っている。大学が始まったら、またY市へと戻ってくるが、それまでは両親の元で過ごすとのことであった。そういえば、大学生の夏休みって長かったな、と由真はかつてのことを思い出す。

 「レストラン 笑窪」は、従業員より1人の指名手配犯と1人の逮捕者が出たため、現在休業中であった。マスコミの待ち伏せにあった由真は、ネットなどは極力見ないようにしていたが、どうやらネット上でも噂になっているらしく、おそらくレストランの再開は無理であるだろう。由真も仁郎ももうすぐ無職となってしまうことは間違いなしであった。

 逮捕者である高藤永吾は、警察の取り調べを受け、八窪直久を暴行したことを認めたらしい。彼の家からは、彼が隠していた性癖を如実に表す本やDVDが大量に見つかったとのことだった。

 永吾に暴行された直久は現在、自宅に戻っている。彼が暴行されたという連絡を由真は旅行中の彼の両親に入れた。彼らは直久の命に別状がないことを知ると、あと半日しないと帰国できないと由真に告げた。そして、戻って来た彼の両親はそろって監督不行き届きだと由真を責めた。ただ頭を下げて謝ることしかできなかった由真を、暴行された被害者である直久はかばった。彼が高藤永吾につけられた傷は、身体的にも精神的にも深いものであるだろう。だが、それにも関わらず自分をかばった直久の強さに由真は驚かされた。彼のこれから一日でも早い回復を祈り、自分はその力にならなければならないとも。


 そして、指名手配犯である松前不二男。

 警察が彼の自宅を捜索した。彼が1人で暮らしていたアパートは、必要最低限の家電すら揃っておらず、埃すら居心地が悪くなるほど殺風景で生活感がなかった。アパートには、松前不二男の行き先を示すものは何も見つからなかった。ただ、小さなキッチンにあった包丁がどれも磨き抜かれていたのと、押し入れで見つかった黒のボストンバックの中にパスポートがあったとのことであった。そのパスポートの名前は確かに「松前不二男」とあった。だが、その顔写真は、由真たちが知っている松前不二男と全くの別人であった。そこには松前不二男より少しだけ若くも見え、痩せ形でひねたような目つきをした男が映っていたのだから。

 おそらく、そのパスポート写真の男こそ、本当の「松前不二男」だったのだろう。何らかの形で、由真たちが知っている松前不二男にその戸籍と人生を奪われた本当の「松前不二男」だと。

 そして、偽物の松前不二男は、普通の一般市民として「レストラン 笑窪」に開店当初より潜り込み、あの歪んだ性癖を持つ作家である宵川斗紀夫の計画に手を貸した。

 当の宵川斗紀夫は、8月5日の朝、隣県にて水死体で発見された。全身を青いビニールシートでグルグル巻きにされ、身動きが取れない状態で彼は川に沈められていた。その顔には殴打された跡(隆平によるもの)があり、少量の薬品を注射された痕跡も見つかった。

 動くこともできず、助けも呼べず、冷たい川の中で、ただ苦しみと恐怖のなか彼は死んだ。宵川斗紀夫を殺したのは、松前不二男でまず間違いないだろう。

 由真は思い浮かべてしまった。宵川斗紀夫を沈めた川岸で煙草を一服ふかしながら、川の中で繰り広げられている彼の生への渇望と死への絶望に、笑みを浮かべている松前不二男の姿を。松前不二男が強烈な殺人願望を持っていたことは、仁郎の話から聞いても確実だ。ただ、その殺人願望をそそる相手が自分たちではなかったということ。それゆえに、松前不二男は自分たちを口封じには殺さず、本当に殺したかった宵川斗紀夫にその牙を向けたのだ。

 宵川斗紀夫こそ松前不二男の計画に加担させられていたのかもしれない。松前不二男は、あの宵川斗紀夫すら手の上で転がして、自分の本当の目的を達成するための駒として、いや宵川斗紀夫こそ彼の獲物であり、メインディッシュであったに違いない。

 宵川斗紀夫殺害事件は、全国ネットのみならず、海外でも報道された。彼の惨い死を知った妻の麻琴は現在も発狂せんばかりの状態が続いているとのことだった。精神的に危ういところのあった彼女も彼女なりに、彼を愛していたのだろう。あの8月4日、「レストラン 笑窪」内で揉め事を起こした彼らは家に戻った。麻琴はベッドで横になったふりをしていたが、彼が出かける様子なのを察し、実際はしていなかった浮気相手との密会だと思い込み、隙を見て彼の車のトランクに身を潜ませたとのことだった。だが、連日の猛暑が続いていたのと、彼女は水分補給等のことを全く考えていなかったため、斗紀夫が車を走らせてから間もなく、意識を失ってしまった。そして、あの場所で凄惨なことが全て終わってから、意識を取り戻したのだ。警察は麻琴も取り調べたが、彼女が本事件の共犯者である可能性は非常に低いと判断したようだ。

 実際に何も知らなかった麻琴だが、警察が斗紀夫のパソコンを調べた時、隠しフォルダの中に、日本のみならず世界の殺人被害者の女性たちの生前の写真やその対比のような遺体写真、そしてそう鮮明ではないが薄暗い工場のようなところで暴行を受けている制服を着た少女の本物らしきレイプ動画も発見したことを知り、さらに彼女の混乱と崩壊はあおられた。

 宵川斗紀夫殺害事件。

 彼は事件の”主人公”として、日本中から注目を浴びていた。まだ”しばらくの間”は世間で騒がれ続け、もう二度と「安全地帯」に戻ってくることのできない宵川斗紀夫の存在は、人々の記憶に残っていくのだろう。

 そして、由真たちは知ることはできないが、宵川斗紀夫を殺した加害者である松前不二男は永久に捕まることはない。彼は法の手より逃げおおせ、日本の片隅でその天寿を全うすることになる。よって彼のみならず、彼と同時代を生きたすべての者が世を去った後も、この事件は永久に未解決のままであるのだ。 

  

 目的地へと車を走らせる由真のなかでは、何と表現すべきか分からない気持ち悪い感情がグルグルと渦巻き続けていた。助手席に座る仁郎も無言のままであった。

 車は山道へと入る。残暑の熱を吸い込んだアスファルトの上をタイヤは滑っていく。あの夜、宵川斗紀夫の膝の間に座らされていた記憶が蘇った由真は、思わず込み上げてきた吐き気に喉を鳴らし、唾を飲み込んだ。

 やがて、車は目的地についた。

 由真と仁郎はドアを開け、茶色い土を踏みしめた。

 彼女たちの目に映る、静かで穏やかな佇まいの観音像の前を一筋の風が吹き抜けた。

 6年前の8月4日、真理恵が最期を迎えた場所。そして、この8月4日に隆平と『殺戮者』が最期を迎えた場所。地面にはまだその名残があった。

 一度『殺戮者』となり、人を残酷に殺害することを選んだ『舌無しコウモリ』は『殺戮者』として死んだ。人間と判断できない彼女のその遺体は、ニュースではただ「獣」とのみ放送された。

 由真のみならず、同じ生存者である肥後史彰や駒川汐里、そして日本中にいる被害者の遺族たちも、このニュースを聞き、由真と同じく被害者たちの霊前に犯人死亡の報告をしているだろう。そして、由真は彼女が逝くべきところへ逝っていることを今も強く望み続けていた。

 仁郎が百合の花束を由真に手渡した。彼女たちは観音像へと足を進める。

 真理恵と隆平の2人に花を供え、そして手を合わせた。

 あの夜、燃えさかる炎を前に、隆平は『殺戮者』に向かってこう言った。


「……お前は俺と一緒に地獄へ行くんだ」


 『殺戮者』ともに、燃えさかる炎の中へと飛び込んだ隆平は、自分の手で決着をつけ、死んだ。

 由真は自らの死もいとわず、あの燃えさかる炎の中に飛び込んでいった隆平の心の内を思う。

――義兄さんは姉さんの命を奪った、あの『殺戮者』も憎かったけど、それ以上に自分を許せなかったのかもしれない……姉さんを守れなかった自分をきっと……

 隆平が自分に向けた最後の言葉。


「由真ちゃん、俺が決着を着ける! だから、あんたは生きろ!」


 死を決意していた隆平は、6年前の真理恵と同じく「生きろ」という言葉を自分に告げた。由真の瞳から涙が溢れ出した。由真はゆっくりと目を開け、こぼれ落ちる涙をぬぐった。そして、静かに言った。

「……義兄さん、きっと姉さんに会えたわよね」

「ああ……」

 仁郎が頷いた。

 隆平は彼自身が想像していた地獄ではなく、きっと彼が命をかけて愛した真理恵のところにいるような気がしていた。由真は、病院のベッドに横たわったままの父・卓蔵にも「義兄さんが姉さんの仇をとってくれたのよ」と告げていた。

――姉さん……

 幼い頃に母親を亡くし、自分自身も母が恋しかったに違いないのに、いつも他の者のことを一番に考えていた姉。誰よりも幸せになって欲しかったのに、自分の子をその腕に抱くことなく理不尽に殺された姉。彼女が懸命に生きた26年の人生の最期に呟いたあの言葉は……「おかあさん」という言葉だったに違いないとも。

 殺された大切な人はもう二度と戻っては来ない。残された者もその声を聞くことはできない。悲しみは生きている限り、癒えることはな。けれども、悲しみを胸に抱き、”いつか”その大切な人に会えることを願い、生きていこうと。


 涼やかな風が吹き抜けた。由真は青空をハッと見上げた。

 その青空に、8月の死者たちの姿が見えた気がした。

 新田野道行、新田野唯、滝正志、鈴木梨緒、多賀准一、深田季実子、笹山之浩、根室ルイ、白鳥学、そして真理恵と隆平の姿が……

 由真はもう一度、瞳を閉じ両手を合わせた。その姿を見た仁郎も黙って手を合わせた。

 真理恵や隆平だけではなく、あの8月に『殺戮者』に命を奪われたすべての者たちへ――「ただ安らかに」と。

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