第3話

 真理恵の元夫・吹石隆平の突然の来訪。

 彼の姿に、ペンションのロビーとそれに続く食堂は水を打ったかのように静まり返った。ただの客である事情を知らない根室ルイや肥後史彰も、このこじんまりとしたペンション内を一変させるような異常な事態が、1人の男の来訪により起こり始めていることを感じ取ったのか、食事の手を止めて様子をうかがっていた。

「真理恵! 迎えに来たんだ、俺と一緒に帰ろう!」

 階上で驚き立ちつくしている真理恵に向かって隆平は叫ぶように言った。

 真理恵は隆平に向かって口を開きかけたが、隣にいた白鳥学が真理恵を背に庇うかのように前へと出た。

「いきなり何なんですか?」

「部外者は引っ込んでろ。大体、あんた誰だ?」

「あなたの元お義父様の部下の白鳥ですよ。確か、あなた方の結婚式にも出席させていただいたんですがね。他のお客様もいらっしゃるので、こんな場所で私情を見せるのは控えてください」

 学は、ムッとした顔で言葉を返した。

 隆平は食堂に目をやり、客の根室ルイや肥後史彰が自分を見ていることが分かると、表情が苦々しくなった。

「真理恵、俺は外で待っている。もう一度だけ、お前と話がしたいんだ」

 隆平はもう一度、学の後ろに隠されたままの真理恵に向かって声を張りあげた。


 隆平が外に出る時に立てた玄関の鈴の音は、やけに大きくロビーに響いた。

 学は険しい顔をしたまま、ポケットから携帯を取り出す。

「まさか、こんなところまで追いかけて来るとはね……すぐに社長に連絡しましょう」

 その学の言葉を聞いた真理恵は、「父に連絡するのは待ってください。私も2人だけで話がしたいんです」と懇願した。

 真理恵の切なげな眼差しに少しうろたえた学は、「分かりました。少しの間だけですよ。2人とも必ず僕から姿の見えるところで話をしてください」と携帯をポケットにしまった。


 真理恵が隆平と話をするため、外に出ようとしたのと同じタイミングで、このペンションに新田野道行と唯の夫妻がチェックインした。彼らはほんの数秒前までこの場に残っていた不穏な空気には全く気付かず、互いに笑顔のまま、フロントの笹山之浩より部屋の鍵を受け取った。

 肩を並べ楽しそうに話をしながらダブルの部屋へと向かう新田野夫妻の後ろ姿に、真理恵が一瞬だけ目をやった。彼女のその瞳の中に、自分が失ったものへの悲しみを思わせる色が浮かんだのに気づいたのは由真だけであった。



 由真は真新しい軍手をはめ、玄関周りの雑草を抜いていた。由真の傍らでは、笹山之浩が使い込んだ軍手で抜いた雑草をヒョイヒョイとビニール袋の中へと放り込んでいた。

 由真の視線は彼女が抜かなければいけない雑草よりも、10数メートル離れたところに停められた隆平のスポーツカーの傍らで、かれこれ20分以上話をしている真理恵と隆平へと固定されているかのようだった。

――義兄さんがやっぱりここまで、やって来た……今は、私を含んだ人目がある……でも、もし義兄さんが隙をついて、姉さんを強引に車に乗せて走り去るなんてことになったら……

 今すぐにでも真理恵に駆け寄って、隆平から彼女を引きはがしたい衝動を由真は必死で抑えていた。由真自身も、自分の手先が冷たくなり、ブルブルと震え続けていることがひどく気持ちが悪かった。

「由真お嬢さん、真理恵お嬢さんの離婚の原因は何だっんですか?」

 之浩が暢気な声で由真に問う。

「さあ、私も詳しいことは……」

 之浩に対して、これ以上は聞かないでという意味を込めて由真は言葉を濁したつもりであったが、之浩はなおも続ける。

「ひょっとして、デーブイかなんかですか?」

――デーブイ? ひょっとして、この人はドメスティックバイオレンスのことを言いたいんだろうか?

 困惑する由真には気づかず、隆平は呟くように言う。

「まあ、あんな体格のいい男に殴られたら、怖いでしょうね。女に暴力を奮うような男は最低ですよ」

「いいえ、違います。女性問題で……」

 由真は之浩に離婚の原因について、ついに口を滑らせてしまった自分を殴りたくなった。

 隆平をかばうつもりはなかったが、隆平が真理恵に手を上げたことは由真が知る限り一度もないはずだった。

「あ、無理無理。女癖悪いのは、これからも治りませんって」

 之浩は草のついた軍手を顔の前でヒラヒラと振った。彼は由真より二回り以上年上ということもあるが、仮にも雇い主の娘である由真に対して、敬語こそは使っているも、まるで近所の子供に話すような感覚で話をしていた。人は良く裏表などはないが、人との適切な距離感を掴み、それに応じた話し方をすることが之浩には難しかった。

 自分の言葉に、由真がこめかみを少しピクリとさせたのにも、彼は気づかず、鼻歌を歌いながら、手元の草をぶちっと引っこ抜いた。


 由真だけでなく、ガラス張りの食堂からは、学も目を光らせ、いらつきながら成り行きをうかがっていた。

 隆平が待っている外で話をしたいという真理恵に「僕は口出しはしません。でも先ほども言いましたけど、必ず僕から姿の見えるところで話してください」と、学はややきつい口調で言った。

――お嬢さんはきちんと俺の見えるところであいつと話をしてくれてはいる。だが、一体、どんな方向に話が進んでいるのやら……

 今は隆平は地面に両手をつかんばかり勢いで何やら懇願し、それに対して真理恵は困惑しながら、時々顔を横に向け、呟くように何かを言っているだけは分かる。

――社長に連絡するのを”少しの間だけ”俺は待ってやってるいるんだ。一刻も早く話を終わらせろ。

 次の瞬間、隆平が真理恵の肩に手をかけた。そして、彼女を強引に腕の中に抱き寄せ、彼女の唇をふさいだのだ。

 学は思わず、ガタンと音を立てて椅子から立ち上がってしまった。

――あの野郎!!

 だが、今の光景を見ていたのは、学だけではなかった。由真も之浩も、テーブルを拭きながら野次馬根性で外をチラチラとチェックしていた季実子も、携帯で求人サイトを見ながらカレーライスのおかわりをしていた史彰もつい見てしまった。

 ルイはいきなり現れた来訪者と、その来訪者の元妻らしき若い女性に少しだけ興味はあったが、男女のことに部外者は首を突っ込まないが彼女の人生で培った決まりであった。そのため、彼女は食事をそうそうに切り上げ、自室へと戻り、たくさんの友人たちに配るお土産にもれがないかを確認している最中であった。

 

 真理恵から自身の唇を離した隆平は、ハッとしてペンションの方を振り返った。さきほどのいけすかない白鳥学、そして、真理恵の妹の由真の視線は、まっすぐに自分たちに注がれていた。隆平は慌てて、真理恵へと視線を戻した。

――今のは完全に由真ちゃんたちに見られちまったな。でも、俺はもう自分の気持ちを抑えられなかったんだ。

 真理恵は潤んだ瞳のまま、隆平を見上げていた。隆平の掌に伝わる真理恵の華奢な肩が震えているのが、彼には分かった。

「すまん」

 隆平はそっと真理恵の肩から、手を離した。

「ごめんなさい……」

 その真理恵の言葉を、自分に対する拒絶だと思い打ちのめされた隆平であったが、続いて真理恵の口から出てきた言葉は意外なものであった。

「……お父さんの説得には時間がかかるわ。もう少しだけ、私を待っていて」

 今度は隆平の瞳が潤み始めてきたのだ。

――真理恵、そうか……俺たちずっと同じ気持ちだったんだな。こんなことになってから、初めてお前がどれだけ、俺にとって大切な存在であったかが分かったよ。俺のこれからの人生はずっとお前だけを……

 隆平はもう一度、視線をペンションの方へと戻した。

 由真は軍手の中の青い草を握りしめたまま立ちつくし、瞬きもせずにじっと自分を見ていた。遠目にも彼女の引き攣った表情からは、驚愕と自分に対する怒りだけが見て取れた。

 八窪由真。真理恵の腹違いの妹。八窪卓蔵の落とし子。そして、やはり彼女も隆平が予測していた通り、このペンションにやって来ていた。彼女は、大学の夏休みの間、少しでも真理恵と一緒にいる時間が欲しかったに違いない。

――由真ちゃん……あの娘の生い立ちから察するに、母親の存在に飢えている分だけ、姉である真理恵に必要以上に依存してしまっているんだろう。真理恵が結婚してからも、頻繁に電話で連絡しあっていたし、案の定、このペンションにも一緒に来ていた。果たして由真ちゃんは誰の味方になってくれるんだろうか? あの頑固な元義父・八窪卓蔵の味方か? それとも、妙に自信有り気なあの白鳥とかいう奴の味方なんだろうか? いや、由真ちゃんなら「私は姉さんの味方です」と答えるだろうな。それなら、ありがたい。あの八窪卓蔵も2人の愛娘に懇願されたら、俺を殺したいほど腸が煮え繰り返っていたとしても折れるしかないだろう。俺と真理恵の復縁を認めざるをえなくなるさ。


 ショックを受けた由真は、真理恵と隆平から目を離すことができなかった。

 子供こそいないものの、夫婦であった真理恵と隆平ががキスやセックスをしているのは、当たり前といえば当たり前のことである。それに、由真自身もすでに男を知っていた。高校3年生の時、予備校で知り合い、現在は埼玉の大学に通う同い年の恋人と、世の恋人がするであろう一通りのことは済ませていた。

 由真は頭ではきちんと理解していた。だが、自分の肉親の「性」に関することをこうも目の当たりにしてしまうと、ましてや聖母のように清らかなイメージを自分が抱いている姉・真理恵のそういった瞬間を見てしまった今は、自分の血肉が得体のしれない生臭さにつつまれていき始めた。

 立ちつくす由真であったが、白鳥学が荒々しい音を立てて玄関から飛び出してきたため、ビクッと跳ね上がってしまった。

「吹石さん! もうお話は済んだでしょう! お帰りください!」

「言われなくても、そうするつもりだ」

 声を張りあげた学と隆平の視線がぶつかり合った。2人の男のその剣幕に、真理恵はただオロオロとするばかりであった。

 由真の傍らで、しゃがみこんだまま、ずっと草を抜き続けていた之浩がボソッと「火花だ……」と呟いた。

 その時だった。

 やや乱暴とも言える運転で、駐車場とへ車が入ってきたのだ。乾いた土煙が舞った。それは、客の大学生たちの乗ってきた車であった。

 その助手席より、転がり出るかのように出てきた桜井朋貴は、口元を押さえながらボロボロと大泣きしていた。運転席からは、駒川汐里が「落ち着いて! 桜井くん」と彼の後を追うかのように出てきた。


 駒川汐里、鈴木梨緒、滝正志、桜井朋貴の4人の大学生は、雑誌でも紹介された町のお洒落な店でランチを取ろうとしていた。ちょうど、彼女たちが席に着いたとき、朋貴の携帯が鳴った。彼の家族からの着信は、彼の愛犬の突然の死を知らせるものであった。

 梨緒と正志はその店に残ってランチを取り、汐里が朋貴をペンションまで送り、荷物をまとめた朋貴を急行列車が走っている駅まで送り、その後に汐里はまた町に戻り梨緒と正志に合流することとなったのだ。

 車の中で汐里と2人だけになった朋貴は、「なんでだよ、まだ死ぬような年じゃないのに」「ずっと家にいいればよかった。あいつの死に目に会えなかった」と嗚咽していた。自分と同い年の二十歳を超えた男性が、こうも大泣きする場面を目の当たりにした汐里は戸惑ってしまったが、桜井朋貴にとって家族である愛犬・シロの存在がどれだけ大きく大切であったのかを感じ、胸がズキンと痛んだ。

 

 ペンションのロビーにて、汐里から一連の事情を聞いた由真たちは、2階の部屋で荷物をまとめている朋貴の到着を待っていた。

 由真は汐里の顔に刻まれている疲労に気づいていた。夜も碌に眠れなかったのだろう。その証明であるかのように、彼女の切れ長の瞳の下にはうっすらとクマが浮かんでいた。

「もし、このままこのお客さんが車を運転して事故でも起こしたら大変なことになるわ」と由真が思わずにはいられないほどであった。

「……お客様、私が桜井様を駅までお送りいたします。お部屋で休まれた方がよいかと……」

「いや、でも、私、彼氏のところに戻らなきゃいけないので……」

 汐里が首を力なくフルフルと横に振った。

 由真は4人の大学生たちがカップル同士でこのペンションに遊びに来たことは予測がついていた。そのカップルとは、あの賑やかな滝正志と鈴木梨緒、そしておとなしめの駒川汐里と先ほどの桜井朋貴の組み合わせであると。

――このお客さんの疲れ切ったような表情には、別の原因があるんだわ。

 けれども、汐里が何かをフッと決心したように自分の手をキュッと握りしめ、由真へと向き直った。女性にしては長身の汐里に、由真は上から見下ろされるようなかたちとなった。

「すいません……やっぱり私、とても疲れていて、申し訳ありませんが桜井くんを送るのペンションの方にお願いしてもいいでしょうか?」

「……ええ、勿論です」

 由真は汐里に頷いた。真理恵が由真に言う。

「私が桜井様をお送りするわ。由真、あなた、免許取ってまだ半年でしょう?」

 その真理恵の言葉を追いかけるかのように隆平が言う。

「いや、俺が送ろう。俺も一応、このペンションの関係者ではあるし、どうやら、俺に一刻も早く出て行ってほしい奴もいるみたいだからな」

 隆平と、彼を真理恵に近づかせまいと牽制していた学の視線が再びぶつかり合った。彼らは同時に、フンと鼻を鳴らした。

 


 こうして――

 20×6年8月4日の夜に、この「ぺんしょん えくぼ」に残るのは、八窪由真、八窪真理恵、白鳥学、多賀准一、深田季実子、笹山之浩、駒川汐里、鈴木梨緒、滝正志、肥後史彰、根室ルイ、そして先ほどチェックインを終えたばかりの新田野道行、新田野唯の13名となったのだ。

 翌日、桜井朋貴は、花につつまれた愛犬シロの亡骸を前に、テレビからの「Y市連続殺人事件」の一報をを聞くこととなる。

 彼の愛犬・シロの死はただの偶然だったかもしれない。だが、朋貴があのままペンションに残っていたら、きっと彼も非常に高い確率で死者となってしまっていただろう。

 シロは、7年前の雨の日に、公園で泥まみれで震えていた自分を拾ってくれ、ずっと大切に世話をしてくれていた飼い主・桜井朋貴を自分の命を投げ打ってまで守ったのかもしれなかった。

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