第2話

 厨房の皿洗いをしていた八窪直久は、「ぼく、玄関の掃除をしてきますね」と、近くにいた近衛仁郎に告げた。仁郎は色白の直久の後ろ姿を見ながら「髪の毛が金髪で瞳が青かったら、ほんとうに絵画の天使みたいな子だよな。俺なんか中学生からグングンでかくなりはじめて、髭や濃いすね毛が生えてきたりしたのに」とぼんやりと思っていた。

 ちょうど直久と入れ違いに戻って来た高藤永吾がキョロキョロと周りを見渡していたが、濡れた布巾を手に客席のテーブルへと向かった。やがて、戻って来たもう1人のホールスタッフの富士野七海が、テーブルを拭いている永吾の姿を見て、慌てたように自分も布巾を掴んだ。その七海の唇の端に茶色いチョコがついているのに仁郎は気づく。

 「富士野さん」と彼女を小声で呼び、仁郎は自分の唇の端をトントンとした。自分が口回りにチョコをつけていることを理解した七海は顔をパッと赤くし、俯きながら「ありがとうございます」と囁くように言った。七海が自分のポケットティッシュで唇をゴシゴシを拭いているのを見た仁郎は、「かわいいなあ」と思い、思わずクスッと外に笑いが出てしまった。

 厨房にいるのは仁郎と、仁郎よりも二回り以上年上のメインシェフの松前不二男だけとなった。長身の仁郎は、ちょうど不二男の薄い頭頂部を見下ろせる距離にいる。普段は寡黙な不二男が仁郎と2人だけになるのを待っていたかのように、口を開いた。

「近衛くんは、店長とは昔からの知り合いなんだってね。店長のお姉さんとは面識あったの?」

 仁郎と同じく、不二男も今日の2人の来客が気になっていたらしい。遺族(殺された八窪真理恵の従弟の八窪直久)がいなくなるのを待って、仁郎に声をかけたのだろう。

「……一応、ありましたね。年が8つも離れていたから、話したことはありませんでしたけど。あいつ(由真)とは家が同じ小学校区内にあったので、あのお姉さんの顔だけは知ってました」

 仁郎はまた小学校高学年だった頃に、由真と高校生の真理恵が一緒に買い物をしていたところを見かけたことがあった。由真は学校では滅多に見せないような顔で真理恵に話しかけていた。その由真の様子と優しく彼女に頷いていた真理恵のその佇まいは、まだ鼻たれの野球少年だった仁郎の目には、映画の1シーンのようにも見え、10年以上昔のことなのにまだ覚えていた。腹違いの姉妹の由真と真理恵の顔は全く似ていなかったが、ああして一緒にいるところを見ると、やっぱり姉妹だなと思わずにはいられなかったことも。

 自分の母親も含む、母親たちのネットワーク内でのやけに話が大きくなったり間違って伝わったりする伝言ゲームは、仁郎の耳にもなぜか入ってきていた。八窪家の姉妹は、本来なら憎しみあってもいいような間柄であるのに、大勢の人の予想に反し、彼女たちの父であるワンマンと名高い会社社長も含めてすこぶる仲が良いとのことであった。

「店長もつらいだろうね。家族が殺されたなんて……一生癒えることのない苦しみだと思うよ……」

「本当にそうですよね……」

 少し宙を見て目を細めた不二男の横顔を見下ろした仁郎も頷いた。もともと、キャピキャピとした明るさはなかった由真であったが、事件後の彼女の表情は6年の時がたとうとする今も、張りつめ固められているかのようであった。

「店長以外の遺族の人たちも、這い上がることのできない地獄にいるようなもんだろうね……殺された男性の遺族が会社を相手取って裁判を起こしていたし……」

 仁郎は今の自分とわずか4才しか変わらない年で殺された白鳥学の遺族が起こした裁判を思い出した。6年前、仁郎は他県でシェフとしての修行中であったため、生前の白鳥学との面識はなかった。だが、ニュース等で流された彼のスーツ姿で綺麗に並んだ白い歯を見せている写真は、今でも思い出せる。顔を隠してテレビのインタビューに答えていた女子社員の「仕事も出来たし、亡くなったなんてみんなとっても悲しんでいます」というその音声も。

 あの日、白鳥学は有給をとっていたものの、なかば社長である八窪卓蔵の命令により、ペンションに泊まることになっていたとのことであった。白鳥学を離婚した娘の次の夫とするお膳立てだったらしいと、下世話な週刊誌等にも書かれていた。裁判は、彼の3回忌(犠牲者全員の3回忌でもあるが)を半年過ぎたころに、和解という形で決着がついたそうだ。会社から、多額の賠償金を彼の遺族に支払うという形で。


 厨房の隅で不二男は煙草に火をつけた。彼が口から吐き出す白い煙を見ながら、仁郎は由真に初めて会った日のことを思い出していた。

 記憶力のそんなに良くない自分がわずか5才かそこらかの記憶を鮮明に覚えているのは不思議ではあったけれども。

 冷たい風が吹いていた冬の始まりの季節に、今となっては顔も名前もはっきりと覚えていない幼稚園の先生が、真新しい幼稚園のスモッグを着た由真を仁郎たちの前に連れてきた。先生に、仁郎たちへの挨拶を促された由真は、無表情のまま、ただ黙って頭を下げた。

 棒のように細い身体、人形のように変わらない表情、仁郎は子供心にも、由真のその様子に自分や他の園児たちとは違う異様な印象を受けた。

 黙って膝を抱えていた仁郎の後ろにいた、2人の女子園児がヒソヒソ話を始め出した。

「あの子でしょ? アイジンの子って。うちのお母さんが言ってたんだ」

「え? 私はメカケの子って聞いたよ」

「何? メカケって?」

「何だろうね」

 それから、何年もたった頃、仁郎は「アイジン」「メカケ」がほぼ同義であることを知った。おそらく、あの女子園児たちもそれを知っただろう。

 最初のうちは遠巻きにされていた由真であったが、周りの園児たちに次第に打ち解けていったようだった。それから、小学校・中学校と仁郎は同じ学校で由真と9年間の時間を共有した。

 由真の姉・真理恵も成績優秀の部類ではあったらしいが、由真はそれに輪をかけて成績優秀であった。成績は1学年240人中、いつもベスト10に入っていたらしい。当時、由真と競い合っているような成績の生徒が「八窪は勉強に対しての勘とセンスがいいんだよな」と言っていたことを思い出した。体は小さいけれども、運動もそれなりに出来るようだった。

 そして、由真は姉と同じ高校へと進み、仁郎が逆立ちしても入ることなどできそうにやない名門大学への現役合格を果たしていた。

 だが事件後、半年も通っていないその大学を中退し、由真はこのY市へと戻って来た。事件から2年後ぐらいの夏の日、偶然に由真の家の前を通りかかった仁郎は、彼女の姿を見た。仁郎の記憶にあるよりも、痩せてさらに小さくなったような由真は、庭の花にホースで水をやっていた。彼女は、宙の一点を見つめているようないないような目のまま、ホースを握りしめており、家の前から自分を見ている仁郎に気づくことはなかった。鮮やかに咲き誇る花の色の美しさが余計に、彼女の悲しみを際立たせていた。

 彼女たちの父・八窪卓蔵の会社はわずかに傾いたが、再起不能となった彼に変わり、素早く親族の者たちが代表取締役と取締役におさまり、今もこうして経営を続けている。仁郎は1人暮らしでシェフの修行をしていたものの、そこでのキャリアアップも望めず、生活が非常に苦しく実家に帰ろうと思っていた時、この「レストラン 笑窪」の開店計画とシェフの募集を知った。あの由真がこのレストランの店長となることを知り、驚いたのは事実だった。

 一緒に働き始めてから分かったことだが、由真はわずか1時間弱の休憩時間に、自分の食事もそこそこに、寝たきりの父が入院する病院へと車を走らせていた。その由真の姿を見ていると、仁郎は由真にも何か事情があるんだと感じてはいた。

 厨房裏にあるスタッフ用駐車場に車が入ってくる音がした。仁郎は厨房の小さな窓を開けて、由真が戻ってきたことを確認した。由真は俯いたまま、こっちに歩いてきていた。戻ってくる途中、コンビニに寄ったのか、彼女の手には白いコンビニ袋が下げられていた。

 その時、仁郎は気づいた。由真の後ろ姿を、十数メートル離れたところで周りの青々とした木々に紛れ、じっと見ている奇妙な男の姿に。

 その奇妙な男は、肩まで伸ばしっぱなしの汚れた黒い髪、この暑いのに長袖の汗が染み込んでいるだろうトレーナーを着ている。男の履いているジーンズも煮しめたような色をしていた。遠目にも、日焼けした肌に精悍な顔立ちをしていることが分かった。

 肉食動物を思わせるその男の瞳は、由真を獲物のように狙っている――仁郎にはそう見えた。

「由真!!」

 突如、厨房の小さな窓から大声で自分の名を呼んだ仁郎に、当の由真はキョトンとしていた。

「何? どうかしたの?」

 足を止めたまま、仁郎に向かって問う由真のその瞳は、涙の名残を残し赤かった。

「近衛くん、どうしたんだ? いきなりそんな大声だして……」

 不二男が煙草を口にくわえたまま、仁郎の隣にやってきた。

「いや、なんか、ホームレスみたいな男が、あいつを……由真を見ていたから、つい……」

 仁郎はもう一度、外に目をやった。だが、あの奇妙な男はすでに姿を消していた。隣の不二男が白い煙を再び口からプハッと吐き出した。

「ああ、もしかして、あのホームレスのこと? 最近、ここらへんでよく見るよ。遠目には年いってそうだけど、多分まだ30代かそこらかだろう。まだ若いってのに、一体どんな理由でああなったんだか……」

 そういった不二男は、灰皿のところまで行き、煙草をギュっと強く揉み消した。



 同じ頃、Y市のとあるマンションにて――

 心地よく冷房が効いた部屋のノートパソコンの前に宵川斗紀夫は座っていた。

 彼はキーボードをカタカタと打ち込み、そして一息つく。前髪をかきあげ、額に手をやったまま考える。

――ここ数年、作品はコンスタントに出版している。それに千郷と千奈津さんにやられた”あの事件”で俺の知名度が上がったためか、皮肉にも本の売れ行きだって伸びた。仕事に関しては、まあ順調といっていいだろう……でも……

 溜息をついた斗紀夫の耳に、彼の溜息の原因である妻・麻琴の笑い声が聞こえてきた。

 現在、この家には、麻琴の弟の妻が2才の子供を連れて、遊びに来ていた。斗紀夫は気弱そうで人付き合いがとても得意には見えないその義弟嫁とは、互いに挨拶を交わしただけで、彼女の相手は麻琴に任せていた。おそらく、義弟嫁もそれを望んでいるだろうから。

 玄関近くにあるトイレに行くために、いつも通り右脚を引きずり部屋を出た斗紀夫にリビングにいる麻琴と義弟嫁の会話が聞こえてきた。

「え、ピアちゃん、卵アレルギーなの?」

「ええ、そうなんです。だから、食事の時にはすごく気を付けているんです」

「……そうなのね。でも、これなら食べられるんじゃない? あの有名な「Ignorant fool」のクッキーなのよ」

「いえ、でも、これにも卵が入ってるんで……」

「少しぐらい平気よぉ、卵まるまるってわけじゃないし。少しずつ体を慣らしていったら、卵アレルギーだってきっと治るわよ」

「……ぃゃ……でも」

「ほおら、ピアちゃん、アーンして……」

 この会話を聞いた斗紀夫は、顔面蒼白となった。

――あんの、馬鹿!!!

 脚を引きずりながらも、リビングにズカズカと入って行った斗紀夫は、麻琴の腕をガッと掴んだ。麻琴が「あん、痛い」と顔をしかめたが、彼は彼女の腕に込める力を緩めなかった。

 義弟嫁の子供・ピアの口に、麻琴の手にあるクッキーは入る前であった。斗紀夫は胸をホッと撫で下ろす。目の前に美味しそうなクッキーを突き出されていたピアは、それを食べられないことには不満そうであったが、そのピアを膝の上に抱いている義弟嫁は涙目になっていた。

 斗紀夫は麻琴の腕を掴んだまま、彼女に向き直った。麻琴はなぜ、斗紀夫がこんなに怒った顔をしているのか分からないといった表情のままであった。

「アレルギーは命にかかわるんだぞ! 無理矢理食べさせようとするなんて、どういうつもりだ!」

「……だって、このお店のクッキーなら高級だし、おかしな卵なんて使ってないと思ったから……」

「俺はそういうことを言ってるんじゃない……」

 斗紀夫はふくれっ面の麻琴の腕から手を離した。

 そして、「そろそろ夫婦で出かける予定があるので」と嘘も方便と、義弟嫁に帰りを促した。

 天の助けとばかりに、荷物をまとめて、ピアを抱き上げ、玄関へと向かう義弟嫁の耳元で、斗紀夫は囁いた。

「子供の命は母親がきちんと守りましょうよ。強くならなきゃ」

 斗紀夫のその言葉にハッと振り向いた義弟嫁は、「あの、ありがとうございました。お義兄さん」と、彼に向かって頭を下げた。

 

――あの気の弱い義弟嫁は、自分の夫の姉である小姑の麻琴に、自分の子供の命に関わるような食べ物を(あの馬鹿の悪意ではなく、無知な馬鹿のために)差し出されても、キッパリと断れることができなかったとは。子供の命を守る立場にいるのに。親戚付き合い、近所付き合い、ママ友付き合いだってあるのに、あのままじゃあの子供の先が思いやられるな……

 斗紀夫は義弟嫁のあおの涙目を思い出す。その斗紀夫の胸を内を推し量ることなく、麻琴が陽気な声を出した。

「ねえ、斗紀夫。やっぱり子供って、可愛いわよね。私たちも早く作らない? 私、早くママになりたいなあ」

 自分を振り返った斗紀夫が無表情のまま、自分を見たため、麻琴はビクリとして後ずさった。

「……もしかして、斗紀夫、まだ怒ってる?」

 斗紀夫は何も答えず、黙っていた。

――何が子供が欲しいだよ。アレルギー持ちの幼児に、アレルギー入りの食べ物を与えようとした奴が良くそんなこと、言えるな。やっぱり、こいつ、頭がどこか故障でもしているんじゃないのか? それか、最初から頭が欠陥品なのかもしれない……

 麻琴は機嫌をとるように、斗紀夫にしなだれかかった。それが斗紀夫をさらに苛立たせることには気づかずに。

「ねえ、私、36才なのよ。私の同級生だって、ほとんどが子供を持ってるのよ」

 斗紀夫は自分の体に触れている麻琴の腕を振りほどきながら、言う。

「……同級生が子持ちだからって、俺たちも子供を作らなきゃいけないのか? 横に並ぶ必要があるのか?」

「違うわ。そんなことを言ってるんじゃないわ。ただ、私と斗紀夫の子供なら、とっても可愛い天使みたいな子が生まれるんだろうなって……」

 慌てて言葉を早めた麻琴を、斗紀夫は手で制して言った。

「子供は作らない。最初からそういう約束で結婚したろう?」

「……そうだけど」

「俺は子供より、小説を作りたいんだ。妻なら俺の生き方を尊重してくれ」


 年甲斐もなく頬を膨らませうなだれた麻琴をリビングに残し、トイレで用を足した後、斗紀夫は再びノートパソコンの前に戻った。

 苛立ちを押さえるために、斗紀夫は両の拳で机を叩いた。

――俺、なんだかあいつと結婚してから、妙に怒りっぽくなってるというか、イライラさせられっぱなしだな。性格がちょっとずつ、変わっていっているというか、あいつのペースに巻き込まれて……

 苦い息を吐いた斗紀夫の脳裏に、麻琴の言葉が蘇る。


「ただ、私と斗紀夫の子供なら、とっても可愛い天使みたいな子が生まれるんだろうなって……」


――アホか。俺もお前も人の親になんか、なっちゃいけない人間なんだよ。不幸な子供を増やすだけだよ。それに、悪魔と悪魔が交わりあって、天使なんか生まれるわけないだろ。俺のこの狂気とお前の狂気が生み出すのは、モンスターしかないだろ。俺は自分で計画を練るのは好きだが、他人(それが家族であっても)の尻拭いをするのは、まっぴらごめんだ。

 斗紀夫はふと考える。今日のあの場に他の女が自分の妻としていたら、どうだったろうかと。

 最初に考えてしまうのは、前の恋人であった相田千郷であった。

――女は他の女と比較されるの嫌がるだろうから、口には出さないけど、つい考えてしまうよな。千郷は子供を命の危険にさらすような真似は絶対にしないだろうな。姉の千奈津さんだってそうだろう。おかしくなってしまう前の千郷は、本当に明るくてしっかりした女だったな。あいつ、俺のことなんて忘れて他の男でも見つけてりゃ、今頃母親になって、育児の真っ最中だったかもしれないのに。

 斗紀夫は思わず、自分の右ひざの傷をズボンごしにさすっていった。

――優美香さん(彼女とは別に付き合っていたわけではなかったけど)だって、子供の命を第一に考えるだろう。考えは浅いところのある人だけど、そういったことは理解しているはずだ。それに……佐保ちゃんだって、子供を守ろうとするだろう。


 斗紀夫の脳裏には、中牧東高校の制服に身を包んだ我妻佐保が鮮明に蘇ってくる。

 あの色白で可憐な我妻佐保も、あれから6年たったのち、今やもう一児の母だ。

――でも、佐保ちゃんの旦那さんってどんな人なんだろうか? 確か10才年上って、優美香さんは言ってたけど……やっぱり、自分と同じ年頃の男は怖かったのかな? それに、旦那さんに話したんだろうか? それとも、一生隠し通すつもりでウェディングドレスに身を包んだんだろうか。18才の誕生日の日、不良少年たちに襲われて処女を奪われたということを。旦那さんが妻を抱く前に、先に妻を合意の上でなく抱いた男が2人もいて、つまりは自分が入るより前に先に妻の中に入った男がいて、そこから愛娘の初音ちゃんが生まれてきた。でも、佐保ちゃん、これからあの初音ちゃんが大きくなってくるにつれて、毎日心配でたまらなくなるだろうな。よりによって、子供が女の子だなんて。初音ちゃんは、優美香さんや佐保ちゃんに似てるから、並の女の子以上に可愛く成長するのは確実だし……


 いろいろと考えていた斗紀夫は、思わず腹の下に右手を伸ばしていた。一方の左手は器用にマウスを動かす。自分のノートパソコンの中に保存している秘密のフォルダから、我妻佐保関連の写真や映像を表示させるために。彼が麻琴にノートパソコンを勝手に触られるのを嫌がるのは、この秘密のコレクションが理由でもあった。

 だが、突如、メールの着信を告げる音に、斗紀夫は柄にもなく飛びあがるほど驚いてしまった。

 その着信メールは斗紀夫にとって重要なものなどではなく、ただの迷惑メールであった。舌打ちして、そのメールをゴミ箱に移した斗紀夫は思う。


――てっきり、「舌無しコウモリ」からのメールかと思ったんだが……明日でちょうどあの「Y市連続殺人事件」から6年。そして、ついに明日「舌無しコウモリ」は俺のサポートのもと、ある計画を実行に移す。6年前と同じく、あの地は血に染まるだろうな。


 斗紀夫の背筋には悪寒ではなく、興奮によるゾクリとした痺れが走った。斗紀夫の心の中は妙に落ち着いていた。まるで死を抗うことなく受け入れいた死刑囚みたいな気分でもあった。嵐が迫りくる。だが、その嵐から逃げることなく、その場にたたずんでいるのだ……今、斗紀夫の心にもその嵐の前の静けさの証明のような風が吹いていた。


 我妻佐保関連のフォルダを探すのをやめた斗紀夫は、「Y市連続殺人事件関連」と書かれた別の隠しフォルダをクリックした。

 ネットや新聞記事から集めた被害者たちの顔写真(一応、全員の)がずらっと並んでいる。そして、自分が6年前のあの夜に撮った、ほんの数分前までは生きていた八窪真理恵の遺体写真も。

 殺害された10名。割合としては男女半々であったが、斗紀夫の狂気を惹きつけたのはやはり女だけであった。斗紀夫は被害女性の1人1人の写真を見ていく。

――鈴木梨緒。可愛いことは可愛いし、これはこれで悪くはないが、いかにも量産型の女子大生のサンプルかよ、と突っ込みたくなる娘だな。そもそも、自分からミスコンに応募したり、人の前に出たがるような女は俺の好みから外れている。

――新田野唯。典型的な美人ではないけど、外見は平均以上の女。でも、彼女もそんなに好みではないな。勝気そうな感じだし。Facebookとか見た限りでは夫とともにアウトドア派のアクティブな生活をしていたようだ。子供がいようがいまいが、そもそも人妻にはそんなにそそられないんだ。

――深田季実子。うん、そうだな。この人は典型的なおばちゃんって感じ。明るくて人柄は良さそうな気はするけど……なんだか、ママさんコーラスやフラダンスで派手な衣装を着てセンターはってそうなおばちゃんというか……

――根室ルイ。一番年上の被害者。若い頃は相当な美人だったんだろう。殺され方もなかなかよかった。だが、60才以上の女に萌える性癖は俺は持ち合わせてやいない。あと、40才くらい若ければな。

――八窪真理恵。この事件で、一番好みの被害者だ。どことなく佐保ちゃんを思わせるような雰囲気の女。だが、佐保ちゃんとは違って、高校生の時からそれなりに恋愛経験は積んでいたって話だし、殺害当時バツイチでもあったけど……俺が撮った彼女のあの遺体写真は、恐怖の中で惨殺されたにも関わらず、目をほんのりと開きまるで微笑んでいるにも見えた。まるで、シャロン・テート(※1969年8月カルト教団に殺されたアメリカの女優)の遺体写真みたいに。


 パソコン画面には、真理恵の最期の姿が映し出される。綺麗な写真がとれたことがうれしくて、あの不良少年の逢坂夏樹にも脅しと自慢の意味合いで送り付けたこの写真……

 茶色い土を背景に目を閉じて横たわっている八窪真理恵。わずかに微笑んでいるようなその彼女の横顔が描くラインは美しかった。だが、白いシャツの背中は真っ赤な血で染まっていた。この写真を撮るほんのわずか数分前は生きていた彼女。『殺戮者』から逃れるために、妹と必死に逃げていた彼女。妹を助けようと、自分の身を顧みず、『殺戮者』に体当たりをくらわせたらしい彼女。

 彼女の異母妹である八窪由真――

 八窪真理恵が春の夜空にほのかに霞む月だとしたら、八窪由真は秋の夜空にさえざえとある月に例えることができるだろう。彼女たちの容姿は、世間的にはまずまず美人の部類に入るに違いないが、斗紀夫は正直言うと、外見は由真よりも見るからに優しそうな真理恵の方が好みであった。切れ長の大きな瞳と引き締まった口元を持つ由真は、気が強そうというか、隙がないというか、人を好んで寄せ付けないような雰囲気を全身から発していた。これは事件前もおそらくそうだったに違いない。

 だが、八窪由真は生きている。目の前で姉を殺されたという、生涯癒えることのない深い傷をあの小柄な肉体に刻み、あの夜からずっと生き続けてきたのだ。その彼女を思うと、斗紀夫の全身を甘美な狂気が包みこんだ。

――さて、俺たちの計画を知ったら、あの八窪由真はどういった反応するだろう。明日、君の苦しみにも1つの決着が着く、とそう知ったら……

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