蓬莱

 王翦おうせんが易水の西で燕軍を破って五年の後、燕は滅びた。天下を統一した秦王は始皇帝と名乗り、中華世界における初めての皇帝となった。


 高漸離こうぜんりは姓名を変え、秦から隠れて人に雇われて暮らしていた。高漸離はしばしば主人の家を訪れた客がちくを打つのを批評したため、試しに主人に筑を打たせてもらったところ、一座の客で涙を流さない者はなかった。やがて高漸離の筑は評判となり、その評判は始皇帝の耳にも入ることとなった。


「ようやく会えたな、雪蘭よ。朕はそなたをずっと探していた」

 玉座から低く谺する声が雪蘭に降りかかった。雪蘭の眼前には高漸離がいた。その目はすでに光を失っている。高漸離が荊軻の親友であることを知り、暗殺を恐れた始皇帝が目を潰させたのだ。


「そなたの羽声うせい荊軻けいかの直伝だそうだな。もしそなたの歌が朕の心を震わすことができたなら、何でもひとつ望みを叶えてやろう」

 傲然と雪蘭を見下ろしながら、始皇帝は薄く笑った。

「私如きの歌が、陛下のお耳を満足させられるとは思えません」

「良いから、一度歌ってみせよ」

 始皇帝は真顔に戻ると、雪蘭に羽声を聴かせるよう促した。雪蘭が高漸離に目を向けると、高漸離は無言でうなづいた。まるで今でもその目には雪蘭の姿が写っているかのようだ。


――風蕭蕭として易水寒し

  壮士ひとたび去ってまた還らず


 高漸離の筑の音が鳴り、雪蘭が筑に和して歌い始めた。かすかに震える伸びやかな歌声が響き、始皇帝はしばし目を閉じて聞き入った。雪蘭の羽声はどこまでも澄み渡り、咸陽宮に高らかに響き渡る。その旋律はかつて易水で燕軍を鼓舞した時とは違い、どこまでも静かに、深く聴く者の心を包み込んでいった。やがて筑の最後の一音が鳴ると、始皇帝はゆっくりとその目を開いた。


「それが、羽声の奥義なのか」

「これが、今の私に聴かせられる全てでございます」

「荊軻のものとは、だいぶ違うようだ」

「羽声には歌う者の心情があらわれます。師と私とでは人格も性質も異なります。その違いが声音に出ているのでしょう」

「そなたは朕が憎くはないのか。そなたは朕を倒すために羽声を使うこともできたはずだ」

「憎い、憎くないという心で動いていては、この世に争いが絶えることはないでしょう。それは、私の望むところではありません」

「憎しみは時に人に強い力を与える。そなたの歌はわが秦への反逆を企む者の旗印となすこともできよう。なぜ、そうしない」

「いま、天下は太平となりました。歌で人を敵味方に分かつことなど、何の意味がありましょうか」

「朕の天下を揺るがす気はない、と申すか」

「天下国家のことなど、もともと私ごときの関わるようなことではありません。私はただ、この歌を聴いてくれる人々のために歌うのみです」

 雪蘭は、淡々と己の胸中を始皇帝に説いて聞かせた。凛としたその声には気負いも衒いも感じられない。

「思えば荊軻を前にした時には、歌声が朕の心に挑みかかるようであった。だがそなたの歌声は、どこか心に染み入る響きがある」

 始皇帝の声音は落ち着いていた。見る者を威圧するその目の光も、少しやわらいでいる。


「と、いうことは……」

「いや、我が心は震えはせぬ。ただ、今はひどく静かだ」

 始皇帝はしばし目を閉じ、何事か考え込んでからふたたび話し始めた。

「そう言えばそなたは、東夷の娘だそうだな。そなたの生まれたところでは、どんな歌が響いているのだ」

「私は物心ついた時には燕におりましたので、蓬莱ほうらいでの記憶はありません。ただ、そこでは皆が互いを慈しみ、争うことなく暮らしているのだと聞いております」

「うむ、蓬莱か。そのような所が東海の彼方にあると聞くが、この中華とはずいぶん違うところのようだ。そこに行けば、そなたのような歌を歌う者に会えるのか」

「私にも、確かなことは何もわかりません。あの地のことは何も覚えていないもので」

「どうすれば蓬莱の地にたどり着けるかは覚えていないか」

「申し訳ありませんが、私がどうやって燕まで連れてこられたのかも記憶がないのです。ただ、咸陽かんよう徐福じょふくという占術師が蓬莱について詳しいと聞き及びます」

「ほう、徐福とな」

 始皇帝は身を乗り出した。どうやら徐福に興味を示した様子だ。

「その者は、蓬莱に行ったことがあるのか」

「おそらく、たどり着いたことはないでしょう。ただ、私の蓬莱についての知識は、全てこの徐福から得たものです。おそらくこの中華で最も蓬莱についてよく知る者でしょう」

「うむ、そうか」

 始皇帝は一度だけ深く頷いた。始皇帝の表情は読み取りにくいが、わずかな喜色が滲んでいるようにも見える。


「とにかく、そなたの歌は悪くなかった。何でも望みを言うが良い」

「では、徐福を陛下のお側に置くようお願い申し上げます。あの者からなら、蓬莱について詳しい知識が得られましょう」

「そのようなことで良いのか。そなた自身には何か望みはないのか」

「私は、歌い続けられればそれで十分でございます」

「そうか、ならば好きにするがよい」

「しかし陛下、この娘は荊軻の……」

 脇から恐る恐る声をかけたのは丞相じょうしょう李斯りしだった。

「構わん。娘一人に何ができるわけでもあるまい」

「しかし、陛下のお命を狙った者の弟子を野放しにしておくなど、秦への不満を煽ることにもなりかねませぬぞ」

「くどいぞ、李斯。これは既に決めたことだ。娘一人の歌で滅びるような国なら、滅べば良い」

 恐懼して押し黙る李斯を横目に、始皇帝は静かに言い渡した。

「どこへでも行くがよい、雪蘭。そなたのいるべき場所は、ここではなかろう」

 始皇帝の声音に、雪蘭は不思議と心が静まり返る思いがした。荊軻を屠った男を前にしても、心が怒りに波立つことはなかった。雪蘭は何も言わず、ただ始皇帝に深く頭をさげた。


 咸陽宮を下がった雪蘭は、そのまままっすぐ咸陽の占術師の店に立ち寄った。

「ねえ、お父さんの言ったとおりにしたけれど、本当にあれで良かったの?」

「これ雪蘭、ここではもう儂達は親子ではない。儂はもう徐福だ」

 王真は唇に人差し指を当て、声を潜めた。王真は燕が滅びたあと徐福と名を変え、ここ咸陽で商売を続けていた。

「ああ、そうだったわね。でも、始皇帝に仕えてどうするつもりなの?蓬莱に興味を持たせるところまでは上手くいったけれど」

「これは、儂なりのけじめよ。あの男を玉座に押し上げてしまった者として、儂なりにやれることをやろうと思ってな」

「まさか、本当に蓬莱に連れて行く気はないでしょうね?」

「蓬莱になど行かせはせん。そもそも蓬莱がどこにあるかなど、誰も知らんのだ。その事は儂に興味を抱かせるために持ち出したまでだ。今後は儂が秦の内側から、皇帝を操ってみせるわ」

 雪蘭は溜息をついた。年を取っても意気軒高なのは良いが、そんな試みが果たしてうまくいくものだろうか。


「何でもいいけれど、あまり無茶だけはしないでよ」

「儂とて、長生きはしたいからな。それは始皇帝も同じだろう。不老長寿の術でも教えれば、あの男も儂を頼りにするだろうて」

「不老長寿……ですか。どうして人は、永遠に生きられないのでしょうね」

「人がいつか死ななければ、この世は人で溢れかえってしまうさ。だが人は自分だけは死なぬと思っていたりするものでな。あの男はそうした思いが、とりわけ強い」

 王真は表情を引き締めると、雪蘭を正面から見据えた。

「で、お前はこれからどうするのだ」

「中華の傷はまだ癒えてはいない。戦で傷ついた人や肉親を亡くした人は数多くいるから、私はしばらく、そういう人達のために歌い続けようと思います」

「お前はどこまで行っても他人の心配ばかりだな。少しは自分のことも考えんか」

「いえ、これは自分のためでもあるの。今は歌っている方が、心が静かになるから」

「まったく、頑固なやつだ。一体誰に似たのだか」

 王真は首のうしろを叩くと、少し寂しそうに笑った。


「……ねえお父さん、なぜ中華では、蓬莱のように皆が争うことなく暮らせないのかしら」

「さあ、どうしてだろうな。あるいは、今のお前みたいな歌が歌える者が少ないからかもしれんな」

 幾多の悲しみを乗り越え、雪蘭の歌が人の心を鎮める力を得たことを、王真はよく知っていた。始皇帝ですら感じ入るその力は、戦乱の世を少しでも安んじようとする雪蘭の願いが具現化したものだったかもしれない。恩讐を超え、敵味方の別なくあまねく歌を聴かせたい、という境地に雪蘭は達していた。

「でも、蓬莱には、きっとこんな歌は存在していないはずよ。争いのない国には、心を鎮める歌も必要ないはずだから」

「うむ、それも道理だな」

「私が蓬莱から来た、という話だって、人づてに聞いたことでしょう?お父さんが私を蓬莱から直接連れてきたわけではないのだし。私が蓬莱の人間なら、今みたいに人の心を安んじる歌を歌うことはできないのかもしれない」

「雪蘭よ、何が言いたい?」

 王真は首を傾げた。今ひとつ雪蘭の言葉の意味を測りかねているようだ。


「……私、最近よく思うの。本当は、蓬莱という場所がどこかにあるわけではないんじゃないか、って」

「なら、蓬莱とは何だ?」

「人が心に思い描く理想郷が、蓬莱。だから、どこか遠くへ蓬莱を目指して旅立っても、きっと永遠にたどり着くことはない。蓬莱を目指すのなら、今生きているこの場所を少しでも良いところにしていかないと」

 王真は目を丸くした。そんな話は初めて聞いた、とでも言いたげな様子だ。

「だから、私は歌い続ける。どこか遠くの未知の場所に思いを馳せるより、それが私のやるべきことだと思うから」

 雪蘭は青く澄み渡る咸陽の空を見上げた。その空はそのまま、はるか遠い燕の空にまでつながっている。この頬を撫でてゆく風は、万里を駆けやがて易水のほとりまで届くだろうか。かつて荊軻の歌声が響いたその地を心の中に思い描くと、あの懐かしい羽声が今にも聴こえてくるような気がした。

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