決意

「ふむ、では秦王は雪蘭を求めていると言われるのか」

 丹は秦の使節を胡散臭そうに見つめながら、急な申し出に首を捻っていた。雪蘭の名が咸陽かんようにまで伝わっていることに丹は驚いたが、あるいはけいに潜む秦の間諜が伝えたものか。

「左様にございます。今大王は殊のほか歌舞音曲にご執心ですが、燕のような遠国の音楽についてはまだご存知ないため、燕の歌に長けた者をご所望なのです」

「しかし、我等のような北方の辺境国の音楽など、大王のお耳に合わないのではないか」

「いえ、だからこそ良いのでございます。大王は趙や鄭の音曲についてはすでに飽いておられます。燕のような遠国の音曲であるからこそ、新鮮に感じられるのでしょう」

「うむ、そういうものか……」

 丹は顎に手を当てて考え込んだ。なぜ雪蘭ごとき市井の娘に秦王が目をつけたのか、そこがわからない。秦王の周りには雅びた歌を歌う趙女ちょうじょがいくらでもいるだろうに、それでもまだ物足りないというのか。

「もし、雪蘭を引き渡して貰えたなら、秦は国境から兵を退きましょう。貴国は長久の平和を手に入れることになるのです」

「今すぐには決められぬ。数日中にお答えしよう」

「良いお返事をお待ちしております」

 使節は丹に一礼すると、王宮を退出した。去ってゆくその背を見つめながら、丹はこの件について鞠武きくぶにどう対応すべきかを問うた。


「良いではございませんか。雪蘭を差し出しましょう。娘の身一つで燕が救えるのなら安いものです」

 鞠武は太子の前に進み出ると、そう進言した。

「しかし、雪蘭を差し出したところで、秦が我が燕を攻めない保証などあろうか」

「では、差し出さなければどうなります。それこそ開戦の口実となりましょう。ただでさえ、我が国は樊於期はんおきという火種を国内に抱えているのです。これ以上秦と事を構えてはなりません」

「樊於期のことは言うな」

 鞠武が事あるごとに樊於期を目の敵にするのが丹は煙たかった。燕の為を思って言っていることとはいえ、自分が進んで匿っている者を悪く言われるのは癪に障る。


「それは如何なものでしょうか。おそらく雪蘭を差し出せば、秦は図に乗ってさらに多くの要求を重ねてくるでしょう。次は金品や兵糧を要求してくるかもしれません。そうして我が国を弱らせた上で、改めて攻め込むのが秦の狙いです」

 荊軻けいかは鞠武の案を遮った。王翦おうせんに策を仕掛け一時足止めできたのは良いが、今度は秦は外交で圧力をかけてきた。秦が雪蘭だけで満足するとは到底考えられない。

「そうとは限りますまい。秦からさらに要求を突きつけられたら、その時に改めて対応策を考えれば良いことです。今は雪蘭を差し出して、当面の安泰を図るべきでしょう」

「貴方は、市井の娘一人に燕を救ってもらおうというのか。何のために魯句践や張廉が軍を鍛えていると思っているのですか」

「そう言えば雪蘭は荊卿の弟子でしたな。貴方こそ私情で雪蘭を庇い、国を誤らせようとしているのではありませんか」

「何を言われる」

 荊軻は鞠武を睨みつけ、固く拳を握った。この男は秦を甘く見すぎている。雪蘭を引き渡したところで秦が軍を退くはずもなく、 嵩にかかって要求を重ねてくるに違いない、と荊軻は読んでいる。


「まあ、待て。我等だけで話していても始まらぬ。ここはひとつ、雪蘭の意志を確かめてみようではないか」

 丹はふたりを宥めるように言った。荊軻は一旦口を閉ざしたが、丹の言い分には納得が行っていなかった。

(たとえ行きたくなかったとしても、雪蘭が殿下の前でそう言えるのか)

 雪蘭の顔が憂いに沈む姿が心に浮かんだ。荊軻は急ぎ王宮を下がると、けいの市場へ向かうことにした。


 市場の人並みをかき分けて歩く内に、遠くから雪蘭の羽声が聞こえてきた。ここのところ、雪蘭の声は以前にも増して伸びやかで艶のある響きとなっている。思わず立ち止まってその声音に聞き惚れていると、側で歌に聞き入っていた男が声をかけてきた。

「いやあ、相変わらず見事なもんだね、あれは。しかしあの歌がもうすぐ聴けなくなっちまうんだから、惜しいもんだ」

「聴けなくなるとは、どういう意味だ」

「おや、あんたは知らないのかい?あの子はもうすぐ秦へ行っちまうんだろ」

心臓の跳ねる男が聞こえた気がした。なぜ、この男がその事を知っているのか。

「誰が、そんなことを言ったのだ」

「誰も何も、あの子から聞いたのさ。さっき歌の合間にそう話してたんだよ」

 荊軻は男の話を最後まで聞かないうちに走り出していた。羽声を追いかけて雪蘭の前にたどり着くと、雪蘭はちょうど一曲歌い終えたところだった。

「あら、どうしたんですか?そんなに急いで」

「どうしたんですか、ではない。なぜ私に黙って燕を去ると決めたのだ」

「……すみません」

「謝れと言っているのではない。訳を聞かせてくれと言っているのだ。ちょっとこっちへ来てくれ」

「あ、ちょっと、何を」

 ざわめく観衆を尻目に、荊軻は雪蘭の手を取って王真の店へと引っ張っていった。


「王真さん、これは一体どういうことなんですか。貴方も知らないわけではないんでしょう」

「いや、それがだな……」

 王真は困り果てたような顔をして俯いた。王真を咎める荊軻を雪蘭はどうにかなだめようとする。

「お父さんを責めないでください。実は昨日、秦の使節が私達のところへ来たんです」

「使節が直接、雪蘭のところに来ただと」

 そんなことが本当にあるものだろうか。公的な使命を帯びた者が、わざわざ雪蘭のような市井の娘に直接会いに来るとは。


「儂も最初は信じられなかったんだがな、あの男が雪蘭の歌を見事だといい、まず百金を儂のところに置いていったのだよ。そして秦に来てくれたら、この十倍の額を与えると言っておってな」

「まさか、金に目が眩んだというのですか」

「そうではない。話は最後まで聞いてくれ」

 王真は慌てて手を振った。

「実は秦王は、羽声の使い手を強く求めているらしいんです。まだ聴いたことのない燕の歌なら心の慰めとなるかもしれない、と思っているんだそうです」

 雪蘭はゆっくりと、諭すように話し始めた。

「私が秦へゆけば、歌で秦王の心を安んじることができるかもしれない、と思うんです。秦王が心穏やかに過ごせれば、戦も止むのではありませんか」

 荊軻はかぶりを降った。本当にそうであったなら、どれだけよいか。しかし秦王はそんな甘い男ではないはずだ。

「雪蘭、秦王が心の慰めなど求めているはずがない。秦王は全国から様々な技の使い手を集め、己の力を誇示したいだけなのだ。お前が秦に行ったところで、秦王の前で見世物にされるだけなのだぞ」

「私は、それでも構いません」

「何を言うのだ。お前が辛い思いをするだけではないか」

「でも、私が行かなければ、戦が始まってしまうんでしょう?」

 胸が塞がれる思いだった。雪蘭は気丈にも笑顔を作っているが、そのか細い肩に燕の命運を背負うつもりでいる。


「何も雪蘭が犠牲になることはない。お前が秦に行ったところで、どの道秦は燕に戦を仕掛けるつもりなのだ」

「それでも、私が行けば一時だけでも戦を止められるはずです。その間に将来のことを考えられるじゃありませんか。私が行かなければ、すぐにでも秦が攻めてくるかもしれません」

「しかし、それでは……」

「これはもう、心に決めたことなんです。心配しなくても大丈夫ですよ。秦だって、行ってみれば意外といいところかもしれませんし」

 歌を教えている間にこういう頑固なところばかりが自分に似てしまったか、と荊軻は思った。王真はしきりに鼻を啜りあげ、その目は真赤に泣きはらしていた。それ以上何も言うことができなくなり、荊軻は無言でその場を後にした。



 秦の使節への返答の期限は、あと数日後に迫っていた。それまでにどうにかして雪蘭を説得しなければと思い、荊軻は朝早くから薊の市場へと向かった。しかし、今日はなぜか雪蘭の姿がどこにも見えない。訝しんだ荊軻は、王真の店に立ち寄ってみた。

「おお、どうしたんだ、荊軻」

「雪蘭はどうしたんです。どこにも姿が見えないようですが」

「あの子なら、もう秦の使節が連れて行ってしまったよ」

「なんですって」

 何かがおかしい。秦の使節にはまだ雪蘭を秦に行かせるとは回答していないはずなのだ。雪蘭に直に使節が会いに来たと王真は言っていたが、その者は本当に秦の使節なのか。

「そんなことはあり得ません。まだ使節には正式に回答はしていないはずです。それに、使節がこの場に直接迎えに来るなど、おかしいではありませんか」

「じゃあ、あの男は一体何者なのだ。貴人らしい格好をしていたが、妙な仮面などを付けておったが……おおい、荊軻、どこへ行く」

 その言葉を最後まで聞かないうちに、荊軻は駆け出していた。


 急いで薊の城門を出て三刻ほど道沿いに西へと馬を走らせると、ようやく前方に四頭建ての馬車がみえてきた。馬車を駆っているのは仮面の男だ。おそらくあの中に雪蘭がいる。何の目的かわからないが、何者かが秦の使節と偽って雪蘭を拐ったのだ。そしてその犯人は、おそらく荊軻が思い描いている人物に違いない。

「その車、止まれ。中を改めさせてもらう」

「一体何の資格があって、そんなことをする」

 四頭の馬を巧みに操る御者は、仮面の下から鋭い声を発した。

「お前がそこにいる限り、怪しむには十分だ、孟宣」

 孟宣は鼻を鳴らすと、手綱を引き締め、その場に馬車を停めた。

「やはり来たか、荊軻」

「やはりとは、どういう意味だ」

「雪蘭のこととなると、お前は必死になる。そして、お前のそのような顔を見られることこそ我が喜びだ」

 孟宣は薄い唇を歪め、低く笑った。

「では、やはり秦の使節と偽って雪蘭を連れ出したのか」

「健気な娘よ。己の身一つで燕を救えると本気で信じている。私はその願いに応えてやっただけだ」

「雪蘭は秦へは行かせぬ。私が止めてみせる」

「当人があれほど秦へ行きたがっているではないか。なぜ止めようとする」

「そうさせているのは秦だ。誰が好き好んで故国を離れるものか」

 荊軻は激昂した。我が身を投げ出して燕を救おうとしてる雪蘭を思うと、秦のやり口がどうしても許せなくなる。


「そんなに秦へゆきたくないのであれば、師弟仲良くこの地に骸を晒すが良い」

 孟宣は下馬すると、剣をゆっくりと鞘から抜いた。

「はじめからそれが目的か」

「秦や燕がどうなろうと、私にはどうでも良いことだ。お前を屠ることさえできれば、それでよい」

「お前などより、雪蘭の方がよほど国士だな」

 荊軻は馬腹を蹴り、孟宣に突進すると、馬上から孟宣に斬りかかった。

 孟宣はわずかに体を躱すと、荊軻の馬の前足の腱を断った。馬は前足を折り、荊軻は地に投げ出されたが、かろうじて受身を取った。

 間髪を入れず、孟宣が頭上から斬りつけてくる。その一撃を弾き返し、荊軻は孟宣の顔に刺突を繰り出したが、孟宣はわずかに首を振ってその一撃をかわした。

「荊軻よ、剣筋が乱れているぞ」

 孟宣が言葉で揺さぶりをかけてくる。だがそれに動じる荊軻ではなかった。荊軻の剣はさらに勢いを増し、孟宣に剣撃の雨を降らせる。孟宣はその全てをかろうじて受け止めるが、次第に荊軻の剣の勢いに押されていった。


「待て、荊軻、降参だ」

 孟宣は突然剣を捨てると、地に跪いた。

「一体何のつもりだ」

「私はお前には到底及ばないことが、よく解った。雪蘭は返そう。私の首も持っていくがよい」

「お前の首など要るものか」

「そう言うな。私は太子を裏切ったのだ。私の首があれば、太子も喜ぼう。さあこの首を討て」

 孟宣はしおらしく頭を垂れ、荊軻に首筋をみせた。荊軻が剣を振り上げ、孟宣を斬ろうとすると、孟宣は咄嗟に顔をあげて荊軻を凝視した。仮面の下の双眸が怪しく光る。

「そのような手に乗るものか」

 しかしその時、荊軻は瞳を閉じていた。荊軻の剣が孟宣の頭上に振り下ろされ、その仮面を真ん中から断ち割った。

「おのれ、またしてもこの顔を……」

 孟宣は額を抑え、怒りに身を震わせた。孟宣の美しい顔は滴り落ちる血に塗れ、一層凄惨な表情となる。

「最後の最後まで見苦しい男だ。今は潔く死ね」

 荊軻は高く剣を振りかぶった。しかし孟宣は素早く懐から石礫を取り出し、荊軻の手首を打った。

「今はまだ死ねぬ」

 荊軻が剣を取り落とした隙を見のがさず、孟宣は剣を拾い上げると急いで駆け、馬車の中から雪欄を引きずり出した。


「さあ、どうだ。これでも私を討てるか」

 孟宣は雪蘭の首筋に剣を当て、荊軻を睨み据えた。

「そのような戦い方、恥とは思わぬのか」

「戦い方などに拘るのがお前の甘さよ」

 孟宣は額から流れ落ちる血を舐め、薄く笑った。荊軻は剣を拾い上げ、少しづつ孟宣に間合いを詰める。

「その剣は捨てよ。さもなくばこの娘の首を掻き切る」

「どの道殺すつもりだろう。そんな脅しに屈すると思うか」

「さて、いつまでそんな強がりを言っていられるかな」

 孟宣は雪蘭の首筋に当てた剣をわずかに動かした。雪のように白い肌にうっすらと血が滲む。

「卑怯者め」

 荊軻は少し躊躇ったあと、剣を地に放った。

「ふふ、それでよい。ではお前は特等席でこの娘の死を見物するがいい」

 孟宣は雪蘭の背を蹴り飛ばすと、そのまま雪蘭に斬りつけようとした。

「雪蘭!」

 荊軻の叫び声と同時に、何かが鋭く空を裂く音が聞こえた。次の瞬間、孟宣の顔が苦痛に歪み、膝から地に崩折れた。その背には一本の矢が突き立っていた。

「荊軻、無事か」

 張廉ちょうれんの声だった。張廉は馬上で弓をつがえ、二の矢を孟宣に放とうとしている。荊軻は剣も拾わず雪蘭に駆け寄った。


「……荊軻さん、ごめんなさい。早く秦に行かなければと思い、つい誘いに乗ってしまいました」

「そんなことはいいのだ。お前さえ無事でいてくれれば」

「でも、師の身を危険に晒してしまいました。これは弟子として許されることじゃありません」

 雪蘭の目が潤んでいた。荊軻は後悔していた。秦舞陽の前では雪蘭を守るなどと啖呵を切ったものの、結局孟宣の魔手は雪蘭に伸びてしまった。

「お前のせいではない。これは私の責任だ。雪蘭の才能を伸ばしたからこそ、秦はお前に目をつけたのだ」

「だとすれば、光栄です。燕の力になれるほど、私の羽声は伸びたということですから」

 雪蘭は気丈にも涙を堪え、必死で笑顔を作ろうとしている。こんな時ですら私情を抑え、荊軻を気遣おうとする雪蘭を見ることが荊軻は辛かった。

「自惚れるな、雪蘭。秦でお前の歌を聴かせるには、まだ早い。お前はどこにも行かせはしない」

 荊軻はそう言うと、雪蘭の震える肩をそっと抱き寄せた。


「荊軻、済まない。取り逃がした」

 張廉は手負いの孟宣を追ったが、孟宣の石礫に何度も体を打たれるうち、孟宣は馬車の馬の一頭を駆って逃げ去ってしまった。

「お前が来てくれて助かった。あの矢がなければ、二人とも死んでいた。だがどうしてここがわかったのだ」

「風、雪蘭の声、伝えた」

 張廉は天上を指さした。一体この男は、どれほど遠くの声を聞き取ることができるというのか。荊軻は改めて、騎馬の民の力に感じ入った。

「さあ、薊へ戻ろう、雪蘭。皆が待っている」

 雪蘭は涙を拭うと、力強くうなづいた。やはり雪蘭は燕にこそふさわしい。その歌声を薊から絶やさぬために己が為すべきことが、荊軻の胸中に像を結びつつあった。



「では、荊卿はどうしても雪蘭を秦へは行かせないと仰るのですな」

 王宮へと戻った荊軻は、ふたたび鞠武の謹直な顔と向かい合っていた。

「雪蘭の歌はまだ未熟です。秦王の耳に入れるわけにはいきません」

「しかし、秦王は雪蘭を求めているのですぞ。秦の要求を断って、一体どうなさるおつもりか」

「私が、秦へ参ります」

 鞠武はさすがに顔色を変えた。丹も荊軻の言葉に驚きを隠せずにいる。

「待ってくれ、荊卿。なぜ貴方が秦へ赴かなくてはならないのか」

「私は、雪蘭の歌の師匠です。私が代わりに行くなら、秦を納得させられましょう」

「今、貴方を失うわけにはいかない。荊卿には今後も燕を導いてもらわなければ」

「私が殿下のお側にいれば、燕は安全なのですか」

 丹は額に皺を寄せて黙り込んだ。荊軻を頼りにしなければ、この太子は何事も決断することができない。

「しかし、歌ごときのために荊卿が秦へゆくことはない。やはり雪蘭を遣わしたほうがいいのではないか」

「いえ、これは私でなければならないのです。雪蘭が行ったところで、歌を聴かせることしかできません」

「では、荊卿は歌を聴かせに行くのではないと言われるのか?」

「私の真の目的は、秦王を討つことです」

 丹は絶句した。端正な顔から血の気が引いていくのがありありと見える。

「秦王が生きている限り、秦の要求は際限なく我が国に降り注ぎましょう。雪蘭を差し出したところで何も変わりません。まずは秦の中枢を揺るがし、それから諸国と協力して秦に当たるのです」

「それはあまりに危険すぎるのではないか」

「尋常な手段では秦の脅威を除くことなどできません。今こそ秦王の懐に飛び込み、禍根を断たなければなりません」

「しかし、雪蘭ならばともかく、荊卿が行っては目的を疑われるのではないか。先日も王翦を罠にかけたばかりであるというのに」

「ならば、秦が求めるものを持参いたしましょう。確実に秦王を仕留めるために、用意していただきたいものがあるのです」

 荊軻は目に強い光をあらわし、丹に胸中の秘策を語りはじめた。



「話は聞いたぜ。まさかあんた、ひとりで行く気じゃないだろうな」

 荊軻の出立の話を聞きつけ、秦舞陽しんぶようが荊軻の宿舎を訪れていた。秦舞陽は剣の腕を買われ丹の親衛隊に勤めていたが、その役割には飽き足らず、早く戦いたがっている様子だった。


「私の計画に他人を巻き込むわけにはいかない」

「何が他人だ。俺も燕の人間だ。俺とあんたが他人同士なものか」

「秦王を討つ密命を受けたのは私だけだ」

「そのことなんだが、殿下が密かにあんたの補佐役を選んでいてな。それで俺に白羽の矢が立ったというわけだ」

 秦舞陽の顔は強い自信に溢れている。死にに行けと言われているようなものなのに、それでこの男は喜んでいるとでもいうのか。

「どうせ貴方の方から願い出たのだろう。命を粗末にするなと前にも言ったではないか」

「そう言えば、命には使いどころがある、ともあんたは言っていたな」


 荊軻は嘆息した。雪蘭といい秦舞陽といい、どうしてこうも自分の周りには頑固な者ばかりいるのか。あるいは自分が周りをそういう人間に変えてしまうのか。


「本当に良いのか。生きては帰れぬぞ」

「雪蘭を寄越せと言い出すような奴を討てるなら、本望さ」

 不敵な笑みをみせる秦舞陽の前で、荊軻はゆっくりとかぶりを振った。

「私と貴方と、二人が雪蘭の前からいなくなってしまっていいのか」

「ならあんたがここに残ればいい。俺はひとりでも秦王を討ちに行くぜ」

「私が行かなければ意味がない。秦王は羽声の使い手を求めているのだ」

「秦王を確実に仕留めるには、一人じゃ危ない。あんたには及ばないが、俺の力だって必要だろう」

「しかし、貴方がいなくなっては、雪蘭が……」

「それはあんただって同じだろうが」

 荊軻は言葉に詰まった。燕を守るためとはいえ、これからしようとしていることが雪蘭を悲しませることであることには変わりがない。


「いいか、田光先生みたいに生きたいと思ってるのはあんただけじゃない。それは俺だって同じだ」

 秦舞陽は少し声の調子を落とすと、言葉を続けた。

「あんたに負けて、俺は思ったのさ。俺は今まで、爺さんの名前が重かった。秦開の血を引いていながら何者にもなれない自分が嫌でたまらなかった。そんな俺にも、ようやく燕の役に立てる機会が巡ってきたんだ」

「私についてこなくても、燕の役には立てるだろう」

「殿下に俺を命知らずの勇士と紹介したのはあんただろう。あの時初めて、俺には生きる目的ができた。誰に剣を向けるべきなのか、それがようやくわかったんだ」

「それで、本当に後悔しないのか」

「秦に行かないほうが後悔するさ。このままなにもできずに燕で手をこまねいているわけにはいかねえんだ」

 秦舞陽の言葉が次第に熱を帯びてきた。どうしても荊軻の説得に応じる気はないようだ。


「……わかった。では貴方には私の副使を務めてもらおう」

 荊軻が静かに言い渡すと、秦舞踊は胸をそびやかし、親指で己を指さした。

「任せといてくれ。足手まといにはならない」

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