易水悲歌

左安倍虎

 燕・趙・魏・秦・斉・韓・楚の七大国が相争う戦国時代は、ようやく終わりを告げようとしていた。西方の大国である秦が、大きくその力を伸ばしてきたからである。秦は商鞅が厳格な法律を施行し、国政改革を行って以来の強国であるが、今まさにこの秦が他の六国を呑み込まんとしていた。時の王は後に始皇帝と呼ばれる男・政である。この男が北東の辺地にある燕に手をかけようとしたところから、この物語は始まる。


 政ほど数奇な人生を歩んだ者は史上稀である。司馬遷が記しているだけでも、政の命を狙った者が三人も存在する。漢代の歴史家である司馬遷の著した史記には刺客列伝が存在し、五人の刺客の事跡が記されているが、その掉尾を飾るのがこれから語る荊軻けいかの伝である。秦王の命を狙った刺客として、荊軻はその名を歴史に残した。


 司馬遷の記述は簡略であり、荊軻の人となりを探る手がかりは少ない。ただ人と争うことを喜ばず、読書を好み、燕の市場でしばしば歌ったという。荊軻が最も得意としていたのが、激情を乗せ高く澄み渡る「羽声」という声である。この羽声に着目したことから、この物語は生まれた。話の筋は時に史実を離れるが、ひとつの異聞として楽しんでいただければ幸いである。

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