荊軻
燕国の都、
「
荊軻の右手の男は薄笑いを浮かべ、少しづつ間合いを詰めてくる。
「
正面の男は吐き捨てるように言うと、荊軻を睨み据えた。
「怖気づいたか、荊軻。田光もなぜこのような男と交誼を結んでいるのやら」
左手の男は一向に得物を抜こうとしない荊軻に苛立ちを隠せない様子だ。三人はいずれも蓋聶の手下であるらしい。蓋聶はかつて荊軻と剣をめぐり論を戦わせたことがあったが、荊軻に言い負かされたことを恨みに思い、わざわざ薊まで手下を送り込んできたらしい。
「お前達など、我が剣を振るうに値しない」
さも当然のことのように荊軻は言い放った。この状況でなお悠然とした態度を崩さない荊軻に男達が怒りを燃やす。
「ならば、そのまま死ね」
正面の男は剣を振り上げた。荊軻は微動だにしない。その剣が振り下ろされれば、そのまま荊軻の身体は二つに断ち割られるはずだった。
だが、剣よりも早く荊軻の唇が動いた。高く澄み渡る声が空気を震わせ、三人の鼓膜を揺さぶった。獣の咆哮とも鬼神の叫び声ともつかぬその声に、荊軻を取り巻く男達は臓腑を掻きむしられるような恐怖を覚えた。
「まさか……これが
真ん中の男が呻くように言うと、三人は同時に剣を取り落とし、膝から地に崩折れた。
「私は戦いは好まぬ。死にたくなくば早々に立ち去れ」
荊軻が静かに言い渡すと、男達は剣をその場に置き忘れたまま、悲鳴を上げて逃げ散ってしまった。
荊軻は剣を拾い集めた。市場で売れば生計の足しにはなるだろう。いい値で売れたら雪蘭に少し多めに報いてやるのもいいかもしれない。そんなことを考えつつ、荊軻は薊の市へと向けて歩き出した。
中華の中では北辺に位置する国とはいえ、燕の都である薊の市はさすがに大勢の人で賑わっていた。多くの商店が軒を連ねる街区を通り抜けると、その先に小さな人の輪のできている一角がある。荊軻が人並みを掻き分け、その輪の中心へと出ると、凛とした声が荊軻に降り注いだ。
「もう、荊軻さん、一体どこに行ってたんですか?」
雪蘭は形の良い眉を吊り上げた。その名の如く雪のように白い肌に赤みが挿す。薊の街を歩けば二人に一人は振り返る美しいこの娘は、少し目を離すとふらりとどこかに行ってしまう荊軻にいつも気を揉んでいる。若くして撃剣の術で名を馳せ、諸国に広くその名を知られる男だと聞いているが、雪蘭の目にはただの気紛れな風来坊としか見えなかった。
「そう言うなって、雪蘭。こいつを縛ることのできる奴なんて、この世にいはしないのさ」
「まあ、高さんがそう言うなら仕方ないですけど」
雪蘭はようやく怒りを収めた。この男が筑を打ってくれるからこそ、雪蘭も存分に歌を歌うことができる。ぴったりと息の合った二人の演奏は、毎日薊の街を沸かせているのだ。
「さて、これは今日の歌の分だ」
荊軻は雪蘭の前に置かれた木箱に銭を投げ入れようとした。
「これは受け取れません。荊軻さんは私の歌なんて聞いていなかったじゃありませんか」
「おや、私が千里離れた鳥の声を聞くことができるのを忘れたのかい?」
「そんな話なんて聞いたこともありません」
雪蘭は呆れたように言うが、荊軻は一向に構わない。
「私にはちゃんと聞こえているよ。心地良い鈴の音を聞くようだった」
「調子のいいことばかり言って。とにかく、お金なら私の歌を聞いてからにしてください」
雪蘭は姿勢を正すと、高漸離に目で合図を送った。
「ようし、ならもう1曲行くとするか。お前さんも今度はちゃんと聞いとけよ」
高漸離は荊軻に白い歯をみせると、座って筑を打ち始めた。
雪蘭が歌い始めると、市を行き交う人々が少しづつ周りに集まってきた。高く澄んだ声に絶妙な間合いで高漸離の筑の音が差し込まれ、歌と筑とが完全な調和をなしている。低音から高音へと自在に行き来する雪蘭の声は伸びやかに響きわたり、気がつくと彼女の周りには黒山の人だかりができていた。高漸離が最後の一音を打ち終えると、辺りは水を打ったように静かになる。須臾の静寂の後、雪蘭は大きな拍手と歓声に包まれた。
「いや、さすがに見事なものだ」
観客に深々と頭を下げる雪蘭に荊軻が声をかけた。
「私の歌、どうでしたか?」
「今日はとりわけ調子が良いようだ。これなら
「本当ですか」
雪蘭は顔をほころばせた。邯鄲とは燕の隣国である趙の都で、華やかな文化が栄え、女は嫋かで美しく秦王の宮廷でも重宝されている。燕を出たことのない雪蘭には憧れの街でもあった。いつの日かこの邯鄲で歌う日が来ることを雪蘭は夢見ている。
「そいつはちょっと聞き捨てならないねえ」
柄の悪そうな男が巨体を揺すって近寄ってきた。右目の上から頬にかけて走る刀傷は、どう見てもまともな生業を持っている者とは見えない。
「お嬢ちゃん、邯鄲ってどんなところか知ってるかい?あんたみたいな山出しの小娘が行っていいようなところじゃないんだよ」
「じゃあ、あなたは知っているんですか」
雪蘭は男を睨み据えた。男は気にする風もなく言い返す。
「ああ、知っているとも。嬢ちゃんみたいな
「調子の外れた歌、ですって?」
雪蘭は眉根を寄せた。そうまで言われては黙っていられない。
「ああそうさ。その程度の歌を人前で聞かせるなんて、師の顔が見てみたいぜ。あんたにも師匠くらいいるんだろ?」
「それは……」
雪蘭は口ごもった。東夷の娘である雪蘭に歌を教えてくれた者などいない。見よう見まねで一人で己の歌を研ぎ澄ませてきたが、それはひとえに天賦の才の為せる業だった。
「まさか、我流か?そりゃあお粗末な歌でも仕方ないか」
男が下卑た笑みを浮かべると、雪蘭は目を伏せた。
「ああ、師匠なら私だ」
突然会話に割り込んできた荊軻に、雪蘭は目を丸くした。
「ちょっと、荊軻さん、何を」
「いいから黙って。君は彼女の歌に不満があるようだが、師匠としては彼女の音程がそれほど外れているとは思えないのだが……」
「なんだお前は?なら俺の耳の方がおかしいってのか」
男は荊軻の胸倉をつかみ、声に凄味を利かせた。
「まあ待ちたまえ。穏やかに行こうじゃないか」
動じる色もなく涼しい顔で言う荊軻に、男はますます怒りを募らせる。
「おい、あまりふざけた真似をすると……」
男は右の拳を振り上げたが、その肘を後ろから掴む者がいた。
「お前、誰に断ってこの街ででかい面をしていやがる」
男が振り返ると、その視線の先に若い男の顔があった。比較的細面の好男子だが、その目は誰もが気圧されるほどの殺気を宿している。
「
雪蘭は思わずその幼馴染の名を呼んだ。薊の街では名の通った侠客であるこの男なら、この場を上手く収めてくれるに違いない。
「東夷の娘と言ったな。邯鄲はどうだか知らんが、この薊で東夷だの西戎だの細かいことは言わせねえ。この秦舞陽の目が黒い内はな」
秦舞陽は男の右手を万力のような握力で締め上げた。
「するとあんたが、十三の時に人を殺したという……」
「そうだ、その秦舞陽だ」
男は震え上がった。さすがにこの街の顔役である秦舞陽の名は知っているらしい。
「いいか、この薊の街で雪蘭の歌にけちを付けるような奴は、二度とお天道様が拝めないと思いな」
秦舞陽はさらに右手に力を込める。男はたまらずに悲鳴を上げた。
「わ、わかった。俺の聞き間違いだった」
「ならとっとと去れ。二度とこの街に現れるんじゃねえぞ」
秦舞陽が腕を離すと、男は巨体に似合わぬ素早さで駆け去っていった。
「おい、大丈夫か、雪蘭」
秦舞陽は心配そうに雪蘭の顔をのぞき込んだ。
「心配いらないわ。東夷と言われるのももう慣れたし」
「お前が許しても、俺にはああいう奴が許せねえんだよ」
秦舞陽は雪蘭の血筋に触れられると、雪蘭以上にむきになる。十三の時に人を殺めたのも、雪蘭を卑しい東夷の子と嘲った男を許せなかったためだ。
「いやあ、おかげで助かったよ。貴方のような頼りになる方がついていてくれれば雪蘭も安心だ」
荊軻は呑気な口調で秦舞踊に声をかけた。
「あんたが頼りにならないからわざわざ俺が出張ってきたんじゃねえか。師匠ならもっとしっかりしてくれなきゃ困るだろうが」
「これは面目ない」
荊軻は頭を掻いた。その仕草に雪蘭が半眼を向ける。
「ああ、言っておくけどこの人は師匠じゃないから」
「じゃああの場を切り抜けようと嘘をついたのか?仕方のねえ奴だな」
「当意即妙の対応と言って欲しいね」
平然と言ってのける荊軻に秦舞踊が怒りを燃やす。
「あんたは火に油を注いでるだけだろうが。ろくに戦えもしないくせに面倒事に口を突っ込むんじゃねえ。これだから素人ってのは……」
「おおい、荊軻、いつまで油を売っとるんだ。早くこっちに来てくれんか」
秦舞陽がその声のした方を振り向くと、枯れた風貌の男が荊軻を手招きしていた。その髪と髭には白いものが混じっている。
「あら、お父さん」
雪蘭が父と呼んだこの男と雪蘭とは血のつながりはない。雪蘭が物心付いた頃にはすでにこの男が雪蘭の養父で、占いで生計を立てつつ雪蘭を我が子同様に育ててくれていた。
「
「お前がいてくれないと儂は商売あがったりだ。今日も一つよろしく頼む」
「あまり面倒事を起こすんじゃねえぞ。俺がいつでも雪蘭に付いていられるわけじゃねえんだからな」
秦舞陽は荊軻にそう念を押すと、ようやくその場を立ち去った。
「お父さん、今日もお客さん来ていないの?」
「有能な客引きがおらんではどうにもならん。荊軻は借りていくぞ」
「この人ならさっさと連れて行って」
「うむ、私がここにいても何の役にも立たなそうだからね」
荊軻はまるで他人事のように言う。こういうところも雪蘭は気に入らない。
「ああ、そうそう。最後のところ、少々喉に力が入っていた。もっと力を抜けば自然に声を震わせられる」
去り際に荊軻は雪蘭の耳元でそうつぶやいた。雪蘭の目が驚愕に見開かれる。
(今日の唯一の心残りを正確に言い当てるなんて)
去ってゆく荊軻の背中を見つめながら、この人は何者なのだろう、と雪蘭は首を傾げた。
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