雪蘭と秦舞陽
「雪蘭、入門を認めるわけにはいかない。帰りなさい」
今日もまた雪蘭が荊軻の宿舎を訪れた。この頃、すでに
荊軻がついに羽声を極めたという噂を聞きつけたのか、雪蘭はここのところ毎日のように荊軻に入門させろと迫ってくる。荊軻は何度も断り続けているのだが、雪蘭は一向に諦めようとしない。
「どうしてなのですか。私はもっと羽声を伸ばしたいのです。私に歌を教えられるのは荊軻さんしかいません」
「雪蘭の技量は今のままでも十分だ。私の指導など必要ない」
「でも、王太子殿下には物足りないと言われました。趙の女には及ばないと。私はこの
荊軻は嘆息した。向上心が強いのは悪いことではないが、今は雪蘭に構っている場合ではない。李牧を失った趙はすでに秦に滅ぼされ、太子からは田光のかわりに私を導いてくれと懇願されているのだ。
「言いにくいことだが、趙の歌など気にしている場合ではない。その趙はもう滅んでしまったのだぞ」
「だからこそです。このような時代にこそ、歌が必要なのではありませんか」
その言葉に荊軻は胸を突かれた。雪蘭はただ己を高めたいのではなく、今この燕に何が必要か、ということを正確に見通している。
「趙では、たくさんの人達が秦王に
秦王は趙の地で生まれたが、趙を平定した後自ら邯鄲へ赴き、かつて生母の実家と敵対関係にあった家の者を捕らえ、全て坑にしている。政の気性の激しさを物語る事実である。
「それなら、今でも十分できていることではないか」
「いいえ、だめです。未熟な歌では、誰の心も救えません」
荊軻は沈黙した。雪蘭の真摯な懇願をこれ以上はねつけるのは忍びない。しかし、あまり自分に近づいてはいずれ孟宣の手が雪蘭に伸びるのではないか、という不安もあった。
「私には、もう時間がないんです。燕が滅びるその日まで、私を待たせるつもりなんですか」
雪蘭の声が震えた。雪蘭のような市井の娘ですら、燕の最後が遠くないとを肌で感じている。雪蘭の背後に、幾万もの薊の民の嘆き悲しむ姿が見えるような気がした。
「私の教えられることなど、ごくわずかしかない。それでも構わないかな」
「もちろんです。どんな厳しい指導でもついてゆきます」
荊軻もようやく雪蘭の懇願に負け、雪蘭を宿舎へと招き入れた。
「ではまず、あの蝋燭を吹き消してみよ」
荊軻の指さした方には、蝋燭の炎が頼りなく揺れていた。その炎は雪蘭から三丈程も離れている。雪蘭は肚に力を込め、鋭い息を発したが、炎はわずかに揺れるばかりだった。
「もっと息を集めろ。私のやり方を見るがいい」
荊軻は大きく息を吸い込み、唇をすぼめた。鋭い音が空を裂き、瞬時に炎をかき消した。
「さあ、もう一度やってみろ」
雪蘭は目を閉じ、もう一度強く息を発した。先回よりも強く炎が揺れた。幾度も懸命に炎を吹き消そうとするが、どうしても雪欄には果たせない。
「もっと顎を引け。あの炎を睨むようにするのだ」
雪蘭は荊軻の言うとおり姿勢を正し、何度も何度も炎に挑んだ。一心に炎と向き合う雪蘭の背中を見つめながら、いつまでもこの時が続いて欲しい、と荊軻は願った。
(雪蘭の歌を、絶やしてはならない)
秦はすでに趙を平定した。そして次はこの燕へと迫り来るはずだ。雪蘭の憂いを晴らし、この燕を救う方策は何かないのか。荊軻はただそれだけを考え続けていた。
心が、乾いていた。
そしてそのことを、実は秦舞陽もよく自覚している。己の小ささがわかっているからこそ自分への苛立ちが募り、その苛立ちは他者への暴力となって吹き荒れる。喧嘩出入りを繰り返し、力で敵を捩じ伏せてみても、心を虚しさが吹き抜けてゆくのを感じずにはいられなかった。
(
秦開とは古の燕の名将である。秦舞陽はこの秦開の血を引いていた。名門の血が己の中に流れていると思えばこそ、まだ何者にもなれない己の非力さに腹が立つ。せめて田光の仇を討って名を挙げたいと願い、秦舞陽はなにか手がかりを知っているらしい荊軻の宿舎を訪れた。
「あんたは、田光先生の死について何か知ってるんだろう」
田光の「孟」という血文字を見た途端に荊軻の顔色が変わったことを秦舞陽は見逃さなかった。田光のことについて荊軻は口を閉ざし続けているが、秦舞陽は荊軻が犯人を知っていると確信していた。
「あの『孟』の字は、一体何だ。あれは誰を指している」
田光を殺害した犯人はまだ捕まっていない。傷跡から考えて撃剣の達人であることは間違いないが、その行方は未だに掴めていない。
「心当たりがないではない。だが確証があるわけでもない」
「ならその心当たりとやらをさっさと教えろ。俺が田光先生の仇を討つ」
「それは、やめておいたほうがいいだろう」
荊軻は諭すように言った。だが秦舞陽は荊軻の言うことなど聞く気にはなれない。
「それはどういう意味だ。俺じゃそいつには敵わないと言いてえのか」
「それ以前の問題だ。あの男は神出鬼没。今どこにいるのかすらわからないのだ」
「せめて、心当たりくらいはねえのか」
「おそらく、もうこの薊にはいない」
「くそっ、逃げ足の速い奴だ」
秦舞陽は悔しさに机を叩いた。この非常時に何もできない自分の無力さに怒りが募る。
「だが、そいつは一体何故、こんなことをした」
「あの男は、誰かにとって大切な人を奪うことを生きがいとしているのだ」
「それで、あんたの親友である田光先生をやったのか」
荊軻は無言でうなづいた。一体その男はどれほどまでに卑劣な男なのか。
「ところで、最近雪蘭を弟子に取ったそうだな」
「弟子というわけではない。時折歌をみてやっているだけだ」
「傍からはそうとしか見えねえだろうが。あんたは自分がどれだけ危険なことをしてるかわかってるのか?」
「危険なこと、とは」
荊軻は静かに訊いた。こういう取り澄ました態度も秦舞陽は気に食わない。
「とぼけるんじゃねえ。あんたはその孟とやらがあんたの大事な人を狙ってきたと言ったじゃねえか。なら今度は雪蘭が命を落とすかもしれねえ」
秦舞陽はまっすぐに荊軻を睨みつけた。しかし荊軻は動じない。
「貴方が言いたいことはわかる。しかし歌を教えて欲しい、というのが雪蘭の切なる希望なのだ。彼女は歌でこの薊の人々を癒し、秦の脅威から救いたいと願っている。私としてもその期待に応えたいのだ」
「そのために雪蘭を危険に晒しても構わねえってのか?」
「むしろ危険であればこそだ。雪蘭が私の元に通ってくれば、その間は私が雪蘭のそばにいられる。それは彼女を守ることにつながる」
「雪蘭を守る、だと?あんたがか」
秦舞陽は鼻を鳴らした。学問はあるようだが、荊軻が戦いでどれほど頼りになるというのか。
「そこまで言うなら、あんたの腕を見せてもらおうか」
「良いだろう」
荊軻は意外にもすぐに快諾した。なにか屁理屈を並べて逃げるのではないかと思っていたが、それならばむしろ好都合だ。この場で荊軻を叩きのめしてやればよい。荊軻に己の弱さを悟らせれば、雪蘭を近寄らせることも諦めるだろう。
「では、はじめよう」
屋外へと出ると、荊軻は剣を抜いた。いかにも自然体だが、その構えには一分の隙も見えない。
(こいつは驚いた)
秦舞陽は荊軻など舐めきっていたが、こうして対峙してみると並々ならぬ圧力を感じる。これは全力で掛からなければいけないらしい。
「来ないのならば、こちらから行くぞ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、荊軻が斬りつけてきた。秦舞陽の眼前を荊軻の剣がかすめ、頭髪が幾本か宙に舞った。
(これは、捷い)
のけぞって荊軻の剣をかわした秦舞陽に、息つく暇も与えず荊軻が迫り来る。秦舞陽はかろうじて荊軻の猛攻を防ぎ続けるが、素早い剣撃に翻弄され、どうしても攻めに転ずることができない。十数合打ちあったが、秦舞陽はひたすら襲い来る荊軻の剣から己を守ることしかできなかった。
「思ったよりもやるじゃねえか」
それは強がりだった。力量の差は決定的だった。だがそれを認めてしまっては、喧嘩商売で鳴らしてきた秦舞陽の矜持が全て崩れ去ってしまうような気がした。
「いいか、雪蘭を守れるのはあんたじゃない。この俺だ」
秦舞陽は肩で大きく息をつきながら、どうにか己を励ました。
「息が乱れているではないか。それでも秦開殿の孫なのか」
「言うな!」
秦舞陽の血が逆流した。この男もまた秦開の名を口にするのか。侠客としても半端者だと自覚すればこそ、不肖の孫と言われることを秦舞陽は許せない。
大きく剣を振りかぶると、秦舞陽は渾身の一撃を荊軻の頭上に振りおろした。次の瞬間、秦舞陽の手に痺れが走った。秦舞陽の剣は宙に弾き飛ばされ、回転して地面へ突き刺さった。
「心に生じた隙を突かれるようでは、誰も守ることなどできはしない」
荊軻は秦舞陽の眼前に剣を突きつけ、静かに言い渡した。
「俺の負けだ。さっさと殺せ」
秦舞陽は膝をつき、拳を地に打ち付けた。涙が滴り落ちた。見下していた荊軻にすら打ち負かされ、この身を地上から消し去ってしまいたい、という思いだった。
「そう命を粗末にするものではない」
「俺が命のやり取りを恐れるような奴だとでも思ってるのか」
「そうではない。命には使いどころがある、と言っているのだ」
荊軻は身をかがめ、秦舞陽と同じ目の高さに降りてきた。
「雪蘭を守りたいという貴方の志は尊い。だが、雪蘭を真に苦しめているのは秦だ。燕の民を救わなければ、雪蘭の憂いも晴れることはない」
秦舞陽は弾かれたように顔をあげた。つまらぬ喧嘩出入りに明け暮れていた己の生に、はじめて一筋の光が差し込んできた気がした。
「燕の民を救うだと」
「そうだ。今はもう私達が燕の中で争っている時ではない。ともに手を携え、秦と戦わなければならないのだ」
「この俺が、秦と……」
秦舞陽は地に刺さった剣を抜くと、鞘に収めた。
「この国には貴方のような勇士が必要だ。私とともに秦を討とうではないか」
荊軻はそっと右手を差し出した。秦舞陽は少しためらったあと、強くその手を握り締めた。
秦舞陽が荊軻の宿から去ると、入れ替わりに丹が入ってきた。丹はここ最近、毎日のように荊軻の元を訪れている。丹からは日々美女を勧められていたが、荊軻はすべて断っていた。
「荊卿、今日は貴方に合わせたい人物がいるのだ」
丹はそう言って脇に侍る痩身の男を見た。男としては整いすぎているほどに美しい男だ。これほどまでに目立つ容姿をしているのに、男の気配は奇妙なまでに薄い。
「李光と申す。お初にお目にかかる」
男は恭しく一礼した。その挙措は洗練されているが、どこか芝居じみているようにもみえる。
「荊軻と申します」
荊軻は軽く頭をさげた。李光の素性を怪しんでいると、丹がおもむろに口を開いた。
「この者は、最近護衛に雇ったのだが、大層腕が立つ。先日も秦の間諜を三人も斬り捨てたばかりだ」
「ほう、それはお見事ですね」
「そればかりではない。忠義にも篤い男だ。昨日などは狩の最中、私に突進してきた猪の前に立ちはだかって守ってくれてな」
「護衛として当然のことを為したまで」
李光の表情は変化に乏しい。どこか感情の欠落しているようなその顔は、美しいながらも鮮烈な印象を残す類のものとは見えなかった。
「李光のような者がもっとこの燕にいてくれれば、私も心強いのだがな」
丹は端正な顔に憂色を浮かべて嘆息した。
「ならば私からも二名、推挙したい者がおります。一人は
「おお、そのような者達がいるのか。荊卿の推す者ならば間違いはあるまい。ではさっそく使いの者を向かわせるとしよう」
丹は顔をほころばせた。これでようやく魯句践に恩が返せると思うと、荊軻は心が晴れ渡ってゆくのを感じた。
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