趙の守護神

「おお、荊卿がやってきたぞ。今日は何を聞かせてくれるやら」

 荊軻けいかが王真が占いの店を出している区画に戻ると、さっそく人々が荊軻の周りに集まりだした。諸国を巡り見聞の広い荊軻は燕では敬意を込めて荊卿と呼ばれている。荊軻は身分の分け隔てなく人付き合いをし、誰にでも惜しむことなく己の知識を披露するため、その話をけいの人々は心待ちにしているのだ。


「さて、今日は何から話そうか。諸君はどんな話をご所望かな?」

「荊卿、貴方は以前、邯鄲かんたんにいたのだろう?平原君の話を聞かせてくれないか」

 荊軻を取り巻く男の一人が、そう希望を述べた。

「おい、平原君の話ならこの間聞いたばかりだろうが。それよりも俺は李牧りぼく将軍の話が聞きたいねえ」

 その隣の男が不平を漏らした。李牧とは趙の大将軍の名である。趙を代表する名将で、かつてこの燕を攻め武遂・方城の二城を抜いたこともある。


「うむ、李牧将軍か」

 荊軻は顎に手を当てると、かつて邯鄲に遊んだ頃の友を思い出した。その男の名は魯句践ろこうせんという。魯句践とは一度双六を巡って口論となったことがあり、荊軻は争うことを避け黙って邯鄲を出たためしばらく会ってはいないが、今は李牧の客となっていると聞く。

 その思い出を一旦脇に置いて、荊軻はおもむろに語り始めた。


「今は大将軍を拝命し趙の柱石となっている李牧殿だが、あの方はかつては趙の北方の守護神として匈奴きょうどと対峙していたのだ。時にわが燕の北辺も脅かすあの匈奴だ。ある時、匈奴の偵察隊が趙に侵入したのだが、李牧殿は数千人を置き去りにして偽って敗走した。勝利に奢った単于ぜんうはかさにかかって攻め寄せる。そこに銅鑼の音が鳴り響き、左右から雲霞のごとく伏兵が湧いて出たのだ」

 荊軻の語り口は巧みで、聞く者の心を捉えて離さない。その名調子に、街行く人々も少しづつ足を止め始めた。


「見事に李牧殿の計略にかかった匈奴はさんざんに打ち破られ、十数万の骸を野に晒すことになった。その後十余年、匈奴は李牧殿を鬼神の如く恐れ国境には近づかなかったという。まさに趙の軍神というべき方であろう」

 身振り手振りを交えて喋り続ける荊軻の話術に、いつの間にか皆が真剣に聞き入っていた。


「で、その李牧殿ってのはどんな顔をしてるんだい?」

 荊軻の真正面に陣取っていた男がそう訊いてきた。荊軻とあらかじめ示し合わせた通りのやり取りが始まった。

「よくぞ訊いてくれた。李牧殿は方面大耳ほうめんたいじ、あれこそまさに英雄の相というべきだ」

「じゃあ、俺の人相はどんなものかね。李牧殿の従者くらいにならばなれそうか」

「さあ、どうであろうな。見たところなかなか福福しい耳をしているから、軍人よりも商売でも始めたほうが良いかもしれない」

「商売か。俺が商売を始めたら、どのくらいの財を築けそうだ?呂不韋りょふいくらいまでならいけるかね」

「それは少々高望みが過ぎるだろう」

 観衆は笑いに包まれた。商人から秦の宰相にまで上り詰めた呂不韋を超える財を築いた者などいない。

「だが、呂不韋の為したことを考えると、人相とは侮れないものだ。もし呂不韋の相を見てあらかじめ彼が位人臣を極めると知っていたなら、使用人となれば富貴に与ることができただろう」

「うむ、その通りだ」

 男は腕組みをすると、何度も深くうなづいた。

「なればこそ、諸君も己の人相を知っておくことが肝要だ。もし己に貴相があるならば喜べば良いし、なくとも貴相を持つ者にあらかじめ近づいておけば、将来良い目を見ることが出来るというものではないか」

 荊軻の巧みな話ぶりに、観衆がざわめき始めた。皆の目に好奇の光が宿っている。

「で、俺はどうだい。俺の顔には貴相があるのかい」

「私は人相には詳しくない。あちらのご老人に見てもらってはいかがかな」

 荊軻は王真を指差した。その指の先で王真がしきりに頷いている。

「じゃあ、ひとつお願いしようかね。俺にもどんな貴相があるかもわからんしな」

そう言うと、男は王真の店へと歩き出した。周囲の男達は顔を見合わせると、その男の後へと続いた。気がつくと荊軻の話を聞いていた者達が王真の店へ列をなしている。


(まあ、こんなものかな。李牧殿の計略に比べるとずいぶんと規模は小さいが)

どうやら今日も客の誘導はうまくいったようだ。荊軻が王真に目を向けると、王真は会心の笑みを浮かべていた。



 それからしばらく観衆の求めに応じて諸国の話を聞かせているうちに陽も落ちたので、荊軻と王真は薊の市を後にし、家路についていた。

「やれやれ、お主のお陰で助かったわい。これで当分食うには困らんぞ」

「稼いだそばから飲んではいけませんよ」

「儂を馬鹿にするな。高漸離とは違うぞ」

 王真は拳を振り上げるふりをすると、荊軻と顔を見合わせて笑った。

「しかし、今日は皆、いつになく真剣に聞き入っていましたね」

「無理もない。李牧殿は趙の守護神。わが燕にとっても唯一の希望よ」


 紀元前260年、趙は長平の戦いで強勢を誇る秦に大敗し、当時の秦将白起は趙の捕虜40万人を穴埋めにした。白起は後にこの戦いでの功績を妬まれて自害に追い込まれたが、死の直前に私は天に対し罪を犯したから死ぬべきなのだ、と言ったという。この勝利で秦の優勢は決定的となり、趙は衰亡の坂を下ることとなる。今を去ること31年前の話である。この趙を一人支え続けたのが李牧である。


 趙は武霊王が騎馬民族の風習を真似、胡服騎射を行って以来の尚武の国である。ゆえに名将も多い。廉頗れんぱ趙奢ちょうしゃなど、名将が綺羅星のごとく趙の歴史を彩っている。李牧もまたその系譜に連なる者であり、大将軍を拝命して以来、何度も秦軍を撃退している。


「趙には何としてでも持ちこたえてもらわなければなりません。趙が秦に飲み込まれたら、次は燕ですよ」

 荊軻の暮らす燕は戦国七雄の中でももっとも弱小な国である。その燕が今日まで生き残っているのは、ただ北東の辺地にあり、西方の大国である秦から最も遠いという立地条件ゆえに過ぎない。燕は長平の戦いで大敗した直後の趙に攻め入ったこともあるが、国力を大きく減じた趙にすら返り討ちにされた。その趙が秦の防波堤となっているからこそ、かろうじて燕は余命をつないでいる。


「うむ、儂が気がかりなのもそこよ」

 王真は渋面を作ると、言葉を続けた。

「確かに今は李牧殿が秦を退けてくれておる。だが、趙には郭開がおるではないか」

「確かに、あの男はよくありません」


 郭開はかつて趙の名将である廉頗と対立していた。当時廉頗は国外に出奔しており、秦軍に苦しめられていた趙王は廉頗を呼び戻そうとしたのだが、郭開は廉頗を散々に中傷させた。廉頗はすでに老いていたため、趙の使者の前で一斗の飯と十斤の肉を食べてみせなお盛んなところを示したが、郭開の息のかかった使者は廉頗は食事の最中に何度も便をもらしたと報告したという。結局、趙王が廉頗を呼び戻すことはなかった。


 そして今、趙王の寵を得て権勢を振るっているのがこの郭開なのである。郭開は趙随一の武功を誇る李牧を邪魔だと思っているに違いない。

「李牧殿の立場は、かつての廉頗殿の立場とよく似ておる。あの男がおかしな気を起こさねば良いのだが」

「郭開が李牧殿に含むところがあったとしても、今秦に対抗できるのは李牧殿だけです。廉頗殿が出奔しても趙には李牧殿がいましたが、今李牧殿を失っては代わりになる人物などいません。郭開もその程度はわきまえているでしょう」

「うむ、儂もそうだと思いたいんだが……」

 王真は言い淀むと、周囲を見渡し、声を潜めた。

「実は先日、天文を見ておったのだが、李牧殿の命数はもうすぐ尽きる」

「なんですって」

 荊軻は驚愕した。李牧がいなくなってはもう趙の命運は尽きたも同然ではないか。


「もちろん、儂の見立てが間違っている可能性はある。むしろそうであって欲しいと思っておるんだが……」

 王真の占術の腕前を荊軻は誰よりよく知っている。王真が戯れにこんな事を言うとも思えない。

(魯句践があぶない)

 荊軻はかつての友のことを思い出した。あの男は真っ直ぐな気性の持ち主だ。もし李牧が理不尽に命を落とすようなことがあれば、どんな危険な行動に出るかわからない。


「王真さん、私は邯鄲に様子を探りに行ってきます」

「やめておけ。今から行ってお主に何ができる」

「邯鄲には私の友がいるのです。今は李牧の客となっていると聞いています」

「なら余計に危ないではないか。お主も君子なら危うきに近寄ろうとするな」

「こんな時に友を見捨てるのが君子なら、私は君子になどなりたくはありません」

 王真は深く溜息をついた。こうなった時の荊軻は、もう誰の言うことも聞こうとしない。

「ならば好きにせい。ただ命を落とすような真似だけはしてくれるなよ。雪蘭が悲しむ」

「おや、雪蘭は私のことなど疎ましく思っているのではないですか」

「これだから士というやつは。天下国家を論じることはできても、女子おなごの気持ちはわからんか」

 荊軻は苦笑した。血の繋がりはなくとも、王真が雪蘭を誰より慈しみ育ててきたことはよく知っている。


「私は士などと言えるような人間ではありません。ただ、ここで友の危機に駆けつけないようでは自分が嫌いになってしまうと思うのですよ」

「うむ、そいつは道理だ」

 王真は何度もうなづいた。どうやら荊軻の熱気に当てられてたらしい。

「こんな時に頼むのもなんだが、邯鄲に着いたら街の様子をよく見てきてくれんか。雪蘭はずっとあの街に憧れておるでな」

「もちろんですよ」

 荊軻は華やかな邯鄲の街に思いを馳せた。あの街に雪蘭の歌声が響く日が来ることを荊軻も待ち望んでいる。しかし趙が秦に併呑されればその夢ももはや叶わない。


「それでは、私はこれで」

 気が付くと、ふたりは王真の家の前までたどり着いていた。荊軻は王真に軽く一礼すると、足早にその場を立ち去った。

「何でもいいから、生きて戻れ」

 王真は去ってゆく荊軻の背中に声をかけた。祈るような気持ちだった。おそらく李牧が助かる見込みはないだろうが、荊軻の友だけでも救い出せれば王真の占術にも意味があったことになる。


「この程度のことで、あの怪物を秦王にしてしまった罪滅しになるとは思わんがな」

 王真は独りそうつぶやくと、空に浮かんだ満月を見上げた。野犬の吠える声が夜の薊の街にこだました。



「だから何度も言っておるではないか、鞠武きくぶ。懐に飛び込んできた窮鳥を見捨てるような真似などできぬと」

 燕の太子・丹の苛立たしげな声が王宮に響きわたった。貴人らしく端正な顔立ちだが、その瞳には憔悴の色が浮かんでいる。高齢の王に代わり、今はこの丹が燕の国政を取り仕切っていた。

「ですが殿下、秦は日々各国を蚕食し、その力を増しているのです。このような時になぜ秦王の逆鱗に触れるようなことをなさるのです。樊於期はんおきなどを留めおいては秦に我が国を攻める口実を与えているようなものです」

 丹の傅(守役)を勤めている鞠武はそう反論した。樊於期とは秦で罪を得、燕に亡命してきた秦の将軍の名である。この男を丹はどうしても手放そうとしない。


「今この国は存亡の危機を迎えております。樊将軍を我が国に匿うなど、飢えた虎の前に肉を投げてやるようなものです」

「ではどうしろと言うのだ」

「樊於期を匈奴の地へ追放しましょう。秦に付け入る隙を与えてはなりません」

「そんな真似などできん。樊将軍はこの燕を頼りにわざわざ来てくれたのだ。どうして夷狄の地などへ追いやることが出来ようか」

 鞠武は深く嘆息した。この太子は確かに仁愛の情をもっている。しかし為政者に求められる大局観はない。ここで樊於期を切り捨てられない甘さは次期国王としては致命的だ。

「樊於期を追放したところで、どの道秦との対決は避けられまい。私は郭隗かくかいにならい、広くこの燕に賢者を集めようと思う。お前は誰か良き人材に心当たりはないか」

 そんな者がいるなら苦労はない、と鞠武は思った。今は楽毅がっきがこの国を訪れた時代とは違うのだ。秦が他の六国を呑み込まんとしている今、誰が好き好んでわざわざこの燕に仕官など求めようか。


「田光先生がおられます」

 鞠武は薊に住む高徳の士の名をあげた。しかし田光は尊敬に値する人物ではあれ、燕を救えるような経綸の才に富んでいるわけではない。すでに燕の人材は払底しているのだ。

「その者は声の道について知っているのか」

「声の道?」

 鞠武は怪訝な表情になった。そんなものは今まで聞いたことがない。

「私も直に聞いたことがあるが、秦王はやまいぬのごとき声で人を畏怖させる。私の見たところ、あれこそが秦を束ねる力の源だ。あの力をどうにかして破れれば勝機も見えるのではないかと思ってな」


 丹は幼い頃趙に人質として赴いていた時、同じく趙の人質となっていた秦王・政と交流を持った。政が帰国し秦王に即位すると丹は秦の人質となったが、秦で冷遇されるようになったため帰国している。それ以来丹はずっと政を恐れ続けているのだが、政の声とはそれほどまでに恐ろしいというのだろうか。

「声の道と関係するかはわかりませぬが、近頃薊では雪蘭という娘の歌が大層評判であると聞いております」

「うむ、娘か」

 丹は顎に手を当てて考え込んだ。そんな市井の娘の力まで借りなければいけないほどにこの国は衰えているというのか。鞠武は足元に目を落とし、この窮地を切り抜ける知恵を持たぬ我が身を恥るしかなかった。

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