邯鄲の闇

 その翌日、荊軻けいかは朝早くけいを出立した。雪蘭に何も声をかけなかったのは心残りだが、邯鄲かんたんへ立つ目的を告げたら雪蘭は荊軻を許さなかっただろう。無事戻ることができたらその時に弁解すればいい。


 夜に日をついで荊軻は趙へと急ぎ、やがて邯鄲へたどり着いた。邯鄲の城門をくぐった頃にはすでに陽が落ちかかっていたため、まず荊軻は宿を求めることにした。薊の数倍は賑やかな雑踏をくぐり抜け宿にたどり着き、寝台へ身を沈めると、旅の疲れからか荊軻はすぐに眠りに落ちた。



 ふと気づくと、荊軻は霧深き山中を歩いていた。ここはどうやら月輪山であるようだ。荊軻の健脚はすでに山道を踏破し、もうすぐ頂上へとたどり着こうとしている。


(香月、無事でいてくれ)


 荊軻は心の中で最愛の女の名を呼んだ。香月とはすでに夫婦となる約束を交わしていたが、彼女との逢瀬は長くは続かなかった。香月は何者かの手によって拐われ、身柄を返して欲しくば月輪山へ来い、と書かれた文が荊軻の家に投げ込まれた。すでに撃剣の名手として名が知れていた荊軻は、己の力を頼み一人で山中に分け行ったのだ。


 山頂へ着くと、どこからか妙なる笛の調べが聞こえてきた。周囲を見渡すと、荊軻は背後の尖った岩の上に立つ痩身の男の姿を認めた。男の顔は上半分が仮面で覆われており、どうにも得体が知れない。


「待ち侘びたぞ、荊軻」

 唇から笛を離すと、男は鋭い声を発した。

「香月はどこにいる」

 荊軻は男に問いただしたが、男は薄く笑い、

「私に勝ったら教えてやろう」

 そう一言つぶやくと、荊軻に向けて高く跳躍した。


 男の鋭い斬撃が荊軻の頭上を見舞ったが、荊軻は難なくその一撃を弾き返した。息つく暇もなく男は荊軻に猛攻を加えるが、男は荊軻の予想を超えた動きをすることはない。間断なく左右から襲い来る刃を全て防ぎきると、男は一旦攻撃の手を止めた。


「流石は音に聞こえた撃剣の名手よ」

 男は息を乱した風もなく、平然と荊軻を睨み据えた。

「もういい加減観念しろ。お前に私を倒すことなどできぬ」

「さて、どうかな。お前は私を殺すことはできても、香月を殺すことはできるだろうか」

 男は唇を歪めた。冷たい汗が荊軻の背中を流れた。どうもこの男には底知れぬ何かを感じる。

「戯言を!」

 心の隅に生じた暗がりを吹き払うように、荊軻は己を励ました。しかし次の一撃で勝負を決めようと荊軻が剣を振り上げた途端、男の両目が仮面の下で妖しく光った。

(これは――幻か?)


 目眩がするような感覚に襲われ、荊軻の目には男の姿が二人に見えていた。どちらかが幻であるはずだが、荊軻の目には男の真贋の区別がつかない。

「一人なら相手に出来ても、二人ならばどうだ」

 男の声が二重に重なって聞こえる。どうやらこの男の幻術は聴覚にまで及ぶらしい。


(焦ってはいけない)

 荊軻は静かに目を閉じた。見ようとするから惑わされる。心の眼を用いれば、本物の気配などすぐに感じ取れるはずだ。

 荊軻の背後から殺気が放たれた。荊軻を仕留めようと忍び寄る気配を感じる。男が剣を振り上げる姿を心の中に描くと、荊軻は振り向きざまに男の胴を薙ぎ払った。


(やったか)

 荊軻がゆっくりと目を開けると、俯せに倒れた男の体の下に血溜りができていた。どうやら全て終わったようだ。

「ふふ、見事だ、荊軻」

 背後から響いた声に驚いて振り向くと、仮面の男が無傷のまま立っている。荊軻は激しく動揺した。


「これは……どういうことなのだ」

「剣のためなら愛する女を手にかけることすら厭わない。それでこそ本物の剣客というべきだ。愛などという下らぬものに縛られていては人は強くなれぬ。お前はひとつ名人への階段をのぼったのだよ」

 荊軻が恐る恐る後ろを振り返ると、そこには鮮血に塗れた香月が倒れていた。


「私の名は孟宣。覚えておくがいい」

 男はそう言い残すと、茂みの中へ姿を消した。震える手で蒼ざめた香月を抱き上げる荊軻の耳に、いつまでも孟宣の哄笑が響いていた。



(……またあの夢か)

 そこでようやく荊軻は悪夢から覚めた。心臓が早鐘のように打っていた。この夢にだけはいつまでも慣れることがない。荊軻は額の汗を拭うと、大きく溜息をついた。取るものも取り敢えず邯鄲まで来てみたが、剣を握れなくなったこの手で何ができるというのか。己に問うてみても答えは見つからない。


 その後はろくに眠ることもできないまま朝を迎えた。両の手で頬を叩き気鬱を振り払うと、荊軻は宿を後にした。


 邯鄲の街は流石に華やかだ。行き交う人の数も、市場の店の品揃えひとつとっても、薊とは比べ物にならない。街を歩く者の衣服も、どこか雅びてみえる。人並みを掻き分け、商売人が賑やかに呼び交す中を歩くと、ふと鮮やかな髪留めが荊軻の目に留まった。


(雪蘭の土産に買っていくか)


 雪蘭に何も告げずに国を出た侘びに渡すのも悪くないだろう。この邯鄲もいつ秦のものになるかわからない。せめてこの街の華やぎを伝えるものだけでも雪蘭にも残してやりたい。そう思いながら荊軻は髪留めを物色した。


「若い娘に喜ばれる品はどれかな」

「おやお兄さん、いい子いるのかい?これなんかはうちのお勧めだよ」

 店主はそう言って目前の髪留めを手渡した。この手の品に疎い荊軻は、店主に勧められるままにその品を買い取った。


「ところで、李牧将軍はご壮健かな」

 荊軻はそれとなく話を向けてみた。まずは現状を把握しなくては動きようがない。しかし店主はかぶりを振るばかりだった。

「あんたは知らないのかい?李牧殿なら先日刑死したばかりだ」


 ――遅かったか。


 やはり王真の目に間違いはなかった。李牧のような男ですら、天の定めた命数には逆らえないというのか。

「しかし、李牧殿にどのような罪が?」

「さあねえ……何でも謀反を企んでいたと言うんだが、まさかあの方がねえ」

「李牧殿のような忠臣が謀反などするものか」

「そんな方だとは思えませんが、あっしら下々の者にはまつりごとはわかりませんや」

「では、無実の罪を着せられたというのか?しかしいったい誰が……」

 その時、荊軻の肩を後ろから叩く者がいた。

「本当のことが知りたければ、教えてやる」

 荊軻が振り向くと、そこに襤褸ぼろをまとった蓬髪ほうはつの男が立っていた。逞しい体躯から伸びる両の腕の太さは、普通の男の倍ほどもある。

「久しいな、荊軻」

変わり果てた姿ではあったが、そこにいたのは確かにかつての友、魯句践ろこうせんだった。



「李牧様を陥れたのは、郭開だ」

 魯句践は荊軻を路地裏へと連れ込むと、絞り出すような声で話し始めた。

「郭開のうしろには秦がいる。秦は郭開に金を与え、李牧が謀反しようとしていると噂を撒いたのだ。趙王はその噂を信じた」

「なんということだ」

 郭開はかつては廉頗れんぱを退け、今度は李牧を排除した。これで趙の名将を二人も除いてしまったことになる。


「だが、なぜこのような真似をするのだ。趙が滅びて困るのは郭開ではないか」

「そのことなんだが、以前俺は郭開の屋敷に忍び込んだことがある。その時に秦が趙を征服した暁には郭開を高官に取り立てると秦の使いが言っていたのを聞いた」

「なんと愚かな」

 荊軻は唇を噛んだ。郭開のような者がまつりごとを取りしきっている趙はもはや滅びたも同然ではないか。


「魯句践、この国にもう未来はない。燕に来るといい」

「そんなことは言われずとも解っている。だが郭開をこのままにはしておけない。俺は李牧様の仇を討たねばならん」

 荊軻も魯句践の腕は知っている。しかし郭開にも大勢の護衛がいるはずだ。魯句践一人で郭開を仕留められるとは思えない。

「やめておけ。危険すぎる」

「士は己を知る者のために死す、というではないか。李牧様はずいぶん俺には良くしてくださった。ここで逃げたら男ではない」

 魯句践は一度決めたら意思を翻すような男ではない。こうなってはもう引き止めても無駄だ。荊軻もまた同じ質なので、魯句践の気持ちがよく解る。


「お前とはもう逢うこともあるまい。さらばだ」

 そう言い残すと、魯句践は荊軻に背を向けた。おそらく今夜、郭開を討ちに行くのだろう。魯句践の復讐は止められなくとも、どうにか死なせずに済む手立てはないものか。荊軻は思案しながら魯句践の後を付けることにした。



 陽が落ちると、魯句践は大きな屋敷の立ち並ぶ区画へと向かった。この辺りに郭開の屋敷があるのだろう。物陰から様子を伺っていると、魯句践は近くの屋敷の前で立ち止まった。怪しんだ衛兵が魯句践を咎める。

「止まれ。何者だ」

「天下の素浪人だ」

 魯句践は左の衛兵を蹴り倒すと、右の衛兵の矛を奪い取り、そのまま屋敷の中へ突入した。


(正面から乗り込むとは。聶政じょうせいを真似たか)


 魯句践は戦国時代の刺客として名を馳せた聶政への憧れをしばしば口にしていた。聶政は仇敵の侠累を討つため彼の屋敷に突入したが、今魯句践も全く同じことをしようとしている。


 荊軻は魯句践を追い屋敷の中へ侵入した。魯句践は次々と衛兵を斬り伏せ、屋敷の中を血で染めてゆく。悲鳴と怒号が夜の邯鄲を揺るがし、魯句践はさらなる死屍を邸内に転がしてゆくが、やはり一人で戦うのには限界がある。魯句践は次第に数に押され、屋敷の庭へと追い詰められていた。


「この狼藉者を討ち取れ」

 護衛を引き連れて出てきた郭開が甲高い声で叫んだ。衛兵はぐるりと魯句践を取り囲み、じりじりと間合いを詰めてくる。

「今はこれまで」

 魯句践は瞳を閉じた。どうやら観念したらしい。だがまだこの男を死なせるわけにはいかない。荊軻は呼吸を整えると、渾身の羽声うせいを発した。


「何者だ。新手の刺客か」

 荊軻の高く澄んだ声が屋敷の中に響き渡り、郭開の狼狽の声がかき消された。羽声の旋律が衛兵の心を掻き乱し、皆次々と得物を取り落としてゆく。

「荊軻、なぜここへ来た」

 魯句践はさすがにまだその手に剣を握っていたが、膝頭は小刻みに震えている。荊軻は屋敷の外を指さした。早くこの男を逃がさなければいけない。

「いや、まだだ。郭開を討つまでは……」

その時、荊軻の声に唱和するように、どこからか笛の音が響き渡った。


「これはこれは、珍しい客のお出ましだ」

 背後から響いた声に振り向くと、塀の上に痩身の男が立っていた。夜の闇から染み出たような男の顔は、上半分が仮面で覆われている。

「お前は……孟宣!」

 荊軻はかつて最愛の女を奪ったその男を睨みつけ、腰の剣に手をかけた。

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