秦王の剣
「遠路はるばるご苦労であった。そなたが荊軻殿か」
蒙嘉は肥満した体を引きずって荊軻の前に出てきた。その視線は品定めするように荊軻のうえを上下し、荊軻の持参した金品の前で止まった。
「こちらは、中庶子様への贈り物です。どうぞお納めください」
「良い心がけだ。何か望みはあるか。そなたの願い、何なりと申してみよ」
「実は私、
「おお、ようやくあの逆臣が討たれたか。良きことだ。大王もさぞお喜びになるであろう」
蒙嘉は唇を舐めると、満面の笑みをみせた。不快感が荊軻の喉をせり上がってきた。この男に樊於期の死に様を見せてやりたい、と荊軻は思った。
「大王へは私からそなたらを直々に引見するよう申し上げておこう。これは滅多にない機会だぞ。あまり緊張で身を固くして、失言などせぬように気をつけられよ」
「恐れながら、中庶子様は大王の前では緊張されることがあるのですか」
「そうだな、あのお声を聴いているだけで、私などは身のすくむ思いだ」
蒙嘉は首をすくめ、肥え太った身体を震わせた。やはり、秦王はその声の力で家臣を従えているというのか。
「それほどまでに恐ろしき方なのですか」
「恐ろしい、というよりも、大王は何か我等とは根本的に異なる存在であるように感じるのだ。生まれながらの帝王の威厳とはああいうものだ、としか言えぬな」
「そのような方にお目通りが叶うこと、身に余る光栄と存じます」
「一応言っておくが、秦の法律では大王の前では身に寸鉄も帯びてはならぬと決まっておる。もちろん、そなたらにはそんなものは必要ないであろうがな」
そのことはすでに知っている。だからこそ、荊軻は督亢の地図を用意してきたのだ。
「私は、大王に燕の赤心を見せに参ったのです。なぜ武器など必要ありましょうか」
「ならばよい。こちらで咸陽の最上級の宿を用意しておいたから、ゆるりと休まれよ」
蒙嘉は明らかに上機嫌だった。その原因が樊於期の首であったことに心中唾を吐きつつ、荊軻は慇懃に頭をさげた。
「あんたは、あの男の話をどう思う」
咸陽の宿へと向かう途上、秦舞陽がそう訊いてきた。
「どう思う、とは」
「秦王の声のことだ。俺には声の道とやらのことはよくは解らねえ。だが、臣下ですら恐れる秦王の力は尋常じゃなさそうだな」
「まさか、怖気づいたのではあるまいな」
「馬鹿を言うな。俺は相手が強ければ強いほど奮い立つ方さ」
かつて秦舞陽と戦った時、自分に敵わないと悟ってもなおこの男が立ち向かってきたことを荊軻は思い出した。
「臣下ですらというより、むしろ臣下だからこそ、というべきだろう。秦王の決定ひとつでいつ誅せられるかわからぬ立場だからな。だがそんなことは私達には関係のないことだ。何も恐れることはない」
「相変わらず、平気な顔をして言ってくれるな。あんたの心の中には、恐怖ってもんがないのか?」
「そんなものは、薊の街に置き忘れてきた」
「へえ、あんたでも冗談を言うことがあるのか」
「冗談など言うものか。ここまで来れば、もう雪蘭に心配をかけるなと怒られることもないではないか」
「そいつは違いねえ」
秦舞陽は快活な笑みをみせた。この男が存分に笑うところを、荊軻は初めて見たような気がした。
数日の後、荊軻と秦舞陽は秦王に謁見することを許された。荊軻は樊於期の首の入った函を持ち、秦舞陽は督亢の地図の入った函を持って後からついてきた。
宮殿の階段を登るたびに、空気が徐々に重苦しくなるのを荊軻は感じていた。こちらの緊張からではない。明らかに秦王から放たれる殺気が、荊軻の全身に絡みついていた。
(何なのだ、これは)
今まで幾多の剣客と渡り合ってきた荊軻だったが、ここまでこちらを圧迫する気など感じたことがない。階段を登る一歩一歩が、鉛のように重く感じる。足を引きずるようにしてどうにか秦王に近づこうとすると、居並ぶ群臣がざわめき始めた。後ろを振り返ると、秦舞陽が全身を震わせ、その場から動けずにいる。
「どうしたのだ、その者は。震えておるではないか」
階上から秦王の声が響いた。荊軻の心の奥がざわめいた。耳ではなく、肺腑に直接声が届いているようだ。
「この者は、北方の蛮夷の者ゆえ、大王の威厳に打たれて震えているのでございます」
荊軻は搾り出すようにして、ようやく言葉を発した。秦王の前に立っているだけで、どうにもならないほどの息苦しさを感じる。
「何を恐れることがある。そなたらは余が求めるものを持って来たのであろう」
荊軻は秦舞陽のところまで戻ると、地図の入っている函を取り上げ、秦王の前に進み出た。
「これが、督亢の地図にございます」
「ふむ、見せてみよ」
地図に気を取られているためか、秦王から放たれる異様なほどの殺気は、ようやく薄らいでいた。秦王は荊軻から地図を受け取ると、巻かれた地図をゆっくりと開いていった。
(――好機)
秦王の目はずっと地図の上に注がれている。やがて地図が完全に開くと、その中から匕首が現れた。それは徐堅の作った品だった。
「秦王、覚悟!」
荊軻は秦王の袖を握り、渾身の力を込めて匕首で秦王を突いた。しかし秦王はわずかに身を捻り、その一撃をかわすと、恐るべき握力で匕首を持つ手首を握り締めた。
「お前のような者を待っていたのだ、荊軻」
秦王は荊軻の手を締め上げながら、明らかな喜色をその顔に浮かべていた。
「誰もが余を恐れ、敬い、従おうとする。あの群臣どもを見よ。皆が余の顔色を伺い、ただひれ伏すばかりだ。だが荊軻、お前は違う」
「そのような国を作ったのは貴様ではないか。今更何を言っている」
「そうかもしれぬ。だが、嚢中の錐となる者が一人くらいいてもいいではないか」
「戯言を……」
喋りながらなお荊軻の腕を締め付ける秦王の握力に、荊軻はついに匕首を取り落としてしまった。
「その剣と余の剣とでは勝負にならぬ。さあ、これを取れ」
秦王は荊軻に長剣を鞘ごと放ってきた。荊軻はそれを受け取ると、訝しげに秦王を睨みつける。
「どういうつもりなのだ」
「匕首しか持たぬ刺客を葬っても面白くない。同じ得物で勝負しようではないか」
「大王、なりません。どうかすぐに荊軻をお斬り下さい」
階下から臣下の声が響いた。しかし、秦王は荊軻が剣を抜くのを待った。
「我が太阿の剣は、得物を持たぬ者を斬るためにあるのではない」
秦王は臣下を一喝すると、ゆっくりと剣を鞘から抜いた。
「さあ、来い。余を斬ることができたなら、あの座をお前に与えても良いぞ」
「王の座など欲しいものか。そこに座ったところで、いつ私のような者が現れるかもわからぬ」
「ふふ、道理だ」
秦王の不敵な笑みを跳ね返すように、荊軻はその顔へと切先を向けた。
秦王の構えには一分の隙も見えない。わざわざ同じ得物で勝負しようと言い出すくらいだから、腕には相当覚えがあるに違いない。
(やはり、羽声しかない)
荊軻は息を整えると、羽声を放つべく喉を震わせた。高く澄み渡る声が響き、階下で群臣が次々と倒れる音が聞こえる。しかし秦王は剣を構えたまま微動だにしない。
「心地よい歌だ。秦のものとも趙のものとも違う」
秦王はそんな批評めいたことを言った。並みの者なら立っていられぬ程の恐怖に囚われるはずの羽声を聞きながら、秦王は涼しい顔をしている。
「お前の歌は独特の哀調を帯びているな。少し狄人の風もある」
荊軻は秦王の言葉を聞き流しながら、さらに羽声の音量をあげた。
「――だが今この場で、全ての音は絶える」
突如、秦王の声が低くなった。荊軻の背筋を恐怖が駆けのぼり、羽声はその響きを止めた。その瞬間を見逃さず、秦王は一気に踏み込んできた。
強烈な刺突が荊軻の眼前に繰り出され、荊軻はどうにかその一撃をかわしたが、頬にわずかな傷が残った。秦王はさらに矢継ぎ早に左右から素早い斬撃を繰り出し、荊軻に剣撃の雨を降らせた。
「どうした、荊軻。その程度か」
秦王の低く谺する声は荊軻の心臓を握りつぶすように不気味に響く。剣撃の隙から降りかかる声音が、確実に荊軻の剣の勢いを削いでいた。荊軻は次第に秦王の剣に押され、三十合ばかり打ち合った後、ついに秦王に剣を弾き飛ばされた。
「お前なら、もっと余を楽しませてくれると思ったのだがな」
秦王は荊軻の剣を足元に踏みしだくと、太阿の剣の切先を荊軻に突きつけた。
「余は、今までどんな音楽にも心震えたことがない。羽声の奥義を極めたというお前ですら、余をどうすることもできない」
秦王の身体から急に殺気が消えた。
「余は
「だから、何だというのだ」
「余が長じるにつれ、皆が余を人の心を持たぬ怪物と噂した。
傲然と荊軻を見下ろす秦王の顔に、わずかな憂色が浮かんだ。
「どれだけ多くの国を得ようと、財貨を山と積み上げようと、余の心は満たされぬのだ。お前ならばあるいは、この乾きを満たしてくれるかと思っていた。だが無駄だったようだ」
「勝手なことばかり言うな。国も民も、お前のためにあるのではない」
「燕の者ならば知っていよう。燕より東方には、まだ余が知らぬ国があるのではないか。
秦王の声音が低く沈んでいた。その声にはどこか、荊軻に懇願するような響きすらあった。
「この大地をすべて我が手に収めたとしても、余の心を震わす者一人すら現れないのなら、生とはなんと虚しきものか」
「何を見聞きしても、貴様のような者がこの世の豊穣を感じ取れるわけがない。歌は心で聴くのだ。人を人とも思わぬ者がどんな歌を聴いたところで、心が動くはずがない」
「心、か。荊軻よ、心とは何であろうな。歌舞音曲が人の心に喜怒哀楽を生ぜしめるものであるとするなら、余には心がないのかもしれぬ。なればこそ、余は我が心を波立たせる力のある者をずっと求めてきた」
秦王の声音は、いつの間にかひどく静かになっていた。
「商君や韓非の唱えた、法が網の目のごとく張り巡らされる世が余の理想だ。余の号令一つで民が一糸乱れぬ働きをし、軍は秩序正しく行軍する、そのような世界にこそ余は安寧を覚える。そしてそのような世を作るべく、余は力を尽くしてきたのだ」
秦王は剣を構えたまま、言葉を続ける。
「だが、それだけではどこかこの世は退屈だ。心に虚しい風が吹き渡るのを止めることができぬ。この渇きを癒してくれる者は、どこかにいないのか」
「ならば、聴くがよい」
荊軻は目を怒らせ、再び激しく喉を震わせた。先程に倍する声量が咸陽宮を揺るがし、王宮の柱が震え始めた。
「これが、羽声の奥義なのか」
荊軻はその問には答えず、そのまま羽声を放ち続ける。秦王は剣を構えたまま、じりじりと後ろへ下がった。
荊軻は秦王が羽声に気圧されている隙を突いて秦王の足元から剣を拾い、秦王に斬りつけた。秦王は太阿の剣でその一撃を受け止め、二人は鍔迫り合いの格好となる。
「ふふ、良いぞ、荊軻。それでこそ刺客だ」
(この上なお、減らず口を叩く余裕があるのか)
荊軻は渾身の力を込めて剣を押すが、秦王はなお一層の力を込めて押し返してくる。すでに羽声の奥義も用い、荊軻の体力は限界に達しようとしていた。剣圧に耐えられなくなった両者は一旦体を離し、再び距離を置いてにらみ合った。
その時、荊軻は視界の隅に動く影を認めた。秦舞陽だった。秦舞陽は荊軻の落とした匕首を拾い上げると、秦王に向かって投げつけた。匕首は真っ直ぐに飛び、秦王の右肩に突き立った。
「そうか、鼠が一匹いたのを忘れておった」
秦王は苦痛の色も見せず、平然と肩に刺さった匕首を引き抜き、数歩後ずさった。
「この者は、お前とどのような関係にあるのだ、荊軻」
「答える必要はない」
「雪蘭とやらは、お前とこの男と、どちらを失えばより悲しむ」
「くだらぬ問いだな。人の命に軽重をつけるとは貴様らしい」
「羽声とは、心の昂ぶりでその秘奥に達することができるというではないか。お前には無理でも、雪蘭の歌ならば、あるいは余の心を震わすことができるかもしれぬ。お前達いずれかの死をもって雪蘭を目覚めさせることができたなら、もう一人の命は助けてやろう」
秦王は匕首を手に取り、荊軻に問いを突きつけた。
「貴様のことだ、どうせ二人とも殺すつもりだろう」
「荊軻よ、なぜそう決めつける。雪蘭を目覚めさせることができない者は死にすら値しない。余を討つことに失敗した者として、のうのうと生き恥をさらせば良い」
「そうやって人の命を道具としか考えないから、貴様は人の心がないと言われるのだ。雪蘭とて、貴様に歌を聴かせるために生きてきたのではない」
「さっきから何を無駄口を叩いていやがる。殺すならさっさと俺を殺せ」
秦舞陽の怒鳴り声が聞こえた。荊軻が秦舞陽に目を向けると、秦舞陽は荊軻に目配せをした。注意を引きつけている間に秦王を討て、ということらしい。
「お前は、雪蘭の何なのだ」
「俺はあいつの恋人だ」
「荊軻よ、あの者の申すことは本当か。それならばあの者には死んでもらうが」
荊軻はその問いには答えなかった。もはや荊軻の身体は披露の極に達し、すでに剣を握る力すら失われつつある。秦舞陽の意図する通りの動きはできそうにない。
「その男は嘘を言っている。斬るなら私を斬れ」
「お前ならば、そう言うと思った」
秦王は左手を振り上げ、匕首を投げつけた。匕首は狙い過たず、荊軻の胸に突き刺さった。秦王は荊軻に駆け寄り、剣を高く振りかぶった。
(狙い通りだ)
荊軻は最後の力を振り絞り、胸から匕首を引き抜くと、秦王の懐に飛び込もうとした。しかし秦王が肩に受けた傷のためか、秦王の接近が予想より一瞬遅れ、匕首が秦王に届く前に荊軻は体をかわされた。荊軻の脇に回り込んだ秦王は、そのまま太阿の剣で荊軻の胴を横薙ぎに払った。おびただしく流れ出る血が咸陽宮の床を濡らし、荊軻は地へと崩折れた。
「――惜しかったな、荊軻」
秦王はわずかに声を震わせ、鮮血に塗れる荊軻を見下ろしながら剣を鞘に収めた。
「荊軻よ、これで雪蘭は目覚めるか」
「目覚めたとしても、雪蘭がその力を貴様のために使うことは有り得ぬ。私が死ぬことで、秦はより一層の苦杯を舐めることになるだろう」
荊軻は秦王を見上げながら、息も絶え絶えにようやく言葉を紡ぎ出した。
「余を討てなかった声の道ごときに、いまさら何ができる」
「貴様にはわかるまい。人が人の心を動かすとき、どれほどのことができるのかを」
「己の命を的にしてまでも、救うほどの価値が燕にあるというのか」
「貴様のような者には、永遠にわからぬ行為だろうがな」
搾り出すように荊軻が言うと、秦王はその言葉に耐え兼ねたように目を背けた。
(済まない、雪蘭。あとは頼んだ)
床に倒れ伏したまま耳を澄ますと、遥かに燕の空から、雪蘭の羽声が聞こえてくるような気がした。激痛の中で荒い息を吐くたびに、その歌声は少しづつかすかに、か細くなってゆく。薄れゆく意識の中で最後に雪蘭の名を呼ぶと、荊軻はゆっくりと瞳を閉じた。
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