帰国

「お前にその剣を抜くことができるのか?」

 孟宣もうせんは嘲るように言った。腰の剣にかけた荊軻けいかの手は震えている。荊軻は大きく息を吸い込み、羽声うせいを放とうと腹に力を込めた。

「声の道か。なかなかに興味深い。だが所詮は余興に過ぎぬ」

 孟宣は塀から飛び降りると、袈裟懸けに斬りつけてきた。荊軻は素早く後ろに飛びすさるが、孟宣の剣撃は休む暇を与えず荊軻に襲いかかる。


「まだあの女にとらわれているのか。つまらぬ男よ」

 孟宣は幾度か刺突を繰り出したが、荊軻は紙一重でその剣をかわす。剣は抜けなくとも体術はまだ衰えていない。孟宣から逃げ回るうち、気力を取り戻した魯句践ろこうせんが孟宣の背後に迫っていた。

「貰った」

 魯句践の野太い声が響き、孟宣の身体を頭から断ち割ったかにみえた。しかし魯句践の剣は空を切り、その下には切り裂かれた孟宣の衣服が横たわっているだけだった。


「魯句践、こんなところで何をしている。私の護衛はどうした」

 突如、魯句践の背後から威厳に満ちた声が響いた。その声の方を振り向くと、魯句践の視線は釘付けになった。

「李牧様、生きておられたのですか」

 魯句践が李牧と呼んだその男は、方面大耳ほうめんたいじの相を持ち、確かに李牧その人であるようにみえる。だがそれはまやかしだ。

「惑わされるな、魯句践。それは幻だ!」

 荊軻は三年前の月輪山での戦いを思い起こしていた。相対する者の心の隙に付け入るのが孟宣の幻術だ。孟宣は魯句践が最も気にかけている者が李牧であると知り、魯句践を罠にかけたに違いない。


「李牧様、お会いしとうございました」

 魯句践の頬を涙が下り、魯句践は呆けたように李牧の幻影に歩み寄った。

「行ってはならぬ」

 このまま行かせては魯句践は斬られる。荊軻は脱兎のごとく駆け、魯句践に体当たりを食らわせた。荊軻は魯句践とともに地面に転がる。

「小賢しい真似を」

 李牧の顔が割れ、その下から孟宣の仮面が現れた。孟宣は体勢を崩した荊軻の背中に斬りつけた。灼けつくような痛みが走り、荊軻は苦痛の声を漏らした。


「もう少し楽しませてくれると思ったのだが」

 孟宣は片頬を釣り上げて笑うと、大きく剣を振りかぶった。だが荊軻の背後から飛来した石礫が孟宣の手首を打った。思わぬ一撃に孟宣は剣を取り落とす。そして二つ目の石礫は孟宣の仮面に命中した。

「この私の顔を……」

 孟宣は額を抑えて呻いた。その隙に魯句践は荊軻を背負うと、屋敷の外へと駆け出した。

「飛び道具は使いたくなかったんだがな」

 魯句践は首筋に荊軻の荒い息遣いを感じながら、邯鄲かんたんの夜の闇を駆け抜けていった。



「ええい、取り逃がしたか」

 郭開の怒声が孟宣の上に降りそそいだ。この男の甲高い声を聞くたびに、孟宣はどうしようもなく苛立ちが募る。

(くだらぬ男よ)

 孟宣は郭開の命などどうでもよかった。ただ要人の護衛をしていれば、時には心震わすような好敵手に巡り会える。荊軻もそのような男の一人であったはずなのに、今はすっかり腑抜けた男に成り下がっていた。


「今度しくじったらお前には暇を出す。良いな」

 吐き捨てるように言うと、郭開は寝室へと下がった。それはむしろ望むところだ。荊軻には深手を負わせたし、ここに居たところでもう大した敵が現れそうにない。

(そろそろ、潮時か)

 孟宣は地に唾を吐くと、血に濡れた仮面を外した。その下からは凄絶なまでに美しい素顔がのぞいた。



 魯句践は荊軻を背負ったまま夜の邯鄲を走り、侠客仲間である徐堅の家へ転がり込んだ。この男ならば、何も言わず荊軻を匿ってくれるに違いない。

「怪我人か」

 徐堅は事情は何も聞かず、すぐに荊軻の手当を始めた。服を脱がせて傷口に膏薬を塗り、きつく包帯を巻いた。一連の動作が実に手馴れている。

「済まぬ。匕首は間に合わなかった」

 徐堅は侠客の用いる武器の制作も手がけている。中でも徐堅の匕首は有名で、刃先に毒を塗ると、毛筋一つでも傷つけるだけで死に追いやることができた。


「お前のせいではない。俺の腕が足りなかったのだ」

「孟宣相手に生きて戻れただけでも僥倖だ。で、この男は」

「名は荊軻という。撃剣の達人だ。いや、達人だった、というべきか」

 徐堅は訝しげな表情を作ったが、その言葉の意味を問うことはなかった。

「命に別状はないが、数日は休ませねばならない。時は稼げると思うが」

 命知らずの侠客のたむろするこの界隈には、官憲も容易には近付けない。だが今回は相手が相手だ。いつ郭開の手の者が踏み込んでくるかわからない。


「私は邯鄲を出る」

 徐堅は荊軻に毛布を被せると、淡々と魯句践に告げた。

「そうか、それも良いだろう。荊軻ももう趙は終わりだと言っていた」

「私は燕へゆく。お前はどうするのだ」

「俺も行くさ。俺の事情に荊軻を巻き込んでしまった。無事に燕まで連れ帰ってやらねばな」

 徐堅は無言で頷いた。何も言わずとも、李牧のいない趙になど未練はない、とその目が語っていた。



 それから十数日の後、荊軻は魯句践と徐堅を伴ってけいへとたどり着いた。荊軻が王真に顔を見せようと市場までやってくると、雪蘭が荊軻に飛びついてきた。

「もう、今まで一体何をしていたんですか!こんなにやつれてしまって」

 雪蘭は声を震わせた。荊軻の変わり果てた風貌に只事ならぬ雰囲気を感じたらしい。

「済まなかった。少々土産物を選ぶのに手間取ってしまってね」

「何がお土産ですか。私がどれだけ心配したと思ってるんですか」

「そう言わないでくれ。これでも私なりに一生懸命選んだのだ。きっと雪蘭にも似合うはずだ」

 荊軻は懐から髪留めを取り出し、雪蘭に手渡した。

「これは……」

 薊では見ることのできない鮮やかな色調に雪蘭は目を丸くしたが、すぐに表情を引き締めた。


「こういうもので誤魔化そうとしてもだめです」

「私が何をごまかすと言うんだ」

「お父さんと何か話していたでしょう?私、知ってるんです」

 荊軻は心の中で嘆息した。どうやら李牧のことを話しているのを聞かれていたらしい。

「雪蘭は知らなくて良いことだ」

「そうですか、荊軻さんは私に隠し事をしているのですね」

 雪蘭はまっすぐに荊軻を睨みつけた。この瞳に見つめられると、心の中をすべて見透かされているような気分になる。


「天下国家の話など、大して面白いものでもない。それより雪蘭が考えるべきは、どんな髪留めが己に似合うかということではないかな。お前にも気になる男の一人くらいいるだろう。邯鄲の品を身に付ければ、その者がお前を見る目も変わるはずだ」

「やっぱり貴方は、何もわかっていません」

「わかっていない、とは?」

「髪留めが変わったくらいで、いつも遠くばかり見ている人が私を見てくれるようになるわけがないじゃないですか」

 雪蘭は悲しげな目をすると、少し俯いた。

「ほう、やはり心に想う男がいるのか。雪蘭もようやく娘らしくなってきて私も安心だよ」

「……貴方は、やはり卑怯です」

 一言そうつぶやくと、雪蘭は肩を落としてそのまま立ち去ってしまった。



「おい荊軻、本当にあれでいいのか?もう少しあの子の気持ちに応えてやってもいいんじゃないかね」

 雪蘭の背中を見送る荊軻に高漸離こうぜんりが声をかけてきた。この男の闊達さに触れていると、荊軻は少しだけ救われたような気分になる。

「私は、雪蘭には光の中を歩んで欲しいのだ。私のような幾多の血に塗れた男に近寄ってはならない」

「そう堅苦しいことを言うな。この世に生きていてすねに傷一つ持たん男などいるものか」

「侠に生きる男はいつ命を落とすかもわからない。そんな世界など知らない方が幸せなのだよ」

「まあ、俺にもあまり人のことは言えないがね」

 高漸離は肩をすくめてみせた。この男も荊軻と同じく、侠の精神をもっている。だが高漸離はとかく頑なになりがちな荊軻とは違い、関わる者を包み込む伸びやかさがある。


「そういえば、田光先生がお前を呼んでいたぞ」

 薊を代表する侠客である田光と荊軻は親交を結んでいる。荊軻が深く敬愛する田光が呼んでいるとなれば、すぐにでも駆けつけなければならない。

「分かった。すぐに向かう」

 田光と話ができると思うと、不思議と気力が沸いてきた。荊軻は高漸離に別れを告げると、田光の屋敷へと急いだ。

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