謀略

 朔風が強く吹きつける中、樊於期はんおきはただひたすら北へと駆けていた。ここまで来るともはや人跡は希であり、広野の中に羊の姿が点々と見えるばかりだ。


 荊軻けいかが上卿となり、魯句践ろこうせんが李牧の兵法を伝え、李光という強力な剣客も燕にやってきた。少しづつではあるが、燕の陣容は充実しつつある。そのことが樊於期は我が事のようにうれしかった。


 鞠武きくぶは樊於期を以前から煙たがっていた。樊於期を個人的に嫌っていたわけではないが、秦から亡命してきた樊於期を燕に留めおいては秦が攻め込む口実になるからだ。しかし、丹はそれでも樊於期を匿ってくれた。そのことに恩を感じればこそ、己が燕の災いとなっていることが心苦しかった。


 自分が匈奴に投じたところで、秦の侵攻を止められるとは思えない。それでも秦の鋭鋒を少しでも鈍らせることができるのなら、やはり燕を去るべきであると思った。趙はすでに滅び、秦は直に燕と国境を接している。この上なお燕にとっての火種を増やすことはない。


 しかし、樊於期の北行は長くは続かなかった。樊於期を追いかけてくる一騎がいたからだ。樊於期は馬腹を蹴り、追手を振り払おうとしたが、追手の馬術はよほど巧みなようで、少しも距離を離さず樊於期についてきた。


(私を、この場で始末するつもりなのか)


 樊於期をわざわざ引き止めに来る者がいるとは思えない。人目のないこの場所で、密かに私を始末するべく鞠武が追手を差し向けたのか。そんなことを考えつつ馬を走らせていると、樊於期の背後から奇妙な歌声が響いた。大地を揺るがすような低音にひどく澄んだ高音が混じって響いている。まるで一人の喉から二人分の声が出ているようだ。


 その歌声を聞いた途端、樊於期の馬が棹立ちになった。樊於期はさすがに武人らしく馬上でこらえ、落馬こそしなかったが、追手はすぐそばまで迫っていた。

「樊将軍、荊軻、呼んでる」

 追手は馬を止めると、たどたどしい言葉で話しかけてきた。まだ若い男だ。赤銅色に灼けた肌に雄大な体躯の持ち主で、中華風に髪を結っていないところを見ると、狄人てきじんなのかもしれない。


「荊卿が、なぜ私を引き止める」

「俺、事情、知らない。とにかく戻れ」

 若者は荊軻からは何も聞かされていないようだ。荊軻はよほど急いでこの男に後を追わせたらしい。

(荊卿の頼みなら、戻らねばなるまい)

 これも何かの縁だろう。荊軻ならば良からぬ意図で私を引き止めることもあるまい。そう考えつつ、樊於期は若い男に続いて薊へと引き返すことにした。



「よくお戻りになられました」

 荊軻はわざわざ城門まで樊於期を出迎えた。荊軻は宿へと樊於期を招き入れ、丁重にもてなした。樊於期は恐縮しながら荊軻にたずねた。

「私にどのような御用ですかな」

「実は、秦について将軍に尋ねたいことがあるのです」

「もちろんです。私に答えられることなら、なんでもお答えしましょう」

「それはありがたい」

 荊軻は顔をほころばせると、目の前の酒盃を飲み干した。


「実は私がお聞きしたいのは、王翦おうせん将軍のことなのです」

 王翦とは、秦を代表する名将であり、史記には白起と並んで伝を立てられている。李牧亡き後の趙を滅ぼした王翦は、中山に駐屯して燕に侵攻する準備を進めていた。今燕の喉元に白刃を突きつけているのは、この王翦なのである。丹は今にもこの王翦が燕に攻め込んでくるのではないかと、日々気を揉んでいた。


「ふむ、王翦ですか」

 樊於期は表情を引き締め、酒盃を卓に置いた。

「一筋縄ではいかない男です。一言で言うならば老獪」

「手強い相手、ということですか」

「王翦は人の心を読むことに長けております。戦における駆け引きでは、私はこの男には敵いそうにありません」


 これはまだ未来の話であるが、南方の大国である楚を討つにあたり、秦王がどれだけの兵が必要かと諸将に問うたことがある。新進気鋭の李信は二十万で十分と答えたが、王翦は六十万と慎重な答えを返した。秦王は王翦はすでに老いたと笑い李信に楚を攻めさせたが、李信は楚に大敗した。

 この敗北に懲りた秦王は王翦に六十万の兵を与え出馬させたが、このとき秦最大の大軍を統べる身となった王翦は大志を抱く男と思われぬよう、子孫のために美田と邸宅を賜りたいと何度も秦王に頼んだという。戦が上手いだけでなく、平素の立ち回りも巧みな男であった。


 そのような男を、燕は相手にしなければならない。荊軻もさすがにしばしの間考え込んだ。

「どうも王翦という男、付け入る隙がなさそうですね。間諜を送り込んでどうにかできないものか」

「秦は巧みに間諜を用います。生半可な者を送り込めば、かえってこちらの災いとなりましょう」

 樊於期は荊軻の案を即座に否定した。長平の戦いの折にも間諜を使い、秦が最も恐れているのは趙括ちょうかつだと噂を撒いて実戦経験のない趙括を戦場に引き出し、散々に破った秦である。迂闊な諜報工作など全て見抜かれてしまうに違いない。


「そういえば、私を追いかけてきた者が、何やら不思議な声を発していましたね。あれは何なのですか?」

 沈滞した空気を振り払うように、樊於期は話題を変えた。

「あれは喉歌という騎馬の民の独自の発声法です。この道に長けた者は、声で馬を自在に操るのだとか」

「では、あの若者も騎馬の民なのですか」

「あれは匈奴の者です。一族の争いに敗れ孤児となったところを国境地帯の者に引き取られ、馬を友として育ちました。今は軍の厩舎で馬の世話をしております」

「名は、何というのです?」

張廉ちょうれんといいます。元は匈奴の名がありましたが、今は養父の姓を名乗っております」

「張廉、ですか。なかなかに良い若者です。秦にあれほど巧みに馬を操る者がいたら、騎将に取り立てられていたでしょう。この国ではあの者を騎将に用いないのですか?」

「私も張廉は騎将にふさわしいと思うのですが、少々問題がありまして……」

「荊軻様、魯句践ろこうせん様が見えております」

 事情を話し終えないうちに、荊軻の従者が声をかけてきた。荊軻はさっそく自室へ魯句践を迎え入れると、張廉も魯句践に続いて入ってきた。


「おい荊軻、聞いてくれ。太子がどうしても張廉の起用を認めようとせぬのだ」

 魯句践は椅子に腰掛けると、不機嫌そうに顔をしかめた。

「まだ張廉が匈奴であることを気にしているのか」

「殿下本人はそれほど気にしてはおられんのだが、問題は李光よ。奴が強硬に反対しているのだ」

「ほう、李光殿が?あの方はあまり自分の意見などは言わない方かと思っていましたが」

 樊於期は意外そうな表情になった。常に影のように丹に従っている李光がこの件に関してだけ口を挟むのも妙な話だ。


「北狄の歌など汚らわしい、あんな者を騎将にしては燕の名折れだなどと言っておってな。太子も李光には逆らえない様子なのだ」

「李光は秦の間諜を斬って以来、太子は絶大な信頼を寄せておられるからな。しかしなぜ張廉の起用にそこまで反対するのか」

「殿下も殿下だ。秦が国境まで迫っているこの時に、部族だの出自だのを問うている場合ではあるまい。才ある者は分け隔てなく登用するべきではないか」

 魯句践は酒盃を飲み干すと、拳で机を叩いた。

「俺、燕の為、働きたい」

 張廉はゆっくりと、一語一語を区切って話す。言葉こそたどたどしいが、その言葉の隙間に荊軻は張廉の忠心を見て取った。

「張廉ほどの者を埋もれさせるのは確かに惜しい。魯句践、李光は確かに張廉の歌が汚らわしい、と言っていたのだな?」

「なぜそんなつまらぬ事にこだわるのかは知らないがな。匈奴に親でも殺されたのか」

 荊軻は顎に手を当てた。寡黙な李光がその一点に関してだけ太子に意見を言う、という点がどうにも引っかかる。


(――生半可な間諜は秦には通用しない、か)

 突如、荊軻の脳裏に妙手が浮かんだ。荊軻はやにわに立ち上がると張廉の肩を掴み、強く揺さぶった。

「案ずるな、張廉。私が必ず、お前を騎将にしてみせる」

「俺、燕の力、なれるのか」

「なれるとも。今こそお前の力が求められているのだ」

 張廉は日に灼けた顔の中から、ひときわ白く輝く歯をみせた。



 翌日、荊軻は王宮で丹に目通りしていた。丹の顔は一段と憂色を濃くしている。やはり王翦の脅威を日々肌で感じ取っているらしい。

「やはり、張廉を起用する気にはなれませぬか」

「うむ、やはり北狄の者を使うというのは軍内からも抵抗が多くてな……」

 そう言いつつ、丹はちらりと脇に侍る李光を見やった。軍の意向などと言っているが、結局李光を気にしていることは明らかだ。

「ところで、私は一度、王翦の様子を探りにゆこうと思います」

「まさか、荊卿が自分で行かれるというのか」

「私が行くからこそ、良いのです。秦に投降すると偽れば、王翦も私を歓迎するでしょう」

「それは危険すぎる。王翦に偽りだと見破られたらどうするのだ」

「それで良いのです。こそがこの策の肝要な点です」

「それで無事に済むはずがないではないか」

「問題はございません。王翦の人となりは樊将軍からよく聞いております。将軍の言う通りであれば、王翦は必ず私を生かして返すはずです」

 丹は額に皺を寄せ、しばらく考え込んだ末にようやく言葉を発した。

「……荊卿がそこまで言われるのなら、そうなのだろう。私としても王翦の情報はもっと欲しい。いつ奴が攻めて来るかと思うと気が気でならぬ。中山に赴いてくれるか」

「心得ました。見事、殿下の憂いを除いてご覧に入れましょう」

 荊軻は丹に一礼した。太子の脇で李光の目がわずかに光ったようにみえた。



 荊軻は薊を出立し、一人で馬を駆って王翦の駐屯する中山の城へとたどりついた。城門の前に出ると、さっそく二人組の衛兵が荊軻に誰何の声を向けてくる。

「止まれ。何者だ」

「燕の上卿、荊軻と申す」

「何、荊軻だと」

 衛兵は顔を見合わせた。意外な人物の突然の訪問に戸惑っている様子だ。

「私はすでに燕を見限った。王翦殿に燕の内情についてお伝えしたい」

 衛兵はしばらく小声で何事か話し合っていたが、やがて荊軻に向き直った。

「通れ。じきに将軍にお目通りが叶おう」

 衛兵は道を開けた。荊軻は一礼すると、城内へと足を進めた。


「ふむ、ではすでに燕は崩壊寸前である、と言われるのか」

 王翦は白い髭をしごきながら荊軻にたずねた。大きくよく動くその瞳は、武人よりもむしろ利に敏い商人のそれを思わせる。

「その通りにございます。燕は趙を滅ぼした王翦殿の名をことのほか恐れており、将軍の名を聞くだけで皆膝を震わせる有様です」

「はは、大袈裟な。儂ごときがそれ程までに恐れられるはずもあるまい」

「秦の防波堤であった趙を滅ぼしたのは王将軍です」

「李牧殿が健在ならば、儂もまだまだ苦戦していただろうがな。敵ながら惜しい方を亡くしたものよ」

 白々しい事を言う、と荊軻は思った。郭開を使って李牧を排除したのは秦ではないか。


「今では燕の民は王将軍来る、と言えば泣く子も黙ります。燕を攻めるなら、王将軍自ら陣頭に立ち、王の旗を見せるだけで燕軍は潰走致しましょう」

「今なら燕軍などひと揉みに揉み潰せる、と言われるのか」

「左様にございます。燕など将軍の敵ではございません」

 王翦は腕組みをし、しばし目を閉じて考え込んだが、急に何事か閃いたようにその大きな瞳を見開いた。

「荊軻殿、貴方はまだ燕を見限っていることを国内では知られていないのだな?」

「太子は私に絶大な信頼を寄せております。今日も秦の様子を探ると偽ってここに参ったのです」

「では、その立場を使ってやってもらいたいことがある。太子に燕国内の喉歌の使い手を丁重に扱うよう言上してはくれまいか。燕が喉歌の使い手を皆殺しにし、あのような怪しげな術に頼る気はない、という覚悟を軍中に示せば士気は高まり、燕は手強い存在となるであろう。そうなっては厄介なのでな」

「心得ました。確かにそのように伝えましょう」

 荊軻は王翦に確約した。王翦はまた髭をしごくと、満足気に唇の端を持ち上げた。

「ところで王将軍、秦王とはどのようなお方なのですか」

 事のついでに、荊軻はそう王翦に訊いてみた。

「うむ、大王は役に立つ者であれば、身分出自を問わず取り立てて下さる。大王のような方に仕えているからこそ、儂も働きがいがあるというものだ」

「それは逆に言えば、役に立たぬ者は捨てられる、ということではありませんか」

「そんなことは当然ではないか」

「つまり、趙であなうめにされた者達も役には立たなかった、と?」

「物は考えようだ。あの者達は埋められたことにより、大王の天下の地固めをした、とも言えよう。死ぬことでしか役に立てぬ者は死ねば良い、というのが大王のお考えだ」

 王翦は今日の天気の話でもするかのように、眉ひとつ動かさずにそう話した。

(――秦王とは、怪物か)

 荊軻は固く拳を握ると、王翦の後ろにいる秦王の姿を心の中に思い描いた。



 その頃、魯句践は李光を自室へと招き入れていた。この男が燕にやってきてから数箇月が経っているのに、こうして二人で酒を酌み交わすのは初めてだった。

「わざわざのお招き、痛み入る」

「貴公とは一度、腹を割って話がしてみたくてな」

 魯句践は李光の酒盃になみなみと酒を注いだ。李光の顔は彫像のように美しいが、その表情は相変わらず変化に乏しい。

「話とは、何であろう」

「李光殿、貴公は王翦という男をどう思われる」

「秦を代表する名将、と言うべきであろう」

 そんなことは誰でも知っている。己の見解らしいことを話す気はまだないようだ。


「俺は、王翦は極めて厄介な相手だと思っている。趙を滅ぼした王翦の名は燕にも鳴り響いている。燕が最も恐れているのは、王翦が陣頭に立ち攻め来ることだ。王の旗を見ただけで、我が軍は潰走してしまうことだろう」

「それほどまでに燕が弱いということはあるまい」

「いや、言いにくいことなのだが、この俺ですら王翦の名を聞いただけでこの膝が震えるくらいだ。皆が口に出しては言わぬが、誰もが王翦を鬼神のごとく恐れている。生きているだけで燕の禍いとなる男よ」

 李光は軽く息を吐き、無言で腕を組んだ。


「貴方は一体、何が言いたいのか」

「王翦と直接対決すれば、我が軍が敗北するは必定。ならば取るべき道は一つ。王翦を暗殺する他あるまい」

「暗殺、だと」

 李光はわずかに形の良い眉を歪めた。李光の顔に感情らしきものが浮かぶのを、魯句践は初めて見た。

「で、誰が王翦を殺すのだ」

「実は、すでに荊軻が中山に向かっている。この時のため、日々撃剣の術に磨きをかけてきたのだ」

「なぜ、それをもっと早く教えてくれなかったのだ」

「おそらく王宮内にも秦の間諜が潜んでいよう。誰にも事が漏れぬよう、慎重を期したのだ」

「荊軻殿一人で、王翦を討ち果たせるものか」

 李光の声音にわずかに焦りが滲んだように、魯句践には思えた。

「成功するかどうかはわからん。だがどうしても行くと言って聞かないものでな」

「して、荊軻はどのようにして王翦を殺すつもりなのだ」

「秦に投降したふりをして、王翦に近づくつもりだと言っていた。奴は慎重な男だ。じっくりと時間をかけて王翦の信を得ようとするだろうな」

 李光はしばらく黙り込むと、急に思い出したように話し始めた。

「荊卿の置かれた立場を思うと、どうにも落ち着かぬ。済まないが、私はこれで失礼する」

 李光は軽く一礼すると、慌ただしく魯句践の部屋を出ていった。

(荊軻よ、本当にこれで良いのだな)

 魯句践は荊軻の指示通りに芝居を打ったが、李光の態度が急変したことにしばらく首を捻っていた。



「おお、荊卿、よくぞ戻られた。実は大変なことになってしまってな」

 丹は憔悴の浮かんだ顔で帰国した荊軻を出迎えた。

「一体、どうなされたのです」

「李光がいなくなってしまったのだ。八方手を尽くして探させているが、どこにも姿が見えぬ」

(やはり、来るべきものが来たか)

 己の策が的中したことを喜ぶわけにはいかなかった。丹がどれだけ深く李光を信用していたのかを荊軻は知っている。

「やはり、そうでしたか」

「やはりとは、どういうことだ」

「あの男は、秦の間諜だったのです」

 丹は絶句した。須臾の沈黙の後、丹は激昂して荊軻を問いただした。

「馬鹿な。李光がなぜそのような真似をしなくてはならない。あの者は何度も私を守ってくれたのだぞ」

「それが芝居であるとなぜ解りませぬか。張廉は喉歌で馬を自在に操ります。李光が張廉の起用に反対していたのは、喉歌が秦の騎馬隊にとり脅威となるからです」

「なぜ、そう言える」

「私は王翦から、秦が恐れているのは燕が国内の喉歌の使い手を皆殺しにすることだと聞きました。怪しげな術に頼らず戦う姿勢を見せれば、燕の士気は高まると」

「なら李光の言い分は正しかったということではないか。やはり張廉など起用するべきではないのだ」

「恐れながら、そう思わせることこそが王翦の策なのです。王翦の言い分に従い喉歌の使い手を始末すれば、秦の騎馬隊に対抗する術がなくなります。それだけ秦は張廉を恐れているのです」

 丹は再び沈黙した。握りしめた拳が小刻みに震えている。

「殿下、どうか張廉を騎将に取り立ててください。燕の軍馬を早く喉歌に慣れさせる必要があります」

「……分かった。張廉に一隊を任せよう」

 丹は大きく息を吐き出すと、ようやく荊軻の言い分を認めた。



 王翦の前に、仮面の男が跪いていた。

「見事に荊軻にしてやられたな、李光。いや、孟宣であったか」

「申し訳ございません。将軍のお命をお救いせねばと急遽駆けつけたのですが、策であったとは見抜けませんでした」

「まあ、よい。それで駆けつけてこないようであれば、それはそれで困る」

王翦は白い髭をしごきながら、そんな鷹揚なことをいった。

「ですが、収穫もありました。魯句践という者から、燕は王将軍を鬼神のごとく恐れており、将軍が陣頭に立ち攻め来たれば瞬く間に逃げ散るだろうと聞かされました」

「ふむ、儂も同じことを荊軻から聞かされたわ」

「ということは、やはり燕は将軍を恐れているのでしょう。燕など一気に揉み潰してしまえばよいのではありませんか」

「はは、孟宣、それがお前のまだ若いところよ。よいか、同じ話を二度も儂の耳に入れるということは、それが儂に聞かせたい話であるとういことだ。燕は儂を突出させるつもりなのであろう。そこを待ち構えて討つのが李牧の得意とした戦法だ。そういえば魯句践とやらは李牧の客だったそうだな」

「では、荊軻はわざわざ我々に二度も嘘を吹き込んだ、と?」

「荊軻ほどの者が秦に内通するはずがない。燕の内情を知らせると言いつつ、儂を罠に嵌めようとしたのであろう。今は軽々しく燕の誘いに乗ってはならん。ここはじっくりと構えるのが上策だ」

 孟宣は王翦に悟られぬよう、仮面の下で眉根を寄せた。

「孟宣、今後は儂の護衛に専念せよ。お前はまだ荊軻と渡り合うには早い」

(おのれ、荊軻……!)

 孟宣は荊軻の掌の上で踊らされていた己の失態を恥じ、ただ歯噛みすることしかできなかった。

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