易水の戦い

 易水の西に陣取った燕軍を前に、雪蘭は吹き来る風が頬をなぶるにまかせていた。脇に座す高漸離こうぜんりは目を閉じ、ちくを前にして合図を待っている。雪蘭が丹を振り返ると、丹は一度だけ頷き、ゆっくりと口を開いた。

「――始めよ」

 高漸離の筑の音が響き、雪蘭の声がその音に和して流れ始めた。高く澄み渡る声が朔風に乗り、兵の心を揺さぶってゆく。微かに震える羽声はどこまでも静かで、しかしそれでいて聴く者を震え立たせる響きがある。


――風蕭蕭として易水寒し

  壮士ひとたび去ってまた還らず


 雪蘭はかつてこの地で荊軻が歌った歌を口ずさんだ。燕の者で荊軻けいか秦舞陽しんぶようのたどった運命を知らない者はいない。兵は皆哭いていた。目を閉じて聞き入る内、丹も肚の底から激情が込み上げてくるのを感じていた。心に染み通る伸びやかな羽声は、雪蘭の技量の極まった姿であるように思われた。


 やがて筑の最後の一音が響いた。丹はゆっくりと目を開くと、全軍を前に語り始めた。

「かつてこの地より西へ向かい、秦王を討とうとした壮士がいた。不幸にしてその試みは成功しなかった。だが、秦王に挑んだというその事実は残る。荊軻けいかの名は未来永劫語り継がれるであろう」

 そこまで語ると、丹は一度言葉を区切った。兵の中にはすでに堪えきれずに嗚咽を漏らしている者もいる。

「荊軻は死んだ。だがその勇気と志は我が胸に生きている。皆もその心意気を胸に刻んでいるはずだ。諸君は皆、秦に挑む壮士だ。燕の名に恥じぬ戦いをし、青史にその名を刻め」

 丹の言葉が終わると、全軍がどよめいた。兵が矛で地を叩く音が大地を揺るがし、津波のような叫び声が天を衝くばかりに響き渡った。

(荊卿よ、私は至らぬ男だ。だがせめてこの時くらい、燕の意地を見せてやろう)

 丹は固く拳を握ると、天を見上げて荊軻に語りかけた。天は何も答えてくれなかったが、その蒼穹の彼方から荊軻がこの地を見守っているような気がした。



 黒雲のような秦軍が魯句践ろこうせんの眼前に迫っていた。黒い甲冑は秦軍の象徴である。秦は燕に倍する兵力を持っている。歩兵隊が中央に構え、その両翼に騎馬隊が並んでいる。中央で総指揮を執るのは王翦おうせんである。


(さて、王翦はどう出てくるかな)

 荊軻は生前、燕は王翦を鬼神のごとく恐れているから王翦が陣頭に立てば燕などすぐに崩れ立つ、と王翦に吹き込んだ。王翦はそれを自分を突出させるための罠だと考え、慎重に構えた。もし王翦が今でもそう思っているなら、王翦が猪突してくることは有り得ない。


 しかし戦は数、でもある。秦が数を頼みにひたすら押し出してくれば、燕軍はそのまま秦軍に呑み込まれてしまうかもしれない。王翦は後方で指揮を執り、その様子を見ていればいいのだ。


 いずれにせよ、臨機応変に対応するしかない、と魯句践は考えている。戦場では将も兵も兵法通りには動かない。戦の潮目を読め、と常に李牧には教えられていた。それが兵法書を諳んじることなどより大事だと、魯句践も常日頃より己に言い聞かせていた。


 先に動いたのは秦軍だった。矢の届く距離まで接近すると、秦の弓兵が矢を放ってくる。 燕兵は盾を構えて驟雨のごとく降りかかる矢を防ぐが、それでも飛来する矢が次々と燕兵を倒してゆく。燕の弓兵も秦軍に損害を与えているが、数に勝る秦軍にはさほどの痛手とも見えない。


 やがて矢の応酬が終わると、先鋒の歩兵隊が衝突した。双方とも士気は高い。矛を打ち合う音が聞こえ、秦と燕の兵が入り乱れて戦い始めた。吹き来る風に血の匂いが混じるのを感じながら、魯句践はひたすら馬上で兵を励ましていた。


 二刻ほど戦うと、正面の秦軍が退き始めた。雪蘭の歌に鼓舞された燕軍の士気は極めて高いが、それでも秦軍が崩れ立った、とは魯句践には見えない。秦の堅陣を突き崩すほどに燕が攻め立てているわけではないのだ。

(誘い、か)

 魯句践にはそう見えた。王翦は慎重な男だ。退却した振りをして燕軍を誘い込み、両翼から包囲するつもりかも知れない。数に勝る秦軍にはそれが可能だ。ならばその誘いに乗るわけにはいかない。通常ならば、だ。

「将軍、いかがなされますか」

 そう、従者が訊いてきた。魯句践はその顔も見ずに答える。

「うむ、常の戦ならば追うべきではないだろう。わざわざ猛獣の口に飛び込むべきではない」

「罠とわかっていて飛び込む手はない、というわけですね」

「否、そうではない。ここは罠ごと食い破るのだ。ここで我等が潮目を作る。勝機を引き寄せるのだ」

 魯句践は矛を高く掲げると、大音声で叫んだ。

「見よ、秦の臆病者どもが逃げてゆくぞ。奴らを蹴散らせ」

燕兵は魯句践の叱咤に奮い立ち、退いていく秦軍に吶喊した。


「一人でも多く屠れ。秦軍を喰らい尽くせ」

 魯句践は矛を振るい、辺りに血の暴風を巻き起こしていた。数十名を付き伏せるうちに燕兵もその姿を見て勢いを増し、秦兵を次々に追い立てていた。明らかに潮目が変わっていた。退却すると見せかけていた秦軍は魯句践の猛攻を食らって恐慌状態となり、算を乱して本当に退却を始めていた。

「逃がすな。一気に付き崩せ」

 魯句践は矛に引っ掛けた秦兵を投げ飛ばしながら叫んだ。しかしこの時、秦の左翼の騎馬隊が燕軍へと迫っていた。


 張廉ちょうれんは、固く唇を引き結んだまま、秦の騎馬隊を待ち構えていた。

(荊軻、戦う機会、与えてくれた)

 荊軻が引き立ててくれなければ、張廉は今この場で騎馬隊を率いることはできなかった。馬を友として育った張廉には厩舎の仕事も楽しかったが、やはり一度戦場に出てみたかった。荊軻は既に逝ってしまったが、秦軍と戦う術を張廉に授けてくれていた。


 秦の馬蹄の音が近づいてきた。張廉ちょうれんは目を閉じ、騎馬の足音に耳を澄ませる。十分に引き寄せたことを確信すると、張廉は肚に力を込め、渾身の喉歌を放った。二重の歌声が戦場に響き、最前列の馬が一斉に棹立ちになった。後続の騎馬は勢いを止められず次々に折り重なって倒れ、落馬する者が続出した。秦の騎馬隊は大混乱に陥り、完全にその勢いを削がれてしまった。

「好機。掛かれ」

 張廉が一声叫ぶと、配下の騎馬隊が秦軍へ襲いかかった。張廉軍は機動力を失った秦軍を蹂躙し、落馬した騎兵を次々と屠っていった。

「攻め立てろ。秦、崩せ」

 馬蹄の下に秦兵を踏みにじりながら、張廉は力の限り叫んだ。燕の騎馬隊は勇躍し、辺りに秦兵の骸を築いていった。


「何をしている。儂は負けた振りをしろと言ったのだ。本当に負けろと言ったのではない」

 王翦は次々と苦境を報告してくる伝令に苛立っていた。このような戦は始めてだ。燕兵は全軍が死兵と化し、次々と秦の堅陣を突き破ってきているらしい。

(荊軻よ、死してなお秦を苦しめるか)

 燕は王翦を恐れている、と荊軻は王翦に吹き込んだ。王翦はそれを秦を油断させる策と考え、慎重に構えることにした。今回も燕に隙を見せて誘い込んだつもりだったが、逆にそこをつけ込まれる形となってしまった。

「将軍、このままでは本陣も危険です。私が一隊を率いて出ます」

 孟宣が王翦の前に進み出た。平素は全く感情を読み取れない男だが、今はさすがにその声音に焦りが滲んでいる。

「本来ならばお前を出したくないが、仕方があるまい。ここを破られては終わりだ」

「必ず、魯句践を討ち取って参ります」

 孟宣は王翦に背を向けると、急ぎ陣を出て行った。

(結局あの男、荊軻には敵わなかったか)

 孟宣は秦の間諜であったことを荊軻に見破られ、燕を内部から撹乱することもできなくなってしまった。その恨みを果たせずにいる内に荊軻は逝った。その怒りをせめて燕軍にぶつけてくれればと思っているが、今の死兵と化した燕軍相手にどこまで持ちこたえられるか心許ない。

「大王がここにおられたなら、少しは愉しまれようか」

 王翦は独りそうつぶやいた。秦王は喜々として荊軻の刃と渡り合ったと王翦は聞いている。今の王翦には燕との戦を楽しむ余裕はない。これが器量の違いというものか、と王翦は己を哂った。


 魯句践はなお秦兵を次々と屠りながらも、ようやく疲労の色を濃くしていた。周りの燕兵もなお士気こそ高いが、次第に数に勝る秦軍に押し返されてきている。気が付くと魯句践の兵もかなりの数が討たれてしまっていた。やはり兵力の差は大きい。目の前の一騎を馬上から突き落とすと、魯句践は眼前にひときわ目立つ一騎が駈けてくるのを認めた。

「ようやく、決着をつけられるか」

 魯句践は孟宣の仮面を凝視すると、馬腹を蹴った。郭開の屋敷で李牧の幻影を見せられた恨みを、魯句践は忘れていない。

「わざわざ命を捨てに来たか、孟宣」

「戯言を。お前ごときでは物足りぬわ」

 魯句践は鼻を鳴らすと、猛然と孟宣に突きかかった。孟宣は馬上で魯句践の鋭い刺突を幾度かかわすと、剣で矛の先端を切り落とした。魯句践は矛を放り出すと腰の剣を抜き、再び孟宣に挑みかかる。猛烈な剣撃を浴びせ、十数合打ち合ったが、なお勝負はつかない。

「力で押すだけか。詰まらぬ剣よ」

「お前を愉しませるために戦っているのではない」

 孟宣が揺さぶりをかけてくるのは押されている時であると既に魯句践は知っている。そして、次に孟宣が何を仕掛けてくるかも魯句践は読んでいた。

「魯句践よ。そのような戦い方、李牧はどう思うであろうな」

 孟宣の仮面の下で双眸が不気味に光った。しかし魯句践は瞬時に目を伏せていた。幻術の隙を突いて魯句践の剣は真っ直ぐに伸び、そのまま孟宣の喉を刺し貫いた。

「それ以上、無駄口を叩くな」

 魯句践は串刺しにした孟宣を剣ごと持ち上げ、恐るべき膂力で群がる秦兵の中へ放り投げた。恐れた秦兵は誰も近寄ることができず、遠巻きに魯句践を取り囲む。中には弩を構えている者もいるが、皆が魯句践を恐れ誰も矢を放とうとしない。

「どうした。もう俺に挑む者はいないか。秦には男は一人もいないのか」

 魯句践は孟宣の血に塗れた剣を頭上にかざし、怯える秦兵を睨めつけた。しかしその時、魯句践の背に鋭い痛みが走った。振り返ると、まだ年端もゆかない兵が弩を構えたまま震えていた。

「ほう、この俺を撃つか。お前は孟宣などよりよほど勇者だな」

 その言葉が終わらないうちに、弩兵が次々と魯句践に矢を放った。魯句践の全身に矢が突き立ち、魯句践はおびただしい血を吐いた。やがて視界がぐるりと回り、魯句践の身体は地に叩きつけられた。

(荊軻よ、俺はどうやらここまでのようだ。秦に突き立てた牙も、もはや折れた)

 魯句践は激痛の中から、どこまでも蒼い天を見つめた。魯句践は何かをつかもうと空に手を伸ばしたが、その手は虚しく宙を掻いただけだった。


丹は魯句践の戦死の報を聞くと、静かに目を閉じた。

「張廉も勢いを盛り返した秦軍に押されている。もはや、これまでか」

 魯句践の戦死により秦軍は息を吹き返した。左右両翼から秦軍は燕軍を切り崩しており、前方からも魯句践を討った余勢を駆って秦軍が迫りつつある。

「済まぬ、鞠武きくぶよ。私が至らぬばかりに、このような有様となってしまった」

「いえ、今の秦は誰も敗れません。これも天命なのでしょう」

 丹は謹厳な鞠武が運命論などを持ち出したことに驚いた。この男がこう言い出すようでは、いよいよ燕の命運も風前の灯なのだろう。

「本当は、荊卿を行かせなければ良かったと思っているのではないか」

「恐れながら、その通りにございます」

「お前は荊卿を嫌っておったからな。私が荊卿を相談役としたこと、不満に思っているのであろう」

「そうではございません。私はあの男に生きていて欲しかったのです」

「何だと」

「群臣が意見を戦わせてこそ、その中から良き策が生まれ、国は富み栄えるのです。 私や殿下の顔色を伺うような者ばかり登用することに何の意味がありましょうか。荊軻は私に逆らう者であればこそ、殿下の側にいて欲しかったのです」

「やはり、引き止めるべきであったか」

 丹はその顔に憂色を浮かべ、深く溜息をついた。

「殿下らしくもない。今この場に荊軻がいたら笑われますぞ」

「そうであったな。今は私も覚悟を決め、秦に見事な死に様を見せる他あるまい」

「殿下、死に様ではありません。生き様です」

 謹直な鞠武らしくもない言葉に、丹は思わず苦笑した。

「そうだな、死ぬことばかり考えていては、勝てる戦も勝てぬ」

 荊軻が命を賭けて救おうとした燕を、簡単に投げ捨ててはならない。丹は拳を固めると、自ら陣頭に立った。

「全軍、我に続け。燕の底力、秦に見せつけよ」

 丹は剣を引き抜くと、強く馬腹を蹴った。燕軍は雄叫びをあげ、黒い濁流となって押し寄せる秦軍へ突進していった。

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