(5)
流石に死んだと思った。
隠れるようにして、熊雄は人気のない裏通りの路地を歩く。
突っ込んでくる車を無傷でかわせたのは、奇跡としか言いようがない。
視界の端に車体が見えた瞬間、殆ど反射的に横へ飛んでいたがその時点ではまだ何が起きたのか分からなかった。
ビルが抉られ、火が上がるその光景はまるで悪質な冗談みたいだった。
巻き添えが出ることをまるで気にしていない手口だ。
野次馬が集まって来たので、集団に紛れながらこっそりその場を抜け出してきたが。
あれは本気で俺を殺しに来ている。
俺の命を狙う人物。
例の犯人の仕業か?
いやこのやり口は、多分奴じゃない。
これは……。
「おいおい、何処に行くつもりだゴミ蟲野郎?」
熊雄の視界の前方に何の気配もなく、いつの間にかその人影は立っていた。
黒いスーツ姿の男。短く刈り上げた髪。
男は手にしたスーツケースを開く。
「誰だ……?」
「お前は今から俺が潰すんだ。勝手に何処かに行かれては困るな」
スーツケースの中から現れた一枚の板。丸い円盤状の物体。それはシールドだった。片手持ちの小型の盾を、男は自分の腕に装着する。そしてスーツケースは投げ捨てた。
「潰れろ、毒蟲っ!」
ジャキン、と。
盾の側面から無数の刃が出現する。
「ふんっ!」
「くっ……!」
男は盾をフリスビーの要領で素早くこちらに投擲した。
回転する刃は凄まじく、熊雄の肉を喰いちぎる勢いだ。あれに当たればひとたまりもない。
あいつはどこのどいつだ?
状況が読めないが、兎に角やるしかない。
相手は明確に俺を殺そうとしている。
殺らなければ、殺れる。
熊雄は自分の掌から、手早く蟲刀を居合い抜く。その一太刀を飛んでくる盾に当てて。
迫りくる盾は金属音を立て、回転を止めて地に落下した。
男がくん、と腕を上げると盾は腕に戻って来る。どうやらワイヤーで繋がれているらしい。
「……何のつもりだ?」
「毒蟲風情が人間様に気安く話しかけてんじゃねーぞこら。早く死ねよ」
再び投擲されるシールド。熊雄はそれを蟲刀で叩き落とす。
だが。
「おらっ!」
一瞬で熊雄の間合いに入り込んだ男は、拾った盾を鈍器の如く殴り付けて来た。
男の攻撃を熊雄は刀で受けるが。
「こいつ……っ」
その攻撃は異様に重かった。
熊雄は渾身の力を込めているのに。
ビクともしない。
蟲刀を持っていないということは、こいつはただの人間のはずだ。
なのに、熊雄と互角に渡り合っている。
あり得ない。
人の身で、蟲飼いと対等の力を振るえるなんて……。
「お前は、まさか……!」
直後、熊雄の脇腹を鋭い痛みが走った。
「うっ……!!」
痛みに驚き、盾に押し負けそうになる。
寸前のところで後方に飛んだ。
右脇腹から出血をしている。
男の方に眼をやると、足もとの黒いブーツの先端にきらりと光る物体が見える。飛び出しナイフが仕込まれていたらしい。
「やはり『業者』の連中か……!」
噂で聞いたことがある。
何でも蟲飼いを抹殺する為に動いている『毒蟲駆除業者』と呼ばれる専門家集団があるらしいという話を。
彼らは人の身でありながら、独自に開発した武器や薬剤を自在に使いこなし、蟲飼いと互角以上にやり合うらしい。
彼らの目的は蟲飼いの根絶。この地球上から全ての蟲飼い達を駆逐することが彼らの目的である。
その為にあらゆる研究と対策を行ってきた集団。
そうつまり、熊雄達『蟲飼い』にとって、彼等『業者』の連中は“天敵”なのだ。
「早く死ねっつってんだよ、人間未満のクソが!」
叫びながら、男は盾をまたも投擲する。
と、同時に男自身も熊雄の方に素早く駆け出す。
二点からの挟み撃ち攻撃。
熊雄の蟲刀『厳五牢』、その毒の持つ能力は『麻痺拘束』だ。
『厳五牢』の毒を体内に取り込むと、相手は身体が痺れ動けなくなる。
量にもよるがフルで叩き込めば指を動かすどころか、瞬きさえ出来ない、相手を全身完全麻痺状態に陥れる毒だ。
この毒を蟲飼いじゃない、普通の人間に打つのはやや気が引けるが。
そうもいっていられまい。
『厳五牢』の刀身から、ぽたぽたと『麻痺拘束』の毒が染み出し始める。
迫りくる盾を刃で蹴散らすと、返す刃で男に太刀を浴びせる。
浴びせようとした。
「ぐ……」
盾を落としたところで熊雄の体制は著しく崩れ、刃は男を捉えられない。
自分の身体が酷くふらつく。
まともに立っていられない。
「さあ、ねんねの時間だ」
熊雄は地面に倒れ込んでしまう。頭が酷くくらくらする。平衡感覚が狂っているのか?
「何っ……」
「やれやれ、毒がお前ら毒蟲共の専売特許とでも思っていたのか?」
ようやく熊雄は気付く。さっきの仕込みナイフに毒が塗られていたのだ。
「ドでかい象を五秒で動けなくする量をお前の体にブチこんだはずなんだけどな。流石は毒蟲。生命力もゴキブリ並だ」
男はスーツ服の袖を、うずくまる熊雄の方に向ける。ぷしゅっと音がして、発射された網が熊雄の身体全体を覆う。ただでさえ毒を仕込まれ頭が鈍いというのに、これでは全く動けない。
「家にゴキブリが湧けば誰でも殺虫剤を吹きかけブチ殺す。それと一緒だ。地球は俺達人類の家だ。家にゴキブリが湧いている。早く殺さないと」
いいながら男は熊雄の脇腹の刺し傷を蹴る。
そして抉る。
ぐりぐりと。
「あぁぁぁぁぁぁぁああ!!」
「喚くな毒蟲。キモイんだよ。早く死ねばいいのに。とはいえ残念なことに、今回の仕事は生け捕りなんだ。出来ればとっとと殺したいが……まあ少々遊ぶくらいは役得ってもんだろ?」
「あぁ……あぁあっ!!」
熊雄は何とか打開策を見出そうとするが、痛みがそれを許してくれない。不安定な意識の中で、思考さえまともに浮かべられなかった。
「そうだな、腕とか足はとりあえず邪魔だから切り落としちまおう。『生け捕り』であれば先方からクレームもないはずだ。こいつら腕を一本二本イッたところでぴんぴんしてやがるからな……」
そうして男は熊雄の頭を足で踏ん付ける。熊雄は動けず、何の抵抗も出来ない。男は懐からナイフを取り出して、そして。
「けけけ。遊びを始めようぜ!」
ずぶっと。
「がは……っ?」
男の腹部を突き破り、刃が生えていた。
まがまがしい、朱色の刀身が。
「おいおい熊雄センパイよ。あんだけ普段偉そうに訓練だのなんだの抜かしといて、この体たらくかよ……」
「よ、依代か……」
熊雄のぼんやりとした視界は、修吾の姿をはっきりとは映さない。
修吾は男の身体から蟲刀を引き抜き、ついでに蹴りを入れ吹っ飛ばした。
「ほらよ」
修吾は網を切り裂き、熊雄の身体を肩を貸し起こす。
「お前、なんで……?」
「あんた気付いてなかったのか? アジトを出て暫くしてから変な車が追いかけてきてたろ。あんたを追っていくから怪しいと思ってな」
「……そうなのか」
そんな車があったなんて、熊雄は全く気付いていなかった。この依代修吾という男、どうやら動物的な勘はかなり優れているらしい。
「で、あいつはどうすんだ?」
修吾は顎で指し示す。
「ぁっ……ぇ……」
ひゅう、ひゅうと明らかにまともではない呼吸音を男の肺は鳴らしていた。
意識がないのか、白目を向いている。
明らかに致命傷だった。
もう助からない。
そう遠くない内に死ぬか、或いは。
「こういう場合はどうするんだ? とどめを刺しておいた方がいいか?」
「……」
熊雄はしばらく苦しそうな表情のまま、考え込んだ。
「いや、このまま放っておこう」
「いいのか? ほっといたらこいつも『蟲飼い』になって蘇るんじゃねーの?」
「……そうだな。普通の人間が蟲刀で致命傷を負わせられれば多くの場合は死ぬ。『蟲飼い』に目覚め助かるのは大体三割くらいだ。まあでも例えこいつが蟲飼いになったとしても、どちらにしろこいつは終わりだ」
「?」
「こいつ等『業者』の連中は、自分の組織に蟲飼いを絶対に入れない。なんせ蟲飼い抹殺を謳っている連中だからな。組織の人間が蟲飼いになったとすれば、間違いなく処分されるだろう。もうこいつに帰るところはないってことだ」
「ふーん」
「そんなことより早くこの場から逃げてくれ。他の仲間が集まって来ると厄介だ」
「やれやれ、人使いの荒い奴だ」
仕方ないといった表情で、修吾は熊雄を引きずっていく。
「う、いてッ! おい、俺は怪我人だぞ。もうちょい優しく出来んのか……」
「我慢しろよ。俺はあんたをここに置いてったっていいんだぜ?」
「最悪だ……」
熊雄は頭を押さえながら修吾に引きずられていった。
二人が去り、やがてさっきまでの騒動が嘘みたいに辺りは夜の静けさに包まれる。
無音の冷たい闇の世界。
ひゅう、ひゅうと。
そんな中、伊草場の奇怪な呼吸音だけがいつまでも鳴り続けていた。
*
倒れた伊草場の遥か後方。
大通りの端に停められた一台の赤いスポーツカー。
「あの男、思ったより役に立ちませんでしたね……」
胸元が大きく開いた赤いカッターシャツの女性、
梨理のもう片方の掌は、助手席の彼女と握られている。深く、がっちりと。愛し合うように。
「残念ですが、仕方ないですね」
舌ったらずな声で、助手席に座る手を握られた童顔の女、十堂白乃はそんな風にいうのだった。
「まあでも彼のお蔭でこの灰茨市に蟲飼いがいるという情報の確証が取れました。これで良しとしましょう」
「そうですか? 先生がそう仰るのならいいのですが……」
「それはそうと梨理さん、あそこで倒れている彼を回収して来て貰えますか?」
白乃はその小さく白い指で、伊草場の方を差す。
「はあ……」
「残念ながら検体の捕獲には失敗しましたが……。しかし代わりのサンプルが回収できそうです」
「ああ、なるほど」
ぽん、と梨理は手を打った。
「さすが先生ですね。そこまで考えておられたとは。はい、任せて下さい……」
と、そこで梨理は一旦言葉を止めた。
「でもその前に……」
梨理は物欲しそうな顔を白乃の方へと向ける。
「先生、あのその……」
「はい?」
頬を赤らめ、まごまごしている梨理に、白乃は首を横に倒し訊ねた。
「そのですね……。その前に、よしよし、して貰えますか……?」
「よしよし……?」
「はい、あの。そうして貰えたら、差し障りなく仕事をこなせると思うのですが……、駄目でしょうか?」
泣きそうな顔になって、梨理は尋ねるのだった。
「ふふふ。困ったちゃんですね」
純真な笑顔を浮かべると、白乃はすっと手を伸ばし、梨理の頭を撫でる。
よしよしと。
大人が子供をあやすように。
「ああ、大好きです。私のご主人様……」
心底嬉しそうに、梨理は恍惚の笑みを浮かべる。
「よしよしなでなで」
「あぁ……! あぁん……!!」
「ふふふ……これが終わったら、今日もたっぷりご褒美をあげますね」
「ん……ご主人様、大好き……」
白乃の太ももに頭を乗せ、とろんとした表情で梨理はいうのだった。
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