第四章「片想い」
(1)
*
――そこはとあるホテルの一室だった。
観光客目当ての、豪華絢爛な部屋ではない。ビジネスマンや、貧乏旅行者の泊まる簡易宿といった風情の建物だ。それも休日ならまだしも、今日は平日。他に宿泊客はほとんどいないだろう。
幾つもの部屋の中の、とある一室。
シャワールームから、女が戸を開け現れる。
胸元からバスタオルを巻き付けただけの出で立ち。
身体からまだほんのり湯気の上る、金髪頭と耳にじゃらじゃら大量のピアスが踊るその女。
アカネを含むクマノミメンバー四人を殺害した、修吾のいうところの『ヤンキー女』。
彼女の名は
蟲飼い過激派組織『七色蠍』の
美隷はちらりと時計に眼をやる。まだ時間ではないないようだ。それを確認すると、彼女は湿り気の残る自分の髪をドライヤーで乾かしにかかる。ブラシをかけて、至極丁寧に。
美隷は自分の髪が好きだ。長くて美しいブロンドの髪。美隷は母親のことは嫌いだが、自分を美しく産んでくれたことだけは評価している。
あのバカ女。「私に迷惑を掛けるな」ということしか喚けない、母親失格のキモチワルイ、クソ女。
誰のせいで、あたしがあそこまで落ちぶれなければならなかったと思っているんだろう。
美隷はいわゆる不良という奴だ。だった、というのが正確だろうか。
万引き、飲酒、売春、恐喝。荒れた未成年お得意のその手の悪事はほとんど全部試して来た。
無論、通報された経験も一度や二度ではない。その度に呼び出される母親の口癖が「私に迷惑を掛けるな」である。だが美隷にいわせれば、自分が警察の世話になるような羽目に陥るのは結局全部母親のせいだ。しょぼい稼ぎしかないくせに、家事を全部あたしに押し付けて、そしてろくでもない男を連れ込んでくる。
母が家に連れ込む男は、漏れなく最悪の男ばかりだ。どいつもこいつもクズばかり。スケベな目で美隷の身体を覗き込んでくる。
キモチワルイ。
思い出しただけで寒気がしてくる。
そんな危険な奴の出入りする家に思春期の娘が居られるわけがないだろう。だから家に帰らなくなる。だから悪い友達との付き合いが増えていく。だから悪事に手を染め、母親が呼び出される。
結局自分が馬鹿だから、迷惑をこうむるのだ。だから全部、あのバカ女が悪い。自業自得という奴だ。あたしがこうなのは、全部あいつのせいだ。――と、少なくとも美隷はそういう風に確信していた。
美隷の家庭に父親はいない。物心ついた頃から、父親は不在だった。「ウチのお父さんはどこなの?」幼いころの美隷が母にそう訊ねても、必ず話をはぐらかされた。
多分ろくな計画性もなく、あたしのことを作ったんだろうなと今の美隷は思っている。実にあのバカ女らしい。
美隷の父親は誰なのか?
母親は典型的な黄色人種だ。
目元や耳の形は似ているが、ブルーの瞳や色白い肌は全く似ても似つかない。父親から受け継いだのであろうそれらの遺伝子から察するに、恐らく美隷の父親は白人種なのだろう。
母と父はどのようにして出会ったのか。母は何故父と一緒にあたしを育てることが出来なかったのか。
美隷はその答えを知らない。
昔はいつか父親に会いたいなと思っていた。なんとかして必ず父を探し出して見せる。かつての自分はそう決意していたこともある。
だけど今はもうそんなことどうだっていい。
だって今のあたしにはあの人が居るのだから。
あの人はあたしの全部を満たしてくれる。
あの人さえいれば、他にはもう何もいらない。
取り止めのない思考をしながら、美隷の髪はすっかり綺麗に乾いていた。
再び時計に目を向ける。ふふふ、と美隷は微笑を浮かべる。
さて、提示報告の時間だ。
今日はやっとあの人の声が聞ける。あの人の声が聞きたくて。その為だけに、今日を生きて来たのだ。
ほくほくした表情で美隷はスマートフォンを取り出し、ダイヤルをプッシュする。コール音が流れ出す。
十回ほど、鳴っただろうか。
勿体ぶった風に、ようやく『あの人』は電話に出るのだった。
「あ、もしもしこんばんわ! 元気してましたか? えへ、あたしですか? あたしは今日もとても寂しかったですよ! だって、全然会ってないし……」
電話が繋がった途端、ころころと表情を変えながら美隷はまくし立てるのだった。
「ホントに? 今回の仕事が終わったら一緒に遊んでくれる? 絶対ですからね、約束ですよ! 約束破ったら許さないんですからね! えへ、やった~ワーイワーイ!」
おもちゃを買って貰った子供みたいに、ばんざいをして美隷は喜ぶのだった。
「仕事の調子ですか? ええ、順調です。はい。やだなーもうサボってなんかませんよ」
ベッドにドスンと腰を降ろし、髪をクルクル触りながらしゃべる美隷。
「そうですね、そろそろ今回の仕事も『締め』に取り掛かっていいんじゃないですかね」
クルクルを止め、美隷の表情は真剣さを帯び始める。
「はい、そろそろ向こうも攻勢に出るんじゃないですかね。ふふ、長かったですねえ。でも一緒に仕事が出来て、あたしは嬉しかったですよ。ええ、はい。じゃあ作戦の時に。はい。ああ、あと約束忘れないで下さいよ! 絶対ですからね!」
美隷は唾を飛ばしながらいった。
「……え、切らないのかって? いやー、その前に」
しばらくの沈黙。
途端、美隷の表情はとろけだした。
「いやぁんもう! あたしもですよ。大好きです……。はい、じゃあおやすみなさーい」
切れた電話に充電器を繋げて、枕もとに置く。
うーん、と腕を大きく伸ばし、そのまま美隷はベッドに倒れ込んだ。
もうすぐあの人に会える。
何日ぶりだろう。
最後に会ったのは多分一か月以上前。
連絡事体は今日のように何度か取っているけど。
「うふふ、楽しみだなあ。もうすぐあの人と会える。それが終わったら今度はデートだ。えへへ」
浮かべられたその笑みは、この世界のどこにでもありふれたごく当たり前の笑顔。
誰かに恋い焦がれる、どこにでもいる普通の少女の普通の笑みだった。
*
「昨夜未明、灰茨市の大通りで乗用車がビルに激突し炎上するという事件がありました。火災は燃え広がりビルは全焼。出火当時、ビル内は無人で、この事故による死傷者はでていません。乗用車には搭乗者がおらず、激突寸前に何者かが車から飛び降りたという目撃情報もあります。尚、この車は盗難車と見られ、警察ではこの車の出所を捜査する方針です……」
モニターの中では、アナウンサーが淡々とした調子でニュースを読み上げている。
「そう、そんなことがあったのね。とにかくあなた達が無事でよかったわ」
くるりと椅子を回し、栗子は熊雄の方へと向き直った。
「いやあ、さすがに死んだかと思いましたがね」
頭の後ろを掻きながら熊雄はいう。襲撃事件の翌日、熊雄は再び栗子の部屋に呼び出されたのであった。
「それにしても、どうにもきな臭いわね。どこからあなたの情報が『業者』の連中に漏れたのかしら?」
「さあ……」
「あなた個人が襲われたということは、私達クマノミのことまで漏れているというわけではなさそうだけど……。でも妙だわ。例の連続殺人犯にも私達の情報が漏れているのも変だし」
「誰か内通者がいるとか?」
と、やや冗談交じりに応えた熊雄だったが、栗子はじろりと熊雄を睨んでくる。
「いつもいってるでしょ熊雄くん。そういう風に身内のことを疑っちゃ駄目だって」
「ですね、失言でした……」
相変わらず真面目な人だ、と熊雄は思う。栗子はこの種のクマノミメンバーを疑うような発言を嫌うのだ。メンバー同士が疑心暗鬼になれば、その組織は必ず内側から自壊していくというのが栗子の持論だ。
とはいえメンバー内に内通者がいないということは、既に確認済みの事柄ではある。最初の赤神ネネ殺しの後、一応念のためメンバー全員の足を洗ってみたが、結果は全員シロだった。調べこぼしている人物がいる可能性はゼロではないが……。
もしクマノミに内通者がいないのなら、一体どこから情報が漏れているのか?
一息ついてから、栗子はきりりと表情を引き締める。
「でも、これで覚悟が決まったわ。『業者』の連中まで出向いてきたとあっては、もうこれ以上放置しておくわけにはいかない。問題に一つずつ対処していかないと」
「……遂に、やるんですね」
「ええ。例の犯人の素性がようやく分かったの」
いいながら栗子は紙の束を熊雄に渡す。一枚目の紙に、女の顔写真が貼られたその資料。
「これは……」
「彼女の名は羊野美隷。歳は十五。東濡川(ひがしぬれかわ)市に在住。ただしこの実家にはもう一年以上帰っていない。母親から警察に捜査届が出ているみたいね」
「……ふむ」
「それ以前の彼女はかなり荒れた生活を送っていたみたい。万引きや恐喝などで警察に聴取を受けたことも一度や二度ではないそうよ」
「凄いですね。よくあの似顔絵だけでこれだけの情報を」
「まあ、ちょっとしたコネよ……」
なんてことないように、栗子はいうのだった。
「恐らくこの一年以内に、彼女は『蟲飼い』になった可能性が高そうね」
「そして『七色蠍』に拾われたと」
「多分ね……実家を出てからの足取りが全く掴めないのは、何処かの組織に匿われているからだと思うんだけど」
「いずれにしろ、捕まえて情報を吐かせるのが手っ取り早そうですね」
「そうね、それしかないわ……」
栗子は手元のデスクに置かれた電話を手に取る。そして事務室へコールを掛けた。
「アイちゃん? そう、私よ。早速だけど、ウチの戦闘員みんなに呼び出しを掛けて貰えるかしら」
修吾は通学路を歩いていた。視界の先に、集団で歩く小学生たちを見付ける。信号で止まった所で、改めてスマホを開きメールを確認した。昨日の夜、クマノミ本部から送信されてきたそのメール。戦闘部隊員に今晩集まるよう呼びかける内容だ。
恐らく今晩、例の殺人犯捕獲に向けての作戦の発表があるのだろう。いよいよだ。修吾は決意を胸にしながら、スマホをポケットに仕舞う。
「おーい、修吾さん」
後ろから追いかけて来る、聞き覚えのあるその声。
「よう」
一之瀬は今日も元気そうに、手を大きく振りながら修吾に追いつく。
「最近よく会うな」
「ええ、偶然。偶々ですね」
「偶々なのか」
「はい。偶々」
妙に嬉しそうな様子で、修吾の隣を歩く一之瀬。
「そういえば最近は生傷が減りましたね。もう喧嘩はやめたんですか?」
「まあ、そうだな」
自分の実力も上がっているということなのだろう。手とか顔とか、分かりやすいところに出来る傷が少なくなってきた。熊雄との訓練も実力が拮抗しているとはまだまだいえないものの、時々隙を突き修吾が優位に立てる場合もある。ごく偶にだが。
「というか修吾さん、なんか最近ちょっと雰囲気変わりました? 身体の感じが引き締まったというか……」
「そうか?」
修吾は改めて自分の身体を見る。そういわれても実感はない。勿論、彼の身体は蟲刀の浸食により細胞レベルで作り替えられているし、実際に身体の構造は変化しているはずだ。だが、自分の身体の変化というのは意外と気付きにくいものだし、正直修吾には何の実感もないのだ。
「何か運動でも始めたんですかね? スポーツマンっぽいですよ」
「まあ、大体そんなところだ」
「ああ、だから生傷が多かったのか。格闘技かなんかですか?」
「そうそう、そんな感じ」
本当のことをいうわけにはいかないので、修吾は適当に返事をはぐらかせる。
「一之瀬は他人の身体をよく見ているんだな」
「え……?」
「やはりテニス部のエースだから、そういうのが気になるのかな」
「まあ、そんなトコです……」
一之瀬はやや顔を伏せ、声が小さくなる。他人の身体をジロジロ見ていることを当てられて恥ずかしいのだろうか、なんて修吾が考えていると。
「修吾くん」
学園の校門で、修吾を待っていたその人物。
「恋子先輩……」
どういう顔をしたらいいのか分からないといった風に、気まずそうに視線を逸らす一之瀬。恋子は修吾を真っ直ぐ見据えていた。
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