(2)
蒼空恋子にとっての幸せとは、赤神ネネと一緒に過ごす時間のことだった。
「今日も君は可愛いね。その服も良く似合ってる」
何処かで二人で遊びに行く時は、恋子が待ち合わせの場所に着くといつもそんな風に褒めてくれた。どれだけ恋子が早く着いたつもりでも、アカネは必ず先に待ち合わせ場所に到着していて恋子を待ち構えているのだ。
「ほら歌って。頑張ってくれ」
二人でカラオケに行ったときは、適当な番号で入れた曲を二人で歌い合うという遊びをよくやった。勿論聞いたこともないような曲が大抵流れるので、画面に流れる字幕を追いながらなんとか頑張ってメロディを付ける。本当に原曲と合っているのかどうかは分からない。
「ははは、お腹痛い。恋子ちゃんサイコーだよ」
そんな下らないことをしていても、アカネと居るとたまらなく楽しかった。一緒にいるだけで面白いし、ドキドキする。恋子の人生史上、最も幸せな時間だ。
「ふーん、なるほどね。まあ恋子ちゃんは時々頑張り過ぎちゃうことがあるからなあ。勿論、その真面目さは君の長所だけどね。ボクはそんな君が好きなのさ」
サッカー部での後輩との関係についての相談にも良く乗って貰ったりした。恋子の悩みに対し退屈そうな様子も見せず、真剣に向き合ってくれる。良く話を聴いてくれるし、アドバイスも的確だ。アカネの話を聴いてもらうだけで、恋子の気持ちはいつも軽くなった。
「ふふふ。じゃあまた明日」
にやりと、片頬を上げる笑みが特徴的な人だった。そんなアカネの笑みに、恋子は時々何か陰を感じることがあった。恋子にも見せていない、アカネのもう一つの顔。アカネは恋子の相談には乗ってくれるが、アカネが恋子に何かを相談してくれることはあまりなかった。何となく秘密主義というか、自分の印象を曖昧にしている部分が恋子には感じられた。
恋子はそんなアカネのことを、いつしか支えたいと思うようになっていた。いつかこの人の心を開きたい。もっと関係が深くなって、この人の内側を私に打ち明けてくれたらいいなと、そんな風に恋子は思っていた。
アカネとの長くはない期間に、恋子は生まれて初めて『本当の幸せ』を実感した。大好きな人が隣に居てくれるということ。胸に湧いてくる暖かい感情。アカネと共に居て、恋子は幸せだった。別にもう死んでもいいと思うくらいに幸せであり、充実していた。
だがそんな恋子の幸せの時間は既に失われてしまった。赤神ネネはもういない。恋子を置いてこの世界から永遠に居なくなってしまった。
恋子にはそれが許せない。何故アカネ先輩は死ななければならなかったのか。何故ああも無残な形で殺されなければならなかったのか。頭の中が怒りでいっぱいになる。どうしようもない、無尽蔵に溢れ出して止まらない怒り。この怒りを止めるには、あの犯人を殺すより他にはない。それが例えどれだけ良識からは外れた選択なのだとしても。そうしないと、この怒りは収まらない。恋子は必ずそれをやり遂げると決めた。
だけど、でも――
「お、おいおい、恋子ちゃん」
修吾は恋子に腕を掴まれ、学校内を引きずられる。階段を上り、辿り着いた先は例の屋上だ。恋子はそこまで来てようやく腕を離した。
「恋子ちゃん……?」
「……」
黙り込む恋子。いやに無表情で、何を考えているのか修吾には窺えない。
「ねえ、修吾くん。修吾くんの剣で私を刺してよ?」
唐突に、そんなお願いを恋子はかましてくるのだった。
「え?」
「お願い、私を刺して」
やけに悲痛な、恋子の表情。
「……どういうことだ?」
「だって私が『蟲飼い』になれば、これ以上修吾くんのこと巻き込まなくて済むでしょう?」
ぽろり、と恋子の瞳から雫が一つこぼれた。
「栗子さんから聞いたよ。また危ない目にあったって」
「それは」
確かに先日、熊雄と一緒に少しばかり危険な橋を渡ることになったが。どちらかといえば危ない目に合ったのは熊雄の方だ。とはいえあの時、熊雄ではなく修吾の方が襲われていたとしても別におかしくはないわけだが。
恋子は修吾の身体を抱き留める。その存在を確かめ、繋ぎとめるかのように恋子の両腕は修吾の身体をしっかりと捉えた。
「これ以上、修吾くんにばかり危ない目に合わせられないよ」
恋子の声は涙で震えていた。そんな風に泣きながら何かをお願いされるのは初めてだ。修吾の鼻腔に、恋子の柔らかいシャンプーの香りが届く。
「先輩が殺されて、修吾くんまで居なくなったら私……」
――ああ、よせよ恋子ちゃん。そんな風にお願いされたら、うっかり君の願いを叶えたくなっちゃうだろ?
「……駄目だ」
修吾は内に湧き出した衝動を脇にどけながら、恋子の腕をほどく。
「君も知っているだろ? 仮に俺の蟲刀で恋子ちゃんを刺したとしても、恋子ちゃんが『蟲飼い』として覚醒する確率は低い。多くの人間は蟲刀に適応できず、そのまま死んでいく」
「でも……」
「いいんだ恋子ちゃん。なにも不安がる必要はない」
いいながら、今度は修吾の方から恋子の身体を抱き留める。
「いったろ? 俺は君の役に立ちたいだけだって。俺がやりたいからやってるんだ。誰かに強制されているわけじゃない」
「……だけど」
何かいおうとした恋子に、修吾は頭に軽く手を乗せた。
「こう考えてくれ。俺は君の道具だ。俺は君のための剣になる。君の目的を果たす為、俺は奴を斬るよ」
「……そんな風には、考えられないよ」
修吾の胸に顔を付け、くもぐった恋子の声。
「でも、君はアカネ先輩の仇を取るんだろ? 絶対に」
「……」
「君にとって最も勝算の高い方法は、俺を使うことだ。どうせ他に選択肢なんかないよ」
「……」
しばしの沈黙。
「……修吾くんはそれでいいの?」
「勿論。俺は最初からそういっているはずだ」
か細い恋子の声に、修吾は自信ありげに応える。
「でも、死んじゃうかもしれないんだよ?」
「大丈夫、俺は死なないよ。必ず帰ってくる」
「ホント……?」
「当然だ」
「約束してくれる?」
「ああ。約束する」
そういってしばらくしてから、徐々に恋子の身体から力が抜けていくのを修吾は感じる。
「修吾くんのここって落ち着くね……」
抱きしめられながら、恋子はいう。さっきよりもやや緊張感のほどけた声色。その表情は修吾からは見ることが出来ない。
「ごめん、もう少しだけこうさせて……」
「いいよ」
ごめんね、と小さな声で恋子はつぶやいた。
その夜、クマノミ本部会議室には修吾を含めて十人の人間が集結していた。熊雄や栗子は勿論のこと、矢場多や四角野といった顔ぶれもある。
そしてこれらクマノミ戦闘員の他に、恋子も一緒に居るのだった。勿論恋子は本来この場には呼ばれていない。無理を言ってここに入れて貰ったのだ。
「参謀担当の四角野です。今日集まっていただいたのは他でもありません、例の殺人犯、羊野美隷についてです。我々の仲間を四人も殺した相手をこのまま放置しておくわけにはいきません。そこで私たちは極秘にこの羊野を捕まえる作戦を今日まで考案してきました。本日、皆さんの手を借りこの『羊野美隷捕獲作戦』を行いたいと思います」
そこまで一気にまくし立て、四角野はいうのだった。どこから持ってきたのか、手には学校の先生が使うような指導棒を持っている。
「え? 今日かよ? マジで?」
そう声をあげたのは矢場多である。
「そりゃあ、こういう事態の時の為の俺達戦闘部隊だからな」
腕を組み、壁にもたれながら熊雄はいった。
「そりゃそーだけどよ」
「……何か予定でもあるのですか?」
「いやあ、そういうわけじゃねえけどよ」
「では我慢して下さい。話を続けます」
ぴしゃりと無感情に四角野は言ってのけるのだった。
そして彼女は用意されたホワイトボードに何やら字を書く。丁寧に『5月10日』という文字が表記された。
「これが最初の被害者、赤神ネネさんが殺害された日です」
次に四角野は『5月25日』とボードに書く。
「これが二番目と三番目の、三条タクミさんと土屋たまさんが殺害された日」
最後に四角野はボードに『6月10日』と書いた。
「そしてこれが奈琴玲仁さんが殺害され、同時にそこにいる依城修吾さんが身体に蟲刀を産み付けられた日でもあります」
一瞬、周囲の視線が修吾に集まった。
「これらの事件は概ね二週間毎に行われているのが分かると思います。そして犯行現場は常に灰茨市駅周辺。これらのことから、犯人は『二週間毎』に『灰茨市駅周辺を通りがかったクマノミメンバー』を狙い犯行を行っているのではないかという推測が成り立ちます」
「……」
「今日は『6月24日』。前回の事件より既に二週間が経過しています。よって本日から二、三日の間に再度犯行が行われる可能性はかなり高いのではないかと推測されます」
「おおー、そうなのか!」
矢場多は感嘆の声を漏らした。
「それで? 奴が今日現れたとして、どう捕まえる?」
熊雄の問いに、四角野はしゃがみ机の上に段ボール箱を置いた。
「一人一個取って下さい」
卵型のその物体。一本の紐が伸びている。
「なんだこりゃ? うぉ!」
ビー、ビーというやかましいサイレンが部屋の中に鳴り響く。矢場多が紐を引っ張り抜いたのだ。
「矢場多くん五月蠅いです早く止めて下さい」
「……こ、これえっと、どうやったらいいんだ??」
「……」
四角野は矢場多の手からそれを奪うと、丁寧に紐を元の穴に戻した。
「と、このようにこの防犯ブザーは結構大きい音が出るので気を付けて下さい。今晩、皆さんにはこれを持ち二人一組で街を歩いてもらいます。歩くコースと組む相手はこちらで決めさせて頂きました」
手際よく、四角野は自前のレジュメをメンバーに配る。
レジュメにはメンバーそれぞれの名前が二人ずつと、一組ごとに巡回するコースが書き記されていた。
「……誰かの組が羊野美隷と遭遇したらこのブザーを鳴らして、他の奴らは音源へと駆けつけ、全員で犯人を捕まえるって寸法か」
「そういうことです。質問はありますか?」
四角野は全員を見回しながら問う。すぐに熊雄が手を上げた。
「現場から遠くに居るチームはブザーを鳴らしても聞こえない可能性があるんじゃないのか?」
「レジュメを見て下さい。タイムスケジュールに従って動けば、全てのチームが常に誰かがブザーを鳴らしても聞き取れる位置に配置されるようになっています。ですので全チーム必ずタイムスケジュールに従ってください。その点は実際に私が現地で試したので信用してください」
修吾は手元のレジュメに再び目を通す。確かに事細かく、各チームが何時何分にどこの場所にいればいいのかがずらりと列記されてある。実際にこれらを逐一確認したというのなら、相当な労力が掛かったと思われるのだが……。
四角野はどうやら随分とマメな人物らしい。
熊雄に続いて、他の者が幾つか質問を投げかける。
「もし俺が敵と遭遇したらどうしよう……勝てる自信がないなあ」
「一番近くのチームが全力で走って来れば、最低でも一分以内には駆け付けられる距離にそれぞれ配置しています。一分、持ちこたえて下さい。相手の実力はかなりのものと予想されますが、如何に相手が強くても多数対一に持ち込めば必ずこちらが勝ちます」
「もし今日殺人犯が現れなかったらどうするの? あるいはこちらの作戦を見抜かれ、相手が誘いに乗って来なかったら?」
「それはそれでいいでしょう。誰も死なずに、今日も一日が終わります。まあその場合は一週間程度、毎日皆さんにはこのコース巡回を試して貰うことになりますが……」
うへえ、と矢場多は露骨に嫌そうな顔をしたが、四角野に無言の圧力を掛けられすぐに押し黙るのだった。
さすが参謀を自称するだけあって、作戦自体はかなり念入りに立てられているようだ。他の者達の質問にもすらすらと応える。
「勿論、想定外の事態の発生も大いに考えられます。ですが現時点の情報と戦力を持って私の行える仕事は以上です。あとは皆さん臨機応変に行動してください」
「ありがとう、アイちゃん」
それまで黙っていた栗子は柔らかな声で礼をいった。
「あと、熊雄くん。犯人と対峙した時何か気を付けておいた方がいいことはあるかしら? 彼女と闘ったことがあるのはあなただけだから」
「そうですね……。確かに奴はかなりの腕前だ。一体一でやりあうにはかなり危険な相手だろう。でも所詮は一人だ。一分間逃げ切ればいいという条件なら、多分ここにいるメンバーならなんとかできるはずだ。焦って飛び掛からず、落ち着いて冷静に他のチームが来るのを待てば四角野のいう通り勝率はかなり高いと俺は思う。……って感じですかね」
「ありがとう」
熊雄にも、栗子は礼をいう
そして最後に栗子のこんな言葉で会議は閉められるのだった。
「今回、既に四人の被害者を出してしまったことについては本当に申し訳ないと思ってる。後手後手に回ってしまった私の責任だわ。奪われた命はもう帰って来ない。クマノミ代表失格だといわれても仕方がない……。でもだからこそ、お願いみんな力を貸して。もう誰も失いたくない。何としてもここを守りたいの」
それは強い覚悟の伴った眼だ。
人を率いる指導者の眼だった。
「それと、みんな絶対に死なないでね。熊雄くんのいう通り、冷静に対処すれば絶対に勝てる作戦だから。だからお願い。約束よ」
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