第一章「その恋は猛毒」
(1)
恋とは突然落ちるものだと、
まるで落とし穴を踏み抜いたみたいに、気が付けば恋に落ちている。恋とは自動的なのだ。知らぬ間に、人は誰かを好きになっている。
誰かに恋をすることに、自分の意思は関係ない。
だから恋は自分の意思ではじまるのではないし、自分の意思で止めることも出来ない。
一度落とし穴を踏み抜けば、穴の底に到達するまで落下し続けるしかないのだ。
修吾は今、恋をしている。片想い――それも随分と長い片想いだ。最初にあの娘を好きになったのは、確か小学六年生の頃だった。今は高校二年生。既に五年も片思いを続けている計算になる。
「ねえ、泣いてもいいんだよ?」
修吾は自分が恋に落ちた瞬間というのを極めて鮮明に覚えている。
「抱きしめてあげよっか」
あの時。彼女に抱きしめて貰った途端、修吾の瞳からは止めどなく涙が零れて来た。
優しい両手に包まれながら、修吾は一晩中声をあげて泣いた。
その両腕の中でだけ、修吾は思う存分泣き声をあげることが出来た。
涙が尽きるまでみっともなく、馬鹿馬鹿しく泣き続けた。
そして全ての涙が尽きた時、修吾はその少女に恋に落ちた自分に気付いたのだ。
彼女のことを守りたいと思った。
絶対に、何が何でも自分が最後まで守り抜きたいと思った。
以降現在に至るまで、彼女――
彼女と修吾はいわゆる幼馴染という関係なのだが……。
同じクラスの恋子の席を修吾は見つめる。持ち主の気配の感じられない、何となく物寂しい気分になる机だ。
今日も休むつもりだろうか、と修吾は思う。
蒼空恋子が不登校を始めてから、そろそろ一カ月になりそうだった。
「おーい」
朝、登校して自分の机に荷物を仕舞っていると、教室後方のドアから自分を呼ぶ声が聞こえた。
「修吾さーん」
振り向くと、見知ったツインテールが目に入った。
「ん? どうした一之瀬。久しぶりだな」
一之瀬ゆなは修吾の一つ下の後輩だ。修吾から頭一つ分身長の低い一之瀬は、女子サッカー部の次期エースストライカーとかいわれているらしい。一年でありながら入部早々選抜メンバーに選ばれるほどの実力の持ち主で、年相応の可愛らしい顔付きとは裏腹に、かなり引き締まったプロポーションをしている。
「恋子先輩って、今日は来てます?」
いいながら一之瀬は教室の中を覗き込む。恋子の席には当然人の気配はない。
一之瀬ゆなと蒼空恋子は同じサッカー部所属の先輩後輩という間柄だ。恋子もまた大変腕のいいプレイヤーの一人で、やはり選抜チームに選ばれている。女子サッカー部の主力選手であるらしい。
「多分今日も休みかな」
「そうですか……」
「なんか用事か? 伝言があれば俺が伝えてもいいが?」
「……」
一応、休んでる間のプリント等は修吾が恋子の家に持って行っている。最も家にこもってばかりいる様子の恋子はなかなか顔を見せてくれないし、伝言を預かった所でそれが恋子の耳に本当に届くのかどうかは微妙なところだが。
「実は、とある噂を耳にしまして」
「噂?」
一之瀬は周囲を確認してから、声のトーンを落とし話た。
「恋子先輩、部活辞めるって……」
「……」
初耳だった。
勿論、サッカー部とは何も関係していない人間にそんな情報が優先的に周って来るわけはないので、修吾がそれを知らないのは当然といえば当然だ。しかしながら好きな女子について知らないことがあると、何となく不安な気持ちになったりするものだ。平静を装ってはいるが、修吾にとってその情報は衝撃的だった。
「恋子ちゃん本人がいったのか?」
「分かんないですけど、昨日電話でうちの部の顧問に話したって」
「そうか……」
「修吾さんは何か聞いてないんですか」
「ああ、何も……」
一之瀬はややいぶかしむように首を傾けて聞いてきた。
「ホントに?」
「本当だけど。何故そんなに怪しむ?」
「えー、だって先輩と修吾さんって仲良しじゃないですか」
「まあ、幼馴染だからな」
「いつも一緒に居るし」
「いや、いつも一緒にはいないだろう」
現に今だって恋子は他人をシャットアウトして引きこもっているし、そのシャットアウトされた他人の中には修吾も含まれているのだ。
「……ねえ二人って付き合ってるんですか?」
唐突に一之瀬は訊ねて来る。
「いや、そういう事実はないな」
間を置かず、ポーカーフェイスを崩さないまま修吾は応えた。
「ふーん。そうなんですね」
「ああ」
「ふーん」
といいながら向けて来るコイツの視線はどう見ても納得していない人間のそれだな、と修吾は思った。
普段から修吾は恋子と何かと一緒に行動することが多い。
例えば授業で問題の答えが分からない恋子に解き方を教えてあげたり。
例えば昼食を持ってくるのを忘れた恋子に半分弁当を分けてあげたり。
周りからすれば、何やら色恋沙汰の臭いがする関係に見えたのかもしれない。とはいえ今修吾のいったことは事実なのだが。蒼空恋子と依城修吾は別に付き合ってなどいないし、二人は単なる幼馴染以上の関係ではない。
少なくとも恋子の方には、修吾に対する特別な感情というのは恐らくない。
そして修吾はその今の関係を望んでいるのだ。単なる幼馴染以上の関係を、修吾は求めていない。今のままの『ただの幼馴染』という関係を継続し続けることが修吾の望みなのである。
「じゃあ、修吾さんって今はフリーなんですね」
「そういうことになるな」
「ふーん」
再び相槌を入れて来る一之瀬。
今度はあまり深い意味のない、ただの相槌のようだった。
「恋子先輩、学校休んでそろそろ一カ月ですね」
「そうだな」
一之瀬は再び席の方に眼をやる。
「いい加減立ち直って欲しいものですね」
「仕方ないさ。恋子ちゃんにとってはそれだけ傷は深いってことなんだろう」
「……優しいんですね」
「まあ、幼馴染だからな。それなりに心配はする」
「……」
なんだか意味ありげな視線で一之瀬はこちらをじろりと一瞥した。
「なんだ?」
「いえなにも」
プイッと後ろを向かれてしまった。
「恋子先輩が登校したら教えてください。ちゃんと顔を合わせて話したいんで」
言い残し、一之瀬は手を振り教室を離れていった。
歩行と共に揺れるツインテールを見送りながら、修吾は一之瀬の言葉を反芻する。
そうか、恋子ちゃんはサッカー部を辞めたのか。まあそれはある意味恋子ちゃんらしい決断なのかもしれないな、と修吾は感じる。
今の恋子の内心はきっと部活どころではないだろう。そんな余裕はないはずだ。彼女はきっと――
「おはよ」
挨拶と共に教室の扉が開かれ、そして空気が凍った。
やや小柄な体型。ピンと伸びた背筋。凛々しい立ち姿。明るく健康的な雰囲気を感じさせるポニーテール。
蒼空恋子がそこにいた。
さっきまで笑い声をあげていたはずのクラスメイト達の視線が一斉に恋子に集中する。いるはずのない人物がそこに居るかのような、緊張感漂う沈黙。そんな空気は気にしていないかのように、恋子は明るい笑顔を作りもう一度挨拶をした。
「おはよー」
「恋子ちゃん、もう大丈夫なの!?」
クラスで仲の良かった女生徒が恋子に駆け寄った。
「心配したよー」
「ごめんね。迷惑掛けたね」
「ううん。迷惑だなんてそんな風に思わないで……」
それを切っ掛けに恋子と比較的仲の良かった生徒達が恋子の元に集まって来る。その他の生徒達はまた雑談に戻りはじめ、教室の空気が解け始めた。
「久しぶりー」
「大丈夫?」
「うんまあなんとか」
「あとでノート見せてあげるね」
口々に掛けられる気遣いの言葉を笑顔で受け取りながら、恋子は自分の席へと向かおうとする。
ふと、そんな恋子の視線がこちらに向いた。一瞬顔が固まり、そしてまた友達との会話に戻る。まるでこちらを見なかったかのように、修吾の存在を無視して。修吾は思った。あれは明らかに、無理をして頑張っている時の笑顔だと。周りを気遣っているつもりなのだろう。心配を掛けないよう、無理して笑っているのだ。
だけどその実、彼女の笑顔の裏にドロドロとした屈折した感情が隠れているのを修吾は感じていた。
まあ、今はまだ何も言うまい。修吾も恋子から視線を離すと、自分の机に腰を降ろした。
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