エピローグ「そんな彼女の恋のお話」

エピローグ

 表向き、そこは打ち捨てられた廃工場ということになっていた。

 郊外の端の方、田んぼや畑の多く並ぶ土地の中で、壁で四方を囲われたその場所。『ここより先立ち入り禁止。ここは私有地です。許可なく立ち入った場合、法律により罰せられる場合があります』といった、恐怖を煽る文言の書き連ねられた看板が幾つも壁に掛けられている。コンクリートで作られたその壁は頑丈で且つ高さもあり、中は見えない。錆びの目立つ薄汚い屋根だけが、壁のこちらから見える唯一の物だ。

 廃工場を所有している人物は一体誰なのか。周囲の住民たちは誰一人として知らない。そもそも工場に出入りしている人間さえ見たことがないのだ。

 だからここに近付く人間は誰も居ない。余程の物好きでもなければ、そのような場所に興味を持つ人間は居ないだろう。

 だが、もし誰かがそのフェンスのこちらから一日中じっと耳を澄まし続ければ、時折聞こえる何か奇妙なその音に気付いたかもしれない。

――そう、それはまるで泣き叫ぶ人の悲鳴のような。

 廃工場の地下には大きな空間が作られている。薄暗く、だだっ広い空間。辺りには得体の知れない金属片や、何かの機械のパーツのような物があちこちに転がっている。

 空間の真ん中。

 設置されているのは巨大な十字架だ。

 ぶ厚い造りの、黒光りする金属で出来た厳重な十字架。

 そして十字架に吊るされたその人物。手足と首はそれぞれ十字架に設置された掛け金に留められ、重々しくロックされている。少々暴れたところでビクともしないだろう。吊るされた男の口には猿ぐつわが嵌められ、「うーッ! んーッ!」という無様な叫び声が漏れ聞こえている。

 身体を固定され、涙を流しながら恐怖に眼を見開いているその人物。

 彼の名は伊草場幹夫。

 元、『蟲飼い』専門の駆除業者である。

「じゃ、次はこれを試してみましょうか♪」

 伊草場の視線の先、十堂白乃が笑いかけてくる。

 幼げな可愛らしい微笑み。

 だが伊草場はその笑みを見ながら、一層表情を引きつらせる。だって白乃の手にはチェーンソーが握られていたから。

 白乃の身体の半分以上ありそうな、巨大なチェーンソー。あらゆるものを切り刻むためのぎざぎざと尖った刃。

「そうですね、とりあえず腕一本くらいやっちゃってください♪」

 白乃からチェーンソーを受け取ると、梨理はスイッチを入れ、凶悪な刃が鈍い唸り声を上げる。

「うーッ!! うーッ!!」

 首を振り、必死に叫ぶ伊草場。だが彼の懇願は容認されない。

 既に彼の身体はもう、ただの実験材料に過ぎないのだ。

 淡々とした調子で梨理は刃を伊草場の腕に触らせる。やや抵抗があってから、血を飛び散らせ、刃は伊草場の腕へと喰いこんでいく。あまりにも簡単に。

「ヴーッ!」

 くもぐった声を発しながら、伊草場の両眼は白目を剥いている。余りの激痛に、最早正気を保てないようだ。

 やがてぼとり、と伊草場の片腕が地面に落ちる。梨理はチェンソーのスイッチを切ると、今切り落とされたばかりの腕を拾う。

 意識が飛び、がくりとうな垂れたままの伊草場。梨理は拾った腕を、断面を合わせ切り口に触れさせるのだった。

 しばらくすると「じゅっ」と何かが焼けただれるような音がして、触れ合わせた場所から僅かに白い煙が上がり始めた。

「うほーっ! 凄いですね、既に細胞の自己治癒作用が始まってるなんて!」

 興奮した様子で、白乃は鼻息を荒げる。

「やはり肉芽組織の活動がかなり活発になるようですね……ふむふむ成程……」

 白乃は手に持ったタブレットにに素早く情報を書き記すと、梨理に新しい指示を出す。

「とりあえずギブスであの腕、接着させておきましょうか」

「了解です、先生」

 梨理は手早く伊草場の腕を固定していく。

「さて、次はどんな実験をして遊びましょうか」

 いいながら伊草場を見つめる白乃の表情は、新しいおもちゃを見付けた子供のそれだった。


 蒼空恋子は待っていた。

「すまない恋子ちゃん、例の犯人を君の前に連れてくることは出来なくなってしまった……」

 放課後。

 学校屋上。

 依代修吾は、恋子の前でそういいながら頭を下げた。

 修吾の話によるなら、例の殺人犯、羊野美隷は殺されたらしい。修吾自身の手によって。

「そう、なんだ……」

「やらなければ、こっちが殺されていた。本当にすまない……」

 あの夜行われたという七色蠍によるクマノミへの襲撃。栗子さんも四角野さんも、結果的にクマノミのメンバーは全員殺されてしまったそうだ。生き残ったのは、修吾と熊雄、そして恋子だけ。最も恋子は『蟲飼い』ではないし、七色蠍のターゲットには成り得なかったのかもしれないが。

「いいよ修吾くん。そんなこと気にしないで。それより君だけでも無事でいてくれて良かったよ」

「……俺は君との約束を破ってしまった」

「ううん。大丈夫」

 申し訳なさそうに謝る修吾に、恋子は優しく声を掛ける。

「それよりこっちこそごめん。結果的に、嫌なことを全部修吾くんに押し付けることになっちゃった……」

「……」

「それと、ありがとう。私の復讐を、成し遂げてくれて……」

「恋子ちゃん……」

「『蟲飼い』じゃない私には、羊野美隷を倒すことは難しかったと思う。復讐を成し遂げられたのは、修吾くんのお蔭だよ。本当にありがとう……」

「……」

 修吾はやや拍子抜けたような表情をする。

「修吾くんにはどれだけ感謝してもし切れないや……」

「ほ、ほんとにいいのか恋子ちゃん?」

「……ん?」

「いや、一応もしかしたら恋子ちゃんに一生嫌われるかもしれない、くらいの覚悟でここに来たんだが……」

「じゃあ、不満なのかな?」

 問いかける恋子に、修吾は慌てて首を振る。

「いや、そういうわけじゃない。怒ってないならそれでいい……」

「当たり前じゃん。修吾くんと何年幼馴染やってると思ってるの? 切っても切れない縁じゃん、私達」

「そう、だな……」

 吹っ切れた恋子の様子に、渋々といった調子で修吾も納得しているようだった。

「クマノミのみんなは残念だったね……」

「……仕方ないさ。俺たちにはどうにも出来なかった」

「アジトは酷いことになってるの……?」

「一応、一通りは熊雄センパイが処理したらしいがな……」

「そっか……」

「……」

 暫しの沈黙。予鈴を告げるチャイムが鳴り響き、無言の二人にはやけに大きく聞こえるのだった。。

「もうそろそろ、昼休みも終わりだね。教室に戻らないと」

「そうだな」

 恋子と修吾は扉を開け、屋上を後にする。

 だが。

蒼空恋子は思うのだ。

 あの夜、事件の後恋子はオフィス入口に横たわっていたらしい。熊雄に揺り起こされた時、既に朝日が昇りかけていた。

 意識が落ちる前の僅かな記憶。

 恋子を気絶させた人物。あれは誰だったのか。

 理性はそれを否定する。だって彼女はもう死んだのだ。幽霊になって、恋子を助けてくれたとでもいうのだろうか。

 でも一方で。

 あの声。あの雰囲気。

 あれは間違いなく本人だ。恋子の感覚的な部分がそれを確信していた。

 蒼空恋子は待っている。 

 一番大切な人が、いつの日か自分を迎えに来てくれることを。


「どうやら七色蠍はもうこの街から撤退したらしい。俺たち二人を取るに足らない存在と見做したようだ」

 最後に会った時、熊雄は修吾に向ってそういった。

「こうして事件は闇に葬られるわけか……。例のニュースも奴らが流したものなんだろうな」

 事件の夜、修吾と熊雄を除きクマノミメンバーは全て殺された。約七十名の人間がこの街から消失したわけだが、これらの死体は一つたりとも発見されていない。恐らく七色蠍の連中が何一つ証拠を残さないよう、綺麗に後処理をしたのだろう。あれだけ血で汚れていたアジトも、後に熊雄が隠れて覗きに行った際には事件前の状態に戻されていたそうだ。また、メンバー七十名は全て行方不明扱いにされている。ニュースによるならば、これらクマノミに関与していた人間は集団失踪をしたことになっているらしい。団体代表の優木栗子が、メンバーを連れて自分諸共何処かに煙のように消えてしまったと。警察では栗子を重要参考人として捜査しているそうだ。

 恐らくこれも七色蠍が情報操作を行ったのだと思われるが、そうだとするなら七色蠍は修吾の想像以上に社会的な権力を持った組織ということになる。

「俺はこれから地下に潜る。全国の穏健派蟲飼い組織と連絡を取りながら赤神ネネの行方を追うつもりだ……」

「そうか。あいつを見付けたら俺に連絡を寄越せ」

「ああ、分かってる……」

 いいながら、熊雄の視線は修吾を越えてどこか遠くを向く。

「俺達は同盟だ。俺達の手で、必ずあの女を殺す。絶対だ」

 鼻の根元に皺を寄せ、歪んだ顔で熊雄はいう。憎悪の籠ったその表情。

「なるべく早くしてくれ。恋子ちゃんに奴が接触をする前に、あいつを殺したい」

「ふん……」

 熊雄は険しい表情のままいった。

「お前は鍛錬を怠るなよ。『蟲毒』を使いこなせるようになっておけ。今のままでは二人がかりでも赤神ネネにはまず間違いなく勝てない」

「お前こそ、メンタル鍛えとけよな。実戦で使い物にならなきゃ組んでやってる意味がないからな」

「うっせーよ……」

 イラつくように、熊雄は頭を強く掻いた。

「羊野美隷に勝てたのも結局運の要素が大きい。あいつは実力は強いが、実戦経験が少なかった。ああいう形で奴の背後を取れなければ死んでいたのは俺たちだっただろう」

「……まあ、そうだな」

 渋々、修吾は頷く。

「怪我はもういいのか?」

「まあまあだな。まだ少し痛むよ」

 修吾は腕の包帯を取って見せる。抉られた傷は、大分肉が盛り治しつつある。この調子ならもう三日もすれば完全に回復するだろう。

「まあ、まずはその傷を治せ。じゃあな、俺は行く」

 それだけ言い残すと、熊雄は背を向け歩いて行くのだった。

 修吾は包帯を巻きなおした腕をぎゅっと握り込む。

 やるべきことが出来た。

 強くならなければならない。

 恋子ちゃんが気付く前に。

 赤神ネネは、俺がこの手で必ず殺す。絶対に。

 それは修吾の、自分自身との契約だった。


 恋とはジェットコースターに乗るようなものだと、一之瀬ゆなは思うのだ。

 一度ジェットコースターに乗ったら、途中でどれだけ恐くなっても降ろして貰うことは出来ない。あまりのスピードと高さに絶叫し、どれだけ恐怖に震え泣き喚こうとも、一度乗ったら途中で止めることは無理だ。最後まで乗り切るしかないのだ。

 そしてそれは恋も一緒なのだとゆなは思う。

 一度誰かに恋をしてしまったなら、失恋するなり、実るなり、或いは気持ちが冷めるなり。兎に角どこかに辿り着かない限り、恋という感情にいつまでも振り回され続けなければならない。途中で降りることは出来ないのだ。誰かを好きになってしまったら、後はもう行きつくところまで行ってしまうしかない。

 ゆなは今、恋をしている。

 ああ、なんであんな人のこと好きになっちゃったんだろ。私って本当に馬鹿だ、とゆなは思っている。それはゆなの片想いだ。

 多分、この恋は実らない。相手には好きな人が居るから。だけどそれでもゆなは彼のことを好きになってしまった。だから仕方がないのだ。好きになっちゃったのだから。しょうがない。気付いたらジェットコースターに乗ってしまっていたのだ。

 登校中、ゆなは意中の彼の後ろ姿を見付ける。偶々ではない。大体彼がいつもその道を通る時間を狙って、ゆなは登校時間を調整している。ただいつも時間通りぴったりというわけにはいかないので、会える確率は五分五分といったところだ。

 それくらいでいい。不自然にならず、さり気ない程度でいい。

 ゆなの少し前を歩いている彼。今日は腕と足に包帯が巻かれ、やや引きずるようにして歩いている。また怪我をしたのだろうか。最近彼は何かとよく怪我をしている。どんな理由があるのかは良く知らない。聞いても教えてくれないから。

 全く何をやってるんだろう、とゆなは心配な気持ちになる。あまり自分の身を顧みない人なのだ。

 でもそんな心配な気持ちに、ゆなはどうにか蓋をする。だってそれをうるさく言うと鬱陶しがられることをゆなは良く知っているから。

「修吾さん、おはよーございます」

 つとめて自然な風に、ゆなは彼に声を掛ける。

「……おう、一之瀬か。良く会うな」

「偶々ですね」

「だな」

 ゆなはさり気なく修吾の隣に並び、一緒に歩き出す。

「どうしたんですか、その怪我。またなんか酷くなりましたね」

「まあ、色々な……」

 自分の腕を見せながら修吾は応える。

「色々ですか」

「色々、だ」

「……」

 ちょっと気まずい沈黙。

「ま、ほっときゃその内治るさ」

「はあ……」

 どう考えても、ほっといて治るような傷ではないだろう。多分相当無理をしているはずだと思うんだけど。

 はぁ、とゆなは内心ため息を付く。

 きっとその傷は、恋子先輩の為に出来た傷なんだろうな。

 何をやっているのかは知らない。でもこの人は、好きな人の為に一生懸命頑張っているのだろう。自分がボロボロになっても。

 そんな修吾のことを見ていると、ゆなは思わずどうにかしてあげたくなってしまうのだった。

 ウザがられるので、その感情は表に出さないけど。

 あぁ、でも怪我している人が居て、その人のことが心配になるのは当たり前のことなのに。

 どうして私はその気持ちを隠さなくちゃいけないんだろう。

 私って、どうしてこんなややこしい人のこと好きになっちゃったんだろ?

 と、一之瀬ゆなはもう何度目か分からない疑問を自分に投げかけるのだった。

「ホント、何やってんだろ私……」

「ん? 何が? 悩み事でもあるのか?」

 思わず出てしまった独り言に、修吾が反応してくる。

「ま、まあ、そんなとこですね」

「何だ? 力になれそうなことなら相談に乗ってやらなくもないぞ」

「……んー。修吾さんには、秘密かな」

「何だよそれ……」

 やや不満そうな修吾の顔。まあ、そのお預け状態を私はあなたからいつもいつも喰らってるんですけどね、とゆなは思った。

「いつか時期が来たら教えますよ」

「そうかよ……」

 いいながら修吾の表情は少し気が抜けたように、柔らかくなるのだった。

「ん? 今なんで笑ったんですか?」

「いやあ、なんというか……」

 一瞬言葉を止めてから、修吾は続ける。

「最近色々忙しかったんだけどな、お前の顔を見るとなんか落ち着くよ」

「……」

「なんかいつもの日常に帰って来たって気がするな」

「……」

いや、分かってる。違うんだ。落ち着け私。

 ゆなは慌て顔を下に向ける。

 この人は他意があってそんなことを言っているわけではない。それは私に対して特別な好意があるという意味ではない。本当に何ら大した意味なんてなくて、ただ思い付いた言葉をそのまま発しているだけなのだ。

 そうだ、分かっている。

 だから落ち着け、落ち着くのだ私。

 ゆなは必死に自分に言い聞かせる。

 だけど「一緒に居て落ち着く」だなんて、まるで仲良し夫婦みたいな台詞ではないか……っ!

 なんて、そんなことをついつい妄想してしまい、ゆなは自分の顔の温度が上昇し始めるのを意識する。

「あれ、お前なんか顔赤くなってないか?」

「な、何でもないですよっ!」

 声を力ませながら、ゆなは修吾と目線を合わせず早足になる。

「ほ、ほら、走らないと、遅刻しますよ!」

 いいながら突然ゆなは空を切って、一目散に走り出すのだった。

「……なんだあいつ?」

 修吾は訳が分からんといった風に首を傾げながら、やや遅れてゆなの後を追うのだった。

――これはそんな彼女の恋のお話。

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恋と毒蟲 足達楯彦 @kitaguchi

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