(3)
「何かおかしくないか……?」
車から弁当を降ろしながら、修吾はふと話す。買い出しが終わり、車をアジト駐車スペースに付けたところだった。
「おかしいって、何が?」
「何か……あまりにも人の気配がしないというか……」
アジトを見上げながら修吾はいう。熊雄は修吾の視線を追って建物を仰ぎ見るが、良く分からんという風に首を振った。
「四角野さんが電話に出なかったのも気になるし」
「……業者連中の時もそうだったが、お前の勘は当たるからな」
いいながら、熊雄は人差し指を口に当てる。そして修吾は熊雄が無言で指示する通りに、荷物をその場に残し忍び足でアジトへと向かう。
「蟲刀を抜け」
熊雄の囁きに従い、修吾も蟲刀を抜く。気配を絶ちながら二人はアジト内部へ侵入する。
しばらく歩くと――
「……っ!」
力なく倒れた一人の影を発見する。
「……大丈夫か?」
熊雄がしゃがみ人影に呼びかけるが、反応はない。首があらぬ方向に曲がっていた。背後から隙を付いて襲われたのだろうか。既に死んでいる。修吾も知った顔だ。捕獲作戦の際、共に闘った男の一人である。
「……何が起きてる?」
「恐らく、羊野が脱走したんだろうな」
「……ちっ」
静かな廊下に、熊雄の小さな舌打が僅かに響いた。
「マズいな。この分だとここに居た奴らは全滅じゃないのか?」
「その可能性が高そうだ……」
苦々しげな表情で熊雄は立ち上る。修吾は冷静に考えた。――これはチャンスじゃないか、と。
「どうする?」
「……とりあえず様子を伺うぞ」
辺りへの警戒を強める熊雄に、修吾は付き従う。
――今ならあの女を殺せる。
――いざとなったら”アレ”を使って。
そんな思考に少しだけ頭を割きながら、修吾もまた周囲を注意深く眺める。何せ相手は化け物染みた強さだ。油断は命取りである。
「ここが匂うな……」
熊雄が立ち止まったのは休憩室の前だ。作戦終了後、クマノミ戦闘部隊が待機していたはずのその場所。ドア一枚隔てた向こう側からは、今は濃厚な血の匂いが漂っている。
「……羊野が居るのか?」
ほとんど聞こえるか聞こえないかの声で熊雄に囁きかけながら、修吾はそっと扉に耳を触れさせる。
「よしよし。もう一頑張り頼むよ」
漏れ聞こえた、聞き覚えのあるその声。
修吾の中で、記憶のデータベースから引き出された音声。今聞こえた声に良く似たその人物。この声は、まさか。だがそんなはずはない。あいつはもう死んだのだ。
「はあ……人が折角アカネさんといちゃいちゃらぶらぶしてるっていうのに、マジで空気読めよなカスが」
「マズい、避けろ!」
あとコンマ一秒でも回避が遅れていれば、修吾の身体はバラバラだった。
崩れ落ちたドア。
そしてドアの向こう側の、その人物。
「……なんでお前が、ここに居る!」
嫌みな笑みを貼り付けた、見知ったその顔。
赤神ネネに対して、修吾は怒鳴りつける。
死んだことになっていたはずのその女。
負傷したのか、猫背気味に腕を抑えている。
他人の空似とか、双子とか、そういうのでは断じてない。
修吾の直感が告げていた。
あれは赤神ネネ本人だと。
どういう手段を使ったのかはしらない。
だが奴は、死んでなどいなかったのだ。
そしてこの女が今この場所に存在しているというその意味。
「――つまりお前が全ての黒幕だったってワケだ」
「まあ、そういうことだね。修吾くん、君も中々勘がいい」
あのいけ好かないことこの上ない、例のニヤケ顔で赤神ネネは述べるのだった。
「お、おい、どういうことだ……」
修吾の隣で、熊雄が偉く震えた声でしゃべる。
「なんで、お前の石化が解けてるんだ……?」
部屋の中には、かつて仲間だったはずの人間の死体が三つ転がっている。
だが熊雄の視線はそこには向いていない。
視線の先。
羊野美隷の背後にある”それ”。
桃色の、砕け散った蟲刀の刃と柄。
「……それはなんだよ。おい?」
熊雄はその残骸を呆然と見つめながらつぶやく。
「決まってるだろ? 意味するところはよ?」
美隷は挑戦的な視線で、熊雄を見下ろすように告げた。
「そんなはずはない……あり得ない……」
熊雄は腰を降り、膝を付く。その先を聞きたくないとでもいうように、熊雄は指で耳を塞ぐ。
「優木栗子は死んだ。ボクが殺したんだ」
「嘘だぁあああああああ!!」
アカネの笑みに、熊雄は絶叫した。指の耳栓では音を防ぎきれなかったようだ。
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だぁあああ!」
壊れたCDプレイヤーみたいに、熊雄は連呼する。みっともなく。汚らしく。涙と鼻水を垂らながら。頭を抱え、その指は皮膚に喰いこみ血が噴き出す。
「あり得ない。そんなことはあり得ない。栗子さんが死ぬわけない。だってあの人は強いんだぞ? 最強なんだぞ? 嘘だ。そんなのおかしい。間違っている。嘘だ。おかしい。嘘だ。嘘だ……」
「美隷ちゃん。悪いがこの二人の処理をお願いしていいかな? この程度の相手なら君一人で充分だろ? ご覧の通りボクはもうまともに戦闘が出来る状態じゃない。君の足手まといにしかならないだろう」
「了解っす。任せて下さい!」
「ボクは例の場所に居るから、後で拾いに来てくれ」
背後を向け、窓の方へと向かうアカネ。
「おい待て」
修吾はアカネの背中を睨み付ける。害意を込め、確固たる殺意を持って。面倒くさそうに、アカネは振り返る。
「なんだい? ボクはもう疲れたから一刻も早く休みたいんだけどね」
「恋子ちゃんはどうした。栗子さんと一緒にいただろ?」
「……そんなこと君が知ってどうするのさ? どうせ君は今から死ぬんだぜ」
ニヤニヤと、可笑しそうにアカネはいう。
「いいから答えろ」
「……どうしたって、どうもしてないに決まってるだろ。だってボクは恋子ちゃんのことが大好きだからね」
新しいおもちゃを自慢する金持ちのガキみたいに、アカネは修吾に告げるのだった。
「お前の目的はなんだ? 恋子ちゃんを、どうしたい?」
「……教えて欲しいかい?」
そして嬉しそうに――心の底から嬉しそうに、これまで見たことない程のニヤケた表情で赤神ネネは自分の動機を語るのだった。
「ボクはね、可愛い女の娘が大好きなんだ。女の娘ってもうその存在自体、可愛さの極地って感じじゃん。素晴らしいよね。最高だよね、女の娘。ボクはね、一人の蟲飼いとして世界中の可愛い女の娘に、ボクの子を孕んで欲しいんだ。蟲刀を刺してね。みんなにボクと同じ蟲飼いになって欲しい。あ、みんなっていっても『クマノミ』みたいなクソな組織にいる連中は別なんだけどね。共存派? 何それ頭湧いてんのかって感じだよね。ボクらは選ばれた人間だ。人間を超越し、蟲飼いになった選ばれし者なんだ。選ばれたボクらの使命は、選ばれなかった旧人類の抹殺と、蟲飼いとして覚醒する可能性を秘めた女の娘達を無事全員覚醒に導いてあげることだよね。まあ、女の娘以外の人間もついでに選別してあげなきゃいけないわけだけどさ。優木栗子も見た目は可愛かったし正直結構タイプだったけどさ、流石にあの中身はないよね。ドン引きだよ。この人何寝ぼけたこといってんのかなって思ったもん。人類と蟲飼いとの共存って、そんなこと出来るわけないじゃん。というか、そんなことしたくないし。いやー、あの人は残念だったなあ。可愛かったんだけどなあ。あ、ごめんねボク喋り過ぎてるよね。悪い悪い、この話になるといっつもこうなんだ。おかげで塞ぎかけてた傷がまた開いたみたいだよ、げほげほ」
口の脇から垂れた血を手で拭いながら、赤神ネネは続けた。
「まあそういうわけだから、恋子ちゃんにはちゃんとボクの子を孕んでもらう予定だから君は安心して死んでくれ修吾くん。ボクの勘ではあの娘は間違いなく覚醒の可能性を秘めているよ。いやー、これに関してはボクの勘って百発百中なんだ。間違いない」
「……良く分かった」
長々と饒舌に語り終えたアカネに、修吾は淡々と応える。
「俺の勘は間違ってなかった。お前は危険だ。恋子ちゃんと再び出会うことのないよう、必ず俺がこの手で殺す」
「はあ? いやだから君はこれから死ぬんだってば」
いいながら、アカネは窓際に身体を寄せる。
「んじゃあとは任せたよ美隷ちゃん。このミッションが終わったら後でいいことしようぜ」
それだけ言い残すと、窓を開きアカネは外へと落下していった。
「むひょー! いいこと!」
興奮した様子で、美隷は語る。
「いいことって、え、何? 何なの? 期待しちゃっていいのかな? よーし、頑張ってとっととゴミを片付けちゃうぞ☆」
鼻息を荒げながら、美隷は蟲刀を構える。合わせて修吾もまた、刀を持ち直し握る。
「嘘だ……嘘だろ……嘘だといえ……嘘だ……嘘だ……」
熊雄は茫然自失といった様子で、目が虚ろだ。表情が死んでいる。戯言を繰り返すばかりで、とても戦力にはなりそうではない。
「なんなのお前? 一応やる気なの? どうせ死ぬんだからさ、諦めてとっとと土下座すれば? そしたら痛くないように優しく首刈ってやるのに」
刀を構える修吾に、羊野美隷は問いかける。
「うるせーよ。俺はあの女をとっとと追いかけて殺してえんだ。下らねーこといってねえでどけ」
「はあ? お前みたいなキモイ奴の血肉でアカネさんの蟲刀を汚すのは勿体ねえだろーが。お前なんてあたしで十分なんだよカスが」
「……ケッ」
――にらみ合う二人。
――そして。
――命の潰し合いが始まる。
最初の一太刀を防げたのは、殆ど奇跡に近かった。
視界から美隷が消失したかと思った瞬間。
修吾は咄嗟に蟲刀で身体を守る。守りの構えを取るのと、美隷の太刀が修吾の蟲刀に触れたのはほぼ同時の出来事だった。
閃光のような美隷の一太刀に、改めて修吾は相手の桁違いの強さを実感する。
(コイツ……速いっ!)
速さだけなら、栗子と同等かそれ以上かもしれない。捕獲作戦の時よりも断然に早い。あの時は手を抜いていやがったらしい。
「ちっ。まだ腕の感覚がちょっと鈍いな……。だが、それでもあたしの太刀に反応出来るとは思わなかった。そこに転がってる奴らよりは見所あるかもな、お前」
これでもまだ自身の能力を百パーセント発揮できているわけではないというのか。修吾は戦慄する。
美隷は後方に飛んで下り、そして履いていたスリッパを脱ぎ捨てる。裸足になった。
「こっちも本気で行く」
言うが早いが、美隷の存在が消える。後方天井の角に飛んだのだ。なんとかやっと、修吾が美隷の動きを視線で追えたと思ったその瞬間。
今度は懐まで飛んでいた。
美隷が。
振り向き様放った一撃。
半分体位を崩しながら、無様に避けるのがやっとだった。
「……くッ」
更に美隷の追撃。
修吾を刻まんとする連続する太刀筋。
目視しながらではとても追いつけない。
殆ど勘で、なんとか刃を防ぎながら修吾は後方へ転げ避ける。
「……なんちゅー、速さだよ」
急いで立ち上がり、体制を立て直す。恐ろしいスピードと手数の多さだ。とても同じ人間とは思えない。
修吾の左手、肘よりやや上の部分に切り傷が出来ている。
躱しそこなった美隷の太刀。
その刀傷が、むくむくと膨張する。
「……がッ!」
――美隷の蟲刀の毒。
修吾の肉が弾けた。燃える痛みが修吾を襲う。かなり深く抉れた。ちらりと骨が覗き見えている。
「くっ……。おい、前の時より強く抉れてねえかこれ?」
「ん? ああ、あの時は手抜いてたからね。これがあたしと蟲刀『翅隠思(はねかくし)』の本気」
「……」
冗談ではない。
たったあれだけの僅かな傷で、これだけのダメージ。
もっと刀傷が深ければ致命傷になりかねない。
修吾の利き腕は右手なので、まだ刀を握ることは出来るが、もう左は使い物にならない。
ただでさえ圧倒的な実力差があるのに。
ましてや腕一本引きずって闘わなければならないなんて。
既に勝負は決したようなものだった。
どうやっても、勝敗は覆らない。
依代修吾に、最早勝ち目はなかった。
――アレを使う以外には。
「どうした? もう終わりか? 力の差は明確だもんね。諦めたんなら楽に殺してあげるけど?」
「……うっせーよ」
吐き捨てるように修吾はいう。
「……嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ」
虚ろな視線のまま、熊雄は呟き続けている。縋るように、一心不乱に。その呪文を唱えれば、目の前の現実はなかったことになるとでもいうように。
「おいおい、熊雄センパイよ……」
ちらりと、熊雄の方を流し見ながら修吾は話す。
「片想いしていた女が殺されて、ショックなのは分かるが……。お前は馬鹿なのか? 今、あんたは何をしている。分かっているのか? お前の愛する優木栗子は死んだ。あの赤神ネネとかいうクソ女が殺したんだ。なのにお前は今メソメソ泣いてる場合なのか? そんな余裕がお前にはあるのか? お前は何だ? 可哀想ぶりっ子しているだけのクソ野郎なのか? 違うだろ。そうじゃない。そうじゃないだろ。そんな場合じゃないはずだ。あんたがとるべき行動はもう決まっているだろ? そうだよ、復讐だ。あんたはあんたの愛する人間を殺した赤神ネネを殺すべきだ。決まっている。他にやるべきことなんてあるわけがない。そうと決まったら今すぐ立ち上れよ馬鹿が。そして俺を手伝え。赤神ネネを殺す為に、まず手始めに目の前のこの女を殺す」
「はあ?」
「うるせーよっ! 黙れっ!」
どん、と。
両手を地面に叩き付け、熊雄は怒声を挙げる。
「俺は……俺は……栗子さんが……俺は……何のために……俺は……栗子さんを……俺は……俺は……どうすれば……俺は……俺は……」
虚ろな視線のまま手足を地面に力なく着き、熊雄はうわ言を繰り返す。
「あーあー、やだねえ。キモイキモイ。こういうネチネチした男ってあたしマジ嫌いなんだよね。もう、飽きたわお前等見てんのも。流石にそろそろ片付けないと……ん?」
修吾が構えた蟲刀。
ポタポタと、刃に液体が浸透し始める。
「何それ、毒? 今さらそんなもん出してどうすんの? 当たらなきゃ意味ないじゃん。お前のトロくさい太刀があたしに当てられると思ってんのか?」
それには応えずに、修吾は蟲刀の刃を寝かせ。
「俺はこの蟲刀に『
その刃を自分の手首に触れさせる。
――あの時、学校で見付けた鼠。
修吾はこの鼠に秘かに自分の蟲刀の毒を打ち込み、実験をしていたのだ。
熊雄には「まだそれを知るのは早い」と釘を刺されていたが。
羊野美隷を一人で殺すつもりの修吾にとって、自分の武器の効能を知らぬまま戦場に身を晒すなんて愚の骨頂だった。
さて、毒を打ち込まれた籠の中の鼠はどうなったか――?
「なんのつもりだ……?」
「『朱蟻』の持つ毒の能力は……」
そして。
刃は修吾の手首を軽く斬りつける。
「――身体強化(ドーピング)だ」
「……っ!」
美隷が身構える間もなく。
瞬く速さで、修吾は美隷に斬り掛かっていた。
咄嗟に刃を立てる美隷。
交差する刃と刃。
だが。
「あ、あたしが押し負けているだと……?」
美隷は全力で刀を握っている。なのに、それでも美隷の刃の方が押されているのだ。しかも修吾は右手一本で刀を握っているというのに。
――鼠は異常な身体能力を発揮し、籠の中を忙しく走り周った。何度か籠に体当たりをかましそして。最後には籠を破壊し、鼠はそのままどこかへ去ってしまったのだ。
「ちっ……」
美隷は後方に引き、体位を立て直そうとする。
立て直そうとしたが、しかし。
修吾は美隷を逃がさない。
「おらっ!」
修吾の斬撃。
キィインと。
独特の金属音を立て、再び重なる二枚の刃。
「おらぁっ!」
同時に損傷した左腕で放たれる拳。拳は美隷の腹を直撃する。
「げふっ……!」
肺から空気を漏らしながら、美隷の身体は宙に浮かぶ。修吾の渾身のパンチだ。吹っ飛んだ美隷の身体は、一度部屋天井にぶつかってから地面に落下する。
「げはッ……クソが……」
咳き込みながら、腹を押さえ立ち上る美隷。ダメージは大きいらしく、大量の血が口から零れる。内臓に傷を負ったらしい。
よし、行ける。修吾は確かな手応えを感じていた。純粋な戦闘技術は美隷の方が上だが、今の修吾には相手を力押しで抑え込めるパワーがある。このまま早く決着を付けなければ……。
すぐさま追撃を放とうとする修吾だが。
「うっ……」
修吾は足を止め、頭を押さえる。
ずきずきと、頭蓋骨が割れそうな痛みが修吾を襲う。
脳みそに産み付けられた何かの生物の卵が却って、頭を食い破り生まれ出ようとしているような激しい頭痛。
今にも頭が割れそうだ。
立っているだけで辛い。
頭を抑えながら、修吾は残る手で何とか刀を構える。
「なんだ……副作用か?」
嫌みな笑いを浮かべながら、美隷はいう。
毒の副作用。
無理な身体強化の代償。
そう、修吾の蟲刀の能力には激しい頭痛が伴うのだ。
気が狂いそうな程の、著しい偏頭痛。
だからこそ、この毒はなるべく使いたくなかった。そして使用したからには、頭痛が始まる前に勝負を決めたかった。
さっきの一撃で、美隷を殺せないまでも、戦闘不能状態に持ち込めなかったのは厳しい。
だがそれでも、ここで死ぬわけにはいけない。
やるしかないのだ。
「くっ……」
足元をふらつかせる修吾。
「なるほど、お前は確かにパワーは強いみたいだが……」
血痕を手の甲で拭う美隷。腰を降ろし、構えを取る。
「スピードはあたしの方が速い」
地を蹴り、低い姿勢で美隷は駆ける。
その速さは、修吾の眼には捉えられない。
痛みでぼやける頭を抱えながら、咄嗟に後ろに下がるが。
「ぐぁ……」
右脚太ももよりやや下の辺りに作られた切り傷。
その傷は丸々と大きく膨らみ。
そして破裂する。
「はあ……はあ……」
ももの皮膚が大きく抉れて、血と肉が辺りに飛び散った。
この損傷では、もう脚を踏ん張ることも出来ない。
「はあ……はあ……」
頭と腕と脚。鈍い痛みが、修吾の精神を摩耗させる。必死で繋ぎ止めておかなければ、今にも意識が飛びそうだ。
まだ正気を保てていることさえが奇跡に近い。
「あんたは良くやった。褒めてやろう。ここまでやるとは思わなかった。良かったね、死ぬ前に自慢できることが出来て」
「はあ……はあ……うっせー、カス」
ぼやけた意識で、なんとか地に足を付きながら修吾は応える。
「……とどめだ。この一撃で終らせる」
刀を構える美隷。
最後の斬撃にするつもりらしい。
何か、何か手はないのか。
かすれたかけた意識の中で、それでも修吾は何とか頭を働かせようとする。
俺は。
俺はまだここでは絶対に死ねない。
俺にはまだやらなくちゃいけないことがある。
俺は赤神ネネを殺さなければらない。
だから俺は、まだここで死ぬわけにはいかない。
「……死ね」
蟲刀を振りかぶる美隷。
その一撃は一瞬だ。
肩口から入った刃は、修吾の身体を真っ二つに裂く。
――そのはずだった。
いつまで経っても、美隷の刀は修吾に到達しない。
――何故なら彼女の腕はもう切断されていたから。
「今だ、依代やれッ――!!」
蟲刀『厳五牢』で美隷の片腕を切断した熊雄は、がちりと抱き付くように両腕で美隷を拘束する。
「お、お前! 最後までウジウジメソメソしてやがれよクソが――ッ!!」
美隷の残った腕が、咄嗟に熊雄の首を掴む。五本の指が熊雄の皮膚に強く喰いこみ、呼吸が出来ない。
だがそれでも熊雄は腕を離さない。
そして。
「ふんッ!」
「あッ……!」
修吾の最後の一撃。
立っているのもやっとな今の修吾にとって、それはまさに最後の一撃だった。
その一閃は、美隷の首筋を捉え、そして――
「がっ……!」
ごろりと。
羊野美隷の首が床を転がる。
「馬鹿なッ……」
赤い鮮血をまき散らしながら、美隷の身体は膝を付き、前のめりに倒れる。ばたんと。無防備に。
「アカネ……さん……」
首は暫くコロコロと回り、ようやく壁に当たりピタリと止まる。
――それが羊野美隷がこの世に残した最後の言葉だった。
首の眼から次第に生気が消えてゆき。
羊野美隷は事切れたのだった。
「はあ……はあ……」
片膝を立て、蟲刀を杖のように付きながら修吾は荒い息を落ち着けようとする。
頭の痛みは更に激しさを増している。
もう限界だ。
「もっと早く……手伝いやがれよクソが……」
それでもどうにか、熊雄に文句を一つ飛ばす。それをしなければ、まだ倒れられないから。
「うっせーよ。ここで俺がなんとか立ち直ったお蔭で、お前は死なずにすんだんだろうが。感謝しろ」
「ケッ……」
その言葉を最後に、修吾の身体は崩れる。遂に意識が飛んだのだ。
白目を開けたまま、倒れた修吾。
「……お前は本当によくやったよ」
熊雄は修吾の眼に優しく手を置き、瞼を閉じさせるのだった。
「さて、敵の増援が来る前に撤退しないとな……」
熊雄は修吾の身体を背負い、歩き出そうとする。
ふと。
熊雄は背後を見やる。
辺り一面、血の飛び散った部屋。元々は白い打ちっぱなしの壁だった筈なのに、今は一面赤で塗りたくられている。
転がる四体の死体。
そして打ち砕かれた、桜色の刃の破片。
暫くその残骸を見つめた後、熊雄は眼を瞑り、背を向けてその部屋を後にした。
酷い苦みを無理にかみ殺しているような、熊雄の表情。
血みどろの部屋を去る、その後ろ姿は暗い悲しみが滲んでいた。
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