第三章「クマノミと蟲飼いたち」

(1)

 そこはとある大学のキャンパスだった。

 講義時間が終わった所なのだろうか、至る所に学生たちの姿が見える。

 ある者は急ぎ足で歩き、ある者は友人達と談笑に興じ、ある者はベンチに座りイヤホンに耳を貸している。

 そんなどこの大学でも見られそうな、ありふれた景色。

 だが良く見ればその景色の中に、明らかに周囲に馴染めていない異質な者の存在を発見することが出来るだろう。

――その男はスーツを身に纏っていた。

 勿論、就職活動中の学生だってキャンパスには大勢いる。スーツ姿は別にそう珍しくはない。

 男の異様さはスーツから生じているのではない。中肉中背。歳は二十代後半といったところだろうか。髪は短く刈り上げられている。風貌は爽やか。要所要所を見る限りでは、そう奇妙な人物ではない。

 だが全体として男を捉えた時、明らかにその存在は『何か』が異常だった。

 その異質さとは具体的に何か。

 捉えどころのないそれを言葉で説明するのは難しい。

 敢えていうなら、それは『雰囲気』だ。

 男は異様な雰囲気を発していた。

――今しがた人を殺して来たのに、まるでそれを何とも思っちゃいないような歪な爽やかさを持った男だった。

 男の名は伊草場幹夫いくさばみきお

『蟲飼い』専門の駆除業者である。


「はじめまして、私はこういう者です」

 伊草場は懐から名刺を取り出した。ビジネスマナーの見本のような美しい動作でそれを相手に渡す。

 名刺を受け取った相手は女性だ。童顔、長い黒髪、丸眼鏡という風貌の人物。幼げで、純粋無垢な子供のような見た目はこの場には酷く不釣り合いに見える。白衣と胸からぶら下げた教員証がなければ、中学生と見間違えてしまいそうだ。

 彼女の名は十堂白乃とおどおしろの。こう見えて生物学界の若き権威などと謳われている人物である。

「どうもはじめまして。依頼を引き受けて下さりありがとうございます」

 白乃は舌足らずにしゃべり、ぺこりとおじぎをした。

「どうぞ」

 伊草場の前にお茶碗が置かれる。運んできたのはやたらと色っぽい恰好をした女性だ。白衣の下の赤いカッターシャツは、豊満な胸元が大きく開かれている。

 白乃の助手なのだろうか。

 助手にしては、やや派手過ぎるように思える格好だ。

 こちらもまた、大学というこの場所には不釣り合いに見える人物だった。

「どうもありがとうございます」

 居草場は頭を下げ、お茶を受け取る。

「それで今回の依頼というのは、『毒蟲』の捕獲をしたいとお伺いしているのですが……?」

「そうなんですよ。ちょっと待ってくださいね……どこだっけ……」

 白乃はがさごそと脇に置かれたファイルの山を触った。

「あ、あった。これですこれ」

 差し出されたのは一束の書類だ。

 一番上の書類には、男の顔写真が載せられている。首の太い、ラグビーでもやっていそうなその人物。

「名前は熊雄勝くまおまさる。歳は二十。知野見ちのみ市の大学に在学……」

 伊草場はその書類にざっと目を通す。

「成程、この男が『毒蟲』であると……。それで私共にこの男の『駆除』を頼みたいと、今回の依頼というのはそういうわけですね」

「いえ違うんです。今回はこれを生け捕りにして欲しいんですよ」

「生け捕り……」

「はい、実は『蟲飼い』の生態にちょっと興味がありまして。検体として何体かサンプルが欲しいんですよね」

「なるほど、なるほど。サンプルですか」

 伊草場は軽く頭を掻きながら、爽やかな笑顔を浮かべる。

「構いませんか? もしかして『生け捕り』は業務外でしょうか? あなた方は『駆除』の専門家と聞いていますし」

 頭をやや横に倒すようにして、白乃は聞いてくる。

 伊草場ははきはきと返答を述べた。

「いえいえ、とんでもございません。私共としましては、お客様の要望に対しても可能な限りお答えさせていただく所存です。この件、是非私に任せて下さい。こう見えて私、社内でも結構成績が良いんですよ。実は昨日も丁度別件で『毒蟲』を三体ほど始末してきたところでして、十堂様には大船に乗った気持ちで居て頂けたらと……ん?」

 はたと。

 唐突に伊草場の動作が止まる。

 不自然な営業スマイルが凍り付いた。

 伊草場の視点は自分の足先に向けられている。

「なんだ、これは……?」

 居草場の視線の先にある物。綺麗に磨かれた艶のある革靴。その靴の裏に。

 黒くすすけたガムが引っ付いていた。

「なんなんだよこれはーっ!!!!!!」

 爆発のような怒声が室内に響きわたる。

「誰だ、クソが!? このガムを吐いたのはどこのクソボケだ!? ああん!? 僕は毎朝この靴を綺麗に綺麗に磨いてんだぞ! その為に朝は六時起きだ! 畜生、仕事道具を汚しやがって!」

 伊草場の眼は血走り、額には血管が浮き出ている。

 醜く歪められたその表情。

 さっきまでの爽やかさは微塵も残っていない。

「ひとつはっきりしていることがある。ガムを吐いたのはこの低能大学に通うクズのどいつかだ? ぜってえ許せねえ! 必ず突き止めて、ぶち殺してやる! いや、学校関係者を片っ端から全員ぶち殺した方が早いか……?」

 すっと。

 白乃は手を差し出す。

 行動を起こそうとした、背後の助手を制し止めるためだ。

雨屋あまやさん、アロマオイルを持っていますか?」

「え……。はい」

「今すぐ持ってきてください。それとティッシュも」

 すぐさま雨屋といわれた女性は、命令されたそれらの品を用意する。

 白乃はそれを受け取ると、ティッシュにアロマオイルを染み込ませ、伊草場に渡す。

「伊草場さん、どうぞこれを使ってください」

「ああ……?」

「ガムを構成する成分は樹脂ですから。油を使えば綺麗に落ちるはずですよ」

 伊草場はティッシュを受け取り、脱いだ靴に触れさせる。すると見る見るうちに、ガムは剥がれていった。

「う、うわー、綺麗になった!」

 途端、伊草場の顔は元の爽やかな笑顔に戻る。

「あ、ありがとうございます、大変助かりました」

 深々と頭を下げる伊草場。

「いえいえ、気にしないでください。困った時はお互い様ですよ」

 にこりと、白乃はあどけない笑みを浮かべた。

「それで今回のお仕事ですが……」

「是非やらせてください! このご恩に報いるためにも、必ず今回のお仕事を成功させて見せますので!」

 先程の怒声はまるでなかったかのように、ケロッとした様子で伊草場は爽やかな表情をする。

「ふふ、期待しておきますね」

 白乃のその微笑みは、無邪気な子供のようにいたいけなのだった。


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