(3)


 幅木ススムは自宅アパートへの帰路を歩いていた。そろそろ日も落ち辺りは暗い。人気のない道を、幅木は隠れるようにして歩く。

 最初の被害者、赤神ネネが殺されてからというもの、幅木は常に日の高い明るい時間にしか行動しないよう心掛けていた。「次は自分が殺される番なんじゃないのか」という恐怖心が、危険の少ない時間帯にのみ外出を許した。

 慎重すぎるほど慎重な幅木が、今日、こんな時間まで外を出歩いているのはクマノミオフィスに用があったからだ。先日から話し合っている「クマノミを抜けたい」という幅木の言い分について、栗子に呼び出されたのである。

 幅木は自分の腕時計を確認する。もう作戦は始まっているはずだ。栗子の話では、本日例の殺人犯『羊野美隷』を捕獲するための作戦が展開されるらしかった。クマノミの戦闘員全員を集めて行われる大規模作戦だそうだ。クマノミを辞めるのはこの作戦が終わってからでもいいのではないかと、栗子には諭された。

 蟲刀を体内に有している以上、幅木の身体も常人以上の能力を宿している。ただ、幅木は闘いや暴力が嫌いだし、ましてや殺すだの殺されるだのなんていうのは口に出すのさえ嫌だ。そういうのは自分とは関わりのないところでやって欲しい。

 栗子に誘ってもらい、クマノミに入れて貰えたことには感謝している。『蟲飼い』として目覚め、信頼出来る身寄りもなく当所なく街を彷徨っていたところを栗子に拾われ、住む場所を用意して貰った。

 クマノミの居心地は良かったし、出来ることなら幅木だって抜けたくはない。ただ、組織に属することで自分が殺される可能性が高まるとするなら、話しは別だ。そんなところには居てられない。今の住居は出なくてはならないだろうが、それも仕方ない。また街から街へ放浪する日々だ。だがそれでも死ぬよりはましだ。

 何事もなく、作戦が無事に終わって欲しい。

 それが幅木ススムの願いであった。羊野美隷が捕まり、平和が戻ればあの元の日常に帰れる。『蟲飼い』になって以来幅木と常に隣り合わせに存在してきた暴力の世界。クマノミに来て、ようやくそこから抜け出せたと思ったのに、今回の騒動でまた元の世界に引き戻されようとしている。もう、暴力はごめんだ。痛い思いも、相手を痛がらせることもしたくない。暴力の届かないところで平和に暮らすことだけが幅木の願いなのだ。

 今回の作戦が上手く行けば、平和な日常が返って来る。無事、成功して欲しい。だから幅木は心の底から、今回の作戦の成功を願っていた。

「あれ……どこ行っちゃったんだろ……」

 ふと。

 幅木の前方、狭い路地の先で一人の女性が跪いている。会社帰りなのか、スーツ姿の女性だ。何か落とし物でもしたのだろうか、必死にコンクリートの地面に目を凝らしている。頼りない街灯と薄暗い地面。女性はスマートフォンのライトを使い周囲を照らしていた。

「あ、すいません……。実は家の鍵を落としちゃったみたいで……。あ~、もうなんで私ってこんなドジなんだろう……」

 幅木の存在に気付き、通行の邪魔になっていると思ったのか女性は申し訳なさそうな声を出した。眉根を寄せ、困ったような表情だ。

 手伝ってあげようかな。ふと頭に降りて来たそんな考えを幅木は慌てて打ち消す。自分にはこのようなところで油を売ってる暇はない。今は一刻も早く自宅へ帰るべきなのだ。まだ犯人は捕獲されてはいない。奴がどこに潜んでいるか分からない。一瞬の油断が、自分の命を失わせるかもしれない。若干の罪悪感を抱きながらも、幅木はその女性を無視して先へ進もうとする。

 ちゃりん、と。

 一歩踏み出した幅木の足に何かが触れる。

 暗い中、目を凝らしてみるとそれは鈴だった。鈴の結ばれたキーホルダー付きの鍵を、幅木の足が踏みつけている。急がなきゃ、と頭の何処かでは思いつつも幅木はしゃがんでその鍵を拾う。

「あの、ここに鍵が……」

 それは一瞬の油断だった。

 生涯臆病且つ慎重であり続けた幅木ススムの、人生最大の油断だった。

 本来彼は何ら罪悪感を抱く必要もなく、見知らぬ女の存在など無視してとっとと自宅へ帰るべきだったのだ。

 幅木の視線から、目の前のその女性の姿が消えたと思った。

 何が起こったのか、全く分からない。

 幅木は鍵を持ちながら、立ち上ろうとして。

 しかし自分の身体がいうことを聞かない。

 何故か幅木の意思に反して、身体は地面に倒れていく。

「え……?」

 どさっと。

 受け身も取れないまま幅木の身体は倒れる。

 受け身なんて取れるはずはなかった。

 彼の身体は胴体から上下真っ二つに切断されていたからだ。

「な……」

 しゃべろうとした途端、幅木の頭蓋に刀剣を刺し込まれる。刀は脳を貫通し、幅木の顔面を突き破り地面に刺さる。そしてその刃が抜かれると同時に、既に幅木は事切れていた。

 じわりと、地面に血が滲み始める。

「幅木ススムを始末した。後処理を頼む」

 女はスーツの袖に付けられたマイクに対し短く告げる。もう二、三分しない内に処理班が訪れて、この場一体の血と死体、殺人が行われたという証拠そのものを抹消してくれるはずだ。女は握った蟲刀を、自分の腕の中へと収納する。

「さてと次は……また遠いところだったっけ。走らなきゃ」

 女は跳躍し、民家の屋根に乗ると勢いよく駆け始める。屋根から屋根へ、気配を消して飛び移りながら女はひとりごちる。

「それにしても”あの人”は、良くもまあこんな忙しい仕事ばかり回してくれる……」

 愚痴が口を付いて出てくるのも無理はないだろう。何せ今晩は忙しい。他にも『七色蠍』から何組か動いているはずだとはいえ。

――この一晩だけで、クマノミの非戦闘員六十数名を始末し切らなくてはならないのだから。



 どうしたらいいのだろう?

 恋子の頭の中はそれでいっぱいだった。あの羊野美隷とかいう女を殺すにはどうしたらいいのだろう? 先輩の仇を討つにはどうしたらいいのだろう? どうしたらこの頭の中に無限に湧き続ける、焼けるような感情を処理できるのだろう?

 やっぱり殺すしかない。殺すしかないのだ。でもどうやって?

 他に行く場所もなく、恋子はクマノミオフィスのトイレ個室内に引きこもっていた。他の部屋は真っ暗だったが、ここだけは電気が付いていた。

 便座に腰を降ろしながら、恋子は考える。

 どうしたらいいか?

 収容所とかいう場所に羊野の身柄が送られたらもう終わりだ。恋子に手を出すのはかなり難しくなるだろう。アジトの牢にいる間になんとか決着を付けなければならない。

 早くしないと。

 手遅れになる前に。

 早く殺さないと。

 でもどうやって?

 どうやって殺せばいい?

 恋子の頭の中は焦りで一杯一杯だった。

 そんな妄念に捉われている恋子だが、一方で頭のどこかで内なる理性が自分を説得させようとしていることにも気づいていた。ここらが潮時だ。よくやったじゃないか、と。

 大体「殺す」なんて馬鹿馬鹿しい。子供じゃないんだから。収容所に羊野が送られてしまえばもう恋子には手が出せない。諦めざるを得ない。それでいいじゃないか。そうすればこの復讐はもう終わるのだ。それでいいじゃないか。

 確かにそれはそうなのかもしれない。そうなればもう諦めるしかない。復讐は終わる。ただそれを見送るだけで、恋子の手の届かないところに羊野は行ってくれる。復讐とか何とか、もう妙な妄念に悩まされることはない。あとはただ羊野美隷なんて人間のことは忘れてしまえば、殺すだのなんだのそんな物騒な考えとは無縁な、まっとうな人生に戻ればいいだけなのだ。

 恋子とて、これまでの当たり前のまっとうな人生に未練がないわけじゃない。

 復讐だなんて馬鹿な気は起こさなければ、あの元居た日常に戻れるのだ。

 それでいいじゃないか。

 本当にそうか?

 それで本当にいいのか?

 アカネ先輩のことはどうなる。あの人の人生はもう失われてしまった。理不尽にも。目には目を。理不尽には理不尽を。アカネ先輩を殺した罪は、犯人の命で償われるべきだ。そうじゃなきゃアカネ先輩は報われない。

 だけど、果たして。

 それでアカネ先輩は喜んでくれるのだろうか……?

 どうなのだろう。

 分からない。

 ああ、先輩。

 私は、どうしたらいいですか?

 恋子は、自分の内なるアカネに問いかけてみる。

 こんな時先輩は、なんて応えるだろう。

 分からない。けど。

 もしかして。

 あの人は恋子が道を踏み外すことを喜んではくれないかもしれない。

 もしも魂という物が存在するなら。

 アカネ先輩はきっと今も笑ってるんじゃないだろうか。

 いつも恋子の悩み事を優しく聴いてくれた先輩。

 少なくとも、あの人が自分を殺した相手を恨み呪っているような姿は、恋子には想像できなかった。

 あのいつもの飄々とした笑顔を浮かべながら、「いやあ、まあボクの寿命はここまでだったってことだね。仕方ないさ」とかなんとか、そんなことをいってくれるんじゃないだろうか。

「ボクは別に何も望んじゃいないけど、君の納得のいくようにしたらいいと思うよ」

 胸の中で先輩は恋子に、そんな風に語り掛けているように感じた。

 ああ、先輩。

 私はもう、諦めてしまってそれでいいんでしょうか……?

 だが。

 一方で。

 恋子は自覚する。

 そんな風に考えてしまったこと自体を許せない自分に。

 お前のアカネ先輩に対する気持ちはその程度だったのか?

 先輩と一緒に居る時が人生で一番幸せだったとか何とかほざいておきながら、それは全部忘れてまっとうな人生を送りたいだと?

 それでいいのか?

 アカネ先輩のことを忘れてしまって、それでお前はいいのか?

 そんな人生に何の価値がある。

 そうだ、私の幸せは奪われた。羊野美隷によって。奪われてしまった。既に失われてしまった。もう返って来ない。

 なのに、そんな過去を全部なかったことにして、まっとうな人生を送りたいだと?

 そんなの許せるわけがない。

 アカネ先輩を奪ったその罪は、アイツの命で償わせなければならない。

 アカネ先輩の為に。

 いや、そうじゃない。

 アカネ先輩の為に、じゃない。

 自分の為に、だ。

 そもそも死んでしまった人間の声など聞こえないのだ。

 もしアカネの魂が存在するとして、今彼女は何を思っているか?

 そんなことは、分からない。

 霊媒師でもない限り、分かる訳がない。

 それなのに、先輩の意思を勝手に規定して、先輩の口から勝手に言葉を喋らせるなんて。

 そんなのはずるい。

 自分に都合のいい解釈だ。

 死んでしまった者の意思は、生きてる人間にはもう分からない。

 だから、私は自分の意思で羊野美隷を殺す。

 アカネ先輩が可哀想だから殺すのではない。

 自分が許せないから殺すのだ。

 そうだった。

 そうなのだった。

 あやうく勘違いするところだった。

 マグマのように止まらることなく、いつまでも零れ続ける怒りの感情。

 どうにもならないこの感情を背負ったまま、これからの人生を歩んでいくことは恋子には出来ない。無理だ。

 だからこの感情を止める為、私はあの女を殺す。

 これは儀式だ。

 怒り狂うマグマを鎮めるための儀式。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 そうと決まればまずは――

「兎に角、まずは修吾くんを呼び出さないと」

 

 その後、手を洗いトイレから出た恋子はとりあえず栗子の元に戻ろうと考えた。

 羊野美隷を殺す為。

 とりあえず、実際の羊野をこの目で確かめてみなければならない。

 栗子に付いてアジトへ行けば、羊野を観察する機会もきっとあるはずだ。

 あとはチャンスを探りながら、修吾くんと協力してそして……。

 思考を巡らせながら、オフィス廊下を歩く恋子。電気の落ちた暗い廊下で、闇に潜む人ならざるその影に気付かぬのも無理はなかった。

「っ!」

 突然、恋子の後部首筋にすさまじい衝撃が走った――手刀を叩きこまれたのだ。

 手刀の角度は的確で、恋子の意識を一瞬で飛ばす。気絶し、そのまま倒れかけた恋子の身体を何者かが支える。

「久しぶりだね恋子ちゃん。また会えてボクはとても嬉しいが……。悪いね、君との再会はまだ早いんだ」

 薄れ行く意識の中で酷く懐かしい、暖かい声を聴いた気がした。

「もう少しだけ待ってくれ。その内必ず君を迎えに行くよ」


 優木栗子にはかつて恋人が居た。『クマノミ』を創立する前、以前居たとある組織の同僚。彼もまた『蟲飼い』だった。

 栗子と彼とはとてもよく気が合った。優しくて、面白い、一緒に居て暖かい彼。でも時々何処か抜けているところもあって、そんなところもまた可愛かった。組織での生活は色々と制限も多く、窮屈だったが、彼と居るとそんな所でも楽しかった。栗子は彼のことを愛していた。

 だが。

 ある日任務に出撃した彼が、帰って来ると物言わぬ死体になっていた。突然、彼は死んでしまった。組織から命じられた『七色蠍』監視任務の最中に。蟲刀を砕かれて。

 彼を殺した犯人は分かっている。相当の実力者だ。その後”そいつ”と何度か闘う機会があったが、一度も勝てた試しはない。

 栗子は『七色蠍』の連中を恨んでいる。愛する彼を奪った奴等のことを許すことなんて出来るはずもない。だが同時に、それがクマノミの組織方針に反した感情であることも栗子は良く理解していた。「人類と蟲飼いの共存」を目的に掲げる組織のトップが、如何に非人道的な相手であろうと、誰かを殺したいほど憎んでいてはいけないのだ。私的な感情で組織を運営するべきではない。だから栗子はその感情に蓋をしている。クマノミリーダーとしての役割が、彼女の復讐心を何とか抑え込んでいる。

 故に復讐に燃える恋子の気持が、栗子には分からなくもない。寧ろ強く共感出来てしまう自分を、栗子は自覚せざるを得ない。そういう感情はトップに就いた時に捨てた筈なのに。一個人として、愛する者の命を奪った相手を殺したいほど憎むのは自然な反応だ。それは良く分かっている。クマノミのメンバーを殺され、栗子の憎悪の感情は寧ろより増しているとさえいえるだろう。

 けれど。いや、だからこそ。栗子は恋子の望みを否定せざるを得ない。栗子がそれでもクマノミのトップとしてあり続ける為には。

「おかしい――」

 オフィスの中で、PCの前の栗子はひとりごちる。

 羊野美隷捕獲作戦後、彼女がこっちに帰って来た理由の一つは、クマノミの非戦闘員に無事作戦が終了したことを知らせる連絡をするためなのだが。

 コールを掛けてもさっきから全く相手に繋がらないのだ。誰一人として、連絡が通じない。

「どうなってるの?」

 明らかに異常な事態だった。一人二人、連絡が繋がらないというのなら分かるが、メンバー全員に連絡が繋がらないのはいくらなんでもおかしい。時間もまだ夜の十時過ぎだ。今日だけ偶々全員が早く寝床に着いているというわけでもあるまい。

「何が起こってる?」

 暫く考え込んだ栗子の頭に、突然警告のランプが点る。

「……まさか」

 その時。

 ノブが回転し、扉が開かれる。

 敷居を跨ぎ現れたその人物。

「……っ!」

 驚愕に見開かれる栗子の両眼。

「あなたは……」

「久しぶりだね栗子さん。ずっと、この機会を待っていた」

 ニヤリと。

 その特徴的な笑みを浮かべて。

 赤神ネネが立っていた。

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