第2話 逃げられない勇者
躊躇いもなく放たれたフェトネックの放つ矢が一閃する。それは真っすぐにオレの肩口を目掛けて飛んできた。
振り返るよりも、矢が空気を割る音が耳に届くよりも速く反応をして紙一重でそれを躱す。その回避にはフェトネックも魔王も、そして誰よりもオレ自身が驚いた。
何故反応できたのか。それはオレも分からない。ただただ不意に感じ取った直感に身を委ねた結果だ。幾千幾万と研ぎ澄ませてきた闘いの勘が働いたとしか言えなかった。
「…どういうつもりだ?」
運よく…本当に運よく体勢を崩さなかったオレは精一杯の強がりを四人に飛ばした。だがその四人の顔を見れば、答えが無くとも全てが分かった。
頭では理解しても心が納得することを拒んだ。それは正しく殺気を向けられている中でも、ほんの少しだけ躊躇いを感じ取れたからかも知れない。
「見ての通りだ。僕たちは魔王様の元につく」
いつもと同じ口調でバトンが淡々と事実を告げた。心臓がかつてない程跳ねているのが分かる。
「操られている、ってこともなさそうだな」
「ああ。僕たちは飽くまでも自分の意思を持っている」
戦士の勘が『ここから逃げろ』と叫んでいた。頭の中は全力で逃走するための計算をしている。こうなっても冷静にいられるのには自分でも少し驚いている。少しでも時間を稼ぐためにオレは口を開いた。
「どうしてだ?」
「話しても理解できないと思うわ。今まで何度も魔王様が私たちを説得してくれていたじゃない」
レコットの普段とはまるで違う気迫ある声に少々驚いた。いつかどこかの村を襲い、子どもを皆殺しにしていた山賊たちを相手にしたときにも、こんな迫力を出していた事を思い出した。つまり、レコットにとって今のオレはあの山賊と同等の存在という事なのだろう。
「あのゴミみてぇなおしゃべりを言ってんのか?」
その言葉に魔王は、さも余裕ありげにクスクスと笑っている。だがこっちの四人は更に怒気を増したように感じた。
それを辛うじて抑え込んでいる様なシュローナが憎まれ口をきく。
「お前は魔王様のこれまでの言葉を妄言と感じ、俺達は救いだと感じた。その違いさ」
「シュローナ。その戦斧に誓った誇りはどうした? 捨てちまったのか」
「捨てちゃいないさ。いや、むしろもっと高みに進むことができたと確信してるぜ。一戦士としてな」
「…そうかい」
オレが覚悟を決めてもう一度剣の柄を握りしめた時、それに逆らうかのようにフェトネックが弓を下ろし、まるで聞き分けのない子供を諭すかのような自愛に満ちた声で言った。
「もう無理やりにでも引き込むしかないと思っていた。だから急所を外して狙ったし、さっきのあなたのさっきの言葉、嘘だったけどすごい嬉しかった。ね、これが最後のチャンス。剣を捨ててちょうだい。ワタシはこれからもみんな一緒にいたい。お願いだから、魔王様のことを認めて」
フェトネックの言葉に全員の緊張が一瞬だけ解けた。それが最後のチャンスと確信した。
すると考えるよりも早く、体の方が動いていた。
重力に身を任せるように前方へと倒れる。顔面が地面につく一瞬手前で足に渾身の力を込めて一気に加速する。魔力、腕力、知力、精神力とそれぞれに敵わない要素が多すぎる。だが、逆に他のメンバーがオレに敵わない要素が一つある。
それが俊敏性とそれを支える脚力だ。案の定、反応がまるで間に合っていない。
速さで競えば、勝機はあるはずだった。
◇
だが、それは敵わなかった。
全身全霊の全速力での逃亡にも関わらず、オレの真横には如何にも余裕綽々の魔王の顔があったのだ。
◇
「くっ」
と、驚きと焦りの息を精一杯飲み込んだ。
魔王と平行に移動しながら今入って来た扉を一目散に目指す。しかし当然の如く、それは妨害された。
魔王は手をかざして魔力の塊を斉射する。オレは剣でそれに応じるが、凌ぐのが精々だった。前方の扉は魔王に塞がれ、パーティとの挟み撃ちを許してしまった。
「混乱しているだろうに、逃亡に至るまでの判断が早いのは流石だね。勝ち目のない戦いと負ける闘いは別って事もきちんと知っている」
茶目っ気たっぷりに笑う魔王の表情がより恐ろしく見えた。
オレはいよいよ覚悟を決めたのだが、意外にも追撃が迫ることはなかった。
パーティの皆が、戦闘態勢を止めた。魔王もオレを逃がさないように警戒をしてはいたが、攻撃する気配は完全に取り除いている。
よく分からない沈黙はレコットの声で打ち破られる
「ねえ、お願いだから考え直して。あなたを置いていきたくもないし、まして殺すのもイヤ。さっき、魔王様の取引に応じようとしてくれたのがどれだけ嬉しかったか…あなたも私たちと一緒なんだって思えたのに」
次第に涙声に変わっていく。言っている内容さえ除けば普段通りのレコットなのが一層不快感を増長させる。
洗脳やマインドコントロールの類じゃなそうだ。
本心から魔王を崇拝しているのが明白だった。かつての英雄の娘であり、神の祝福を授かった聖術師の口から出る言葉がここまで黒々感じるモノなのか。
「…泣きたいのはこっちだぜ。一体お前らに何があったんっていうんだ?」
「気付かされたんだよ、魔王様にな。自分と世界の小ささを…いや、こういう言い方はまどろっこしくてアタシらしくないな」
頭を使うのはあまり得意でないシュローナが毅然として言い放つ。
「結果を見ればな、アタシ達は強くなかったんだ」
「何を言ってる。お前らの強さはオレが一番よく知っている。お前らより強い奴なんてそうそういる訳がない」
「戦うって事ならそうかもしないけどよ。アタシが言っているのは心の強さのことだよ」
「どういう意味だ?」
「言葉の通りさ。伝説だか言い伝えだか知らないが、そんな理由だけで持て囃されて魔王討伐なんてさせられて、辛いだけの試練とやらをこなして、自分を犠牲にして人を助けてさ。貰えるのは感謝と名誉とかいう何の役にも立たない代物だけ。その内、アタシらの名前を聞くだけで助けてもらうのが当たり前みたいな連中も出てきてたろ? で、偶にしくじったりすれば罵詈雑言の嵐。町の酒場に入れば、飛んでくるのは酒を飲む暇があればさっさと世界を平和にしろだのいう陰口ばっかり。魔王の領土に入ってから誰にも会わなく済んでどれだけ心が軽かったか」
「それはお前ばかりの苦悩じゃないだろう」
その指摘には怒気を孕んだ言葉が帰って来た。
「その通りだよ。アタシ達全員が感じていた苦悩だろうさ。愚痴や不平不満を言い出したらキリがない。けどね、決定的に違うところもあった」
そう言いながらシュローナは、きっとオレの事を指差した。
「オレが…何だって言うんだ?」
パーティの皆の目が虚ろで悲し気な、それでいて妬みを込めたような暗さを帯びた。
「お前はな、自分のその化け物じみた心の強さに気付いていないんだよ。色んな奴等からの期待も重圧も理想も不満も全部押し付けられて、それでも自分を見失わないし、それに応えようとする」
「…」
「何の事かさっぱりか? けどな、強さなんてのは自分だけじゃ絶対に気が付かない。他人と比べて初めて分かるもんだ。そうだろう? そして…弱い自分の傍に常に強い奴が居続けるとどうなると思う? 一番望むモノが届かないのに目の前にあり続けるとどうなると思う?」
よく知っている。
腕力も魔力も知恵も血統も、どれもこれも喉から手が出る程に欲して、それでも自分には手に入らないと自覚して失意しているのだから。
「レコットとフェトネックはああ言っているがな、アタシはここでお前を殺してしまいたい。もうこれ以上アタシとお前を比べて、強くなれない自分を慰めるなんてゴメンだ」
「…シュローナ」
涙声で武器を構えるシュローナはまるで子供のようだった。それに乗るかのようにバトンも魔導書を開き、オレを攻撃する体制に入る。
「せめてもの情け心だ。味方に殺されるよりも敵に殺された方がいいだろう」
「どういう意味だ? バトン」
「四人の中で、初めに魔王様に付いたのは僕だ。そこからパーティの情報を流していた。魔王様が懐柔しやすくするためにね…ただ、君のことだけは出し渋った」
「あ?」
「万が一にも魔王様の側に付いてもらいたくなかったからね。レコットとフェトネックは未だに優しさを捨てられていないようだけど、僕はシュローナと同意見だ。ここで君を始末しておきたい」
バトンは笑った。
こいつには嗜虐癖がある。毒や夜襲や追い打ちのような非人道的な戦法を特に好み、わざと狙いを逸らす攻撃を仕掛けたりもする。
その悪癖に塗れた装いで、バトンはオレに対して持っていた怨嗟を吐露し始めた。
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