第5話 恋する勇者
窪地の斜面に横たわっていた体を起こそうとするが、手も足も思うように動かすことが難しい。「うぐっ」と喘ぐような声を漏らして、ようやく上体だけ起き上がる。幸いにも声の主は窪地の底にいたので何とか目視する事だけはできた。
そこには見た事もない魔族の女が一人立っていた。
青くも見える黒髪が、頭の後ろで束ねられ毛の先は腰を越すほど伸びている。両方のこめかみからは髪をかき分け、短くも艶やかな曲線を描いて天を突く角が対称に生えている。そして髪の色よりも更に濃い青黒のドレスのような服の上に、急所を守るように要所々々を装甲した格好は歴戦の女剣士のような印象を与えている。
目鼻立ちの整った顔だったが、眼光は排他的な鋭さを放っていた。
一見、清楚な雰囲気も感じ取るが、腰に差した一振りの剣がそれを打ち消す。それはかえって清々しく見える程の禍々しいオーラを纏っていた。
「すぐには体も動くまい。少し前まで死体だったのだからな」
女はオレに淡々とそう告げた。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だ。お前は魔王の城の中にある奈落の淵で殺された…覚えているだろう」
オレは首を縦に振って肯定した。それで声を出すのも難しいと察した女が説明してくれた。
「お前は魔王と、魔王に寝返った仲間に追い詰められて殺された…しかし、その前に声を聞いていたはずだ。魔王の加虐的な企てだと誤解していたがそれは違う。声の主は他ならぬ、この私だ」
女はつかつかとこちらに歩み寄って来た。
「私はもう数えるのも面倒になる程あの奈落の底にいた。どうしてもお前を私のところまで連れてきたかった…だからあの時、あの奈落まで導いたのだ。本当は助けるつもりだったのだが戦いの邪魔をする形になってしまったことは詫びよう。だが結果としては私の望み通り、奈落の底にお前がやってきてくれた。私はすぐにお前の魂からここの記憶を読み取ってこれを使った」
そう言って女は、手の平に乗せた石を見せてきた。それがなんであるのか、すぐに分かった。
女の持っている石は『猶予の石』と呼ばれるアーティファクトだ。使用者の戻りたいと願う場所まで身体を転送する効力を持っており、旅と戦いに生きるパーティにとっては緊急時の命綱であり必需品ともいえる代物…だが、これはとてつもない魔力を消費して使う。それは移動の距離があればあるほど魔力が必要になり、普通なら最寄りの拠点なり町村まで戻るのが精々のはず。魔王の城からオレの故郷まで戻るなんて、伝説級の魔術師がいたとしても不可能だ。
この女には、それを行うだけの魔力があると言う事か?
一体、何者なんだ?
「私はお前に一つ提案をしたい。だからお前を呼び、安全なところまで運び、命を蘇らせもした。その提案というのは―――それを話す前に、私のことを教えておいた方が、話が早いな」
女はオレの隣に座ると、のぞき込むようにオレの顔をまじまじと見て続ける。
「私の名はルージュ。かつて、あの魔王に振るわれていた魔剣の化身だ」
ルージュと名乗ったその女は筒をオレの口へと宛がった。中に入っていた水はほのかに甘く、重かった体も徐々に軽くなっていくのが分かった。喉の渇きは無くなり、ようやくまともに喋ることができる。とはいえ、オレの頭の中は未だに混乱していた。
「悪いが、色々と情報が多すぎてついていけない。記憶もごちゃごちゃしていてな…だがあの奈落での事なら覚えているし、傷はないが痛みも残っている。アンタが助けてくれたって言うんなら、一先ず礼は言わせてくれ」
「ふふふ。怒りで染まっている頭で、まず礼を言うという精神は素直で良いことだ」
怒りで染まっていると何故わかった?
顔に出ていたか?
いや、違う。さっきもこの女はオレの魂から記憶を読み取ったと言った。他人の思考を読み取るクリーチャーや魔導士は少なからずいる。こいつもその類の能力を持っているのか。
そんな事を頭で考えた矢先、女はニヤリと笑って答えた。
「その通りだ。精神感応系の魔法が使える」
オレは慌てて女の手を振り払った。すると女はつまらなそうに立ち上がり、再び窪地へと降りて行く。そして踵を返すと、再び切り裂かんばかりの鋭い眼光をこちらに向けてきた。
「さて、話を戻す。私はお前に提案をしたい」
「提案?」
「ああ。お前は再び生を受けた。身体の調子が戻り、支度を済ませばまた魔王討伐の為にあの城へ向かうだろう? 少なくともお前を裏切ったあのパーティを放ってはおけないだろうからな」
「また心を読んだのか?」
「お前がそういう奴だという事くらい馬鹿でも分かる。それを踏まえての提案というのは―――剣としての私を使ってもらいたい」
「…あ?」
剣と言う言葉に反応して、つい腰に手が伸びる。そこには鞘だけが空しく空洞をさらしていた。思えばオレの剣はあの奈落でへし折られてしまったのだ。
あの甘い水を飲んだせいか、身体の怠さは殆ど取れていた。立ち上がると右の腿につけていた予備の短剣が鳴った。オレはそのまま女の方へと近づいていきながら頭を整理してみた。
「魔王が使っていた剣の化身言っていたが、今のその姿は仮初って事なのか?」
「勿論だ。少し待て、元の姿を見せる」
途端に女は青黒い光と足元から伸びてきた影のようなものに螺旋状に包まれた。それが晴れると、地面に一降りの剣がささっていた。
未だかつて見た事がない形をしている。柄や覆いや鍔は異国風の装飾と言えば片付けられるが、刀身が異彩を放ち過ぎだった。一見、太いブレードに思えるがよく見ると中央が開いており、刀身が二つあると知れる。
不覚にも剣の魅力に捕らわれてしまった。女としての姿よりも、剣の姿に目と心を奪われてしまうのは、フォルポスの男としては褒められるべきだろうか。花の香りに誘われた虫のように、オレの手はいつの間にか剣に向かっていた。
しっかりと握りしめ、それを引き抜く。
かつてあの魔王が握っていた剣を持つというのは甚だしく不愉快にも思ったが、それを上回るほど手から伝わってくる感覚が蠱惑的だった。
刹那、オレはフォルポス族に伝わる古い諺を思い出す。父も祖父も酔った時には決まって口ずさんでいた。
『女に恋をするのは、剣に恋したことがないからだ』
そして母は、それを聞くといつも口をとがらせていたっけ。
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