第24話  第二部  8・川相智子



「こんにちは!」

よく通る力強い声が後ろからやってきた。


もう一時間も前に朝の挨拶を交わしたはずの川相智子がなんでまた今になって「こんにちは」なんだ。しかもその声がいつもと違って元気すぎたことに驚いて振り向くと、そこに立っていたのは川相智子ではなかった。

いや、誰もが間違ってしまうほどにその少女は川相智子によく似ていた。髪型が違うので雰囲気が違って見えるけれども……あまりにも似すぎている。ただ、彼女は北園高校の制服を着ていた。

北区にあるその高校は、北大に近いためか南ヶ丘以上に北大への進学率の高い優秀な学校だった。彼女の来ている制服はいわゆるセーラー服とよばれる僕の中学校の女子生徒と同じく昔ながらのもので、札幌市内ではここともう一つの公立高校だけに残っている制服だった。


思わず「あれっ!」という声を出してしまった僕の後ろから

「えーっ、どうしたの祥っちゃん!?」

と、これも今までに聞いたことのない様な本物の川相智子の大きな声がした。

「さっちゃん」と呼ばれたこの女の子は見事なほどに顔全体を笑顔にして川相智子に向かっている。


「うん、友達の応援できたんだけどね。まずはお姉さまにもちゃんと挨拶しとかないとと思いましてね」

「お姉さま?……」

僕は川相智子の顔を見た。

彼女は珍しく唇をゆがめるような表情をしていた。

「だって、今日は、書道部の練習だって言ってなかった?」

「うんそれはですねー、午後からのことでしたよー、って昨日みんなの前で言ったじゃない」

川相智子の妹は楽しそうに競技場の周りを見回しながら言った。

「それとねーえ、お姉さまがいつも話していた『ノダケン』っていう人を見ておきたかった・ん・です・よ・ね……」

という彼女は、さっきから僕の顔を間違い探しでもするように眺めまわしている。僕はちょっと耐え切れずに川相智子の方を向くと


「……この人でしょう! あたりだよね!」

彼女の妹はさらに大きな声で自信満々にそう言いきった。

「……なに? 何なの?」

川相智子に向かって聞いても、彼女も言葉を失っていた。

「お姉ちゃんが言ってた書道の達人ってこの人でしょ? 私わかっちゃった!」

「はあっ?」

なんと言えばいいか、……今まで話したことのある南ヶ丘の生徒とは違ったテンションの子だった。南ヶ丘の生徒達も僕の中学校の仲間に比べると、ストレートで自信に満ちた話し方をする人が多いけれど、いま目の前で楽しそうに大きな声を上げている川相智子の妹(?)はさらにその上を行っている。


そしてそこまで来て、やっと気づいたことがある。彼女は川相智子のことを「お姉さん」と呼んでいるけれども制服は高校生のものだ。僕たちは一年生なのだから、当然、川相智子の妹は二年生や三年生のはずがない。とすると「双子?」ということなのか?


そんなことしか考えられない僕や困り切っている彼女の姉の返事など待つことなく、川相智子の妹は僕に次々と言葉を投げかけて来た。

「いつから書道やってたんですか? 日本書道ですか? どこかの師範についているんですか? 今はもうやってないんですか? ……?」

などなど、こちらが息をするタイミングさえ見つけられずにいることなどお構いなく質問は次々と飛んできた。

「……」

何から答えていいのか迷っている僕に向かって彼女は続けて言った。

「今度、私の高校で書道パフォがあるんですけど見に来ませんか? 南ヶ丘の書道部も参加するはずだし、道新の取材もあるから結構派手なパフォーマンスになる予定なんですよ!……」

その他にもいろいろなことを彼女は言っていたのだが、その言葉たちはあまりにも速くやってきすぎて僕は聞き取れずにいた。


あとから武部に聞いたところでは、川相智子の双子の妹祥子は北園高校の書道部で、中学では学校一番の成績だった姉と同じくらい優秀なのだが、どうしてもセーラー服を着たいからと北園高校へ進学したのだという。

「高校時代は一回しかないんだから、自分の好きなスタイルができるところに行くから」という強い言葉とともに姉とは違う学校を選んだらしいが、本当はいつでも姉と一緒の学校にいて双子だということを常に意識しなければいけないことに飽きてしまったんだろうと武部は考えていた。しかも、落ち着いて誰からも一目置かれていた姉に合わせるのに疲れたんじゃないかと言っていた。


彼女たち姉妹は顔はそっくりに見えるが、性格は全く似ていないのだという。挑戦的で外交的な妹と静かで内気な姉。じっくりと言葉を選んでからゆっくりと話す姉と、頭の回転の速さを武器に次から次と言葉を紡ぎ出す妹。中学時代は二人とも陸上部で活動していたのだが、妹の方は早々と自分の才能のなさに見切りをつけて演劇部に変えてしまったという。そして、二人とも小学生のころから続けていた書道に妹ははまり込んだ。


妹が友達のところへ行ってしまって、ようやくいつも通りの落ち着いた表情に戻った川相智子が恥ずかしそうに話し始めた。

自分たち姉妹は二卵性双生児なのに顔も体形もそっくりなのだということ。その代わり性格はまるで違って、見事なほどに対極にある二人だという。どういう理屈付けかわからないまま姉として決められてしまってから、どうしても周りは「長女・姉」としての自分に大きな期待をかけてしまうようになった。長女としての責任感というか使命感というか、なにかこう「立派に」生活する義務を与えられたような……。

「私はもともと慎重に物事にあたっていく性格だったので、こんな感じでいいかなと思っていたんだけど……。祥子は、妹は、なんか私を盾にしてなんでも積極的にやってしまう人になっちゃった。うらやましいと思うこともあるけど、なんか自分にはあんな生き方は向いてないから、まあいいかなあって……」

独り言をつぶやいているような彼女の話は珍しく長く続いた。


川相智子は今までもこうして妹の予期せぬ行動をカバーしてきたのだろう。そうやって妹の盾になることで川相智子の姉としての立場が確立されてきたのかもしれない。


「でさ、さっきの、書道の達人っていうのは?」

彼女を責めるつもりはなかったけれど、どうしてもそんな言い方になってしまったかもしれない。

川相智子も書道を本格的にやっていたらしいので、文字の美しさは他の生徒とは違っていた。一年生が回り番で書いている練習日誌の文字は彼女の時だけは活字のような美しさで記されていた。


野田賢治は物心ついた時には祖父に剣道と書道を日々仕込まれてきた。岩内の八興会館で子供たちに書道と剣道を教えていた祖父は年上の受講生たちとともに野田賢治に厳しくこの二つを仕込んできた。

「文字だけはな、大人になってからな、必ず役に立つから。やっていてよかったと必ず思う時が来るからな。その人の書く文字でな、他人を信用させることはできるんだ。だらしない文字を書く奴はな、中身もそんな風に生きて来たって証になってしまう」

父も叔父さんも同じように躾けられて育ったので野田家の一族は書道では常に学校で表彰を受けて来た。野田賢治は小学生の時から学生名人の位をいただくほどの上達ぶりで、中学校では書初めはもちろん、硬筆の展示でも常に一番注目されるくらいだった。三年生の時には授業のノートを一年生の指導のための見本としてコピーして授業で使われたこともあった。


「野田君の文字って、一年生の中ではかなり有名だから。ちょっと妹にね、自慢するような言い方したかもしれないんだ……」

「達人はちょっとびっくりしちゃいますよ」

「いやー、ほんと、ごめんね。妹がまさか、こんなふうに来るとは思ってなかった」

「いや、いや、いいんだけどね、そう言えばこの前ちょっとさ、下宿の丹野のおばあちゃんが贈り物に熨斗紙つけて丁寧に梱包してさ、宛名と住所を書こうとした時になってね、眼鏡を苫小牧の息子さんのところに忘れてきたことに気が付いてさ、代筆を頼まれたことがあるんだ」

「筆で書いたんだ」

「丹野のおばあちゃんはさ、墨までしっかり用意してから眼鏡がないことに気づいたんでね」

「それじゃあ、丹野さん喜んだでしょう?!」

「うん、札幌に来てから初めて褒められたかもしれない。」

「やっぱり達人でしょ!」


「宛名書きはさ、小学生のときからさ爺ちゃんに手伝わされてたんで慣れてんだよね」

「会社の取引先への代筆ってことでしょ? もうプロみたいだね!」

「いやあの、これはねちょっとコツがあってさ、『筆耕』って言うらしいんだけど、爺ちゃんが教えてた生徒にプロがいてね、見栄えのいい書き方ってのを教えてもらったから」

「やっぱりプロだよー!」

「いやでもね、札幌に来てからさ、ちょっと忘れてた感覚がさ、復活したみたいで……」

「今の話、後で妹に言っても良いよね?!」

「いやー、あのでも達人はなし!」

この時、野田賢治には川相智子の妹が言った「北園高校の書道パフォ」という言葉がなぜか気になり始めていた。


札幌地区新人戦が始まり、南ヶ丘の1年生と2年生たちは今まで以上の意欲とともに競技に向かっていた。それは、北海道大会に参加していた選手たちの強い意志や迫力あるパフォーマンスをしっかりと目に焼き付けてきたことが大きな要因になっていた。

新人戦では毎年のように、この大会をきっかけに大きく力を発揮しだす選手がいる。それが新人戦の良さだし、この大会の持つ意義の一つになっている。


それまで自分に自信を持てずにいる間は自分で自分に限界を作ってしまっていた選手が、何かのきっかけで大きく伸びていくことがある。本人もなぜだかわからずに伸びていく。本当になんでもないような、ほんのちょっとしたきっかけが選手の人生を大きく変えていくことがあるものだ。「大化けする」という言葉で表すこともあるが、本当にいつの間にか蛹から孵化した蝶が飛び立つように化けるのだ。そして、今まで見たこともない高い空から見下ろしている自分に気づくようになる。どんなスポーツでもそんな人が必ず出てくる。


川相智子は大化けした。そして、それは彼女の人生を大きく変化させようとしていた。

この日9月初めの厚別競技場。川相智子は走り高跳びで山野沙希と優勝を争っていた。1m45㎝の予選記録を難なく1回でクリアしたことで、それまで信じ切れていなかった自分の力を現実のものとして理解してしまったのだ。そして簡単に、そう本当に簡単に壁を乗り越えてしまった。


川相智子の成長を感じていた山野沙希はそれでも自分の力を信じ、自分の勝利に確信を持っていた。他の選手たちの中で昨年から競ってきた藻岩北高校の高橋恵実が早い段階で落下していたので、その気持ちはなおさらだったはずだ。

今まで自分のまねばかりしようとしていた川相智子が自分のライバルになるのは、もっとずーっと先のことだと思っていた。自分のジャンプ力だけに頼った、跳び方の下手な彼女が今ここで自分を負かす存在になるはずはないと当然のことのように思っていた。自分には今まで最大の努力をしてきた自信と経験があった。


 ところが、川相智子は自分の背中には誰よりも大きな翼があることに気づいてしまった。高さという恐怖心よりも、自分の体がこれほど高くまで上がれることに驚きながら、自分自身が達成した結果に酔っていた。自分の力を最も出せる状況に完全にはまってしまったのだ。厚別陸上競技場の助走路の柔らかさも自分のリズムに合っていた。決勝になるともう彼女の目には自分の助走路に描かれた、自分だけに見えている理想の助走コースと踏切位置以外のものは見えなくなっていた。バーの高さや周りの選手たちの顔もすっかり消えてしまっていた。


どんなスポーツをする人にも一生に何度か、自分の思うとおりになる瞬間があるという。野球の神様といわれた川上哲治さんだと「ボールが止まって見えた」という伝説すらある。川相智子にも今、自分の選手生活の中で初めての瞬間がやってきていた。1m52㎝いう初めて挑む高さになっても、自分の踏切のことだけが頭にあった。跳び上がったその高さに沼田先生が目を丸くした。スピードがないかわりに、ふわりと真上に舞い上がった彼女は、風に押し上げられて漂ってくるポプラの綿毛のようにゆっくりとバーの上を越えていった。そのジャンプを見た時、沼田先生は山野沙希が負ける日が来たことを感じた。そして、負けたあとの彼女に危機感を抱いた。


川相智子はその後もクリアし続け、1m58㎝センチを1回で成功させた。彼女自身は今どんなことが起きているのかも気づかず、自分が今までになく気持ちよくジャンプできていることに酔いしれていた。記録にこだわっていた少し前までだったら、数字に負けてしまっていただろうが、今日は違った。数字だとか記録だとか勝負だとかを超越した「跳べることの楽しさ」にはまり込んでしまっていた。ランナーズハイならぬ「ジャンパーズハイ」状態になっていたのだ。

山野沙希はその高さを2度失敗した。他の選手はもう誰もいない。2人だけの勝負になっていた。そして実は勝負していたのは山野沙希一人だった。勝負にこだわり続けてきた彼女はさすがに3度目にこの高さをクリアした。すばらしいスピードとリズミカルな動きだった。中学の時から彼女のことを知っているという他校の先生たちもうなってしまう美しい流れを伴ったジャンプだった。   


ところが、それ以上に今日の川相智子のジャンプはすばらしかった。初めての1m60㎝越えとなる1m61㎝も1回でクリアーしてしまった。


厳しい顔をした山野沙希はこの高さを3度失敗した。


「いつもとは違う」

そこで初めて、川相智子は現実に戻ってきた。


いつでも自分よりもはるかに高い記録に挑んでいた山野紗希が先に落ちてしまったことを理解できずにいた。という以上に、自分が最後まで残った一人であることの意味を理解できずにいた。今までそんなことを考えたこともないし、現実になるはずのないこととしか思えなかった。そして今、北海道大会でも4位に入賞し、一番になるのが当たり前だったはずの山野紗希が自分よりも先に終了してしまった。

ここに来て初めて「現実」の自分の存在に気付いてしまった。


「ジャンパーズハイ」の夢見るような陶酔から覚めてしまうと、自分がこれから挑もうとしているバーの高さに初めて怖さを覚えた。1m64㎝は自分の背の高さよりまだ少し低いのだが、自分の目の高さを超えるとやはり「高い」という意識の方が強くなってしまう。

「ハイジャンプって言うんだからな、自分の背より高いとこ跳ばなきゃハイって言えないだろう」

そういう沼田先生の言葉がここにきてかえって大きな重しとなってやってきた。自分なんか相手になるはずないと思っていた山野沙希がいなくなり、決勝の舞台で最後まで自分1人が残っているという、想像さえしたことのない事態に戸惑っている自分だけがここにいた。


1回目の跳躍は全くジャンプにならなかった。踏み切ることができなかったのだ。高さへの恐怖と現実に対する理解しがたい状況とに戸惑っていた。1m64㎝という高さの持つ意味をここに来て初めて感じてしまったのだ。自分の目の位置よりも上にある高さのバーを越えることなど、昨日までは想像すらできなかった。ついさっき、わずか3センチしか違わない高さのバーを越えたときには、十分な余裕を持ってクリアしていた。だが、そのときは何も考えてはいなかったのだ。さっきのままの跳躍をすればあと10センチ近くはクリアーできそうな高さがあった。記録への挑戦がどこまで行くのか。端から見ているものにはその期待感があった。大会役員もスタンドの観客や他校の選手たちもその期待を持って走り高跳びのピットも見つめていた。


南が丘の生徒たちは第1コーナーの柵から身を乗り出して大きな声援を送った。その声にも大きな驚きの色が加わっていたはずだ。みんなは今日山野沙希がどこまで記録を伸ばすかを予想していたのだ。ところが今、川相智子が誰もの予想を覆して1人だけ助走路でバーを見つめていた。そして彼女は困惑していた。

自分がこんな風に注目されるはずはない。この高さが跳べるとは思えなかった。自分一人がみんなの声援を受けるなんてあり得ないはずのことだった。

また、沼田先生の言葉を思い出した。

「自分の身長より高いところを跳んで初めて高跳び、ハイジャンプと呼べるんだ。身長より下を跳んだって、高跳びって言えないだろう」

「自分は今、初めてハイジャンパーになろうとしているのか。自分にはそんな力があるのか。」

ますます体が重たく感じた。


山野沙希がやってきた。ジャージを羽織りつば広のキャップをかぶっていた。それはもう自分の競技が終わったしるしだった。

「智子、余計なこと考えなくていいよ、今日の智子の高さならまだまだ余裕なんだって。数字なんか気にしないで今までのように助走のことだけ考えればいいよ。絶対。いけるよ。」

川相智子はうなずくだけしかできなかった。あんなに勝負にこだわってきた、負けるのが大嫌いなはずの山野沙希がいま、自分を負かせた相手にアドバイスをしている。今まではすばらしい記録と経験や自信を持った天才として見てきた彼女が、こんなにも相手を気遣う大きな気持ちを持っていることに驚いた。やはりこの人はすごい。改めて思いながら、彼女と一緒に練習してきたこの何ヶ月かを思い出した。


高校に入学してから南が丘の跳躍グループで、いつもお荷物のようにあとからくっついていた自分だった。山野沙希のスピードと技術、野田賢治のパワーという二人の天才の「すごさ」に圧倒されてきた日々だった。自分に対する劣等感やあきらめに近い気持ちがあった。そんな自分が今、1番目立つ場所にいた。でも、山野沙希は冷静に自分を見てくれている。

高さに恐れている場合なんかじゃない。チャンスはあと2回もある。今までやってきたことが、結果になって出ている。今までと同じことをやろう。あれだけ2人のことをまねして教えてもらったことがたくさんある。


思い出したことがあった。助走路をゆっくり歩き踏切地点へ行くと、ゴムチップの削れがたくさんあり、そこが自分の踏切地点であることがわかった。バーに向かって見るとちょうどおでこのあたりがバーの上の位置に当たる。その場でしゃがみ込みバーを見上げた。初秋の青空に白黒模様の虹がかかったように遥か上空にバーが見えた。そのまま振り返ることなく助走路に戻ると、大きく息を吸ってバーに向かった。


煉瓦色のセーフティーマットを従えた白黒の虹は揺れることなくスタンドにしっかりと架かっていた。彼女は大きく左右の手を前後に振った。そして右足からスタートを切った。飛び跳ねるような助走にリズムが生まれた。最後の3歩でしっかり沈み込み、右手を高く上空に突き出すと、まっすぐに伸びきった左足を軸に縦に回転を始めた。背中で作ったアーチは大きくないもののバーをしっかり越えている。先行させた右手を抱え込むように動かすと同時に膝下を伸ばすようにバーをクリアー……しきれずに中央部分にかかとが触れた。顎を引いて背中からマットに着地した。大きく揺れていたバーがそのあとに落ちてきた。


「アー!」

「おしいー!」

会場のため息が、発射された「空気砲」によって押された波のようにやって来た。


惜しかった。完全に体は越えていた。でも自分でしっかり見えていた。かかとがバーに触れる瞬間が見えた。今まではそんなことはなかった。空中でそんな余裕なんかなかったのだ。ほんのちょっとのタイミングのズレがわかったのだ。失敗したにもかかわらず、自分で感心してしまった。こんな高いバーの上を自分の体が越えていたのだ。あとはかかとを抜くタイミングだけ。惜しかろうが何だろうが、失敗は失敗であと1回しか試技は残っていなかったが、大きな可能性と自信を現実のものとして感じていた。

「跳べる!」

セーフティーマットから降りるときにコーナーの柵に陣取っている南が丘の仲間からの声援がやってきた。応援に来てくれている三年生の北田さんが手でメガホンを作っている。沼田先生が珍しく真剣な顔をしている。大迫さんも山野謙介さんも精一杯な声をかけてくれていた。自分がこうやってみんなの声援を受けたことだけで幸せだった。あと1回。跳べても跳べなくても、みんなあと1回は注目してくれる。自分だけのために競技場の多くの人が息をのんで見守ってくれている。こんな幸せなことがあるだろうか。


 3回目の跳躍は気持ちよかった。踏切から抜きまでが1連の動作として流れていることが自分でもわかった。そして、しっかりと自分のかかとがバーの上を通るようにコントロールできたのだ。マットの弾みを気持ちよく背中に感じた。スタンドから歓声が上がった。山野沙希が飛び跳ねながらやってきた。

「すごいよ智子! 完璧な流れだった!」

「……」

何も答えられなかった。涙が出そうだった。どうして沙希がこんなに喜んでくれるのかが不思議だった。私だったら、沙紀の成功をこんなに喜べはしなかった。コーナーの柵に上った南ヶ丘の応援団がこぶしを突き上げた。


山野沙希のベストは1m64㎝。今、自分がその同じ記録を出してしまった。


さすがに次の跳躍では、もうすでに力を使い切ってしまっていてまともなジャンプにはならなかった。それでも今日、自分は山野紗季の記録に並んだのだという、信じられない事実を両手でしっかりと抱えてサブグラウンドのテントへと向かっていた。

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