第11話  第一部 11・勝負


 八種競技一日目の三種目目である砲丸投げでは、ある程度満足のいく記録を残すことができた。その三投目をパスして、全員の試技が終わるまでフィールド内の芝生に寝転がって空を眺めていると、シャサシャサ、とウインドブレーカーのこすれる音がした。寝転んだ僕を真上からのぞき込んだのは、悔しさを隠しきれない言い方をする喜多満男だった。こいつは感情がそのまま表情に現れる。

「すげえな、余裕あるべや!」

「いや、君より体力ないから。」


「野球、なんでやめたの? 北海とか北照とか駒苫とか、誘われたんだって?」

千歳体育には中学の同級生が進学していたのでそいつに聞いたのだろう。

こういう時にあんまりしゃべりたくない話題を持ってきたこいつのねらいはよく分かる。でも、昔からこういう奴らの扱いには慣れていた。大人でも子どもでも、こういう時の言葉に隠されているのは、決して楽しいことではない。


「陸上やりたかったからさ! 君もそうだろ!」


長い話は必要なかった。お前だってやりたいからやってるんだろう。これ以外に夢中になれるものないからやってるんだろう。いいじゃないかそれで、オレとお前はおんなじさ。自分のために走ればいいじゃんか。跳べばいいじゃんか。人のことなんか気にするなって。自分のために時間は使うもんだろう。お前に勝とうなんて思ってないから心配すんなって。


何か言いたげな喜多満男だったが、僕がすぐに続けて言った。

「きみも、陸上楽しいからやってるんだろ?」

「ああ……」

予想外な反応だったのか、彼は言葉を奪われたように僕の顔を見ているだけだった。


低い木に囲まれたサブトラックには、熱心にアップする選手たちの真剣な顔があった。フィールドの中でもトラック上でも、みなそれぞれの方法で試合が始まる時間に合わせて調整している。

健太郎がいた。トラックの1番外側をゆっくりとジョギングしている。細く長い脚の左右の踵が柔らかく地面を捉えている。着地した足の上には常に真上に腰がやって来る。スピードが上がってもそれは変わらない。小さくたたまれた両手の肘も脇から離れることなく低い位置で振れている。視線がしっかりと前に固定され、頭の高さは変わらないまま流れるように前に進んでいく。長身で手足の長い中川健太郎が上下動の少ない走りでトラックを周っていると、ほかの選手とは別次元の存在に見えてしまう。速そうだとか強そうだとか、その能力じゃなく、なんだか哲学的な存在に感じられるのだ。それはどんな言葉で説明しても説明しきれないような、彼の生き方そのものが走っているような、そんなふうに感じられるのだ。


まるで小さな乾電池1本で動くモーターを動力としているかのように、小さな腰からぶら下がった真っ直ぐな脚が、なんの未練もブレもなく、自分の正面に対してしっかりと踏み出していく。両方の足のつま先がどんなときでも正確に真っ直ぐに着地するのだ。走り去っていく後ろ姿の肩幅の狭さが印象的だった。


決勝のスタート後も中川健太郎の走りは変わらない。1周を66秒きっかりでラップを刻んでいる。先頭が飛び出そうが、後ろに付かれようが全くそんなことは彼には関わりのないことで、自分の決めたタイムで走る。2周目も66秒きっかりで回ってきた。スタートから飛び出した選手も今は1団となっている。3周目、かなり集団がバラケて大きな塊だったものが縦長の列になった。


先頭集団は6人ほどの塊でスパートのための好位置を取ろうと争っている。ラスト1周の鐘が鳴っても動きはなかった。第2コーナーを回って健太郎はやはり66秒きっかりで400mのラップを刻み1200mを通過した。バックストレートの直線になったとき先頭集団のうちの2人がスパートした。2メートル、4メートル、差が開いていく。それでも健太郎は変わらない。疲れている様子もフォームが変わったふうもない。第3コーナーのカーブに差し掛かり先頭との差は10mほどか、ここから行かなければ追いつけなくなる。


ところがここにきても、彼の走りはサブトラックをジョギングしていた時と変わらない。前も後ろも誰がどこを走っているのかも関係ないというように、なんとも力感のない柔らかで軽い走りなのだ。ここから1気に力を爆発させて前の走者を追いかければまだいける。

けれども、健太郎は行かない。今までと変わらないペースでコーナーを回っている。最後の力を振り絞って力感たっぷりに何人かが抜いて行っても、やはり同じペースでゴールまでやってきた。6着に入ったので全道大会への出場権は得たけれども、勝とうという気持ちは全く感じられなかった。


健太郎はゴールしたあともそのままのフォームでゆっくりと動きを止めた。下を向くことも膝に手を当てて顔を歪めることもなかった。右手にはめた時計の数字を見ている。

400mを66秒で正確に走り通した。800mを2分12秒、1200mで3分18秒、残りの300mを47秒5で走った。4分5秒5。100mをちょうど16秒5で走ったことになる。山口さんがラップを記録していた。


「なんであそこで、最後いかなかったんだろ」

「中川くんはこういうレースをする人なんだからいいんじゃない」

「負けてもいいってことですか?」

「そういうことじゃなく走ってるんだと思う。つぎはきっと65秒で走ろうとするんじゃないかな」

「でも、レースってのは、競争するっていうことでしょう」

「そうね。中川健太郎は、レースをしていなかったってことでしょうね」

「大会に出場してるのに? 決勝ですよ?」

「中川くんのことは中川くんが決める」

そう言う山口さんの表情はなんだか嬉しそうにさえ見える。もうそれ以上話す時間はなかった。八種競技の400mのコール時間だった。


 先週から今週のはじめにかけて、インターバルトレーニングとバウンディングという練習を繰り返してきた。きつい練習だった。

「まだ眠っている筋肉と神経に喝を入れて目覚めさせてやれ!」

そういう沼田先生の檄で、短い時間ながらも強い強度の負荷を与える練習だった。

「これで400mも大丈夫だぞ!」

沼田先生の言葉は相変わらず抽象的で、僕には何がどういうふうに良いのかわからないままだったが、専門の先生が言うんだから、とにかく大丈夫なのだろう。


2レーンからのスタートは有利だと思った。階段式スタートの400mでは他の選手の走りを見ながら調整できる利点がある。前半に抑えておいて最後に一気に抜き去る計画も立てやすい。観客として見ている方は最終コーナーを回るまで勝負がわからないので楽しめるだろう。でも、これは400mの勝負ではなく八種類あるうちの1つの種目。勝ち負けじゃなくタイムが問題なのだ。この競技の勝負は得点なのだ。今日はもう出場種目はない。全力を出し切ろう。そう考えた。


スタブロに足を置いて顔を上げると、ほとんどの選手を見渡せる。4レーンには北翔高校の3年生佐々木宏大がいる。札幌第四の選手は6レーン。喜多満男が7レーンだ。

「負けたくない。」

号砲が鳴って、低くスタートを切った。7レーンが飛び出した。

「よし! 行くぞ!」

肩の力を抜いて肘から大きく腕を振った。腿を高く上げ、足首のスナップを効かせるように軽く地面を蹴って進んだ。バックストレッチの直線は追い風のようだ、体が軽い。200mを過ぎ第3コーナーのカーブに差し掛かる。アウトレーン側の選手が何人か前を走っていても慌てない。呼吸は辛くない。肩も楽なままだ。

「こっからだ!」


 4レーンの佐々木宏太が強かった。4コーナーを回ってからギアを入れ替えたように加速していく。喜多満男は限界を迎えていた。体が揺れ始めている。直線になってラストの100m。喜多満男の足が止まった。6レーンの選手が前にいる。追いつきたい。力いっぱい腕を振ったが、足が前に出ていかない。4レーンの佐々木宏太は先に行ってしまった。自分の呼吸の音が荒く聞こえている。風が向かっていた。上体が揺れる。残り10mの白線が見え、佐々木宏太に追いつけないままゴールラインを越えた。


「走りきれた!」

力が一気に抜け、呼吸の苦しさが増した。フィールドに倒れこんで膝を曲げたまま、脚の筋肉がつったのと同じような「ケツワレ」の苦しさが収まるのを待った。若草色のまだ短い芝生がほっぺたをひんやりといたわってくれた。初夏の匂いがした。


佐々木宏太の53秒51と札幌第四の54秒55に次いで、55秒03のゴールだった。喜多満男は55秒83と後半失速したが最後まで粘ってみせた。

得点が何点なのかは分からないが、やっぱり負けるのは悔しい。同じ学年の喜多満男と張り合っているわけじゃないが、負けたくはなかった。最後は自分の力以上に気持ちが先に行ってしまう。それが普通のことじゃないのか。力んでしまうとスピードが落ちると練習では何度も言われていても、自分の前を走っているやつには追いつきたい。抜いてしまいたい。そういうのが競争なんじゃないのか。中川健太郎はそんなことは考えていなかったというのだろうか。前を走るやつに対して何も感じないというのだろうか。


山口さんの計算が間違うことはない。1日目を終えて僕の合計は2568点でなんとトップの記録となった。2位の佐々木宏太に10点以上の差をつけ、喜多満男とはさらに10点の差がある。

「野田くんすごい。このペースでいったら5000点超えだって。5000点超えたら大会記録だよ!すごい点数!」

川相智子が自分のことのように目を輝かせた。女子走り高跳びで川相智子は1m48㎝で6位に入った。優勝を決めた山野紗希はリレーの練習でサブトラックにいた。彼女は1m57㎝を跳んだ。

「まだ半分しか終わってないから。ハードルも高跳びも初めてだし、やり投げなんて練習でも1度も投げたことないんだ。明日はどうなるかわかんない」


山口さんの作ってくれたスポーツドリンクに口をつけると、喜多満男の鋭い眼が思い出された。


明日は負けねえぞ! 覚えてろ!

芝生にしゃがみこんだ時の、無言の横顔が悔しさを発散させていた。


「おい、明日も頑張ろうぜ!」

芝生に転がっている僕に手を差し出したのは佐々木宏太だった。まだ走れそうな余裕があった。

「あ、はい」

立ち上がった僕はまだ「ケツワレ」の苦しさから解放されていなかった。混成をやるには彼らくらいのスタミナがなけりゃいけないと強く思わされた。

喜多満男は二人を見ながら奥歯をかみしめていた。


中川健太郎はこんなことは考えないのだろうか。

「絶対に負けねえぞ!」

言葉には出さなくとも、喜多満男のようなむき出しの感情が今まで生活してきた周りには満ち溢れていた。

「明日も頑張ろうぜ」

と相手に手を差し出す佐々木宏太のような「強い者の」余裕の行動も何度か経験してきた。


勝負、レース、ゲームとどんな呼び方にしたって、スポーツは相手との勝ち負けを決めることが大きな目的だったり、努力の目標となっていたのではないのか。

陸上だって、たとえ自己記録を高めていくことが最大の目標であっても、そこに至るにはやはり、相手との勝負が有り、勝つことで前に進んでいく。負けは負けで次の勝負への蓄積となり意欲の源ともなる。

勝つことも負けることも、順位さえも気になりはしないという中川健太郎の無表情さには、人として何かが足りないような違和感を覚えるだけじゃなく、ちょっとした怒りさえも感じてしまう。

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