第12話  第一部  12・アンカー



「いいか野田! 明日の10時45分スタートだからな。朝のうちにちゃんとマークの確認に来いよ!」


400mリレーの予選を終えたばかりの坪内航平がユニフォームを着替えることもせず、声を荒げた。リレーメンバーのひとり3年生の青木拓也が肉離れをやってしまったのだ。バトンを渡し終わった後に右隣のレーンの選手と接触して内側にはみ出るのをこらえた時に、左足のハムストリングと呼ばれる腿の裏側の筋肉を痛めてしまったのだ。バトンはうまくつながり予選を2着で準決勝進出を決めた。内側にはみ出て走者に接触していたら失格になっていた可能性もあった。青木さんは自分が肉離れを起こしたことと引き替えに南が丘のリレーを次の段階に進めたことになる。

補欠には僕の他に二年の高山さんが登録されていたのだが、彼は大会直前に体調を崩してしまっていた。僕はバトンパスの練習は一度しかやってこなかった。南が丘はひとりひとりの走力ではなく、バトンの精度の高さで勝負するチームだった。


予想外に首位に立ったとはいえ、僕は初めての競技ばかりに挑戦している。明日の八種競技後半に不安を残すだけでなく、リレーという責任の重い役まで回ってきてしまった。陸上の素人が初めてやってることだ。なんでもかんでもうまくできるはずがない。今日のようなことが続くとは思えなかった。競技ごとの楽しさや難しさ、たくさんの競技に出られる充実感はある。それでもまだまだ学校を代表する立場ではまったくない。それでも、一度登録した補欠メンバーを変えることはできない。やるしかない、らしい。


「ハードルはね11時10分スタートだから、大丈夫よ。ちょうどいいアップになるからね。スタート前に八種のコール済ませておけばいいから」

山口さんがプログラムの競技進行表を見ながら言った。

「リレーのコールは全員じゃなくてもいいから、準備時間はあるよ」

本当に頼りになるマネージャーだと思った。でも、僕の不安はそのことではなかった。

「大丈夫だよ。君は今大会のラッキーボーイになれるから」

気持ちを楽にしてくれるためだということは分かっている。それでも、やっぱり気持は重かった。


2日目の朝、中川健太郎のお母さんが厚別まで車を出してくれた。

中川内科胃腸科医院のいわゆる院長夫人なのだが、おしゃべりでよく気がつく普通のおばさんだった。


丹野の婆さんとはほんとに長い付き合いのようで、丹野邸を出発するまでに20分もの時間を無駄にしてしゃべり続けてくれた。そのまま丹野の婆さんも厚別まで乗ってくれた方が助かったのだが、予想通り出発してすぐに話相手は僕に変わってしまった。しかも、院長夫人が乗るにふさわしいトヨタクラウンの車内の静かさは、前方から視線を外さない運転手と後部座席との内緒話でさえ、しっかり聞き取れるほどだった。そのため「あなたの家族の方は? 今日はいらっしゃらないの?」なんて質問にも聞こえないふりでごまかすわけにはいかなかった。なんとか当たり障りのない返事をしながら競技場までの30分をはぐらかして乗り切ったものの、いずれ丹野の婆さんから僕の家の詳しい事情が伝わるにちがいないことは容易に想像できた。


厚別競技場のサブトラックにはまだテントが少なかった。

「野田! ちゃんとマークの位置確認しとけよ!」

坪内航平さんがまたいら立って言った。昨日行われた彼の100m予選の記録は11秒52で準決勝に進出したものの、僕の記録より下だったことでなんだか強い口調で突っかかって来ているようだ。喜多満男と同じで、感情が顔に出るタイプなので何ともわかりやすい人だった。

その坪内航平さんが1走、エースの大迫勇太さんが2走、3走は200m専門でカーブに慣れている山野憲輔さんでアンカーが僕という順番になった。今朝、沼田先生からそう伝えられて、僕は大いに疑問に思っていた。エースの大迫勇太さんがアンカーになるものとばかり思っていたからだ。実際、昨日の予選ではアンカーは大迫さんだった。スタートのいい坪内航平さんの1走はよくわかるが、自分がアンカーをすることがどうしても想像できずにいた。坪内さんのいらだちもそのせいかもしれないと思っていた。


ところが、ほかの3人のメンバーも、他の部員たちもたいして驚かない様子だったのがさらに不思議なことだった。実際にリレーを走るのは初めての僕がアンカーなのだ。運動会ではない、高校総体の地区予選準決勝なのだ。全道大会に出場できるのは8チーム。つまり、決勝進出チームということだ。

「あのね……」

小学生に話しかける先生のように山口さんが話し始めた。

「あのね野田君。リレーではね、特に4継はエースを2走に持ってくるのが、最近のセオリーなんだよ。エースを4走にする場合もあるけど、それは、力の拮抗しているメンバーがたくさんいるチームの場合や、後半型のエースがいる場合が多いの。」


山口さんは、マネージャーとして南が丘高校の何もかもを取り仕切ってくれている。沼田先生が何かを指示する以上の何倍もの事柄を全て1人でカバーしてくれている。マネージャーというのはここまでするものなのか、比較する対照も何もわからないけれど、あまりにも全てのことを知り尽くしているのだ。なぜこんなにも専門的で理論的な事柄にさえ知識を蓄えているのだろうか。


「うちの場合、1走の坪内君はスタートが得意だから当然でしょ。大迫君もどっちかっていうと前半型の選手でしょ。この2人の選手でスピードに乗ってしまいたいのね南ヶ丘としては。山野君は200mだからカーブに慣れてるし、野田君はストライド広いから、スピードに乗ってしまえば後半強いはず。と沼田先生は思ったわけ」

山口さんは何故か楽しげに話している。


「もともとはね、リレーの最終走者のことをアンカーって呼ぶのは綱引きが由来だと言われているらしいのね。綱引きではね、綱の一番後ろを体重が重くてどっしりとした選手が担当していたことから、船の錨にたとえてアンカーと呼んでいたんだって。それが始まりでね、ほかの競技でも勝敗を決める最後尾の選手のことをアンカーと呼ぶようになったんだそうよ。そう考えるとね、ますます君にピッタリじゃない?」


「僕のところで抜かれちゃいますよきっと。」

記録会で一位の選手の走りについていけなかったことが頭にあった。

「逆だよ」

笑顔で山口さんが言う。

「野田君でかわしてほしいんだよ!」

「えー、何言ってんですか、そんなわけにはいかないですよ!」

「どうして?」

「どうしてって……、僕は、遅いから、1年生で初めてのリレーだし」


山口さんの目が真剣みを帯びた。

「野田君。高校生なんだから、学年とか年とか関係なく勝負は行われるの。いい。君はまだ陸上経験少ないから、自信ないのはわかるよ。でも、そんな弱気で君が最後に試合を壊してしまったら、これが最後のレースになる人もいるんだよ。わかる。」

眼鏡の奥の瞳が光を発している。


「だから、なおさら、僕が4走だったら……」

「山野さんも1年生だよね。紗希ちゃんもアンカーやっていたでしょう。予選見たじゃない」

「彼女は、中学ん時からやってるし、速いから」

「君以外で、そのことについて何か言った人はいますか? 君が4走だと困るといった人がこの陸上部に1人でもいましたか? どうですか?」

「いや、……誰も、なにも、言ってません。でも、沼田先生が決めたから誰も言えないでいるんじゃないですか? 本当は、別の人のほうが」


「Be quiet sir!」

「は?!」

「ここの学校の生徒をバカにしないで。あなたもこの学校の生徒なんだから。いい、わからなかったら、わからないとはっきり言う。言いたいことがあれば誰の言葉に対してもしっかり反論する。自分の考えは自分の言葉としてしっかり表に出す。この学校の生徒にはそんな伝統を受け継いでほしいの。私がじゃなくて、今までこの学校を卒業していった何千人何万人もの1人として。ここはそういう学校でしょう。」


初めて山口さんの怒る姿を見てしまった。目が本気だった。唇がよく動く。顔が赤みを帯びてきた。

「あなた以外の誰もが何も言ってないのは、みんなそれが正しいと思っているからよ。でも、あなたが今言ってるのは、正しいとか正しくないじゃなくて、自分の責任で負けたらどうしようって、言い訳を準備してるだけ。そうでしょう! やめなさい。そういうの。かっこ悪いよ、野田君。結構いい度胸してると思ってたのに、がっかりさせないでよね。『ノダケン』って名前はそんなイメージじゃないでしょう!」

「すいません、よくわかってなくて」


まだなんだかよくわからないんだけども、謝るしかない雰囲気だ。

「みんなには、言わないでおくよ。でも、2度とそんな情けない言い方しないでよ。」

「わかりました。……でも……」

「でもじゃなくて、練習しなさい!」

「いや、そのことじゃなくて、山口さんはなんでそんなに陸上のこと詳しいんですか?」

「そんなことは、今はいいでしょ。大会が終わってから、それでも聞きたかったら教えてあげる」


「野田! さっさと来いよ! 練習するぞ!」

少し離れたところから坪内さんが怒鳴っている。今の話が聞こえていたようだ。

「お前のバトンが下手だから練習すんだろう! 4走なんて受けるだけだから、ちゃんと山野さんのペースをつかんどけよ! お前がバトン渡す側になったらリレーが壊れてしまうから4走なんだからな。ほら、早く来い!」

こういうのが坪内さんの優しさの表現なのかもしれなかった。山口さんの表情は元に戻っていた。坪内さんも意外にいい人なのかもしれない。


サブトラックでリレーの練習が始まってすぐ、中川健太郎の話になった。400mを66秒で走りきったことに「やるね、あのむっつり君」と山野憲輔さんが僕にバトンを渡しながら言った。

「何すか、その、むっつり君って?」

坪内航平が聞いた。ジョギングしながらのバトン練習もトラック3週目に入り、そろそろダッシュに移る時間だ。


「いや、あいつほとんど表情変えないし、言葉も少ないけどよ、この前バッグの中に水着写真集入ってんの見つけたんだ。」

「練習のときっすか?」

「部室でさ」

「いいんじゃない。健太郎もちゃんと男だったってことだし」

大迫さんが笑った。

「だれのだったの?」

「名前は知らない女の子だ」

「グラビアアイドルとかそんな感じだったな」

「ネットだなきっと」

「健太郎も普通に成長していたってわけで、めでたしめでたしじゃないの」

「あいつ走ってるとき何考えてるのかな」

「それはお前、水着ギャルじゃねえだろうよ」


学校の練習でこんな会話になったことは今まではなかった、学年が違うこともあるし、一緒にいる時間も限られていた。大迫さんと会話することなんか今までになかったかもしれない。山野さんの声もこんなに近くで聞いたことはなかった。試合になるとこんなところにも楽しみがあるのだ。そして切り替えの上手さがこの人たちの賢さの理由なのかもしれない。


「おまえは1番後ろのラインからスタートしろよ、4歩で左手。いいな。マークは、15足長、内側に寄るな。最初は外側にいろよ。いいか」

「はい、練習通りいきます」

「スタート位置は、調整してもいいから、最初はまず15で行ってみるぞ」

「わかりました」

サブトラックで50mのバトン練習が始まった。山野さんが15足長のマークに差しかかり僕がスタートを切る。4歩目に左手を後ろに伸ばし手のひらを上に向け、バトンをしっかりと奪い取る。が、すぐに追いつかれてしまう。マークを18にしてもう1度。今度は届かない。僕と山野さんのところだけがうまくいかない。

「こら、野田、しっかり走れ! 疲れてしまうだろう!」

坪内航平が怒鳴る。

「おまえは今、頭で走ってるからだ、もう少ししたら体で考えるようになるからいつものスピードになるはずだ。このまま行こう。15だ。練習通り15。何としても合わせる。いいか。全力で走れ、俺が何とかするから」

「すいません。全力で行きます。お願いします」


リレーの練習でしっかり体が温まったと思った頃から雨になった。今は小降りだが今後の予報は良くない。午前中はずっとこうだという。レンガ色を鮮やかにしたゴム製のトラックは雨に濡れて光っていた。サブトラックにいた時よりも少し強くなってきた。でも寒さは感じない。

女子の400mリレーはアンカーの山野沙紀までバトンがつながらなかった。3年生の北田由美が泣いていた。初めての決勝進出を目指していたのだ。男子は北翔高校と同組の2組目となった。1組目では札幌第四高校が43秒12で1着となっていた。2着プラス2で決勝を目指すのだが、44秒台前半が目標となりそうだ。


7レーンから坪内航平が飛び出した。後半内側の2校に詰められたが3校がほぼ同時に第2走者につないだ。大迫勇太は流石に速く、すぐにトップに立った。カーブの奥で山野憲輔にバトンが渡った時には2mくらいの差があった。カーブを回りきって近づいてくる山野さんの顔に執念を感じた。

「ゴー!」という大きな声。左脇の隙間から15足長のところにあるマークを見ていた僕は、浅いレフトフライでタッチアップする時と同じように右足のスパイクを路面にしっかりと打ち込んで待った。左脇のあいだからマークの位置だけをしっかりと見ていた。山野さんの声なのか他校の人なのか、はっきりとしないまま自分の目で見えたマークの通過をスタートの合図とした。レーンの右側ギリギリを走り、4歩目で左手を後ろにいっぱいに伸ばして。手のひらを上に向け指をしっかり開いた。右肘を小さくたたみピッチを上げるために素早く振ってスピードを上げていった。

「ハイ!」という声とともに手のひらに冷たく硬いバトンの感触がやってきた。全力で握り奪い取るように引き抜いた。バトンの先端ギリギリの不安がよぎった。思わず右手に持ち替え握り直していた。


先頭で走っていたはずが、前を向くと3レーンの北翔高校山崎昇が2mほど前で5レーンの恵北高校と先頭争いをしていた。アウトレーンの南が丘は直線になって初めて本当の位置がわかった。2着取りのこのレースでは何が何でも前の2人のうちの1人を交わさなければならない。

「言い訳できない!」

「野田くんでかわすの!」

山口さんの言葉が聞こえてきた。肩に力が入った。腕を大きく振った。5レーンの選手を追いかけた。ゴールが近づいてきた。山崎昇のスピードが上がっている。

「おー!」

歓声が一気に大きくなった。追いつけない。速い。腕の振りが力強い。

「負けるか!」

スタンドからの声がいろいろな音になって耳に届いた。白線を次々に通過し、左に体をひねるようにゴールに胸を突き出した。

「交わした! かもしれない……」

5レーンの選手もこっちに顔を向けていた。無理な体勢のフィニッシュだったらしく、僕はゴール後バランスを崩して外側のレーンに倒れ込んでしまった。ようやく治りかけていた膝の傷がまた開いて血が滴っていた。


坪内航平がやってきて、バトンを受け取り、右手を出して引っ張り起こしてくれた。

「かわしたぞ!いいフィニッシュだったぞ!」

初めて聞く坪内さんの褒め言葉だった。

山崎昇の力強さが強烈に頭に残った。北翔高校のタイムは43秒45。これでも札幌四高に届いていない。南が丘は44秒18のタイムで2位に食い込んだ。3組目は東栄高校が44秒14で1位となった。決勝進出校の中で南が丘は5番目の記録だった。決勝は午後6時から行われる。


「なんでお前、バトン持ち替えた?」

山野憲輔が言った。

「えっ、持ち替えました?」

全く覚えていない。

「バトンの先端だったからだろう?」

大迫勇太さんが言った。決勝進出でひと安心という感じの話し方だった。

「スタート速かったぞ!」

「ゴー!って言いました?」

「言わないだろ!いつも」

山野さんは怒ってはいない。

「ちゃんとマーク通りに行けよ!」

「ゴー!って山野さんが言ったようで」

「試合になるとさ、いつもと違う感覚になるんだ。だからいつもと同じことしかやらない。特別なことやったら失敗するんだ。いいか、ちゃんと覚えとけ!」

大迫さんは冷静だ。山野さんが続いた。

「俺はいつもと違うことはしないからな!」

「分かりました」

「さっきのはバトン持ち替えて正解だ。でも、それでタイムは少し落ちたはずだ。バトンがうまくいけば持ち替えなくていいからな。」

「ほら、青木もほっとした顔してる」と大迫さんは明るかった。


「ノダケンやるじゃん!」とテントの中からタクが出てきた。

タクの走り高跳びは激戦だったようで、180センチを超えたところで5人の選手が残り、次の高さを跳べなかった3人の中でタクが試技数の関係で4位となり全道大会に進出した。今はもう珍しくなったベリーロールにこだわった彼の助走は、上下動の激しいゆっくりとしたスピードで進む。踏切地点の手前で極端に重心が下がり、足の振り上げというよりも膝の曲げ伸ばしで上向きの力を生み出しているように見えた。そして、跳び上がってからのタクの身のこなしは誰よりも上手で、バーのぎりぎりを滑るように越えていった。まさに腹を下にして……、ベリー(腹)をロール(回す)する跳び方だった。右手をバーの向こう側へ落とし込むようにして越えていた。最後に残った左足にさえちゃんと意識があるようにバーのギリギリをかわしていった。


沼田先生がテントにやって来た。

「決勝だな!よかったな山野。コーナーで危なかったぞ。インを意識しすぎだ。もっと、ゆったり回っても大丈夫だ」

そして、僕の肩を右手でつかみ、笑いながら言った。

「野田、アンカーはな、目一杯リキんで走れ!」

「はい?」

「リレーのアンカーなんてな、冷静に力抜いて走るなんてできないもんだ。逆にな、前にいるやつを必ず抜いてやるって、負けたくない気持ちだけが力になるもんだ。最後はな、全身の筋肉で前にいるやつを追っかけるんだ。それで負けたらしょうがねえ。いいか、決勝はがむしゃらにいけ。お前のそのパワーを見せてやれ!」

3人の先輩たちが笑っていた。

「先生、いつもと違うこと言ってますよ。最後まで必要な力以外は使うなって練習で言ってます」

「野田はお前たちとは違う。こいつは頭では走れない。気持ちが入らなきゃ力が出ないやつだからな」

大迫さんが大きくうなずいた。

「そうだ野田、お前の腕振り強烈だから、札幌第四のハチマキ引っ張ってさ、抜いてやれよ」

「うちにもハチマキあったはずですよね?」

「いいよ、それは、南ヶ丘のイメージ崩れるよ」

全道大会に出られるという気持ちが、みんなの口を軽くしているようだった。

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