第13話 第一部 13・転倒
八種競技2日目の最初の種目、110mジュニアハードルが始まる。
合同練習からの2週間で、清嶺高校の上野先生からスピードを落とさずにハードルに向かう練習を教えてもらった。3台抜かして跳ぶスピード練習もしてきた。ほんのちょっとだけ自信らしきものも生まれていた。インターバルのリズムのイメージは出来上がっていた。
大丈夫だ。前半の得点は予想外にもトップだ。思い切ってやれる。この程度の雨なんかどってことない。
リレーの結果は気持ちを楽にしてくれていた。
昨日と同じ3レーンにスタブロをセットした。スタート位置は昨日より10m手前になる。セットを終えて1本だけ走ってみる。1台目、低くスピードに乗って越えていく。インターバルの3歩のリズムも楽に走れている。2台目もいいリズムで越えられた。大丈夫だ。スタート地点に戻り合図を待った。雨は少しだけ小降りになっている。濡れた体にも寒さは感じない。
スタートのタイミングの取り方にも慣れて来た。ピストルへの反応は誰よりも速かった。1台目に跳びかかった。抜き足を少しこすったがいいリズムだ。スピードに乗っている。2台目も強く踏み切れた。左腕のリードを強く意識しながらリズムよくインターバルを刻む。前には誰もいないことが分かった。スピードは十分だ。3台目、右足の振り下ろしもしっかりと決まった。
「……! いける!」
イメージ通りに進んでいる。4台目、さらにスピードに乗ってきた。左腕に合わせて右腕にアクセントをつけて上体を深くベントさせ、左足を抜く。抜きのスピードはインターバルのスピードにつながる。
「もっといける!」
スピードを更に上げようとしたことで必要以上に左足に力が入ってしまったらしい。つま先が上を向き踵がハードルに引っかかった。身体が少し前に傾き右足の着地点が手前になった。踵の引っかかった左足が戻ってこない。膝が上がらず右足の横にバタンと着地した。右足が外に流れる。左足を無理して真っ直ぐに戻して踏み切った。が、身体が前に向かわない。振り上げた右足が伸びきらず、高さも足りない。
5台目……。ハードルが本物の障害物となった。ついに僕の右足はハードルを踏み倒し、大きくバランスを崩して、レーンの右側ぎりぎりに飛びこんでいった。倒れたハードルの脚が左のくるぶしの下あたりを切り裂いた。前のめりになったままの僕はこらえることができずにそのまま自分のレーンに頭から突っ込んだ。
柔道の受け身のように左手を曲げて1回転して起き上がろうとすると、目の前に6台目のハードルがあった。
「アー!」
「ウワー!」
どよめきのような叫び声がスタンドからやって来た。振り返ると倒したハードルが自分のレーンに通路を開け、早く通れと言っているようだった。
「まだだ!」
まだ、ハードルは半分残っている。とにかくゴールしなければ。立ち上がった。が、目の前のハードルは越えられない。手を使ったり、故意に倒してしまうと失格となる。もう1度5台目のハードルまで戻って助走を付け直して6台目を超えた。スピードは付けられない。インターバルを3歩で行くことなどできず高跳びを繰り返すように、とにかくゴールを目指した。全員がゴールしてからしばらくして、やっとゴールラインにたどり着いた。先にゴールしていた7人みんながこちらを向いていた。佐々木宏太の顔があった。喜多満男が見つめていた。スタンドからいくつかの拍手が聞こえてきた。
「大丈夫ですか?」
尋ねたのは両足から血を流したままの僕の方だった。
「君は? 大丈夫か?」
ゴール前の観察員の先生が聞き返した。
「いや、ゴールは認められますか? 失格になりませんか?」
「だいじょうぶだよ」
横から声をかけてくれたのは年配の判定員の方だった。右手の白旗をあえて上げて見せてくれた。
25秒58。とにかく記録は残せた。気持ちが少しだけ緩んだ。そのとたんに足の傷が痛み出した。
競技場内にある正面スタンド下の医務室には先客がいた。
「いやー、野田君。ほんっとに君は医務室好きだねー」
振り向いたのは清嶺高校の上野先生だ。清嶺高校でのハードル練習でも医務室のお世話になったことがあるのだ。
「血が垂れてる!」
上野先生の後ろで立ち上がったのは、清嶺高校陸上部キャプテンの長野沙保里だ。彼女は左手に包帯を巻いているところだった。1500m予選でゴールをした時、何人かの集団で転んだ際にスパイクされたのだという。
僕の右膝は何度もすりむいてできていたかさぶたがとれ、血が滲んでいた。左膝の裏側から血が流れふくはぎから足首へと伝っていたのは、転がった時に自分のスパイクで切った傷からのようだ。ハードルを引っかけて切れたくるぶしからの出血も加わって、左足の靴下は赤く染まっていた。
「ほら、ちょうどこの前だよ、転んだの」
上野先生がガラス越しに見えているトラックを指した。
「うちの学校で練習したことしっかり理解してたみたいだけど、スピードに負けてたね」
上野先生は楽しそうに言っている。
「こんな雨の日に、あのスピードでハードルに突っ込んでいくのは君だけだよ。怖いもの知らずっていうか。度胸があるって言うか。たいしたもんだよね」
「結構切れてるみたいですよ」
自分の手の包帯を固定して、長野沙保里が僕の足に消毒薬を吹き付けた。
「サビオで十分!」
上野先生は当番の養護教諭に確認もせず、救急箱から耐水性の大きなカットバンを取り出して僕の膝の裏に貼り付けた。
「他は痛いとこない?」
「今のところは」
「まだ、ショックで痛さもわかんないんでしょ」
「右目の上が赤くなってます」
長野沙保里の顔がすぐ前まで来ていた。少しどきっとした。
「大丈夫です」
思わず目をそらしてしまった。ユニフォームを着たままの長野沙保里は、細く長い腕を動かして、カット綿に消毒液を付けて僕の脚を拭いてくれた。看護婦さんに処置される救急患者のようだった。照れくささと、何だかくすぐったいような気持ちで落ち着かない。
「沙保里なんかね、決勝進出の最後の1枠を4人で争って勝ち残ったんだよー。ゴール前なんかもう、ライフセーバーのビーチフラッグ競争みたいだった!」
「最後の年くらい決勝行きたいですから」
恥ずかしそうな笑顔が僕を見上げた。
「でも、すごく痛かったんですよ、先生!」
「ノダケン!」
「はいっ?」
上野先生が言った
「まあ、とにかく、マエケンにならって君はノダケンってことで、清嶺高校陸上部のアイドルなんだから。しゃきっとしなさい。あと3種目、ビビってられないぞ!」
「大丈夫ですよこれくらい。でも、ハードルってやっぱり難しいですね」
「怖くなった?」
「いや、なんとなくリズムつかめたので今度は何とかします」
「かっこいい。さすがにマエケン、じゃなくて、ノダケン。むかしマツケンってのもいたね」
「野田君、大丈夫だね、その様子じゃ」
医務室に入ってきたのは山口さんだった。
「長野さんは大丈夫だった。すごいデッドヒートだったけど、さすがだよねーあそこでちゃんと残るんだから!『根性の女、サオリン!』って、またまた、後輩たちが騒いでたでしょう?」
「ミス山口、よく分かったね、本当にその通りだったよ。あんた、なんでも分かっちゃうんだね」
「山口さん、今度またスイーツ食べ放題行こうよ!全道大会まで時間あるから、来週でも!」
「いいよー。この間ね、いい店教えてもらったんだよー。駅前通にあるんだけどちょっと目立たない位置にあってね……」
「いいなー、私も行きたいー、でも、体重が気になるー」
上野先生の魅力はこういうところにあるのかもしれない。40人もの清嶺高校陸上部員たちが朝から楽しそうに競技場にやってくる姿は、この人が作っていたのかもしれない。
「あっと、そうだった。次の種目遅れちゃうんで野田君連れてきます」
「はい、はい、山口さんに任せますよ。あなたがいれば、何でも、何とかしてくれるでしょう。ミス山口、よろしく!」
「こら、ノダケン! ビビるなよ!」
山口さんが不思議な顔をした。
僕は小さくうなずくだけで医務室から走り高跳びの招集に向かった。途中で山口さんが他の選手たちの結果を話してくれた。彼女のバインダーには、全員の記録の写しや出発時刻と招集時間などが細かく書き込まれたファイルが何枚も挟み込まれている。雨よけのカバーをめくりながら首から提げたペンでチェックを繰り返しながらも僕との話のペースは変わらない。
雨は降ったり止んだりを繰り返し、走り高跳びのセーフティーマットには雨用のカバーがかぶせてある。でもそれによってかえって、跳ぶたびに背中に水を吸い込むことになった。今日から背面跳びをすることにしていた。沼田先生の教えを実行するつもりであるし、新しいことをやってみたいという気にもなっていたからだ。学校の練習ではちっとも上達していない。バーの上でアーチを作れないのだ。踏切もベリーロールの動きを脱しきれず、膝を曲げての振り上げ足のタイミングをとれずにいた。でも、変えてしまったのだからこれでいくしかない。
「言い訳はあと!」
山口さんの言葉はいつまでも頭の中にあった。
競技は1m50㎝から始まった。何でもない高さだが、ここで1度跳んで得点を残しておこうと思った。山野紗希に教わってきたことを思い出しながら、右カーブを描き内傾と後傾を意識して、「ポンポンポン、タタタン」という6拍子のリズムで跳び上がった。バーはずっと下に見える。楽々クリアー。なのだが、バーの上でVの字になっているのが分かった。山野紗希のような美しいアーチは作れない。野田琢磨のようにバーのぎりぎりを越えていくことなどもっと無理なことだった。腰が落ち、頭と足だけが上を向いている。とってもへたくそで不格好な跳び方だ。初めての背面跳びですよ、と宣言している跳び方だった。助走は何とかなるので、高さは十分ある。
「まあ、いいか。本番が練習なんだから、失敗を生かせるようになればいいか……」
1m70㎝で2度目の跳躍。スピードを上げ真上に伸び上がる。結構な高さが出た。そこから右手を下ろし、腰を伸ばし膝を曲げる……、というこの動きがぎこちない。頭のてっぺんから落ちそうになって慌てて顎を引いた。
クリアー。
「ほー!」という声が上がった。
「野田、こっち!」
ピットの奥の方に沼田先生がいた。やり投げの準備をしているらしい。
「いいか、高さはな、2mまで上がってる。でも、腰の高さは、1m75㎝くらい。分かる、この意味」
「はい、ジャックナイフですね」
「そう、今ちょうどマットに降りる手前で顎を引いた。あの時の形がもっと上の位置で作れると、あと20㎝は跳べる。わかるか。踏切はばっちり、そのあとだな。こうしてみな。踏切の時に右手だけを高く上げる。そして右膝は胸に近づけないで蹴り上げろ!」
「転びそうですね」
「そう、バーの上で転べばいいの。顎さえ引いてればそのままマットに着陸成功ってなるから。もう、記録残ってるからやってみな。そしてな、あと3つだけ。いいか。跳べても跳べなくてもあと3本で終われ。雨で冷えてくるから、限界だ。いいか絶対だぞ!」
「跳べなくても止めるんですか?」
「そう、絶対。きょうは今までの2本と合わせて5本以上跳ぶな。いいか、だからな、いつ跳ぶかはちゃんと計算しろよ!」
この人は普段の練習であんまり注文出さないくせに、試合になるといろいろ難しいこと言うんだから。
1m75㎝に上がり半数以上が落ちた。僕は慎重に助走を開始し、右手と膝のけりを意識して跳んだ。失敗だった。全く身体が上がらなかった。
「オクビョウモノメ!」「ナサケネー!」
自分をののしってみたがあと2回しか跳べない。せっかく背面跳びにしているのにこんなところで失敗していられない。走り高跳びの順位を決めるわけではないので試技回数は関係ない。残っているのは僕を入れて5人。慎重に、なんてかっこいいこと言ってられるか。とにかく、助走で高く跳び上がる。バーを越えるのはそれから。
バーの真下に行き踏み切り位置を確かめ、その場でジャンプをしてみた。自分の身長に近い高さだ。それを上から見下ろしてみる。腰の高さまであがれる。スタート位置に戻り6拍子のリズムを大切にしてスピードを上げた。真っ直ぐ上に踏み切る。バーが下に見えた。右手をバーの向こう側に下ろすようにした。腰が伸びた。まだ少し縦回転ができていないが背中でアーチらしきものができた気がする。バーを見ながら顎を引いた。膝下のクリアランスもしっかり見えている。右肩のあたりからマットに着地した。バーは微動だにしていない。何となく感覚をつかんだような気がした。
「あと1本」
雨が強くなり出した。
山口さんがスタンドの最前列にいて手を振っている。目があった時両手をクロスさせてバッテンを作った。
「お・し・ま・い!」
よくは聞こえないが、もう止めろといっているようだ。指さす方角には両手でバッテンをする沼田先生がいた。今日はもう跳ぶなということらしい。分かるような気がした。なんとか勝負になる記録を残したし、この雨でケガしてもしょうがない。ハードルの失敗を取り返したかったが、この記録だって自己新記録なのだった。止めることも大切な勇気だ。沼田先生には危険信号が見えたらしい。
七種目目はやり投げ。槍を全力で投げるのはこれが初めてだ。沼田先生はやり投げの専門家なだけに、この種目だけはポイントをはっきり教えてくれた。
「野球とおんなじだ。センターからバックホームすればいい。助走のステップも一緒。違うのはな、ライナーにしないこと。高く放り上げろ。それだけだ。握り方は2種類ある。野球のボールを握るような形で人差し指と中指に挟むのもあるけど、最初は5本指で握ったほうがいいぞ。安定するから」
腕を大きく後ろに残して右足から1回だけクロスステップをして、センターからのバックホームじゃなく、遠投競争のつもりで高く投げ出す。右手のフォロースルーは大きく左足まで振り切る。800gの槍が高く飛び出し、白いラインの付近に突き刺さった。槍は何年か前の規則変更で重心が先端部分に移動したため、かなりの高さから急角度で落ちてくるものらしい。
スタンドから拍手が起こった。
「50、メートル、18」
計測員が大きく叫んだ。復唱して記録しているのは沼田先生だった。
「もういいぞ。やめろ!」
沼田先生は自分で記録簿に斜線を引いた。
「お前、そのうち60まですぐ届くから今日はここまでだ」
喜びを隠しているのか、わざと冷たい言い方をしている。50mに届く選手は他にいなかった。
4時30分、雨は上がった。最終種目の1500mは、ここまでの合計点で上位12人が第1組で走ることになった。佐々木宏太がトップで3位は喜多満男、僕はハードルでの失敗が大きかったが、それでも7番目の位置にいる。上位4人までが全道大会に出場できる。長距離は得意じゃないが、走りきれる自信はあった。ずっと野球部で鍛えてきた。
ピストルが鳴った。喜多満男が飛び出した。佐々木宏太がついていく。僕もその後ろについた。一週目のラップは72秒。ついて行けなくはない。2週目、74秒に落ちた。3週目も74秒のペースで鐘が鳴った。ラストの1周は上位の5人ともかなりの疲労を抱えていた。なかなかスパートできない。それ以上に止まりそうになる足と気持ちとの戦いだった。やはり2日間での八種目は厳しかった。
第2コーナーを回ったところで恵北高校の3年生清水良平が先頭に出てリードを広げた。喜多満男は荒い息をしている。佐々木宏太が続いて出た。僕は佐々木宏太に追いつこうとペースを上げたが、足が前に出て行かなかった。喜多満男と競り合いながらバックストレートの直線を並んで走った。大きく口を開いて顔を上下させながら喜多満男が外側に回り込もうとしている。僕も同じく息を荒げているに違いない。
「コイツには負けたくない」
2人とも同じ思いを抱いたようで、第3コーナーからのカーブで同時にスピードを上げた。佐々木宏太は5mほど前を先頭の清水良平を追って走っている。最後の直線になった。スタンドからの声援が今まで以上に聞こえてきた。北翔高校の統一した応援が耳に入ってくる。恵北高校の清水良平には1番大きな声がかかる。千歳体育の喜多満男にも応援団がついているようだ。「ノダー!」という単発的な声も聞こえてきた。
あと少し。メインスタンド最前列から「ノダケーン! ガンバー!」と清嶺高校陸上部の応援の声が突然やってきた。10人以上もの女の子の叫びだ。「ケンジー! あと少しだー!」という声は武部の声に違いない。テニスの試合は昨日で終わったらしい。しっかり清嶺高校のなかに混じっている。
残りの50mを体全体の筋肉を総動員して走りきり、最後の最後まで喜多満男と競いきった。互いに倒れこむようなゴールは僕の方が先だ。4分45秒。喜多満男は4分46秒。トップでゴールした清水良平は4分35秒で走った。強かった。佐々木宏太は4分41秒で2着になった。12人全員がゴールし、大きな拍手がスタンドからも役員の方たちからもやってきた。
初めての経験ばかりだった八種競技の合計は4377点でなんとか5着に入った。僕はちょっとだけ陸上に対して自信を持てたような気になっていた。
佐々木宏太が4871点で優勝した。1500mでトップだった清水良平が4776点。喜多満男が4759点で3着となった。同じ1年生の喜多満男はどの種目でもまんべんなく得点を上げていた。4番目の選手は4389点で、僕はほんのちょっとの差で全道大会出場を逃してしまつた。
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