第2話 第一部 2・武部裕也
「明日、8時集合はいいよね。きみ、朝は強い? 目覚ましは持ってる?」
山口美優がバインダーにはさんだプリントを見ながら言った。一本にまとめた髪が左肩の下で少しだけ揺れている。
「朝は大丈夫です。下宿の婆さんはやたら早く起きるから」
「場所、分かんないんだったよね。」
角張ったあかね色のメガネフレームの奥から、真っ直ぐな瞳が僕を捉えている。
「いや、あのー、武部と一緒に行くことになったので」
「武部……、あー、テニス部も明日試合だったねー。武部君って、よく練習に顔出すおしゃべりな子だよね。あれ、確か卒業したあの武部美由起さんの弟だとか聞いたなあ……。テニス部だったの? おんなじ中学?」
「いや、僕は岩内から来たんで知ってる人はいないんです。武部は同じクラスで、なんか、何故かそういうことになって」
「イワナイ? 北海道あんまり詳しくないんだ」
「あの、泊原発って知ってますか? 積丹半島の西側の?」
「あ、あっちの方なの。そんなに遠くないよね。」
「札幌からちょうど100㎞ぐらいです。車だと2時間くらい」
「港町? 魚とか、ウニとかアワビとか採れる?」
「はい。寿司屋でうまい店ありますよ。友達のオヤジがやってるんです」
「へー、いいね。行ってみたい。海の町っていいよね!」
「ちっちゃい町ですよ」
「兄貴、車買ったばっかりだから行きたがるな、きっと。」
兄貴という古くさい言い方が、かえって新鮮に聞こえた。そして、兄妹でドライブに行くという映画の一場面のような姿を僕はどうしても想像できなかった。
「明日は第2コーナーの芝生席にテント張ることになるから、そのあたりに来ればいいよ。」
「第2コーナーって、ゴールの向かいのあたり?」
「そーだ、陸上は初めてだったんだよねー。でも、体育の授業とかで知ってるでしょ。リレーの第2走者のあたり。わかる?」
彼女は出来の悪い生徒に丹念に教え込んでくれる先生のようだ。
「大丈夫です。」
「本当? じゃあ、帰りに持って行くもの分担するから。まだわからないことがあったらその時必ず聞いてよ。練習の後、器具室でね。今日の練習は軽く終わるから、5時には帰れるよ。」
「ミーティングとかやらないんですか?」
「そういうのしないの、ここは。エントリーシートに要項がついていたでしょ。しっかり読んどいて。ほかは、あと、なんか心配なことない?」
「いや-、大丈夫だと思います。わざわざありがとうございました。」
「新人には優しくすることにしてるから。最初だけ。次の試合からはもうないから。しっかり今のうちに覚えて。じゃね。……ああ、学生服、かっこいいよ。」
バインダーを左手で抱え、膝から下を振り出すような歩き方で山口美優が出て行った。新人に対する優しさと思えばいいのか、マネージャーとしての義務を果たしただけなのか。昼休みの忙しい時間に教室まで連絡に来てくれたことに、僕は少しの戸惑いを感じていた。
何かを隠し持っているような表情の人たちを今までたくさん見てきた。その人たちはみんな視線が大きく動いていた。話のたんびに作り笑いをしたり、わざと難しい顔をしたりする。でも山口美憂は全く違った。こちらの目の奥をのぞき込むような、いや、僕の頭の中に入り込んで会話しているような、そんな話し方をした。
「あんたはどんな世界で生きてきたのさ」
僕は彼女の後ろ姿に無言でそう問いかけていた。
山口さんと入れ替わりに教室の前のドアから武部が顔を出した。小さな頷きを繰り返し、ニヤニヤしながら近づいて来る。
「おい。おいおい、デートに誘われた?」
武部は丸めて持っていた雑誌のようなもので脇腹を突っついてきた。
「なに言ってんの!」
「3年のバイリンギャル山口さん、いいよなー理知的でさ。」
「リチテキ?」
「いいよなー陸上部。素敵だなー。なんか、いかにも頭良さそうって感じだなー。ああいうシンメトリーを保った顔ってなかなかいないんだって。本当の美形だってことだよなー」
「シンメトリーとか理知的とか、お前、かっこいい言葉知ってんな」
「なんかボクの名前が聞こえたような気がしたんだけど?」
武部はわざとらしく「ボク」を強調して言った。
「お前のこと覚えてたよ。おしゃべりな男の子だってよ!」
「あたー、やっぱ、山口さんもマッチョが好きなんだなー」
「違うって!」
「カナダで長い間暮らしてるとさー、ボクみたいな日本的イケメンは好みじゃなくなるのかなー?」
「カナダ? ……なんでお前、そんなことばっかり詳しいのさ。」
「今ね、南ヶ丘コレクションを収集中。山口さんは当然第一番目に入れてある。」
「いつそんなことしてんの。よくそんな時間あるよな。」
「もてる男というのはねー、こういう手間は省かないものなんだよ。覚えておきたまえ、野田君」
人差し指で掛けてない眼鏡を上げるような仕草をしながら言った。
「だれの真似よ。変なやつ」
こんな気取った言い方も、武部だと笑っていられる。そして、なぜだかこいつは本当に女の子にもてる。武部とは入学式の翌日以来の付き合いだ。その日は、学級での自己紹介があり、詰襟の学生服で登校してきた僕は、まだ短く刈上げたばかりの坊主頭だった。
「武部裕也でーす。札幌の藻南中学から来ました。この学校には3人ほど同級生がいますが中でも一番頭悪いですけどよく気がつく男です、と中学の担任は言ってたので、たぶんそうなんだと思います。一番の目標は楽しい高校生活を送ることです。皆さん、よろしくお願いしまーす。」
わざとらしいそのチャライ言い方からこいつの余裕が感じられた。笑いとともに、パラパラと拍手が起こった。
「あっそっ、気が利くの。良いことだな、そのうちしっかり役に立ってもらおうか。それからな、頭悪いって言っても、札幌にはこの学校の生徒にそんなこと思っている人は誰一人いないから、外に出たら言わない方が良いぞ。『か・り・に・』ホントウだとしても、謙遜じゃなくイヤミにとられるからな。」
担任の大森先生がニヤツキながら、小さな体に似合わないバリトンを響せた。だが、誰もその皮肉に気付かずに黙ったままだった。
「で、君は武部美由起の弟なんだ」
「……そう、ですけど」
「うん、似てるっちゃー似てるけど、頭の方はどうかな」
ちょっとだけ教室を見回したが、誰も乗ってこなかったことに気落ちしたのか、しょうがないなというふうにペンを持った右手で僕の座っているあたりを指して言った。
「じゃ、次どうぞ……」
「はいっ!」
前にいた何人かの生徒が振り向いた。期待や驚きとともに明らかに嫌な表情を作った生徒もいた。
ドスの利いた声だと、中学の頃は恐れられていた。体の大きさだけでなく、表情を変えることなく誰もが言いにくいことをズバリと言うことが多かったからかもしれない。その上、ほかの男の子よりかなり低い声をしていた。
「ほー、いい声してるな。リキんでるか?」
「はい?」
「Take it easy!」
「えっ……」
「まあ、気楽にやんな!」
「えー、うん、はい。……僕は野田賢治といいます。ケンジは宮沢賢治のケンジです。積丹半島の付け根にある港町の岩内町から来ました。今話題の泊原発はすぐ近くにあります。ずっと田舎で育ちましたので、100%の田舎ものです。この高校には知っている人は誰もいません。中学時代は野球部でしたが、陸上部に入りたいと思っています。勉強はできが悪いし、札幌のことも何も知りませんので、どうぞ、よろしく、お願いします。」
自己紹介があるだろうことを考え、朝から何度も頭の中で繰り返してきたセリフだった。練りに練って作り上げた内容だった。息継ぎをするのも忘れるぐらい早口で話してしまった。唇の裏側が前歯にひっついてしまったようだ。深々と礼をしながら、舌で唇を歯茎から離してから顔を上げると、大森先生がにこやかな顔で言った。右目が少し斜視気味のようだ。
「うん、そっか、君は良いヤツなんだな、きっと。挨拶が素晴らしく謙虚で丁寧だ。頑張って考えてきたんだろう。でもな、野田君。札幌が都会だなんて思ってちゃいけない。札幌も立派な田舎ものの集まりなんだ。東京だってそうだ。だから田舎ものが都会に吸収されてしまうよりも、田舎ものが都会を作っているんだと思った方がいい。日本という国はそうやってできてきたんだ。つまり、田舎ものには田舎ものの良いところがあって、それが都会に新しい空気を流し込んで、いい具合に活性化させてるようなものだ。だから、いっぱい田舎ものらしく活躍してくれ。」
よくわからない言い方だが、気にするなってことなのだろう。
「それによ、今や泊原発は全国民が知っている有名な場所だから、岩内もそんなに田舎とは言えないんじゃねえか。」
前の席で武部が拍手した。みんながそれに合わせた。右手を伸ばして手のひらを下にゆらすように拍手を制して、大森先生が続けた。
「でな、ちょっと質問したいんだけど?」
「はい?」
口の中がまた乾いてきた。声がいつもより高くなってしまった。
「入学式の時からみんな気になってたと思うんでよ、代表して俺が聞くんだけど……、その学生服はどうしたの?」
やっとこの話題になった。ほっとした。
「いや、自分の、中学の時のです」
「いやいや、そうじゃなくて。私服の学校なのにさ、どうして学生服着てるの、という意味さ。まあ、私服の学校と言うより、服装の自由化ということだから学生服も自由な服装の一つではあるけどよ。みんな不思議がってるんでな」
「ああー、昨日初めて私服なんだと分かりました……」
「ええー!」という周りの声、吹き出してしまいそうな生徒も何人かいて、少し教室内がざわついた。緊張感が一気に薄れていった。
「入試の時にはみんな制服着てました。それで……服が、無いんです。あのー、ジャージと学生服しか持って来て無くて、だから、当分は……」
呆れたように隣同士で話す声と、にやついた男達でさらに雰囲気の軽くなった教室を見回した大森先生が「家の人はそのことで何も……」と言いかけ、突然、何かを思い出したように少し間を置いて、続けて言った。
「そっか、そっか。でもよ、カッコ良いぞ、その方が。しばらく学生服見てないしよ、良いんじゃないかそれで通せば。他のヤツよりスキッと見えるぞ。アタマだってさっぱりしてるし! 目立つしな!」
34年ぶりの0.9倍という倍率割れのおかげで入学が決まってから、2着の学生服を父親に買わせた。南が丘に入りたいなどと思ったこともなく、今まで何度となく繰り返されてきた父親の見栄のために、不合格確実なのをわかって受けたのだ。中学の担任も受かるはずはないと思っていたが、父親がどんな考えをしているのかをよく知っていて、滑り止めの私立高校の方を熱心に調べておいてくれた。自分自身もそのつもりで、その高校の近くにアパートを探していたくらいだった。誰も知る者のない札幌で一人暮らしをすることは中学校3年間の一番の望みだった。父親も十分承知で、そうすることが家族の幸せのためには一番の方法だと考えていた。
父は合格の知らせがあってからは、知り合い中に「息子の快挙」を触れ回って上機嫌だった。僕に対して、にこやかな顔を何日も続けている父を見ることは今までなかった。そして、これからもないにちがいない。
僕の五歳の誕生日を待たずに出て行ったしまった母親には、別段何の思いも感じていなかった。年の離れた弟と妹、そして継母との生活が中心になった「父の家」にとって、僕は浮いた存在だった。継母は優しく気さくな人で、弟たちと自分を区別することなどなかった。それでも父親の方には別れた母との大きな傷跡を思い出させる存在になっていたらしく、僕にはそれがよくわかった。言葉には出さなくても、いや言葉には出さないからこそそれがよくわかった。敷地のつながった祖父の家で過ごすことが多くなり、祖父も「孫」である僕に自分の人生観を伝えようとすることが多くなった。
札幌に出てくることが、自分自身と父親の中にある「母であり妻であった人」の存在を消し去る唯一の方法だと思っていた。誰も知らない札幌だからこそ、今までの自分とは違う自分でいられる。あえて目立ってしまう学生服で武装することが、違った自分を生きるための出発点になってくれるだろうと考えていた。
「中学で着てたにしてはずいぶんきれいになってるな。3年間それで通せば。有名になれるぞ!」
「はい! そうします!」
小さな笑いが教室のあちこちで起こった。からかわれていることは分かっていた。分かっていたから、それに乗ってしまうことでかえって気楽になるチャンスをもらった気がしていた。
「素直だね、お前! イイヤツだけど、あんまり人の言葉を信じすぎないことも大事だぞ!まあ、そのうち分かるだろうけど」
ちょっとだけ伸びている無精ひげを左の手のひらでなでるようにしながら大森先生はそう言って満足そうな顔をしている。
僕には、この人のほうが素直なような気がしていた。そのうちと言わず、いつまでもそのままでいて欲しかった。
「じゃ、大変長らくお待たせしました。次に行くよ」
大森先生の口調がだいぶ和らいだように感じた。
前の席にいた武部が振り向いて言った。
「お前、カッコ良いわ!」
彼は笑っていなかった。
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