第3話 第一部 3・沼田恭一郎
陸上部の練習は学校の雰囲気と同じで、各自が自由に振る舞っているようにしか見えない。グラウンドに集まって遊んでいる集団にしか思えなかった。チームとしてのまとまりや一体感が重視される野球部と、個人のレースを基本とする陸上との違いなのだろうか。広いグラウンドのあちこちで陸上部の先輩たちがトレーニングに励んでいるようなのだが、僕にはそれぞれが何をやっているのかわからなかった。まじめに全力でやっていることなのか、それすらもわからなかった。いや、いま目の前を3人1組で走っていった3年生達が全力で走っているとは思えない。
「手を抜くんじゃねー。」
野球部ならばそんな声が飛んできただろうと思いながら、しばらくただグラウンドを眺めていた。
「君の脚の筋肉は長いからジャンプ系に向いていると思うぞ」
陸上部顧問の沼田先生がそう話しかけてきたのは入部3日目のことだ。僕の走りを見たのは初めてのはずなのだが、そう言いきった。僕はやり投げでもしてみようと思って陸上部に入った。だが、坊主頭の注目度は高く、周囲の生徒達からは坊主頭イコール野球部と思われていたのだろう。入学式から3日間、休み時間ごとに教室まで押しかけて来る野球部の強烈な勧誘をかわし続けてきた。先輩たちばかりでなく、中学野球で顔見知りだという(僕の方は全く覚えていないのだが)野球部の新入生部員たちにも一日中付きまとわれてきた。
「槍投げをやってみようかと」
「槍かい? ほー、珍しいな。やったことあるの?」
「いえ、野球部でしたから」
「野球、ね」
左右に目を走らせ、沼田先生が何かを考えている顔をした。
「ポジションは?」
「ピッチャーのこともありましたが、センターが多かったです」
「背も高いし、肩幅広いしな。野球やってたのか……」
沼田先生は、なにかを思い出そうとしているようだったが、途中であきらめたような表情になった。
「うーん、まー、しばらくは短距離グループで一緒にやってみな。でも、君の脚の筋肉は長いからきっとジャンプ系に向いてるぞ……」
小学校3年の時、継母が弟を生んだ。家族の中心が僕から弟に移った。それからというもの、放課後と休日は少年野球に熱中することでお互いの幸せを確保してきた。体が大きく上半身の力も強かった僕はピッチャーをさせられることが多かった。
速い球を投げて打ち取った時の快感はあった。でもどうしてもこのポジションは好きになれなかった。4年生5年生と学年が上がるにつれて、打てない球を投げられるようになればなるほど、相手バッターや相手のベンチは、打つこと以外の小細工を弄してきた。3人連続でバント攻撃されたことがあった。インコースのボールにわざとあたりに行くように指示する監督もいた。投球モーションに入る直前にわざとタイムをかけてくるチームもあった。ランナーが出てセットポジションになると牽制のモーションにクレームをつけてくる監督もいた。
野球は楽しむためにやっている。この時間は僕にとって数少ない楽しめる時間なのだ。他の余計なことから逃れ、楽しい時間を過ごすためだけに野球をしていた。野球をしている何時間かは他のことはなにも考えなくてもいい。夢中になれる。楽しむための時間だった。
ピッチャーは嫌だと思うことが多くなった。他のポジションにしてもらおうと監督に申し出ても、簡単には認めてくれない。僕が投げると相手は打てないのだから当然なのだが……。
「肘が痛いんです」と6年生になった時、少年野球の監督に申し出た。野球肘というやつで困っている仲間は何人かいた。
目を丸くしてしばらく何も言えなくなった監督は「病院で見てもらえ」と小さな声で言った。病院なんかに行く必要はなかった。肘なんか痛くはなかった。言われたことを無視して、当時はもう引退して父親に社長業を譲っていた祖父から「野球肘らしい」ことを伝えてもらった。監督は、網元だった祖父の興した水産加工会社で働いていた。
中学に入って外野手を希望した。60人以上の部員がいるので、試合に出られる選手は限られていたが、僕は1年生の時から使ってもらうことが多かった。中学の監督もピッチャーにさせようとしていたが、肘が治らないことを理由に外野手に固執した。ピッチャーには魅力を感じていない。でも、チームの勝利のために個人の希望が後回しになるのは、団体競技の原則だというのが監督たちの話からは伝わってきた。
僕はただ、自分の時間が欲しかった。誰の目を気にすることもなく、自分が思ったことをそのままできる保証された時間が欲しかった。家庭の中にはそれはなかった。学校生活の中にはもちろんなく、部活動の時間だけでも自分の楽しめる時間にしたかった。
外野の守備位置からバッターの打ち返すボールに集中して、自分の体を反応させることに楽しさを感じるようになっていった。ピッチャーの投じる球種とコースに合わせて、打球の飛んでくるコースも予測できるようになった。ピッチャーの投じる1球1球に全神経を集中させることが楽しくなった。そしてなによりも、2塁や3塁にいる走者をバックホームでアウトにすることに1番の喜びを感じていた。本当は肘なんか痛くはなかったのだ。
高校では、個人の力だけで結果を出せる陸上競技に自分の時間を使おうと考えていた。陸上であっても、監督の意思で種目を決定されてしまうのであれば、野球をやめた意味がない。
5月の記録会は連休の中日に円山競技場で行われた。この陸上競技場は冬期間にはスケート場としても使われていたのだという。地下鉄を降りると大きな松の木が立ち並ぶ森のような公園の入り口が見える。見上げるほどの高さに立ち並ぶ樹々の間を進み、坂を登ると北海道神宮に行き着く。更に上へと進むと、札幌ドームが出来るまではプロ野球の巨人戦が行われていた円山球場へと続いている。
陸上競技場は野球場の隣に位置し、更にその右隣にはテニスコートが設置されていた。札幌に来てまだひと月あまりの僕は、同じ日にテニスの大会があるという武部と一緒に路面電車と地下鉄を乗り継いで行くことになった。マネージャーの山口先輩に細かく教えてもらっていたので、ほかの一年生部員と行けばいいのだが、武部が強引に決めてしまったのだ。
僕の下宿に武部がやって来たのは、まだ薄暗ささえ感じる朝の5時をちょっと過ぎたころだった。この時間に動いているバスも電車もあるはずなく、武部の住む南区から歩いて来ることなども考えられない。父親か母親に送ってもらったに違いない。まだ、布団の中にいた僕を丹野の婆さんが困った顔をして起こしに来た。
丹野の婆さんは70歳をとうに過ぎている。二人の娘さんの嫁ぎ先はともに東京らしい。息子さんはアイスホッケーの選手をしていたことがあり、今は苫小牧にいるのだという。十年も前に亡くなったご主人は会社の役員をしていたらしく、この家もそれにふさわしい立派な作りをしていたし、部屋数も多かった。南が丘高校に近いために、今までも何人かの先輩達がこの家に下宿していたのだという。その中の1人は大学助教授だし、もう1人は北海道議会に籍を置いていると、何度も何度も聞かされた。そして、ご主人も南が丘高校の卒業生だった。
岩内で水産加工会社を興し、取引先が多くなるたびに人脈を広げていった祖父が、南が丘高校の関係者から紹介されて、僕はこの下宿に住むことになった。父親にアパートでの一人暮らしを強く主張し、父もそれで良いと思ったらしいのだが、社長業を引き継いだとはいえ、祖父の言うことには逆らえない父だった。
「いいですかぁ野田さん。札幌の名門高校に入学させてくださったご両親にぃ感謝するんですよぉ。きっとあなたの知らないところでぇ、大変な苦労をなさっていらっしゃるのよぉ。」
丹野の婆さんの口癖だった。
「岩内のような田舎町から、わざわざ札幌のこの高校に入れるには大変な努力が必要だったんでしょう。無理したんでしょうきっと。」と、どうしてもそんな意味に聞こえてしまう。
「いやあ、岩内も結構文化レベルの高いところで、函館ラサールだとか札幌の公立とか中高一貫の私立とかずいぶん来てるんですよ。有島武郎の文学館だとか荒井記念館だとか中島みゆきが小学校までいたことがあったり、大鵬だって僕の小学校の先輩なんですよ。そーそー、あの夏目漱石も本籍地は岩内だったんですよ」なんて言ってみても、丹野の婆さんには通じないのはわかっていた。
札幌は北海道の東京で、「地方の町」からやってくる人はみんな、ここで一旗揚げてやろうと一念発起してやって来る田舎者たちだ、と思っているような話しぶりなのだ。そう思われたところで全くかまわないけれど、「岩内ってけっこういい町なんですよ」なんて、さらっと言うだけにとどめることにしている。どう言ってみたところで「みやこ」で生きてきた丹野の婆さんには通じるはずがない。
丹野の婆さんは京都の出身で、公家の血を引いているらしいという話を武部から聞いた。
武部はもう何度もこの下宿に顔を出していて、特技の社交術、いや、得意のおしゃべりで丹野の婆さんにもすっかり気に入られていた。だから、こんな非常識な時間の訪問にもかかわらず、すんなりと通されて僕の部屋へとやって来たのだ。
「お婆ちゃんいつもすいません、こいつは身体ばっかりでかくても、ほんとにまだ子どもで、なんにも自分のことできないやつでしょう。もうほんとに、しっかりできるように強く言っておきますから。じゃあ、後でまた京都のお話聞かせてください。どーもー」
「なんなんだよおまえは、僕の親か。……んとに。こんな早くから。時計持ってないのか」
「だってお前、記念すべき初陣だぞ。人に後れを取ってはならじ。先んずれば人を制すって、この前古典の時間に習ったばっかりだろ」
「あのな、おまえよ、ちょっと盛り上がりすぎ。緊張してんのか? ああ、中学ん時部活やってなかったんだもんな……、初めてか。」
運動は苦手ではないらしいが、どうもこいつが運動している姿は想像しにくかった。
「早すぎたか?」
「競技開始は9時。6時に起きて7時に出発すれば8時前には着くだろう。それからゆっくり時間をかけてアップして、徐々に気持ちを高めていけばいいんだ。初めっから入れ込んでたらさ、ゲートに入る前に落馬してしまう競走馬みたいになっちまう。テニス部で時間の打ち合わせとか待ち合わせとかしてないのか?」
「あー、してたみたいだけどさ、山口さんみたいな素敵なマネージャーいないしさ、オレはお前と行きたかったんだ。」
「なんで、違う部活なのに、変だろ。」
「いいじゃんか。お前といると安心感があるんだよ。いいから、早く起きろ。」
「もう、今日はだめかもなー」
「お前、朝は弱いんだな。」
「うっせーよ」
「わかった、わかった。じゃあ、支度ができるまで丹野の婆さんと仲良くしてくるから」
身軽な動きで部屋から出て行く武部の背中を見ながら、祖父の言葉をまた思いだしていた。
「……俺も、お前の父親もよぉ、ここの商業高校しか出てないから、お前は我が家の自慢だぁ。でもよ、頭のいい優秀な学校に入ったことが大事なんじゃあねえど。そこに通ってくる選ばれた生徒たちと一緒に生活できることが一番大事で、一番価値のあることなんだぁ。高校の三年間は、お前には大事な大事な時間になるはずだ。後から振り返ってみたらな、きっとそう思うはずだ。何が大事かを言葉にするのは難しいけどな。良い大学に入るかどうかなんてことはどうでもいい。『本物』を見ることなんだぁー!いい仲間を作れぇ!その時その時で『今』をどうするかを全力で考えて、それに向かって全力を出せぇ!中途半端はだめだ。後で絶対に後悔するからな。そしてな、本物の良い仲間が必要だぁ!今まで、お前の周りにはいい仲間がいなかったから……。」
中学の三年間、祖父にはずいぶんと助けてもらった。小学校の六年間を過ごした仲間たちとは違い、他の小学校からきている同級生たちには、僕はずいぶんと異質な生徒だったのかもしれない。学校で何か問題があるたびに父親は担任とぶつかるばかりで、相手を罵倒し、学校の対応にクレームをつけてきた。それは明らかに父親自身の手抜きや、見栄から来ることが多かったのを僕は知っていたので、父が学校に来ることが嫌だった。それで何度も祖父に学校への対応を頼むことになり、祖父はいつも僕をかばって長い時間かけて学校とも相手の家庭とも丁寧に対応してくれた。
「……金のことなんか心配する必要ねえぞ。いいか、忘れんなよ。お前は、ここを出て行くわけじゃねえ。もちろん追い出されていくわけでもねえ。お前の生き方を決めるために札幌に行くんだぁ。お前は野田の家の長男だ。けども、この会社を継ぐ必要なんかねえぞ。俺の代で、昔網元だったのを活かすのに水産加工の会社組織にした時から、野田の家は、家の格式や力じゃなくって、この町の一つの組織になったんだぁ。お前の父親はそのことをまだ分かってないようだ……。お前は家を継ぐなんてことは考えなくてもいい。けどもな、おまえが俺の孫だということはどこにいたって変わらないからな。いいか……。」
武部は祖父の言う「本物のいい仲間」なのだろうか。
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