第27話  第二部 10・川相祥子


「お前なんでそんなミニスカなんだよ! 普段そんな格好してないだろ!」


「なによ!学校じゃないんだからいいじゃん。たまにはこういう格好するのも気分転換で良いんだよー」

「そんなのお前、父さんとか智子とか黙ってるわけないだろう!」

「あのねタケベー、私はあんたの彼女でも何でもないんだからね、そんなことまで言われる必要ないでしょ」

「お前と、いやお前たちと俺はさ、小学校の時からずーっと一緒にいただろう! 家もすぐ近くだしさ、お前となんか小学校から連続4年間も同じクラスだったんだぞ。だからよ、双子じゃなくて三つ子みたいなもんだろう」

「なに変なこと言ってんのさ。タケベは智子が好きなんでしょ。たまたま一緒に応援に来ただけなんだからねー。勝手に家族みたいに言わないの! そんなことよりさ、そのごついカメラ。周りの人がなんかヒイテルと思わない? きっとさ、ぴちぴちユニ接写してネットにアップしてる変態やろうって思われてるよ!」

「冗談じゃねえよ。ほら! ちゃんと南ヶ丘新聞部の腕章つけてるでしょ。大会本部からだってしっかり報道のネームもらってるって!」

「なーんか、その望遠レンズの三脚みたいなの危ない人にしか見えないぞ!」

「はいはい、ちゃんとお前も撮ってやるよ。この前だって書道パフォの時の写真いっぱい見せただろ。ほら、サチコさんポーズとって……」

「もー、止めてよ! あっ、ほらノダケン出て来たよ! ちゃんと撮って、ほらあそこ!」


9月22日厚別陸上競技場で新人戦全道大会が始まり南ヶ丘陸上部1年生と2年生からは7人の選手が出場を勝ち取っていた。野田賢治は走り幅跳びと110mハードルで共に決勝に進んでいる。


「ノダケーン!」

高校生の陸上競技大会の声援としては異常に思えるほどの派手な声援に振り返ると、スタンドの最前列には巨大な望遠レンズを構えた武部と、北園高校の制服のスカートを短かすぎるくらいに上げて着ている川相祥子が両手を大きく振っていた。

110mハードルは予選、準決勝とリズムよく走れてどちらも着順で決勝まで勝ち進んできた。札幌地区の新人戦では上野先生の教えを参考に両腕を前に出すダブルアームアクション(と自分で勝手に呼んでいる)で走ることでバランスよく走れるようになってきた。まだまだ安定感はないけれど、再現性を高めるためにも何度も試合に出ることが一番の練習だと思っている。今日もその目的の為に参加している。

 決勝の8人の中で函館北洋高校の南一樹という二年生が14秒台の記録を出していた。今年のインターハイ全道大会でも入賞している彼が、このメンバーの中では突出して速いことは誰もが分かっていた。その彼の隣でスタートを待っていると川相祥子の声だけでなく、スタンドから大きな声援が飛んで来た。同じ札幌圏の高校が多いこともあってこれが地元の利ってやつだ。

南一樹は並んでみるとずいぶんと小さな印象を受けた。準決勝までの走りを見ている限り、そんなことを感じさせはしなかったのにいざ隣に並ぶと彼は小さな選手だった。背の高さは自分より10㎝くらいも低いだろうか。肩幅もさほど広くなく威圧感を全く感じさせない。


ところがスタートと同時に彼の速さに圧倒されてしまった。スタートから一台目までの速さがダントツなのだ。スタートの反応が早いこと以上に、そのピッチの速さに驚かされた。そして彼は約99センチの高さがあるハードルを跳ぶのではなく本当に跨ぐようにして走っている。陸上の解説本には「ハードルを跨ぐように」という言葉としては出てくるが、そんなことは誰もできはしない。どうしてもジャンプする。着地する。という二つの動作からは逃れられずにいた。「踏切―空中-着地」という動きになるのだ。

ところが南一樹は跨いでいく。身長が低い分上方向に踏み切っているはずなのに走りが分断されないのだ。全力の走りの中にハードルが置かれている。そんな走りが本当にできるのだった。その為ハードル間の三歩が異常に速く見える。僕らが意識的にインターバルのピッチを早く刻もうとするのとは違って、彼のインターバルは通常の走りそのものなのだ。身長が低い分だけハードルに足が接触するリスクは高いのだが、そんなことは全く気にせずに彼はピッチを刻んでいく。

14秒62というタイムは大会記録に近い。彼の走りに引っ張られるように他の七人も自己記録を更新する選手が何人もいた。僕は自分の目標通りリズムを作ることだけを考えていた。何度かハードルを引っ掛け、前足の脹脛で倒してしまいそうなところまでいったが、バランスを保って走り切ることができた。15秒23という記録は札幌地区新人戦の時より0秒12速くなっていた。フィニッシュの下手さから胸の差で苫小牧の選手に逆転されてしまったけれども、新人戦とはいえ大きな関門だったハードルで全道の3位になれた。


このレースを武部が「動画もとれるミラーレス」というすごい性能(らしい)のカメラで撮っていて、コマ送りのような動作解析に使える映像として仕上げてくれた。後日この映像を見た沼田先生がえらく気に入ってくれて、その日から武部は陸上部公認のカメラマンとして、どの大会でもフリーパスの通行証を発行してもらえることになった。ただし南ヶ丘陸上部の選手以外は撮影禁止で個人的な目的で女の子を狙った時点でアウトになるという条件付きではあった。


「ねえねえタケベ、ノダケンってほんとに誠さんに似てるよね。スタートラインに立った時メッチャカッコ良くない! 最後抜かれちゃったけどさ、他の人と線の太さチガウクナイ?」

「お前さー、いつからそんなしゃべり方になったのさ。北園ってそんな感じなのか?」

「こんなの普通だし! それよっかさ、なんでタケベはノダケンと仲いいのさ。全然違うタイプ過ぎるっしょ!」

「うーん……お前さ、タ行の次はナ行だって知ってるか?」

「なにそれ?」

「入学してさ、初めは出席順に座るだろ。そしてよ、知らない人同士で初めて話しするとしたら近くの席同士だろう大抵はさ。んで、俺もケンジも目立ってたってこと」


「はー、やっぱ頭いいねタケベは」

「なーに言ってんの、中学ん時お前たち姉妹の方が上だっただろ」

「学校の成績なんか頭いいかどうかに関係ないよ。そんなの言わなくてもわかってるくせに。学校の成績だったら『マジカルミーちゃん』に叶わないけど、本当に頭いいのは武部裕也だよ」

「おーい、その言い方しばらくぶり!うちのバカ姉(ねえ)のヤッバイあだ名だったなそれ」

「だってさ、何やってもミーさんに叶わなかったでしょ! だーれも! 勉強はもちろんだけど、テニスも全市大会出てるしさ、絵描いたら必ず賞もらってたしー……有島文学賞だっけ、作文も一番でしょ……、もう別世界だったよね!」

「でもよ、普段の中身なんかほんとガキンチョだった!!」

「近所のガキ大将みたいだったよねー。でも、だれも叶わないんだからしょうがないよーって、みんな認めてたよね『マジカルミーちゃん』……もう普通じゃなかった」


「今も普通じゃないみたいだ。京都行っても同じ。父さん苦労してんに違いないって!!」

「お父さんと一緒なの? えー、離婚したんじゃなかったの?」

「それがさー、うちの親って、なんか変な関係だからさ、離婚するとか何とかあんまり関係ないみたいでさ、今だって母さんが父さんとこの会社役員だからな。しかも会計監査だぞ。あえて見張りつけてるみたいだろ。そんで美由起はさ父さん大好きなんだから、なんかよくわかんねえよな。うちの爺さんも婆さんもしっかり呆れきってますって」

「面白いよね。武部ん家のお母さん、あんなに素敵なのにね」

「そうか?」

「そう思うけど」

「まあ、まあいろいろあっからな、まあいっか」


「それよりさ、ノダケンだって。ノダケンってなんであんなに線太いのさって」

「あのさー、お前の言ってることがよくわかんねえって」


陸上競技場のスタンドでそんな会話を大声で交わしている二人は珍しく、当然ながら周りから浮き上がった存在になっていた。そして彼らのこの会話はノダケンを取り巻く話をますます複雑に絡ませ、より深く発展させていくことになった。


「ねえ、話し中ごめんね!……ちょっと聞いても良いかな?」

後ろから声がかかって川相祥子が振り向くとそこにいたのは菊池美咲だった。

「あら、あなた旭川であった人だよね? 南ヶ丘の陸上部の……、えっ、でもその制服は北園高校? ヘアースタイルも違う、かなー?」

「あっ……あのー、もしかすると、それは姉のことじゃないですか? 私たち双子なので、良く間違われるんですけど……」

「双子? そうなのー。あー、あのね、さっきからノダケンの話してたよね。野田賢治君のことでしょ? 友達なのかなって思って」

「ノダケンの知り合いなんですか?」


武部裕也は川相智子に聞いていた菊池美咲の容姿を思い返していた。

「あの! もしかして、菊池さん? ですか?」

「あら、なに、私のこと知ってた?」

「あ、いやー、この子の双子の姉に菊池さんの雰囲気を聞いていたので、その特徴にぴったり当てはまるかなー、もしかして、そうかなー、と思って」

「あー、それがあの時旭川で会った人なんだ! で、気になるなそれ、どんな風に言ってたの私のこと?」

「あのー、背が高くて、小顔で、ちょっと野田に似てるかもしれないって……」

「あー、そう言えばなんか似てる気がする! 智子は似顔絵描くの上手だからちゃんと特徴とらえてる。その通りだよね!」

「……そう? あなたのお姉さんだったんだ。あの時の人だもんね……」


「サチコやったぞ、これでさケンジを取り巻く三人のスーパーウーマンたち全員に会うことができた!」

「スーパー? 何?」

「ほらこの前の、北園の誠さんと、うちの高校の山口美憂さんと、そして菊池さん……。みんな三年生だし、ケンジは年上にもてるんだなって……。しかもみんなスーパーウーマンだろ!」

「あれー、マコトさんって聞いたことあるような気がするなー。その人って岩内に関係してる?」

「はい、あの誠さんは岩内でノダケンと剣道で一緒だったらしいです」

「剣道!? 野田君は剣道やってたの? 野球じゃなくって?」

「小さいころから剣道と書道やってたみたいですよ。誠さんって北園の書道部なんです」

「書道……!?」

「もう凄いんですよ。剣道二段で書道パフォーマンスのスターなんですから」

「書道パフォーマンスって、あの音楽に合わせて踊りながら作品作りするやつだよね? そうだね、北園高校の……聞いたことあるよ、この前テレビかなんかでやってたよねー」

「そうなんです。あの時代表としてインタビュー受けてたのが誠さんです」


「そしてコイツが書道部一年生の誠さんストーカー、サチコなんですよ」

「タケベー、変なこと言わないの!」

「とにかくその誠さんはスーパーなんですよ。そしてもう一人はわが校のスーパーバイリンギャルの山口さん。でも悲しいことに帰国子女の山口さんはまたカナダに戻っちゃうんですよね。心理学者になるのにもう大学行っちゃうんですよ」

「タケベ、その人って陸上部のマネージャーだった人でしょ。この前ノダケンと話してた人だよね」

「もう凄いんですよ。南ヶ丘の中でも有名だけど清嶺高校の上野先生も太鼓判押すくらいなんですよ。上野先生だって養護教諭界の心理学者みたいなもんですからね」

「上野先生って陸上部の……、養護の先生だったものね! そう! だから聞くのも上手なんだよね……」

「で、菊池さんは全国大会3位のスーパーアスリートでしょう。もう、野田を取り巻く三人のスーパーな高三美女たちでしょうが!」


「私はスーパーなんて言えないけど、そうなの、みんな三年生の……。そう、すごいねぇ」

「あのー、菊池さんは何の種目なんですか? うちの姉は走り高跳びでやっと力発揮し始めたらしいんで今日応援に来たんですけど」

「バカだな祥子、ちゃんと聞いてないのか。さっき全国大会で三位だって言っただろ」

「タケベ―、あんた何の種目か言ってないでしょ」

「そりゃお前、全国大会三位だぞ、お前、全国三位なんだからな……」

「私はね、七種競技。ナナシュ。いやー、あなたたちホントに面白いね。いっつもこんな感じ? 姉弟みたいでしょ。あなたが双子だとしたら、あなたたちは三つ子みたいなものだね」

「やだー、タケベみたいな弟いらないから」

「こっちこそだよ。しかも弟とは言ってないでしょう。なんで決めつけるー」


「ちょっとさ、ごめんね、話、戻していいかな? そのすごいレンズつけたカメラでさっきのレース撮ってたよね。よければ見せてもらえないかなー?」

「ああ、ケンジのハードルですね」 

武部がバッグの中からタブレットを取り出して、菊池美咲に渡した。

「これで見れますよ。こうやってカードを挿して。はい、オッケー」


菊池美咲は野田賢治の110mハードルのレース映像を何度も戻しながら見直している。

「ねえ、えーっと、タケベくんだったかな、この映像先生に見せてあげて。南ヶ丘の先生だけじゃなくて、さっき言ってた上野先生にも見せてあげて」

「はい、そのつもりですけど」

「いやー、タケベ君もスーパーだよ! こんなにブレないし、対象を逃さない映像って、なかなか見られないよ。トップになった南一樹って選手はね、全国的にも一流の技術持ってる選手で有名なの。この映像にはねちゃんとその特徴がとらえられてるし、野田君と並べて見えるようになってる。こんなにうまく比較できる映像なんてめったにないよ。タケベ君、その腕章伊達じゃないね。すごい技術。スーパーカメラマンになれるよ!」

「そうだね、タケベは写真だけはすごいもの」


「それで、えーっとあなたのお姉さんの走り高跳びもうすぐでしょ。高跳びは南ヶ丘の山野さんって一年生が全道大会で入賞してたと思うけど」

「そう、山野紗季さんです。うちの姉はいつもその人の後ばっかり追っかけてたんですけどね、札幌市の大会で勝っちゃったらしいんですよ。まぐれですねきっと。まあ、今日もまぐれ発揮してくれればいいなって思って」

「そう、そうなのー。あの時の彼女が山野さんに勝ったんだ。それはちょっと大変だね。南ヶ丘って陸上の強豪校になっちゃうかもしれない」


走り高跳び決勝は山野紗季が1m58㎝で二位、川相智子が同記録で三位だった。山野紗季は川相智子に二回続けて負けることはなかったが、彼女の力が本物だったと再び強く意識することになった。川相智子は自分が全道大会の三位であることに驚きながらも、まだ自分の跳躍が安定したものではないと知ることになった。優勝したのは1m61cmを跳んだ旭川志文高校の髙橋陽葵という二年生だった。三回目の試技でただ一人1m61cmの高さをクリアーした彼女はこの大会で自己記録を12㎝も更新した。三人での優勝争いはほんの少しのタイミングと勢いの差で、見ている側にとってはとても見ごたえのある争いだった。


それにしても沼田先生がいつか言っていたように、この二人が優勝を争う日がこんなに早くやってくるとは誰もの予想を超えることだった。


川相祥子と武部裕也は菊池美咲と一緒に走り高跳びを観戦した。成功するごとに大声を上げる川相祥子はスタンドのほかの観客を全く気にしていない。激しい音とともにモータードライブ付きカメラのシャッターを切る武部もこの日のスタンドでは注目の一人だった。クリアーする毎に立ち上がって「ナーイス!」「良いよー!」と大声で叫ぶミニスカセーラー服の女の子の横で、取りつかれたように鋭い機械音のシャッターを押し続けるあぶない男の子。この組み合わせに圧倒されていた他校の生徒や観客の視線を感じながら、菊池美咲は南ヶ丘の二人の跳躍に見入っていた。


「おんなじ記録なのになんで三位なの?」

唇を少しとんがらせてほっぺたに力が入った川相祥子に菊池美咲がゆっくりと話して聞かせている。

「高跳びはね、失敗が少ない方が上。あと、試技数が少ないのも関係してくるんだよ。58を1回目にクリアーしたの山野さんの方だから。川相さんは3回目だったからね。でもよく3回目に成功させたよ。3回目でクリアーするのはなかなか難しいんだよねー。それとね、あの三人の中で一番体が浮いていたのは川相さんだよ。まだまだ伸びそうな気がするなー」


「あれ、菊池さんはナナシュなのに高跳びもするんですか?」

「うん、七種競技だからね、七種目やるんだよ……」

「ああ、そういうことか! 七種目でその中に高跳びが入ってるんだ!」

「そうそう。そういうこと」

「すごいわー、やっぱスーパーじゃないですか! 菊池さんはどのくらいなんですか高跳び?」

「ベストは1m65㎝なんだけど、いつも跳べるわけじゃないからね。高跳びはその時の状態でずいぶん変わる競技なんだよね」

「さすが……、もう、さすが全国三位なんだー」

「いや、全国的にはまだまだなんだよ。でもね、あの二人はまだ一年生だからね。山野さんの助走スピードは素晴らしいし、川相さんはねジャンプ力がすごいみたい。踏切で真上にジャンプできるもんね。あれはなかなかできないんだよ。もっともっと跳べるようになるよ」

「タケベ―!ちゃんと撮れてる? 後でデータコピーしてね!智子に見せてあげなきゃ」

「当然! バッチリ撮ってるって!」


「ほんとあなた達っていいカップルだね!」

「いやー、違いますって!この人はうちの姉が好きなんですよ……」

そう言った川相祥子はさらに小さな声で付け加えて言った。

「……でもね、智子はノダケンの方が好きなのかもしれないんです。タケベのことはあんまり言わないのに、いっつもノダケンの話ばっかりなんですよー……」

大口径の望遠レンズを丁寧にバッグにしまっていた武部が振り向いて何か言いたそうな顔をしたが、菊池美咲の「えー、そうなのー!」という驚きの声に負けてしまった。

「……そうなのー。良いね。野田君も楽しい高校生活みたいだねー。そっかー……」

菊池美咲は「野田に見せるから写真撮りましょうよ」という武部の誘いを断って、「余計な気を遣わせたくないからね」とにこやかに言った。そのあともう列車の時間があるから帰ることを伝え「明日は来れないので幅跳びの応援してあげてね」と本当にうれしそうな笑顔を見せて競技場を後にした。


「なんか……似てるよねー、ノダケンに。話し方もさー、お姉さんって感じだよねー」

「スーパーな三人のお姉さんたちだろ!」

「もう凄すぎですよー。ノダケン、やっぱモテるんだー。書道部でも話題の人になっちゃったからねー!」

「そうなの?北園まで飛び火しちゃったか!ヤバイなー」

「だって、あの線の太さがねー、全然違うっしょ、タケベと!」



全道新人戦二日目。

走り幅跳びの決勝が行われた。

札幌市大会の前、沼田先生に1991年東京世界陸上のマイクパウエルとカールルイスの幅跳び対決の映像を何度も見せられた。沼田先生は見せるだけで自分では何も教えようとはしない。ただ一つ「この二人の対照的な跳び方だ」とヒントらしきものをくれただけ。この映像から何かをつかめということなんだろうけど、何でもっと説明してくれないのかが野田賢治にはよくわからなかった。

 まあいつものことなのでとにかくこの「歴史的な名勝負」と言われる映像を繰り返し見続けた。1991年当時9秒86という100mの世界記録を出したばかりのカールルイスの走り方はスムーズできれいだった。パウエルもかなりのスピードだが腿を高く上げ上からたたきつけるような助走をしていた。カールルイスの頭の高さが変わらない上下動の少ない助走とは対照的だった。カールルイスはそのスムーズな走りから踏み切ったことを感じさせない跳躍で、そのまま空中を三歩半歩いて着地する。この一連の流れが実にスムーズに行われる。対してパウエルの方は力強い助走の最後にかなり深く沈み込み、強く踏み切り板を叩きつけてずいぶんと高く跳び出している。映像解析の説明ではパウエルの重心は1m91㎝、ルイスの方は1m38㎝くらいだという。結果はパウエルが8m95㎝の世界記録で優勝するのだが、ルイスの方が安定感は抜群で一度もファールなしで8m80㎝以上を三度も記録している。


 沼田先生が教えようとしているのは自分に合う跳び方の形ということかもしれない。僕の跳び方はたぶんパウエルに近いはずだが、この両者の良いところを真似しろということなのか。目から入った映像は自分の動きに影響を与えてくれた。踏切前の沈み込み、着地動作の作り方、そして助走マークの設置の仕方。跳び方以上に、二人とも助走途中に置いたマークにきっちり合わせて走っている。それが全力で踏み切るための前提であるようだ。

 目的をもってポイントを意識した練習は意欲を高め効果の出方もわかりやすい。札幌市の大会では助走を意識した練習の成果が現れ6m65㎝で二位に入った。昨日の予選でも6m58㎝を跳んで通過記録を突破できている。今日も思い切った全力の跳躍ができるはずだ。


 決勝の一本目で札幌大会の優勝者、北翔高校の二年生が6m66㎝を跳んだ。一本目からしっかりと記録を残すのは強さのしるし。他の選手にしっかりプレッシャーをかけている。5人目に跳んだ白老の二年生はスピード豊かな助走から空中を駆け抜けるような跳躍で6m69㎝という記録を出した。この跳び方はカールルイスタイプだ。その前の選手も6m61㎝を跳んでいるのでこのくらいの記録が上位争いには必須のようだ。


 僕の跳び方はパウエルのように高く跳びあがる。だが、助走を練習することで踏切のスムーズさが加わって踏切が素早い動作で完了できるようになってきた。一本目。中間マークをしっかり踏むことを意識した。そこがしっかりクリアーできれば力強く踏み切れるはずだ。力みを抑えて走ってもスピードは上がっていることが感じられた。踏み切り板を意識することなく駆け抜けるようなつもりで踏み切った。それでも他の選手よりかなり高い跳躍になった。空中で脚を二回漕いで着地の姿勢のタイミングもうまく取れた。踵が砂に触れると同時に両腕を振り込み砂場の外へととびだすように立ち上がった。白旗が上がり、少ししてから掲示板に6m89㎝の表示が現れた。歓声が上がった。他の選手たちの顔が険しくなった。

 3回目までが終わりベスト8のトップで後半に進めることになった。一年生に負けられないと思ったのか他の選手たちの力みが感じられた。一発逆転を狙った跳躍がファールの跳躍を多くした。自分自身もなかなか一本目を越えることができなかったが、6m70㎝台を二回記録しセカンドベストでも他の選手を上回っている。5回目の跳躍で白老の選手が6m87㎝の跳躍を見せ、それに刺激されるように他の選手も記録が伸びだした。6m70㎝~80㎝の記録が一気に増えだした。最後の6回目を前にかなりの接戦状態になった。ほんのちょっとした違いで一気に逆転があり得るのが幅跳びの特徴だ。


 最終跳躍者である僕は5回目を最後の跳躍だと思って臨んだ。腕の振りを大きくしてスタートを切った。助走スピードが上り足の回転がスムーズになったのを感じた。途中のマークを意識しすぎることなく踏切よりも遠くに視線をおいて走り切った。踏み切り板に足を叩きつけるのではなく伸ばした踏切足で押し付けて方向を変えるようなジャンプになった。意識してそうしたのではなく視線が踏み切り板の先にあったことがその形を作ったようだった。空中に出てからも助走を続けるように素早く二回脚を漕いだ後に、弓型にそらした上体を戻すまでに少し間を取って着地のタイミングを遅らせた。

勢いよく前に投げ出された両脚がしっかり伸びた形で砂場に突き刺さり、その勢いを膝で吸収した。曲がった膝の反動を使ってしっかりと立ち上がることができた。

「これはいった!」初めてそう思えた跳躍だった。


掲示板に7m12㎝という表示が現れ、観客が大いに沸いた。南ヶ丘の生徒達から大声援が送られた。他の選手たちは大きなショックを受けていた。この記録はもう破られなかった。


この結果に一番驚いていたのは南ヶ丘の選手たち以上に沼田先生だったかもしれない。

「大迫より行くかもしれない」

野田賢治を初めて見た時に、その脚の筋肉の付き方からそんな言い方をした。でもそれは三年間を見据えたうえでのことだったのだ。こんなに早くその結果が出るなんて誰も想像していなかったのだが、あいつはやってしまった。その驚きは突然出てしまった良い記録ということよりも、持っている力を測りきれない一種の恐怖に似た感覚だった。そして、沼田恭一郎はこれからのことをまた考え始めていた。


                             第二部 完

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