第26話  第二部 9・悦子と恭一郎


 北園高校での書道パフォが行われた土曜日は、南ヶ丘も清嶺高校も練習を休みにしたので上野悦子と沼田恭一郎夫妻は久しぶりに自宅で昼食をとっていた。


上野監督の清嶺高校は部活動を熱心に推し進める学校方針のもと、たくさんの運動系部活動が全国大会目指して活動している札幌では珍しくなってしまった女子高だ。バスケットボールにバレーボール、バドミントンや水泳、空手なども毎年北海道大会で頂点を争っている。その中で陸上部は長距離を中心とする選手が多かったのが、上野悦子が赴任した5年前からその他の種目でも有力な選手が増えてきていた。特に上野先生の専門と言えるハードルや投擲競技と短距離走で力を発揮する選手が増えていた。

一方南ヶ丘高校は開校以来高い学力を誇って来た公立校なので部活動を目指して入学してくる生徒はまずいない。それでも、野球部は以前から意欲的な生徒たちが結構な成果を出してきていて、20年ほど前には夏の甲子園大会へも出場経験があった。陸上は個人の能力次第のところが大きいので、時には全国で活躍する生徒が入学してくることもあった。だが、それは学校の方向性ではなくあくまでも個人の志向次第である。校訓の『自主自律』のもと、生徒たちは自分たちのことを自らの意思で決定し進めていくことを伝統ととらえて生活していた。


沼田恭一郎はこの学校で自分の指導の成果を誇れるようになるとは思っていなかった。それでも今までの赴任校と違って、問題行動を起こすこともなく安定した生活をする生徒たちのおかげで、自分自身がゆったりと生活できる喜びとともに何年かを過ごしてきた。ところが三年前、大迫勇也という全国中学大会の入賞者が入部して以来、互いを刺激しあいながら自分の力を伸ばそうとする意欲的な部員が増えてきていた。そして今年、驚くほどの能力に恵まれた一年生たちがやって来たのだ。この春、なんとなくそれなりの指導で終わってきた今までの自分の生活が変わる予感がしていた。そしてそれは現実の物となった。今彼はそれまでの指導を一変させる時が来たと感じ始めていた。


「いやー、またー!牛乳はちゃんとコップにあけて飲んでよねー。学生時代じゃないんだから、そのままラッパ飲みはダメだって、私だって飲むんだよー!」

口の周りの白さを手で拭った沼田恭一郎は「ああー、悪い悪い」と言いながら、フランスパンの中にチキンと野菜をはさんだ大きなサンドイッチにかぶりついた。

上野悦子は卵サンドとサラダチキンが今日の昼食だ。珍しく二人そろって午前中に買い物に行ったついでに買ってきた今日のランチだった。こうやって昼食をとることは二人には珍しいことで、土日や祝祭日は試合か練習のことが多いので、二人は自分の生徒達か大会の役員達と一緒の食事になることがほとんどなのだ。


「ああそうだー。あのねー、藤原久美ちゃんがね、この前の試合でハイジャン記録しながら話してたんだよね。山野の紗季ちゃんのこと。もう高跳びはメインじゃ難しいだろうって。スピードと踏切の技術でここまでの記録出してるのはたいしたもんだって。でもね高跳びもすごいけど、もっと違う種目に向いてるってさ」

「久美だったら幅跳びって言うんだろ? で、最終的には七種か? まあ言いたいことはわかるよ」

「私もね実はそう思ってたんだよね。中学の時の記録はすごいけど、どうしても高跳び一本に絞るには身長がネックになるでしょうね」

「高跳びだからなー。身長と手足の長さって大きいよな。最後はやっぱりそこかなー。ジャンプ力も川相の方が随分上だし」


「彼女くらいの身長でもね、180㎝台の記録出してる人もいたけど、やっぱりサージャントすごかったり、手足が長かったり、特別だもんね。私もね、紗季ちゃんが七種やったらかなり行くと思うよ。12秒台のスピードは魅力だよー。ほら、旭川の菊池美咲さんはね全国レベルで見ても体の大きさや強さでこれからも伸びしろあるけど、紗季ちゃんはスピードの面ではもっと上に行けると思うんだよね。12秒台のスピードで高跳び160㎝越えるんだから、それだけでも魅力的でしょ!」

「……そっかー、山野自身はどう考えるかなー。今までの実績大きいからなー」

「いや、彼女はあきらめっこないよ。あの子は意地でもやり続けるでしょう、きっと。今までもそうやって来たからここまでの記録出してるんだよ。練習の仕方見てたらわかるよ。ただねー、この前の試合でね、ちょっと変わったかもしれないよー」

「うーん、川相に負けたってのは、おっきいんだろなー」


「あのね、ちょっと当てはまらないかもしれないけどね『やろうとする意志の深さより、意志の方向性を自分に問え』って言うでしょ」

「おー、また新渡戸稲造だな。『武士道』か?」

「まあそれだけじゃないけど、心理学とかカウンセリングの方向性としてはね、ちょっとしたタイミングでね、相手の目指すものを再確認させてあげると、目覚めちゃう人もいるようだから」

「そっかー、やっぱり養護教諭の仕事って教育現場じゃ重要だなー。いやー、さすがに大学院行っただけありますねー。悦子大先生!」

「なに、また私に任せちゃうの?」

「どう思う? あの子は抜群に頭いいからさ、話すの下手な俺よりいいんじゃないかと思ってな」

「んー、そうだね。何時もの様に私の役目かなーと思ってたはいたけど。そうね、じゃあ、今度の合同練習の時にでも……。でも強要はしないからね!」

「うん、たのむわ。高跳びとスピードを生かせることを強調してやって。あなたのおかげで野田もうまくいってるしさ」


「ノダケンはもう、今札幌で注目ナンバーワンじゃないかなー。全道大会でも驚いたけど、この前のハードル!見事だったでしょ! あの子まだ二回目だからね! あの体のバランスったら、もう凄すぎるでしょう! 審判長の田上先生なんかもうひっくり返りそうだったもんね」

「あいつの体はやっぱりさ、野球で作られてきたんだろうな。陸上やって来てたらあんなふうには発達しないよ。いや、そういえば剣道が先だって言ってたなー。背中のラインは野球じゃないわな。野球ばかりやってきたやつって、どこか体のラインに偏りあるからなー」

「昔っからねー、いろんな競技やってた選手の方が強かったもんねー。応用効くっていうかさ、ついてる筋肉の場所違うからね。無駄な筋肉っていう人もいるみたいだけど、それが間違いのもとだよね。変な言い方だけど、雑種の方が強くなるんだよね。純血は洗練されて特化しやすいけど、応用効かなくなるんだよねー。怪我も多くなるし」


「これさー、北海道なら特に冬の間うまく使えば対策できるよな」

「それはあなたの指導姿勢のことだよー。本気でやらせますか? 彼らに!」

「いやー、そうだな、そろそろ本気で考えた方がいいかもな!」

「そうだそうだ、菊池さんもね小学校のころから水泳続けてたそうだよー。ねー、やっぱりねー、彼女の動きの柔らかさはね、そのせいだと思うよ。上半身の強さもね、他の人と比べるとその違いったら、凄いでしょ?」

「やっぱり野田と共通点あるわけだ」

「うん、それがさー、全道大会の時にねノダケンの応援熱心にしてたでしょう。岩内にいたことあるからだって言ってたけどね、なんかそれ以上の関係ありそうなんだよねー。顔も何となく似てるでしょう?」


「俺はあんまりあったことないからわかんないけど……。でもな、この前さ、あの小山に電話したときわかったことだけど、母さんは小さいときに離婚して今の母親は後妻さんらしい。野田の家は結構岩内じゃ有名らしくて、そのあたりのことはみんな知ってるそうだ。本当のかあさんは旦那とうまくいかなくてさ、女の子を連れて出てったんだと……。野田も父さんとはうまくいかなくて爺さんの家に住んでたそうだ……」

旭川花咲競技場での菊池美咲のいつもと違った様子が上野悦子の頭の中に浮かんできた。

「……でもよ、小山の言うことだからな、どこまで本当なんだかどんだけ盛ってるんだかは分からないからな」

「まさか……? だよねー……」

「何が?」

「いや、もしかしたらって思ったんだけど、そんな都合のいいことあるはずないもんねー」

「まあ、……そうだな」


「明日ね、石狩の緑が丘で長距離種目の練習会があるんだけど私は行かないから、一年生たちよこしてもいいよ」

「秋山先生さ、最近あんまり目立たなくなったみたいだけど?」

「うん、もうそろそろ引退考えてるって。自分もフルマラソン出たいみたいだしね。あと二年で定年だからそのあたり考えてるみたいだよ」

「そっかー、ついに秋山大先生もそうなっちゃう年かい。でもそうしたらますます上野悦子は養護教諭と陸上部顧問の二足の草鞋ってやつが本格化するわけか? 清嶺は駅伝も伝統だからつぶすわけにいかないよな」


「大丈夫だよー。そーんな心配しなくても、秋山先生の後釜はちゃんと出てくるから。体育の先生で長距離経験者なんて関東圏の学生ならいっぱいいるでしょ」

「あっちはいまだに駅伝、駅伝だもんな。箱根ばっかり考えてるからな。そんで、その先はマラソンだろ。日本の陸上発展しない原因はそれだってのにな。テレビもそればっかりだしなー! まだまだ変わらんなー」

「だからさ、私たちの年代がね、変えなきゃなんないでしょ! 仲間内でいっぱい話したでしょこの話」

「だけどお前、マラソンの日本記録は一億円だろ!マラソン以外はどうなのさ、ゼロでしょ。この差は大きいよ。野球だってサッカーだって、結局さ、卒業後のプロの存在があるからあれだけ人気が出るんだよなー!」

「だからね、私たちの役目はそれなの!北海道から日本のトップ選手、いや世界で活躍できる選手をね、育てるの!それしかないでしょ!」

「大学の頃そんなことばっか言ってたな」

「今だって変わることないでしょ。あなたもその責任大きいんだよ。いい選手いっぱい入ったんだからね、もう本気になれって!! ねえ、ヌマタ先生!」


「野田か……」

「菊池さんが全国大会の帰りに言ってたんだよ。自分は北海道から離れることは考えられないんだって。岩教大行く気らしいよ」

「そしたら、俺たちの後輩じゃないの! いやー、あの子だったら本州の大学から推薦いっぱいもらってるでしょ!」

「北海道にこだわってるんだってさ。いいことじゃないの。絶対あの子なら日本を代表する選手になる。インターハイの全国大会だって伸びしろ見えてるの彼女だけだもの。あとの選手は確かに今はすごい記録出してるけどね、いっぱいいっぱいのところまで来ちゃってるんだよね。よくあるパターンだよね。高校の記録超せないままに四年間過ぎちゃう」

「あっちの奴らさ、中学んときからウエイトやらせるからな。もう、体伸びない状態にしちゃってるんだよな。わかってるんだろうけど、目の前の記録にさお互いに飛びついちゃうものな。甲子園球児と同じだ。お金も生活もその大会の成績次第だからなー。これもさ、陸上界の発展つぶしてる一因だよな」


「だから、私たちがね北海道で変えるんだって。やるしかないよ。ヌマタ君!」

「お前、やめろその言い方。片桐先生思い出して気分悪い」

「そうね、片桐語録やめるわ。でも、本気になりましょうよ。藤原久美ちゃんも北野の杉山先生も燃えてるからね。あとほら、千歳体育の萬年さんだっけ、新しい顧問の先生。実業団上がりだって言ってたよね。けっこう新しい雰囲気作ってるみたいだし、盛り上がるよきっと。函館のクラブチームだとか室蘭地区の高校とか最近すごくなってきたからね。やれるよきっと!」

「千歳の喜多満男とか一年生だったしな。野田の良いライバルになるかもしれないし。まあ、隠岐川みたいにいなくなっちゃうのもいるけど、ここんとこ盛り上がってるのは確かだな」


「隠岐川君はやっぱりオランダ?」

「もともと二年が終わったらオランダに帰る予定だったらしいからな。あいつの父親はオランダとのハーフでね、奴はオランダ育ちらしくスケートと自転車で育ったっていうからな。陸上部入った時も自転車の練習替わりって言ってたから」

「そう……隠岐川駿がいないとなかなか大変だよねー。あの走りももう見れないんだ」

「野田にさ、教えこんでるぞ今」

「それはそれは、もーしっかり後継げるよー。一番いい教わり方だねー。そしたら、来年はノダケンの400mはもっとすごいことになるんだ。いやー優勝しちゃうよ全国で。だって、だってね、この前のハードル15秒台前半で走っちゃったんだよ。たった二回目なのにさ。誰もそんなことできないよー。次走ったらどこまで行っちゃうのーって思っちゃうよねー。これであなたがやり投げのポイントちゃんと教えちゃったら……もう待ちきれないね。」

「お前が興奮してもダメだって。野田はうちの生徒」

「なによー、半分わたしの生徒だからねー!」


二人だけのランチはずいぶんと長い時間をかけたものになっていた。普段話すことのできないあれやこれやが一気に俎上に上り、その場で一気に共通理解の解決済みとなっていく。そんな二人の生活はもう何年も前から変わらずに続いていたし、これからもきっと続くのだろうと思われた。そしてそのことが二人にとっては何にもまして幸せな時間なのに違いない。


日曜日、沼田先生は練習が始まると豊平川河川敷へと向かってランニングを命じた。一年生たちが坂道ダッシュしようと話しているのを知っていたので練習再開の今日、リフレッシュを兼ねた初めての試みだった。豊平川は学校から10分も走れば着いてしまう。南ヶ丘高校は豊平川の広域堤防のすぐ近くに建てられているのだ。

学校のある中央区から豊平区へと向かう橋の左岸下流に河川敷へ下りられる舗装道路があった。日曜日の河川敷にはたくさんの人たちが秋晴れの休日を楽しんでいる。降りたところからすぐ下流にある三面の野球広場では少年野球とクラブチームの練習が始まっていて、甲高い金属バットの音が聞こえていた。川べりでは釣り糸を垂れる親子連れがいて、その横では大型犬が大喜びで尻尾を振りどおしだ。サイクリングロードには本格的なウエアでしっかりときめたランニングとウオーキングの人たちが何人もいて、上流の真駒内方面へと向かっている。陽光を反射しながら豊平川はいつものように安定した水量でゆったりと流れ、対岸の河川敷にも同じような人たちが数多く見えていた。


遅れて自転車に乗ったマネージャーの高松恵が到着した。

「あれ、いつの間に自転車用意した?」

「チャリ通だったか?」

「なんか、しっかりママチャリじゃん」

そう言う男どもの声に同じタイプの自転車に乗った沼田先生が答えた。

「これはな、学校の家庭訪問用の公用車なんだぞ、お前ら」

「公用車って、ただのママチャリでしょう!」

坪内航平は長距離が苦手だ。ここまでのランニングでも不平ばっかりだった。秋の光を浴びた河川敷の光景よりも彼には長距離のつらさの方が勝っていたようだ。


公立高校の南ヶ丘では校地を離れての活動に対しては学校長の許可が必要となる。対外試合や高体連の大会はもちろん、普段の練習にもそれは適応される。実施当日にそれが受けられるはずもなく当然今日は無許可の活動だ。無許可の活動で怪我をしてもトラブルが起こっても学校側の補償対象にはならず、引率した教師の責任だけが問われることになる。けれども、そんな縛りばかりを気にしていても楽しくない。こんな日には日常を離れてしまうのが一番。沼田恭一郎はこの安定しすぎた学校に赴任してから初めてそんな感覚になっていた。


「短距離と跳躍グループは坂道ダッシュ。長距離組はサイクリングロード。真駒内公園まで行ってこい」

開放的なサイクリングロードをフリーで走れることに中川健太郎は大喜びだ。樋渡も自分たちの意見を聞いてくれていることに満足げだった。もちろん、練習自体はものすごくハードだったし、自転車で追いかけている高松マネージャーも坂道ダッシュのタイミングを計る沼田先生も練習の間じゅう気を抜くことなく半日を過ごしたのだった。

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