第15話  第一部 15・バンカラ



 地下鉄東西線を大通り駅で降りて、路面電車に乗り換える。


健太郎は母が送ってくれるというのを、あえて地下鉄で一緒に帰ろうと言う。分かるような気もした。母親がずっと話しっぱなしの間、中川健太郎が楽しい思いをしているはずはない。

南郷13丁目駅に地下鉄がやってきた。宮の沢行の東西線である。転落防止策が開いた。乗車客はわずかだったで、2人とも座ることができた。日ハムの試合が札幌ドームである日だと時間によっては大混雑になるらしいが、今日は千葉でロッテ戦だ。札幌ドームで生のプロ野球も見てみたい。でも、武部は野球と縁のない生活をしているので誘っても面白くないだろうし、隣に座っている貝のように口の開かない中川健太郎だとなおさらだろう。こんな身近にプロ野球があるというのに、どうしてもっと熱くならないのだろうか。それもやっぱり野球をやって来た自分だけの感覚なのかもしれない。ちょっと寂しい。野球好きの仲間を作ればいいんだろうけれど、そいつらはみんな野球部だ。それだと、やっぱりちょっと気まずい。


 札幌の地下鉄はゴムタイヤで走っているから音が静かだ。となりに静かな中川家のお坊ちゃんが、ひと言も漏らさずスマホとニラメッコしているから、かえって静かに感じるのかもしれない。外の景色が見えない地下鉄は、中川の母さんが運転するクラウン以上に快適に感じていた。停車と発車もギアを切り替えることなく、モーターの回転が上がるようにスムーズに加速する。そしてスムーズに減速していく。

「次は、しーろーいしー、しーろーいしー」

車内アナウンスの気だるさも肩の力をやわらげてくれる。


「……ミヤーノーサワー、ミヤノサワー、みやのさわー……」

宮の沢行きの終点は、宮の沢駅。


みやのさわ、って、終点じゃん。と気づいたときには周りに乗客の姿はなく、となりの中川健太郎坊ちゃんだけがこっちを向いていた。

「なんで起こしてくれなかった!」

健太郎はスマホもとうに仕舞いこんでいて、なんでもないように言った。

「君の、終点は、どこかと思って」

「大通りで乗り換えだっていったのはお前だろう?」

「いや、その、何を考えてるのかと思って。終点というのはその、君の……」

「そう、で、お前のは?」

なんとなく、こいつの言いたいことはわかった気がした。

「ここじゃあ、ないみたいだ」

口元が少し緩んだ。これが健太郎の笑顔なのかもしれない。

「そうか、じゃあ、戻ろう!」

「……うん」


 車掌に作り笑いを向けられ、誰もいないホームへと出た2人は大通駅に引き返すために階段を昇り始めた。2段3段と昇るうちに自分の体の重さに気づいた。2日間で八種目とリレーを2ラウンド。気持ちの高揚に隠されていたが体は疲れていたようだ。昇りきって大通り方面への降り口を2人で探しているところへ、後ろから声をかけられた。


声の主は健太郎の姉だった。

「ケンちゃん! 何してるの? こんなとこで?」

「あっ!」としか言えない健太郎に

「厚別じゃなかったの? 今日も?」という素早い追い打ちの言葉がやってきた。

「うん、そう」

「ママは? 送って行ったんじゃなかった?」

「うん」

健太郎はいつもこんな会話をしてるんだろうか。こんなんじゃ将来の中川医院が心配になってしまう。


「もしかして、野田くん?」

意外に小さな健太郎の姉が僕の方に向かって言った。

「あっ、はい! そうです」

なんで僕の名前知ってるの? そんな返事の仕方だったかもしれない。

「やっぱりぃ! 健太郎がいっつも君のこと話してるから、なんとなくそう思ったんだけど……、健太郎! あんたよく特徴つかんでるぅ!」

健太郎と僕の顔を見比べるようにしながら次々と言葉を発する彼女は、母親によく似た笑い方をしていた。


「それで? 何してんのこんなとこで?」

はじめと同じ質問になった。

「乗り越した」

健太郎がそう言うと、大通りで降りて路面電車に乗り継ぐのを間違って宮の沢まで来てしまったことをすぐに察したらしく、もっと大きな声を出して笑った。

「ホームから上がってきちゃったらどこにも行けないでしょ。あんた何年札幌に住んでるの? はいバックして」


宮の沢駅から大通駅までの短い時間に健太郎の姉の質問は休むことを知らなかった。


「試合の日でも学生服着て行くの?」

「なんか、中学ん時の習慣で。野球部の先生がバスや列車の中でユニフォーム着て汚い格好するの嫌いだったので……」

「かっこいいね。学校で目立ってるでしょう!?」

「いや、きっとバカみたいと思ってるんじゃないですか」

「そんなことないと思うよ。私服だとだんだんだらしなくなっちゃう人多いから」

「服選ぶの面倒だから、かえって自分のほうがだらしないんです」

「そうかなあ……、襟のカラーだって真っ白で崩れてないし、すっごくきれいに着てるじゃない!」


襟のカラーはすぐに壊れてしまうものなので、学生服を買わせた時に父親にカラーをたくさん付けさせるように頼んでおいたのだ。父親はめったに自分の力を見せられないことを恥じていたふうがあって、知り合いの洋服店にしつこく言って20枚ものカラーを付けさせた。


「健太郎はかっこいいと思ってるみたいだよ。学生服着たいって言ったことあるんだよ。家族みんなにバカにされたけど、父はそれ聞いて喜んでたの」

健太郎は聞こえていない振りをして、またスマホでゲームをしている。

「大森学級だったよね?」

「そうです」

「大森先生好きでしょうそういうの。あの先生バンカラだから」

「バンカラ?」

「知らない、バンカラって言葉? まだ、大森先生その話してない?」

「あの、大森先生のことどうしてそんなに詳しいんですか?」

「私もね、大森組だったんだよ。二年の時も三年の時も。三年生の時なんか男の子はみんな大きくなっちゃうのに、一番小さな身体で、一番恐れられてた。あの低い声でしょう。なんかバランス悪いよね! それでも、一番人気あったかもね。バンカラって私も大森先生に聞くまで知らなかったかもしれない」


「あの、大森組って、言うんですか?」

「あれ、まだクラティー作ってないの?」

「クラティー?」

「クラスでTシャツ作るでしょ?」

「Tシャツですか?」

「ケンチャン。今はもうTシャツ作らないの?」


いかにも面倒なことを聞かれたように健太郎が口を開いた。

「いや、うちのクラスはもう決まった。でも、まだ早い」

「そう、まだなの。そうだね、学校祭とか体育大会の頃だから、まだかな」

「それって、みんな作るんですか?」

「みんな作るよね。ケンチャン」

「たぶん」

「あんたんとこは? どんなTシャツになったの?」

「坪ちゃんと40人の仲間」

「何色なの? どんなデザイン?」


健太郎の姉さんの質問は矢継ぎ早で、健太郎の答えがだんだん滞ってきた。

「言葉しか決まってない」

「野田君のとこも、そろそろ決まるはずだよ。たぶんね、美術部とかやりたがりの女の子たちがね、デザイン考えてるはず」

「そうなんですか」


自分のクラスの中でさえ、僕の全く知らないことが進められてる。もしかしたらまたまた、知らないのは僕だけなのかも知れない。

「きっとね、胸と背中に『大森組』ってロゴが入ったTシャツだよ!」

「そうなんですか?」

「たぶんね。野田君、きっとね、似合うと思うよ」

「フッ」と健太郎が小さく笑った。目はスマホに向かってばかりだけど、ちゃんと二人の話は聞いているのだ。彼はいつもこんなふうに家の中でも過ごしているに違いない。


健太郎の姉の話は、母親と同じでいつまでも続いていきそうだった。姉三人と母親が話し続けている間、健太郎はこうやって聞こえないふりをしながら生活してきたのだろうか。中川家では、健太郎が話し始める前に物事は全て決まっていて、健太郎はそのまま受け止めるだけで何でも問題なく進んできたんじゃないだろうか。自分が手や口を出さなくても、一番良い方法でみんなが解決してくれていたんじゃないのだろうか。それが健太郎のためだと家族は思い、健太郎はそのことに大きな不満を持っていたんじゃないのか。自分が自分であるための、自分の意志を伝えることが健太郎の長距離走なのかもしれない。


「君の終点はどこかと思って」

そう聞いた健太郎自身の終点はどこにあるのだろうか。そして、僕自身だって自分の終点がどこにあるのかわかりはしない。誰かそれについてわかっているやつは存在するのだろうか。大人になったらそれは見つかるものなのだろうか。

いや、「銀河鉄道」にも終点はやってこなかった。


「口に甘きは腹に害有り」と祖父がいつも言っていた。もと網元だった祖父達のように、良くも悪くも「いろんな種類の人間」と関わってきた人たちが実感していた諺なのだろう。僕には自分を戒め、律するための教訓的な言葉として耳に残った。祖父は網元として、けっして善い意志を持った人間ばかりと関わっていたわけではないはずだ。水産加工の会社を始めてからも、カネのために近寄ってくる人間達の「甘言」や「巧言」や「追従」に何度も辛い思いをさせられたに違いない。


小さすぎる頃から、僕は知りたくもないことばかり知ってしまった。大人の嫌な面も子どものずるさも、保身から来る責任逃れに巻き込まれたことも数多くあったような気がする。「人」という字は「人と人とが支え合ってできている」と受けのいい言葉で取り入ろうとする人達をずいぶんと見てきた。「人」という言葉は「人間的な完成形であるはずの老人の姿を模したものだ」と知ってからは、物事を情念だけで伝えようとする人に警戒心を抱くことになった。

口あたりが良くておいしいものは、つい食べ過ぎて身体をこわすことになるのだ。たとえ悪意を持って行われたものでなくたって、しっかりと自分の歯と顎で咀嚼して取り込まなければ「腹に害ある」ことになってしまうのだ。硬くてかみ切りづらいもの、努力をしなければ身につかないもの、そんな面倒なことこそが人が生きていくには必要なのだとわかっていた。祖父の「多言ではない教え」だったような気がしている。

祖父は今病院のベットでどんなことを考えているのだろうか。自分が若かった頃の思い出に浸っているのだろうか。父のことをまだ気にかけているのだろうか。そして、僕のことを心配してくれているのだろうか。この間の電話では、ばあちゃんの声が妙に明るかったことがかえって気になっていた。


「大森先生って、静岡の大会社の御曹司だって知ってた?」

健太郎の姉の言葉に祖父の思い出は消えて、地下鉄の停車する音が耳に戻ってきた。

「オ・ン・ゾーシ……ですか?」

その意味をつかめないまま、姉の話に耳を傾けた。

「今はゴルフ場をいくつか経営しているようで、大森先生はそこの長男なんだって……。それがさあ、なんか、作ったような話なんだけどね……」


健太郎の姉の話は続いた。

学生時代に自転車で北海道一周旅行をしていて、北海道の魅力に取りつかれてしまったから、あえて北海道の教員採用試験を受けたのだという。もっとも、彼女の説明にはもっと細かい話がいっぱいくっつけられて長いものではあった。

「なんかさぁあ、それ自体がね、昔っぽくって、バンカラって感じしない?」

「……」

彼女の言っている意味がまるでつかめなかった。なんて答えていいのかわからずじまいだった。


「いいじゃん。自分の生き方は自分で決めるんだから」

スマホから目を離さずに健太郎がつぶやくように言った。

「でもね。近いうちに跡を継ぐことになるんだよ、きっと。」


彼女の言葉は「避けられない運命があるんだ」という響きに満ちていた。いや、野田賢治にはそう感じられた。もしかすると、大森先生も自分の居場所を探し求めて北海道までやって来ていたのかもしれない。


宮の沢駅から路面電車の「南が丘高校前」まで、健太郎の姉さんはずっと話しっぱなしだった。健太郎は、ほとんど反応することもないまま黙って聞いているだけ。いきおい、僕が対象になるしかなく、朝のクラウンの車内と同じ状態になるのだった。健太郎の反応のなさや言葉の少なさがこの1日でわかったような気がした。

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