第29話 第三部 2・高体連札幌地区大会~始まりの時~
サブトラックの白線がクッキリと浮かび上がり、やわらかな日差しが漸くあたりを照らし始めた。
6月を迎えたばかりの厚別競技場の上空には薄い雲が広がり、行楽日和を喧伝したテレビの天気予報とは違っていた。しかし、8時を過ぎるころからやっと青空がのぞき始めたところだった。高校総体札幌地区予選の初日を迎え、南ヶ丘高校陸上部は新入生の12人を加えて総勢31人による一年間の始まりの日となった。
卒業した大迫さんや山野憲輔さん、そしてオランダへと帰ってしまった隠岐川さんが抜け、坪内キャプテンを中心とする新しいメンバーたちがどれだけの力を発揮できるかが試されようとしていた。そして、冬季間の意欲的な練習を重ねて来た部員たちは、昨年以上に「やれる」という自信と自分自身に対する期待とともにここ厚別競技場へとやって来ていた。
みんなで分担して運んできたテントなどを設営し、ウォーミングアップを終えるころになると、天気予報が正しいことをアピールしているかのように上空は一面の青空へと変わっていった。
男女の混成競技は珍しく同一日に設定され、一日目の競技開始時間とともに女子七種競技の100mハードルが始まった。山野紗季が走り高跳びと七種競技の両方に出場することになり、すでにコールを終えてスタートを待っていた。その後が八種競技の100mになるのでサブグラウンドからコールを受ける集合場所に向かっていると「ノダケン」と後ろから呼び止める声がした。振り返るとそこにいたのは菊池美咲だった。いや、僕の「姉」だった。胸に岩教大のネームを入れたウインドブレーカー、大会補助員用の白いキャップ、首からは補助員のネームをぶら下げている。僕の方を真っすぐに見ている「姉」は思いっきりの笑顔だった。
「あれ!……」
という声しか出せないでいる僕の声を待つことなく、菊池美咲は……姉は、早口に自分の近況を話し始めた。岩教大陸上部顧問の片桐先生の方針で1年生と2年生部員はこの大会の補助員として派遣されていること。インカレでは日本一を目指して練習に励んでいること。母も妹も元気で妹が小学校に入学したこと。そんなことなどを笑顔を絶やすことなく一気に話し終えた。
「二日目までしか居れないけど、八種の最後まで見れるのでちょうどよかった。がんばれ! そしてね、うんと楽しんで! あっ、私はハードルと幅跳びを中心に動くことになってるけど、ちゃんと見てるからね。声は出せないけどねー、応援してるから!」
相変わらず「はい……」としか言えない僕の言葉の少なさを補うように姉は言葉をつないだ。
「最初の種目の前には緊張するの当たり前だからね。失敗したっていいんだよ。思い切ってやろう!」
頷いただけの僕に「じゃ、もう行くから。またあとで!」と言うなり姉は競技場の入口へと駆けて行ってしまった。入り口の近くには同じスタイルの補助員たちが集まっていた。
「岩教大ってことは教師を目指してるってことか?」
急に後ろから武部の声がして、振り向くと姉のいる方へ向けてもう何度もシャッターを切っているところだった。
「お前なんでここにいるのさ? 学校は?」
そんな僕の問いに、武部は余裕たっぷりの顔をしている。
「あのね、お前たちが部活の大会で特認もらってるのと同じでさ、俺は陸上部専属のカメラマンとして、しかも南ヶ丘高校新聞部の特派員としてちゃんと特認もらってんの。ほら、この腕章が目に入らぬか! 大会本部発行のネームだってほーら、胸に飾ってあるでござんしょ!」
プロのカメラマンのようなポケットがいくつもあるベストの胸に「札幌陸協公認記録員」のネームが留められ、胸を張るように鼻を少し上に向けた武部は左腕にいつもの「南ヶ丘高校新聞部」の腕章をはめている。
「はいはい、わかりました。では、宜しく。今回は全種目頼んますよ! あっ、もう行くから。コールの時間なんだ。山野がもうスタートだからな。じゃ!」
「オッケー!! お任せあれ―!」
学年が一つ上がってクラスが変わっても、武部は相変わらず武部だった。でもあのツンツンに立てた茶髪は何とかならないものなのかな。
この大会最初のレース。本当に今大会の幕開けと呼べる最初の組で山野紗季のハードルがスタートした。そして開始とともに彼女はしっかりとこの大会を盛り上げるパフォーマンスを披露したのだった。山野紗季はやっぱり天才的な理解力があって、それは学力的なものだけじゃなく運動神経にも現れていた。この春から始めたばかりなのにちゃんとサマになったハードル走になっている。
「ノダケン、紗季ちゃんはねやっぱり並みのセンスじゃないよ! 動きが違うね。あのスピードでこんな動き出来ちゃうんだもの……、これはもうだれも叶わなくなっちゃうかもよ。あんなスピードでも踏み切れちゃうんだよ!」
上野先生のところで二回しか練習していないのに山野紗季はいつでも100mハードルを完走してしまう。そして今回が初めての公式戦レースだってのに、そんなことは関係ないとばかりにちゃんと一着でゴールしてしまった。しかも……、しかもいきなり15秒台の記録を出したのだ。
彼女のことを中学時代から知っている何人かの先生たちも、大会最初の種目というだけじゃなく注目してこのレースを見ていた。
「あの山野紗季が、あの上野悦子に教わってるんだから当然!」
彼らはそんな思いでいたらしい。でも本当にまだ二回しか練習していなかったのだ。去年大転倒してしまった僕とは別物というしかない。
彼女は初めてのハードルを15秒78の741点で七種競技のスタートを切った。
ハードルの補助員として、次の組の為にセッティングをしている菊池美咲が大きな拍手をしていた。
100mのスタート時間になり5レーンにスタブロをセットしていると、同じ組になってしまった喜多満男がやって来た。片側の頬を緩ませていても目は笑っていない。自信たっぷりな顔をしている。
「今年もまたよろしく」
「それは、こっちこそ。去年の全国大会出場者とやれるんだから、頑張るよ」
先手を取られたと思ったか喜多満男はちょっと渋い顔をした。「マンナン」と呼ばれていたというこいつの本当の顔はこれなのかもしれない。
「おう、負けねえからな!」
「よし! 勝負だ!」
声には出さなかったが、互いにそういう意識が高まったはずだ。
スタートが苦手だったはずのマンナンがいいスタートを切った。練習を積んだことがよくわかる走りになっている。30mを過ぎたところで彼を捉えてからは先行する者もなく力みのない走りのままゴールを通過した。10秒97は向かい風の中でも大迫さんの記録を抜いたことになる。マンナンも11秒68と去年からタイムを伸ばしている。それぞれ867点と715点を獲得した。去年よりも、肉薄したタイムを出せるようになったと自信ありげだったマンナンだが、予想外に150点もの差がついてしまったことで、またいつものような歯ぎしりの音が聞こえてきそうな表情をしている。
彼は新しい顧問の先生のもとスプリントに力を入れていると聞いた。確かに去年とは走りが違っていたが、それ以上に彼の腕の太さと胸の厚みが去年よりもさらに増していることに驚かされた。
山野紗季の二種目目は走り高跳び。単独種目でも優勝候補なだけあって163㎝を跳んだ。一度も失敗することなくこの高さも越えたのだが、次の高さには挑戦しなかった。残りの競技のことも考えたのだろうし、そのうちに記録は出せるという自信の表れにも思えた。昨年後半に川相智子や旭川の二年生に負けた頃に比べ、豊かなスピードを生かして余裕をもった跳躍をしているように見えた。
この得点は771点でハードルの得点と合わせて早くも他を大きく引き離してしまった。とは言え、ここまでは彼女の得意とするスピードとジャンプの分野でこれからが本当の勝負になるだろう。それにしても、山野紗季が楽しそうな顔で競技しているのは珍しいことだった。
八種競技の二種目目は走り幅跳び。昨年の新人戦で7mを超えたことで余裕をもって臨んだ野田賢治は向かい風の中でも6m86㎝を記録した。100mのスピードが上がったことが記録につながっているのは間違いないし、冬季間のバレーやハンドボールの練習も効果的だったはずだ。
ここでも781点を獲得し他の競技者にあきらめの表情をさせる結果になった。喜多満男は6m39㎝で673点。二種目で300点近くの差をつけられた彼は次の砲丸投げで差を縮めることだけを考えていた。
「すごいぞ! ノダケン」
走り幅跳びのピットで記録の補助員を務めていた菊池美咲が、すれ違いざまに右手の親指を立ててウインクした。そして、そのシーンを逃さずカメラに収めた武部は後々少なからず陸上部内に波風を立てることになった。
三種目目は男女ともに砲丸投げ。今度は男子の方が先に始まった。昨年から砲丸投げは好きな種目でなんとなくポイントはつかめている気になっていたのに、なかなかうまく力を伝えられない投げが続いてしまった。意識してきたチェックポイントをひとつずつ確認しながらの三投が、なんともしっくりいかない投げで終わってしまった。
11m88㎝は自己記録になるのだが、もっといけそうな気がしていたにもかかわらず、満足いかない結果に終わってしまった。いくつか大事なポイントがある中で、どこかの動作がうまくいかなかったからなのだろうが、自分ではわからないままですっきりしない気持ちのままでいた。この得点は599点にしかならない。砲丸を最も得意にしている喜多満男は12m78㎝で654点を獲得したが、55点しか差を詰めることができず大いに落胆の表情をしている。それでも彼、マンナンの砲丸投げは参考にしなければならない。あの力強さは見習わなければ。
続いて行われた女子混成の砲丸投げでは参加選手達がみな苦労していた。女子の混成競技ではマンナンのような投擲型の選手はほとんどいない。ハードルや幅跳びを得意にしている選手が多く、砲丸や槍投げの記録は低く、得点も500点に満たない選手がほとんどだった。
山野紗季の砲丸は9m36㎝で得点は488点。初めての大会なのに彼女の投げはそれなりの形になってはいた。しかしながら投擲種目はどうしても体の大きさや重さが必要になる。同じ技術で同じ力を持っていても、最後には腕の長さや身長の高さ、そして体重のあるものが遠くまで投げるようになる。
体の大きさはパワーにつながるし、それはもう本人の持って生まれたものでどうにもならないことでもある。最初のうちは技術の差が記録の差となって現れることが多いけれども、技術の差は最後には縮められ、体の大きさやパワーには勝てなくなってしまう。それは日本人のアスリートすべてに言えることで、十種競技でも日本人選手の投擲記録はかなり低いのだ。山野紗季は混成の選手としては小さな体なので、スピードと技術で勝負する彼女でも砲丸は飛んでくれなかった。それでも10mに満たない彼女の記録が全体では3番目の記録だったのだ。
七種競技一日目最後は200m。山野紗季はただ一人25秒台で走り一日目を終了した。やはり100mを12秒台で走るスピードは他を圧倒している。100mを専門にしていても12秒台前半で走る選手はそんなに多いとは言えない。だから、彼女が走り高跳びや混成競技に出場していることは短距離を専門と考えている選手にとっては少なからず驚きの対象だったはずだ。
25秒98で799点を獲得し、初めて挑戦している七種競技なのに一日目の合計は2793点でトップに立ったのだ。
南ヶ丘の部員たちは山野紗季の持つ能力に改めて驚いた。特に初めて彼女の競技を見ることになった新入生にとっては、南ヶ丘で学力的にもトップを争う山野紗季が何でもできてしまうことに、驚き感心するとともに尊敬の眼差しで見つめることとなった。
昨秋以来彼女の進む方向性を探っていた沼田先生と上野先生は、予想以上の結果をすぐに出してしまう天性の能力に改めて驚くことになった。そして同時に、彼女の持つ力の限界点を探るべき時期にあることを感じていた。今の結果に浮かれて「それ」を見誤ってしまうと、天才山野紗季を壊してしまうことにもつながりかねない。
野田賢治の400mは、「まだ隠岐川駿と一緒に走っている」と彼らを知っている人たちにそう感じさせた。
彼の前には誰もいなくとも、今でも3m先の隠岐川駿の姿を追い続けている。
「バックストレートは軽快に走れ」
「スローイン、ファストアウト。コーナーの前半は楽に、頂点から抜きに行く!」
オランダに行ってしまった隠岐川駿のそんな言葉が耳の中にはしっかり残っている。
今の野田賢治には、ゴール直前であの隠岐川駿になんとか追いつけるイメージが出来上がりつつあった。
スタートから最後まで見えないはずの隠岐川駿を追いかけた野田賢治は、他の選手とは別次元のところを走っていた。南ヶ丘陸上部の生徒達も各校の監督の先生たちも、去年の全道大会のリレーを思い出し、その時以上の走りをしていることに目を見張るばかりだった。
補助員をしながらもだんだんと目を離せなくなっていた菊池美咲は、去年の16継の走りを思い出し、目の奥が熱くなってくるのを感じていた。自分の今の役割なんか忘れて、思いっきり声援を送りたい気持ちに駆られていた。
49秒98は最後の直線が向かい風になった厚別でこの日唯一の49秒台の記録となり、816点を加えて一日目の合計は3108点となった。53秒34で走った喜多満男は667点を加えて合計2648点だった。400点もついてしまった差に喜多満男はあきらめ顔だったが、全部の組がゴールした後に野田賢治のところに敢えてやって来た。
「参ったわ! すげえよ、なんでそんな速い?」
「まだ一日だけだし、明日はハードルもあるし、去年やっちゃったからさー」
「なに言ってんの、新人戦のハードル見てたって。全然!余裕っしょ!」
「まだまだ、やってみないとわからんから」
「ま、な……。じゃ、明日な! いやー、雨でも降んねえかなー」
「おう! 明日な!」
中川健太郎にはマンナンと呼ばれ嫌われ役になっていても、こいつもしっかりとアスリートとして成長している。「良い奴」とは呼ばれないだろうが、これも普通の高校生の姿でしかない。千歳体育の中心としてどこまで大きくなれるのか。砲丸の記録は彼の方が上なのだから、一緒にやっていれば何か盗めることはあるはずで自分にはむしろそれが楽しみに思えた。
「あれ、ちょっと背伸びてない? 大きくなった?」
競技場の出口で菊池美咲が改めて僕の全身を眺めまわした。そして隣にやって来て背比べをしている。川相智子の後を追いかけて、さっき合流したばかりの武部はすぐさま正面からシャッターを切った。
「やめろって!」
という僕の言葉に
「良いじゃない。ねータケベ君」
という「姉」の言葉。
「えっ、ええっ! なんでタケベのこと知ってるの?」
「去年の新人戦。ここでやったときね、偶然会ったのよねー!」
「ねー!」
と武部が合わせた。
「やめろ、気持ちわりーなー」
「それもしかして、うちの妹が一緒だった時ですか?」
「あ、あー、そーなのよー。双子の妹さん! すごいパワフルな応援してた!」
「余計なこといっぱい話してたみたいで……家に帰って来てから、もうはしゃぎまわってました」
「いや、心配することじゃないよ。すごく素直で、正直だし、優しい妹さんだと思うよ。一緒にいるとなんか楽しくなっちゃうでしょう?」
「そうか、ここのスタンドで大騒ぎしてた時の……」
「でもかえってね、そういう観戦の仕方が陸上でも必要でしょ! 野球だってサッカーだってバスケだって、他のスポーツはみんな大騒ぎして応援するじゃない。だからね、彼女みたいに盛り上げてくれる人は大事にしなきゃ! みんなもっと大騒ぎしていいんだよ! 」
「すみません、迷惑おかけしたみたいで」
「そんなことないって。私はあの子大好き! サチコさんだったよね。名前も覚えたもの」
そんな会話の最中も武部の押すシャッターの音は途切れない。
サブトラックを囲んでいる木々の間を通り上野先生と並んだ山野紗季がやって来て、菊池美咲に丁寧に挨拶をした。昼食で一緒だったという上野先生は「明日も頼むね」という言葉をかけて競技場へと向かって行った。
「山野さん混成初めてなんだって?」
山野紗季は去年とは全く違って菊池美咲に対して緊張した様子で頷いた。
「みんなビックリだよー!大学の仲間たちもね、『ヤバイ! ヤバイ!』って。200mのタイムが立派だよねー。今日は厚別名物の向かい風だったのに、混成であのタイム出されちゃったら、ちょっと叶わなくなりそうだよー。ハイジャンもだしねー」
「砲丸が全然点数取れなくて」
「最初であれだけ行けば十分。砲丸まで飛んじゃったら他の人困っちゃうでしょう!」
「まだまだです。菊池さんの記録には全然及びません」
「あのねーえ、まだまだ及ばれちゃったらこっちが困るでしょう。でもね、楽しみ! 一緒に競える時が来るね。北海道でね、道産子としてね、みんなで盛り上げていけるの最高じゃない。明日も余計なこと考えないで突っ走って!」
「はい。ありがとうございます。頑張ります」
「ねーねー、皆さん! せっかくの機会だからさー、みんなで一枚撮りましょうよ!」
もうすでに何度もシャッターボタンを押し続けていた武部の言葉に、なぜか三人の声がかさなった。
「はーい、お願いしまーす!」
野田賢治には信じられないことだった。なぜこの三人はこんなに早く仲良くなれるのだろう。去年は警戒心をあらわにしていた山野紗季が、そして不安げに話していた川相智子が、なぜこんなにも楽しそうな笑顔で「姉」に話しかけられるのだろう。不思議なことだったがそれは自分にとってはありがたいことでしかなかった。
僕を囲むように三人が並び、武部が何回もシャッターを切った。三人は笑顔を絶やさず、自分だけがちょっとした緊張感とともに写真の中に記録された。そう、この不思議な時間を武部が永久保存してくれたのだ。
「ねえねえ、武部君。この写真全部送ってね。スマホに送れるよね?」
「姉」は武部と連絡先を交換している。
「あっ、私も!」
山野紗季と川相智子が「姉」とスマホでつながった。
野田賢治はこれが現実のことなのか、それとも自分の空想が自分に都合の良いように創り上げてしまった幻想なのか迷いながらその風景を眺めていた。
帰りのバスに送れるからと迎えに来た補助員仲間とともに「姉」が行ってしまうと、もう夕暮れ時を迎えていたことに気づかされた。
岩見沢に向かうバスの中で菊池美咲はとても楽しい気分に包まれていた。「弟」に再会できた昨年から自分の人生が大きく方向転換しているような気がする。それは今まで考えていたのとは全く違う方向だった。上野先生、ノダケン、岩教大、そして「弟」の仲間たち。そのすべてが自分の人生を大きく拓き、明かりを照らしてくれていることを実感していた。旭川の母と離れて寮生活をしていても毎日が楽しみでしかなかった。
南ヶ丘陸上部はそれぞれの部員たちの頑張りが目立った一日目を終え、明日につながる目標をもって帰路に就いた。野田賢治も心地よいけだるさとともに地下鉄の中で一日を振り返っていた。
「菊池さんは岩教大に進学したんだから学校の先生になるんだよね?」
横に並んで座った山野紗季が聞いた。
「祥子も言ってたけど、ホントにお姉さん的な感じだよね。上野先生みたいになりそうじゃない?」
「岩内にいた頃から仲良かったの?」
「いやー、小さいころだったんで……あんまり覚えてないんだ」
「なんかちょっと野田君に似てるよね!」
「私もそう思ったんだ。去年旭川で会ったときにね」
地下鉄の中で今日の写真を確認していた武部が、背比べをしている写真をタブレットごと見せると二人は液晶画面をのぞき込んで笑顔になった。
「やっぱり似てるよねー!」
「本物の姉弟みたい!」
山野紗季も川相智子も「姉」という存在を知らない。
「良いよねー! 本物のお姉さんいて欲しいよねー!」
そんなことを言う山野紗季は珍しかった。
「紗季はお兄さん居るからまだいいよ。うちは祥子だけだもの」
「憲輔はあてにならないもの」
「えー、そうなのー……」
二人の会話がどんどん広がっていく。そんなことも今まではなかったことだ。何につけても遠慮して言葉にしなかった川相智子も、自分のことをあまり話さなかった山野紗季も、その頃の二人は今はもうここにはいなかった。
「あー! 武部君この写真! だれ? あーあ、まずいんじゃないのこれ!」
タブレットをスライドさせていた二人は他校の女子選手がアップになった写真を見つけてしまった。武部は大急ぎでタブレットを取り上げ、慌ててその写真を削除した。
「いやー、ちょっとこれ、対象がずれてしまったみたいだからさあー……」
近くにいた男の子たちもこの話題に参戦したので、地下鉄の中はちょっとした修羅場になりかけたが、武部のことだからきっと何とでも言い逃れてしまうだろう。
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