第41話 第四部 6『チャンピオンになるんだ!(2)』


「腫れ方は……そんなに腫れてないか?」

「外反捻挫だからねー、そんなに腫れは出ないはずだけど……痛いよね?」

「いや、あんまり」

「無理しなくていいから、痛くないわけないの! それとね、ちょっと膝裏、この関節のつながってるあたりの筋ね……凝ってるね……ここは?」

「槍の時にピリッとした感覚があって、伸ばすとちょっと痛いような……」

「過伸展だったのかなー、まあそんなに悲惨な状態じゃないかも」

「野田、やめてもいいぞ。無理して傷深くしてしまうより……」

「いや、いやです。絶対にやめませんよ! ここまで来たのにやめるなんて……あと一つだけだから……」


三人が医務室からサブトラックに戻ると、集まってきた南ヶ丘の生徒たちは皆なぜか笑顔だった。

すぐにやって来た田上先生が怪我の状況を上野先生と小声で話しノダケンに向かって言った。

「野田君さー、次のセンゴ走る? 走るよね! うん、そうだよね。うん、あのねもう少ししたらさ、テーピングしよ! 大丈夫、走れるようになるから」

19時40分という遅い時間に設定された1500mまではまだ1時間以上ある。少し休憩時間を取れて気持ちの整理にはいいが、捻挫は時間がたつほど腫れが増すはず。痛さよりも足が動くのかどうかが問題だ。多少の痛さなら競技の間ぐらいは我慢できるはず。


「あのね、スタートの30分前になったらねテーピングするからさ、まあゆっくりしておきな。その代わり俺がテーピングした選手は今までみんなチャンピオンになったからね。『テーピングの田上』ってね、有名なんだから。だから、野田君も全国チャンピオンになるんだぞ!!」

「はい、なります。オレ、チャンピオンになるので、テーピングお願いします!」

「はい! 任せておきなさい! 田上のテーピングはすごいってね、全国に知らせてやってくれよ!」


その様子を見ていた南ヶ丘の4人は田上先生の言葉に引き込まれてしまった。

「ねえ、わたしたちもなんかやろう!もう最後のセンゴだから私たちでノダケンの力になれること、やろう」

「そうだよ、智子の言う通り。みんなで準備しようよ」

「あのさ、ほら、函館で坪内さんがやってくれた応援しようぜ!4人だけでちょっと寂しいけど、競技場取り囲んで一人ずつ大声上げてさ。健太郎の声はあてになんねーけど……」

「僕だって、やる、時は、やる」

「わたし、清嶺高校の人たちにも声かけてくるよ。みんなやってくれるよ」


「『オレチャンピオンになる』って野田君らしくないこと言ったもんね、いつもと違うんだよ。『オレ』なんて言わなかったよ、今まで」

「そう! きっとね、ついにノダケンのほんとの姿が出たんだよ!」

山野紗季は嬉しそうな目をしていた。


武部裕也はその様子を余すことなく全てカメラと動画に収めている。この様子はきっと札幌に戻ってからみんなに公開されて大きな話題を提供することになるだろう。


田上先生のテーピングは本物だった。アンダーラップから初めてアンクルロックもフィギュアエイトのテーピングも実に手早く正確にまいてくれた。外反できないようなタイトな巻き方なのに足首の動きは妨げられていない。少し違和感はあっても十分走れる範囲だ。痛さはやっぱりあるけれども、それは仕方ない。ここからは自分の頑張りしかない。


19時40分、八種競技最終種目1500mのスタート時間になった。

「おー、野田、脚は? 走れんのか?」

マンナンは本気で心配している言い方だ。

「まあ、何とかなるんじゃねえか」

外崎はしっかり聞き耳を立てている。


二人の差を考えると、ノダケンが4分50秒で走ってしまうと外崎に逆転の目はない。ノダケンのベストは20秒台、外崎のベストは30秒台だからかなり難しい条件なのだ。ノダケンが普通の状態ならまず勝ち目はない。ただ、高跳びの怪我の影響がどうなるか。普通ではないはずだが……。


「俺が引っ張ってやっからよ。ついて来いよ」

「いやー、あてにしてねえよ」

「へへ、じゃあ勝負だ!」

「おう!」

その話を聞いている外崎の表情は硬かった。


 二組目の19人がスタートした。

 マンナンが勢いよく飛び出した。

 すぐに内側の1レーンに入った。

 800m走のような走りだ。

 速すぎる。

 これは明らかに周りのペースを乱すための走りだ。

 それでも、それに外崎はついて行く。


第四コーナーを回り200mを過ぎたあたりでペースが落ち着き始め、マンナンは先頭を譲った。外崎の他五人の選手が先頭集団で400mを通過した。ペースを戻したマンナンと並んでノダケンは真ん中あたりをキープしていた。左足のテーピングは足首が横にぶれないように固定していても前後の動きを妨げることはなかった。蹴りの強さは右足より弱くなっていても何とか普通の走りができそうだ。痛さはない。


呼吸を整えることを意識して慎重に走っていると、外側から三人の選手が抜いて行った。それを追うようにマンナンが先を行き、それについていこうと腕の振りを大きくしたとき左ひざの内側に激痛が走った。膝を曲げるときに何かが引っかかるような気がする。まるで関節の接合部分が錆びてしまったような……。膝が曲がって、……伸ばしきった時が、痛い。痛さを和らげようと無意識のうちに体を前傾させ左足を伸ばしきらずに着地させ、そのまま後ろに蹴ることなく、送り出すような走りになった。更に意識して、左膝を伸ばし切らないように、少し膝を曲げたまま、……踵をつけずに、爪先から着地し、そのまま後ろに押し出す。


右足と左足のバランスが崩れ左右に体が揺れた。肩がローリングしている。コーナーを回ってメインスタンド前に来た時にはもう先頭との差が大きく開いてしまっていた。


「膝が……曲げられないみたい、いや。伸ばせない、のかな……」

上野先生がつぶやく

「危ないかな、あれだと……」

沼田先生の言葉に健太郎がかぶせた。

「いける。大丈夫。ノダケンだ。いける!」


「今のとこで、外崎とちょうど15秒の差がある。30秒差までなら大丈夫」

上野先生は左手のストップウオッチを強く握っている。その手は少し震えているようだ。

「あと、二周……、30秒……あの走りなら150mくらいか?160か? ……あぶないな」

「大丈夫。ノダケンだから。大丈夫」

健太郎は自分に言い聞かせているような言い方をしてノダケンから目を離さない。


ようやっと暗くなった徳島の空。競技場を四基のライトが照らしている。スタート地点付近の第二コーナーでは清嶺高校の生徒5人がメガホンを手に叫んでいる。第三コーナーには野田タクが両手を振りながら「ノダケーン!!」と繰り返した。そしてコーナーの出口には山野紗季と川合智子が手すりから身を乗り出して叫んでいる。


残り一周の鐘が響いた時には、先頭集団の中にいる外崎とノダケンとの差は100mを超えていた。4分30秒台の記録だった外崎は自分のぺーを超える走りをしている。ノダケンは今の走りだと5分を切ることが難しそうだ。持っている記録はノダケンの方が上だが、今の彼の走りからそれは期待出来ないことだ。


先頭集団に打ち鳴らされる鐘を聞いた時、ノダケンはまだ第四コーナーを回っているところだった。

「ノダケーン!!」

「ガンバー!! ノダケーン!!」


二人の叫びを耳にして先頭を見つめている彼の目にナイター設備の強い光が飛び込んできた。何年か前に一度だけ経験した野球の試合を思い出していた。その試合ではボールの影が何とも気になって仕方がなかったのだ。そして、滑り止めに使うロジンの粉が光線に照らされてたくさんの影を散らしていた。その時はタイミングが取れずに散々な結果だった。


ノダケンがようやっとゴール地点を通過してあと400mになった時、先頭集団の中から外崎が飛び出した。彼はバックストレートでスパートをかけたのだ。しかし彼の表情も苦しそうに見える。けっして余力を残しているような走りではなかった。それでも「勝つんだ」という強い気持ちがその走りからは感じられた。


負けられない。ノダケンは外崎のその走りに目を覚まされた気がした。


 昔の野球のことなんか思い出しているときじゃない。

 自分の力を出し切らなくちゃ。

 足が痛かったからとか、

 暑くて疲れたとか、

 そんなの……言い訳なんかできない。

 

 応援してくれているみんなに応えなければ……。

 坪内さんも、憲輔さんも……。

 姉も妹も母さんも……。

 達哉と佳織にお土産買うんだから、

 

 勝って帰るんだ。

 

 婆ちゃんに渦潮の話をしてやる。

 義母さんも、丹野さんにも……。


 勝つんだ。

 チャンピオンになるって、宣言したんだから。


「オレは、チャンピオンになるんだ!」


膝の痛さは増していた。痛い。けれども走れないわけじゃない。田上先生のテーピングは万全だ。みんなが応援してくれている。こんな恵まれた中で頑張れないはずない。


 腕を振ろう!

 膝に力を入れて!

 前を向け!

 胸を張って!

 顔を上げろ!


清嶺高校の「ファイトー!! ノダケーン!」の声が響いた。

野田タクの声が枯れ始めている。

山野紗季と川合智子が体中を奮わせている。

姉が送ってくれた、三人で指を立てている写真が目に浮かんできた。

去年旭川で姉と妹と母が応援していたのはここらあたりだった。


最後の直線に出たときにはもう何人もの選手がゴールしていた。

順位は関係ない。

少しでもタイムを縮めるんだ。


力尽きる寸前でもがいている状態の選手を、同じようにもがくような走りのノダケンが抜いた。


外崎とどのくらいタイム差があるのかわからないけど……少しでも縮めてやる。

「野田ー!! あと20!! あと15だぞー!」

フィールド内から叫ぶ太い声はマンナンのものだ。

腕をさらに大きく振った。

「ノダー! ノダー!」

健太郎がスタンドの手摺から飛び出しそうだ。


右足で大きくけりだして、今ゴールを通過した。走りを止めると左膝に鋭い痛みがやって来た。もう走らなくていいという思いと共にその場に転がった。


日が当たらなくなった後の路面のひんやりとした感覚が、皮膚を通して熱くなっていた頭を冷やしてくれた。そのままずっと寝転がっていたかった。係員がすぐにポカリをもってやって来た。上半身を起こして冷たいタオルを受け取った。でもまだ立ちたくない。


スタンドでは、上野先生がタイムを見て計算を始めた。スタジアムの電光掲示板に次々とタイムが表示されていく。

「外崎君が4分27秒……46、と……761点で、6106点ね。それで……、ノダケンが4分、55秒……7,8と……584点だから……、やったよ!これ! ほらー! 6118点だー!」

「ホンとか? 間違いない?! 12点差……」

沼田先生はまだ慎重な言い方だ。

上野先生が得点計算サイトに打ち込んだ結果を記録して沼田先生に渡したのを中川健太郎が奪い取った。

「野田だー! やっぱ、野田だー!」

健太郎は奪い取ったメモをもってスタンドをスタート方向へと走り始めた。


やって来た山野紗季と川合智子にメモを見せて健太郎が叫んだ。

「野田! 一番だー!」

そこへ野田タクが合流して来て二人の大騒ぎが始まった。


第3、第4コーナーのスタンド上部に設置されている大型スクリーンに八種目の総合得点が表示され、観客の目がすべてそこに向かった。

大きな歓声と拍手が沸き起こった。

野田賢治の名前が一番上にある。<6118点―大会新記録>

二番目に外崎高大の名前。<6106点―大会新記録>

それまでの大会記録6085点を二人とも更新した。高校記録は外崎が先月出したばかりの6214点だ。


「智子ー、やったねー!」

「ホント! もうすごすぎるよー!」

「全国チャンピオンだよー!」

「もうー、言葉に、なんない……」

清嶺高校の生徒も合流してきて七人の女の子たちは互いに抱き合って飛び跳ねている。


フィールドの中ではまだ座ったままのノダケンがポカリを片手にスタンドの騒ぎを見ていた。が、彼は自分が優勝したことをまだ実感できずにいた。最後の百メートル余りの距離が永遠に続くのではないかと思えるほど長かったことから解放されたものの、それと同時に膝の痛みが襲ってきたことで勝ったという気持ちに全くなれないままだった。

 マンナンは自分のことのように大声で叫んでいたし、外崎は「負けたよ!」と手を伸ばしてきたがマンナンがしたように強く握り返すだけの力が入らなかった。もらったタオルで顔の汗を拭きながら、目だけを動かして彼らの祝福の言葉に対応するしかできなかった。


「写真撮ったりするんだったよね。ミックスゾーンで取材もあるみたいだから、まだまだ時間かかるみたい。だれかノダケンに氷持って行ってやった方がいいわね」

上野先生の言葉にすぐに反応したのは健太郎だ。

「僕、行く!」

と言ったときにはもう上野先生からクーラーボックスを奪い取って階段を降り始めた。

「あっ、中川君、ちゃんと膝に当ててテーピングするんだよ」

その声を聞いていたのかどうか健太郎は反応することなく、スタンドからの階段を降りた。コーナーから走高跳のピッチを通ってフィールドへと走り、途中係員に制止されても、何かを叫ぶように伝えてノダケンのもとへと向かった。


「信じられねえ! あんなに速い反応できるんだ、健太郎。」

「中川君はね、一番ノダケンのことを信頼してるみたいだよー。最後までずっと、野田だから大丈夫って言い続けてたもの」

「健太郎はいっつもお姉さんたちに面倒見てもらってたけど、男の兄弟欲しかったんだよきっと。それも、ノダケンみたいなワイルドな感じのね」

「うーん、なるほどねー、いい見立てだね紗季ちゃん。そうかもしれないよ」


健太郎はフィールドに入るとノダケンに抱き着いた。しかも、すぐその横にマンナンがいるのにそんなことは全く目に入らないようだ。

「あー、健太郎ー、ノダケンにハグしてる!」

勿論その場面を武部が逃すはずはなく、モータードライブの音を激しく鳴らしながら激写している。

「中川君、やっぱりノダケンが好きなんだ」

「同じクラスになってからいっつも一緒にいるものね。健太郎も変わり始めたんだよきっと」


フィールドに集まった38人の八種競技出場者は全員が八つの種目を完走した。全国大会では最後に全員で記念撮影をするのが慣例になっていた。すっかり暗くなったポカリスエットスタジアムのメインスタンドに向かって三列になった出場者はカメラに向かった。全ての競技をやり遂げた者たちの笑顔があふれ、順位に関係なくみんなが肩を組んでフラッシュを浴びている。勿論、武部もスタンド中央から望遠レンズで何度もシャッターを切ったのだが、その選手たちの中にちゃっかりと中川健太郎が混じっていることに気づいた。ユニフォーム姿じゃないたった一人の部外者の健太郎を係員は阻止しなかったようだ。


「田上先生。ありがとうございました。先生のテーピングのおかげで走り切れました。」

スタンドに上がって来たノダケンは真っ先に田上先生のいる場所まで行った。

「いや、これはね野田君の力で勝ったんだよ。まあ、たまたま私のテーピングが役に立ったかもしれないけどね。でもね野田君。あの状態で55秒で戻ってこれたってのはね、君の力以外の何物でもない。それはね、間違いない」

「先生、足首は本当に全く痛くなかったんです。膝が予想外に駄目だったんですけど、テーピングはホントに、ありがとうございました」


「うんうん、良かった良かった。全国チャンピオンだもんねー。やってくれたよー!良かったわー。全国でさ、北海道の選手もずいぶん活躍してたんだ。昔からね。ちょっと前だとさ、寺田明日香さんとかさ、北口はるかさんとか、もうダントツで優勝してたからね。最近も結構頑張ってるんだけどさ、金メダルがなくってね……」

田上先生は昔のことを思い出すように視線を一度大型スクリーンに向けた。

「去年のさ、ほら君も知ってるべさ、旭川の菊池美咲さん。七種のさ」

ノダケンは黙って頷いた。


「あの人もさ、惜しかったんだ。もうちょっとのところで三位だったからねー。優勝してもおかしくなかったんだ。んで、今日野田君がさ、金メダル撮ってくれた。もうね、自分の学校じゃないんだけどうれしくてさ。あのね、北海道の陸上の関係者たちはね札幌陸協でも北海道陸協でも、みんなね道産子の金メダルのために頑張ってるところあんのさ。もちろんさ、沼田先生も上野の悦ちゃんもそうだ。みーんな君たちの活躍する姿見たくて頑張ってんのさ。だからね、本当に嬉しいんだ……」


田上先生は終始ににこやかな顔をしていた。そして、そこにやって来た南ヶ丘のメンバーがますます田上先生を喜ばせることになった。

「田上先生、ホントにスペッシャルなテーピングですね。ありがとうございました」

「田上マジックって北翔の人たちが言ってましたよ」

「なに、うちの生徒がかい? アイツらなんも人のこと聞かないくせにさ、他人の自慢してもねー」

「私も怪我したとき田上先生にテーピング頼みますから」

「何言ってんのー。怪我なんてしない方がいいに決まってるべさー。ま、山野さんもさ明日からスタートだから全力出し切ってね。期待してんだわーみんな。札幌陸協の先生方皆だからね!」

「はい。頑張りますよー、私だって。野田君に負けてられませんから」


「そうそう、その気持ちが大事なんですよー。去年のね菊池美咲さんもねいいとこまで行ってるからね。山野さんもあと追っかけてや!」

「はい。私たち、菊池さんと仲いいので。みんな。野田君もね!」

「そっかい、知り合いだったのかい。じゃなおさらだな。……そ言えばさ、なんかあれだね、菊池さんと野田君はさ、なんか似た雰囲気だよねー。顔のつくりとか似てる気がするもんね。……やっぱりあれかい、強い人は似てくるかな」

南ヶ丘の生徒たちは答えに詰まってしまったが、田上先生は変わらずにこにこしながら自分の生徒達を連れてホテルへと向かった。



「武部、最後のオレの走り撮ってた?」

ミックスゾーンでのインタビューや表彰式もあって、もう午後9時をとうに過ぎていた。迎えの車を待っていた武部はバックから取り出したタブレットで編集の最中だった。

「当然! なんかひどい走りだったからさ、優勝したけど、こういうのこそ今後のためになるんだろうと思ってさ」

「オレのスマホに送れる?」

「いいよ。すぐ送るわ、って賢治、お前『オレ』って言ってるな! 初めて聞いたぞ!」

「そうなんだよ、センゴの前にも『オレ』って言ったんだよ! 初めて聞くよね野田君がそう言うの」

「そう言えばそうだな。ノダケンは『僕』って言ってたよな」

「もうオレで良いいんじゃないの。その方が『ノダケン』らしいもの」

山野紗季がなぜか嬉しそうに言った時、車のクラクションが鳴った。


「トモちゃーん!」

という甲高い声と一緒に、車の後部ドアを開けて出てきたのは武部の姉武部美由起だった。

「えー! ミーさんだー!」

川合智子が胸の前で両手を振り車へ向かって小走りに駆けだした。

武部美由起は、自分よりずっと背の高い川合智子の頭をなでながら早口で話し始めた。話し始めたら止まることを知らないと武部の言う通り、彼女は止まりそうもない話し方をし、相槌を打つ川合智子の目もへの字型になったままだ。


後から降りてきた武部の母親は札幌で会った時とは違い、母親よりも妻を感じさせる服装と話し方をしている。そして、大げさすぎるくらいの驚きの表現で優勝を褒めてくれた。父親は車のそばにいたままで軽く頷きながらその様子を見ているだけだった。


武部美由起先輩は女子の走り高跳びが行われる4日目にまた来るからと言って、後輩にあたる南ヶ丘の皆にエールを送って去って行った。

「やっぱすごいな武部の姉さん。あれが伝説の武部美由起先輩かー!」

「まだまだ、もっともっと凄いんだから」

「ほらよく言う、オーラがあるって、そんな感じかなー。なんかすごい圧があるよね」

「うちのちびネエ、同じクラス。天才だって」


「あー、野田君に負けないで私も頑張るぞー!」

「智子より私の方が先だからね。ちゃんと応援してよー! ねえノダケン!」

二人ともまだ興奮状態が収まらないでいた。


その夜も眠れなかった。頭の中を今日一日の出来事がぐるぐる回っている。膝と足首の湿布やテーピングもあって、昨日とは違う不自由さが加わってしまった。何とも落ち着かない。手にした金メダルを何度も見てはテーブルの上に置く。今日も眠れない夜になる……。

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『ノダケン』~南風の頃に~ @kitamitio

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