第42話.絡まる糸を解くのは
三の月の最終日。
春休みの最終日でもある、その日の夜。私はいつも通り、自室で瞑想の時間を過ごしていた。最初の頃はすぐ他のものに目移りしていたけど、今は心揺らがず集中力を持続できている。
九日間の春休みの間も、やれることはすべてやった。やり尽くした、といっていいくらいだ。ここにいる自分は、一か月前の自分とは違うと胸を張って言える。
瞑想を終えた私は、寝間着の上からガウンを羽織って部屋を出る。
向かう先は三階にあるノアの執務室だった。
両足が、まるで自分のものではないように動く。何かに突き動かされるように執務室の前に到着した私の手は、躊躇わずドアをノックしていた。
「お兄様、アンリエッタです」
「入れ」
ドアを開けると、ノアは執務机についていた。相も変わらず多忙のようで、遅い時刻だというのに書類にペンを走らせている。
ちらりと私を一瞥したノアが、淡々と言う。
「明日は入学式だろう。あまり夜更かしをするな」
いつだって、ノアは正しい。
魔力の回復にも安定にも休息が必須である。万全を期すためにも、さっさと寝たほうがいい。寝られないまま朝を迎えて、挙げ句の果てに魔に堕ちてしまえば、一か月間の努力が水泡に帰してしまうのだから。
それが分かっているのに、気がつけば私は執務室の入り口にへたり込むように座っていた。
さすがに、何かがおかしいと思ったのだろう。椅子を引いてノアが立ち上がった気配がした。
「どうした?」
その声が近づいてくる前に、私は口を開いていた。
「怖いんです」
ノアが息を呑んだ音が、空間を通してはっきりと伝わる。
「死にたくないんです、私。死にたくない……」
明日、私の人生が終わるかもしれない。
何度となく思った。ゲーム内で死ねば、私は何事もなかったように元の世界に戻れるのかもしれない。本当は全力を尽くして抗う必要なんてなかったのかもしれない。
でも、この世界はあまりにも現実味があった。怪我をすれば痛いし、緊張すればお腹が痛くなる。おいしいものを食べれば幸せになるし、誰かと温かな言葉を交わしたら嬉しい気持ちになった。死んだらすべて元通りなんて、そんな都合のいい話を信じられないくらいには。
きっとノアは、泣き言を言う私に呆れる。
血の繋がりは薄くとも、今の私はリージャス家の一員だ。それに相応しい振る舞いができない人間を、ノアは許しはしないだろうから。
でも、身体の震えは止まらない。
怖いのだ。明日が来るのが怖くて仕方ないのだ。
ノアが私の目の前に屈む。伸ばされた手が、俯く私の頬に触れた。
その手つきが妙に優しかったせいだろうか。涙をいっぱい溜めながらも顔を上げた私に、ノアがまっすぐに言う。
「俺が守ってやる」
「……っ!」
心臓を貫かれたような心地で、私は目を見開く。
ノアは超のつく冷血漢で、妹には誰よりも冷たい。そんな人間であるはずなのに、心配性の兄のように続けるのだ。
「明日の花舞いの儀には、俺も参加する。ラインハルト殿下の警護の名目だ」
『ハナオト』のシナリオ通りの展開であるはずが、彼が儀式に参加する本来の理由はただの名目に変わっている。
「魔に堕ちる兆しが少しでも見えたときは、俺がお前を止める。だから何も心配しなくていい」
たぶんこのとき、他に言うべき言葉はいくらでもあった。
お兄様がいるなら百人力、いや千人力ですとか。頼もしいですお兄様とか。そんなふうに媚びを売ってなんぼの場面である。
でも思いつく傍から、言葉は喉の奥に引っ込んでいく。その間を逃れるように這い上がってきたのは、伝えるべきではない本音ばかりだった。
私はその本音に――私のものではない思いに、身を委ねる。
「どうして、今さら」
「……アンリエッタ?」
「もっと早く言ってよ。もっと早く、あなたが言ってくれてたら。それだけで私は救われてたのに!」
喉奥から漏れ出た悲痛なほどの激情に、ノアが怯んで手を離す。その隙を突くように、私はノアの胸を押した。
動揺しているのか、ノアが尻餅をつく。私は両膝で立つと、目の前のシャツの胸ぐらを皺になるほど力任せに掴んだ。
茹だったように全身が熱い。怒り、悲しみ、諦め。そのすべてが輪郭をなくすほど混じり合えば、言葉は呪詛のように響いた。
「知りませんよね、お兄様。私はね。あなたに嫌われたくなかったから、魔力をちっとも鍛えなかったの」
「……なに……?」
「だってお兄様はどんなにお強くても、花乙女になれないんだもの。そんなお兄様を差し置いて、私が花乙女になったりしたら……ますますあなたは、私のことが嫌いになるでしょう」
ノアの睫毛が震える。思いも寄らない妹の本心が、彼を惑わせている。
「だから、自分の魔力に蓋をした。初級魔法さえまともに使えず、誰もに指をさされるような落ちこぼれでいることにしたわ。暫定・花乙女なんてひどい呼ばれ方をしても、気にしなかった。――それなのに!」
ぽたぽたと、溢れ出た涙がノアの頬へと落ちる。
「それなのに、お兄様は………………私に見向きもしなかった」
灰色の世界。
ゲームシナリオの世界で、私は知った。祝福の花弁が降るとき、アンリエッタの視界の先にいたのはカレンではなくノアだったのだと。
ラインハルトの警護を務めるノアは、花乙女に選ばれたカレンだけを一心に見ていた。アンリエッタのことなんて、彼の眼中にはなかったのだ。
アンリエッタが絶望したのは、気づいてしまったからだ。自分が花乙女になろうと、ならまいと、たったひとりの家族との冷えきった関係は何も変わらない。自分のやってきたことには、なんの意味もない。それを知ったとき彼女は理性を失い、魔に堕ちてしまったのだ。
「なんで私を、捨てたの。置き去りにしたの。ずっとずっと、ひとりぼっちにしたのよ!」
口を突いて出てくるのは、私自身の言葉ではなかった。
幼い頃から孤独を噛み締めてきたアンリエッタの苦しみ。それを上回る、唯一の家族への愛。
周囲に対しての虚勢をすべて取り払ってわんわん泣き喚いているのは、十歳の女の子だった。周囲から誰もいなくなった日から成長を止めてしまった、十歳のアンリエッタだった。
そこに、小さな声が投げられる。
「すまなかった」
それは――誰よりも彼女が愛して憎んだ兄からの、謝罪の言葉だった。
「お前から、逃げた。向き合おうとしなかった。それは俺の……弱さだった」
「……っ」
熱いものが、さらに頬を伝っていく。
泣き顔を見られたくなくて、私はノアの胸板に頭をぶつけるように飛び込んだ。
「ひどい!」
私はぽかぽかと、両の拳で逞しい胸板を殴りつける。この体格のいい美丈夫にダメージを与えることなんてできるわけがないけど、湧き上がってくる衝動のままに両手を動かさずにはいられなかったのだ。
「ひどい。お兄様は、ひどい!」
「ああ。俺は、ひどい兄だ」
ひどい、ひどい、ひどい、と私は涙でぐちゃぐちゃになった声で繰り返す。
ああ、そうだな、とノアは何度も頷いた。そんなふうに不器用に繰り返すことで、私たちは取り戻していく。理想とはほど遠い、家族の姿を。兄妹の関係を。
数分も声を上げて泣き続けていたら、喉がすっかり痛くなっていた。私はぜえぜえと、肩を上下させながら思考する。
どうやら私の中のアンリエッタは、兄に向かって言いたいことを言えて満足したらしい。内なる声みたいなやつも、もう聞こえる気がしなかった。
どこかに行っちゃったという感じはしないので、私はそっと呼びかけてみる。
ねぇ、アンリエッタ。あなたって本当に、どうしようもない女の子だね。
意地っ張りで、偉そうで、思い込みが激しくて、そのくせ誰よりも寂しがり屋な女の子。
だから、もしもぜんぶうまく行って、無事に花舞いの儀を乗り越えられたときは、あなたに身体を返してあげる。
意識だけ飛ばされてきた私はやっぱり死んじゃうのかもしれないけど、それでもいい。だから今度はもう少しだけ素直になって、ノアや周りの人に向き合ってほしいな。
心の中で、そうアンリエッタに語りかけていると。
「言っただろう。俺も花舞いの儀に参加する。何も心配する必要はない」
幼子をあやすような口調で、ノアがそう繰り返す。
「お前が――アンリエッタが魔に堕ちて命を落とすことなんて、あり得ないんだ」
それが彼らしくない、自分に言い聞かせるような弱さを含む口調だったから。
思わず私は、厚い胸板から顔を離して不安げに見上げる。すると不器用な指先が、目尻に残る私の涙を掬い取ってくれた。
「もう、そんなふうに泣かなくていい。ますます不細工になるぞ」
すん、と私は洟をすする。
「失礼です。この顔だって、取り柄のひとつでしょう」
いつかと同じ言葉を一蹴せずに、ノアはわずかに目元を緩めた。
「相変わらずの減らず口だな」
この一か月間で、大して仲良くなったわけでもない。
それでもノアは少なからず、嫌っていた妹のことを見直して、努力を認めてくれた。たとえカレンに向けるような愛情ではなくても、同情だってひとつの情なのだと思う。
「少しは私に、情が移りました?」
「ばかを言うな」
ノアが嘆息する。その声も吐息も、常になく優しい響きを持っている。
だから私は、胸に秘めていた願いを伝えることができた。
「ねぇ、お兄様」
「なんだ」
「それでも、どうしてもだめだったら。そのときはお兄様が、私を殺してくださいね」
ノアが静かに息を呑む。深く澄んだ瞳の中で、困惑するように光が揺れた。
ノアと向かい合いながら、私はにっこりと微笑む。アンリエッタ・リージャスに借りている美しい顔で、ちゃんと微笑んでみせた。
「他の人には手出しさせずに、どうか私を殺してくださいね」
恐ろしいはずのおねだりは、なぜかすんなりと口にできた。
暫定・花乙女と呼ばれてきたアンリエッタ・リージャス。醜態だらけのアンリエッタにとどめを刺すのが身内のノアであったなら、国中の笑いものにならずに済むはずだから。
たぶん本当は、私が――強い魔力を持つアンリエッタが魔に堕ちたなら、ノアひとりでは太刀打ちできない。花乙女であるカレンの力が必要になるだろう。
でもノアには、カレンの助けを借りずに私を殺してほしい。それをアンリエッタも望んでいるような気がしたから。
「俺が信じられないのか? 王国最強と謳われる魔法騎士団の副団長だぞ」
「もちろん、お兄様がお強いのは分かってます」
私は唇を尖らせる。
それでも発言を撤回しないのに気づいたノアが、吐息のような声で言った。
「分かった」
「ありがとうございます、お兄様」
観念するような首肯が返ってくれば、今夜はどうにか寝られそうだとホッとする。ノアが請け負ってくれるなら、私は最期の瞬間までアンリエッタ・リージャスでいられるだろう。
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