第39話.アンリエッタの真実
私はぼんやりと、灰色の世界に佇んでいた。
そこは女神像のある大きな噴水を中心に、階段状に広がっている立派な噴水広場だった。噴水の中央には大理石で彫られたエンルーナの女神像が飾られている。物言わぬエンルーナは両手を祈るように組み、女神らしい淑やかな笑みを浮かべていた。
魔法をかけられた噴水は、ときどき宙を舞う水の軌跡で花や鳥なんかを描くことで知られるが、その日ばかりは平凡に水を噴き上げるだけだった。
学園中の教師や生徒が広場に集まり、そのときが来るのを今か今かと待ち詫びている。
その光景を目にしたとたん、ぴんと来た。
そうか、もうすぐ花舞いの儀が始まるのだ。最初に見たきりスキップしがちのプロローグを、私は頭の中で思い起こしていく。
『ハナオト』のプロローグの日付は、月花暦六百二十年、四の月の一日。カルナシア王国やエーアス魔法学園についての説明を軽く入れながら、花舞いの儀でカレンが召喚される直前から物語がスタートする。
花舞いの儀で花乙女が選ばれる場合、乙女の頭上には祝福の花弁が降らされる――という伝説が伝わっているが、今年は少し違っていて、花乙女は異世界から召喚されてくる。
最初の変化は噴水に生まれる。というのも水盤に溜まった水がぱぁっと明るく光り輝いたかと思えば、その傍にひとりの女の子が立っているのだ。
セミロングの茶髪にピンク色の瞳を持つカレンは、何が起こっているのか分からない様子で不安げに周囲を見回す。そんな彼女の頭上に花弁が降り続ける様子を目の当たりにすれば一目瞭然だ。彼女こそが百年ぶりに選ばれた花乙女だと、生徒たちは好き勝手に盛り上がっていく。
その様子を見て平静を失うのがアンリエッタだ。立ち上がったアンリエッタは群衆の中からカレンへと近づき、感情的な叫び声を上げる。
気がつけばアンリエッタはドス黒い魔力を身にまとい、理性を失っている。突然襲いかかってくるアンリエッタに戸惑いながら、カレンは攻略対象のうちの誰かに協力を呼びかけて、魔に堕ちたアンリエッタと戦う――。
って。よくよく見たら、私の真横に座ってるのってアンリエッタじゃない?
春先の風に揺れる髪色は、他の景色と同じくすんだ灰色ではあるが……息を呑むほどの美貌の少女が、私の隣に座っていた。
私が転生したあととは違う。アンリエッタのまとう空気はひりついていて、傍にいる私の焦燥すら掻き立てるほどだった。彼女の怖いほど真剣な青の双眸が、そう思わせるのかもしれない。
でも至近距離からまじまじと見つめても、アンリエッタは私に気づかない。さっきから誰とも目が合わないので、どうやら私の姿はアンリエッタ含む誰にも見えていないようだ。
アンリエッタが形のいい耳に髪をかけて、物憂げな息を吐く。その音は、私の耳には聞こえない。どうやらこの世界には、色も音もないようだった。
首を捻っていると、灰色の世界に大きな変化が起こった。見下ろせば、噴水の傍にひとりの少女が立っている。困り顔できょろきょろと辺りを見回す茶髪の彼女は、誰であろうカレンだった。
私は込み上げた唾を呑み込む。やはりカレンが召喚されてしまった。自分が花乙女に選ばれなかったと知ったアンリエッタは、これで魔に堕ちてしまう。
私はゆっくりと、答え合わせをするように傍らのアンリエッタに目を向けていた。
怒りに駆られたアンリエッタは、激情も露わにカレンを睨みつけて立ち上がるはずだ。だが意外なことに、アンリエッタはカレンに見向きもしていなかった。
どこか別の方角を見つめるアンリエッタが、唇を噛み締める。なめらかな頬を、一筋の涙が伝っていく。あまりに痛々しく静かな泣き顔に、私の胸は共鳴したかのように切なく締めつけられた。
アンリエッタの視線の先を追えば、そこに彼女の涙の答えがあった。
ああ。違ったんだ。
私も、他のプレイヤーも、誰も彼もが誤解していた。
アンリエッタ。
あなたが魔に堕ちたのは、自分が花乙女に選ばれなかったからじゃなくて――。
◇◇◇
「あ、起きた起きた」
能天気な美声が、頭上から降ってきた。
私は目蓋を震わせてから、ゆっくりと開ける。見つめ返してくるのは白い天井……ではなく、その手前にいるフェオネンだった。
相変わらず近い。近いというか距離感がバグっている。私は少しでも身動げばキスしてしまいそうな距離にあるフェオネンの顎を、ぐいっと押しだすように遠ざける。
「痛い痛い。いやぁ、美女の頬を濡らす涙を止めてあげようと思ったんだけど」
笑いながらフェオネンが身を引く。私は無言のまま、頬を流れるそれを拭った。
涙の理由を問われないのはありがたかった。これはただ、彼女の感情に呼応して溢れたものだったからだ。
わざとだろう。ベッド脇の丸椅子に座り直したフェオネンは、一か月前とよく似た言葉を繰りだした。
「久しぶり。自分の名前、ちゃんと言えるかな?」
「……アンリエッタ・リージャス」
「良かった、正解」
フェオネンがくすりと笑う。そんな校医を私はぼんやりと見上げていたのだが、次第に意識を失う前の記憶が戻ってきた。
「イーゼラ!? それにエルヴィスは!?」
がばりと跳ね起きる私の両肩を、「こらこら」と言いながらフェオネンが再びベッドに寝かせる。
「二人とも無事だよ。ほら、両脇のベッドを見てごらん」
言われるままに視線をやれば、私の右隣にイーゼラ、左隣にエルヴィスが横たわっている。
「イーゼラ嬢は消耗しているけど命に別状はないし、魔力も時間をかければ回復するでしょう。エルヴィス君も魔力が切れて単に眠っているだけ。それとキミの顔や身体の傷も、今回は治癒魔法で治しておいたから」
「そ、そうなんですね。ありがとうございます……」
良かったぁ、と私は身体から力を抜く。
あの危険すぎる迷宮から、三人で生きて戻ってこられたんだ。また涙が込み上げそうになるが、そういえばと重要なことに気がつく。
「わ、私、廃人になってないかも!?」
《魔喰い》によってすべての魔力を吸われたとき、もうおしまいだと思った。半ば諦めていて、遺言っぽいことを《魔喰い》に向けて唱えていた気もする。しかし今の私は、問題なく喋れているし表情筋を動かせているのだ。
「魔力がなくなったのに廃人にならなかったなんて、奇跡みたい!」
手を合わせて感激する私に、フェオネンが「いやいや」と首を横に振る。
「魔力もなくなってないから」
「え?」
「キミの魔力、なくなってないよ。ぜんぜん。ちっとも」
え? ええ?
「だって私、《魔喰い》に魔力を吸われたはずなんですけど」
「意識を失う前のエルヴィス君から聞いたよ。キミたち、とんでもない無茶をするじゃない」
フェオネンは苦笑しているが、その件について教師として叱る気はないようだった。
「《魔喰い》については、エルヴィス君が死体の一部を持ち帰ってきた。魔塔にでも持ち込んで調べてみないと、詳しいことは分からないけどね。ボクの見た限り、《魔喰い》は自滅に近い状態だったんじゃないかな」
「自滅、ですか?」
私は最後に見た《魔喰い》を思いだす。致命傷を喰らってもなお、生きようと抗う魔獣の姿を。
「《魔喰い》といっても、無尽蔵に他者の魔力が喰えるわけじゃない。想定を超える量の魔力を吸収すれば、肉体のほうが耐えられないのは自明の理だろう?」
「ああ、なるほど。イーゼラの魔力をたくさん吸った状態で、私の魔力まで追加で吸ったから……《魔喰い》は自壊したってことですね?」
だから私もイーゼラも無事だったのだ。
一件落着だと思いかけたところで、私はとんでもないことに思い立った。
「あれ? じゃあ私が助かったのって、イーゼラのおかげ?」
危険を冒して助けに行ったのは私のはずなのに、イーゼラは超強力な風魔法で《魔喰い》に手傷を負わせ、最終的に自壊にまで追い込んでいるということか。
なんだかものすごく複雑な気分に陥る私に、フェオネンが肩を竦める。その表情は女の子と見れば口説く色男のものではなく、ちゃんと教師の顔をしている。
「あのね。キミも周りも、根本的なところを勘違いしてると思うんだけど。個人の魔力量っていうのは、基本的に修練によって伸ばしていくものなんだよ」
「はぁ」
前置きの意味が理解できていない私に、フェオネンが呆れ顔を作る。
「キミさ。この十六年間、まともに修練を積んでこなかったでしょう?」
うぐ、と私は言葉に詰まって消沈する。
「ご、ご指摘の通りです。私は愚かな落ちこぼれです!」
「責めているわけじゃなくてね。ボクが言いたいのは、なんの努力もしていないにも拘わらず、それだけの魔力を有しているキミみたいな人間は、魔法士の常識に照らし合わせて異常だってこと」
ええと、つまり?
「私、もしかしてけっこうすごいってことですか?」
期待に目を輝かせて問うと、フェオネンがくすりと小悪魔的な笑みを浮かべる。
「――うん。今はそういうことでいいんじゃない?」
な、なんかおざなりだけど。今のはフェオネンなりに、私を励ましてくれたのかな?
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