第2話.私の始まり


        ◇◇◇



 ……ん?

 私はぱちぱち、と目をしばたたかせる。


 目を開いて、まず最初に覚えたのは違和感だった。その理由はというと一目瞭然である。

 私の視界いっぱいに、他人の睫毛がぼんやりと映しだされていた。

 物心ついてから、こんなに誰かと近づいたことなんてないのに。どこか夢見心地にそんなことを考えていると、唇を他人の甘い吐息が掠めて、私はびくりと震えた。


 あれ、これってなんか危ない、のでは?


「ちょ、ちょっと!」


 混乱しながらも、私は折り重なっている人物の顎をぐいっと両手で押しのける。

 とにかく無我夢中だった。それなりの力で押しのけたつもりが、「わっ、痛い痛い。痛いって」とその男はどこか楽しげに声を上げる。


 私は慌てて上半身を起こしながら、身体にかかっていた毛布を盾にするように引き寄せる。


「ね、寝てる人に何してるんですかあなた! 変質者? 変態っ!?」

「いや。いつまで経ってもお姫様が目を覚まさないから、目覚めのキスをご所望なのかと」


 歯の浮くような台詞を真正面から喰らい、ますます混乱を極める。こんな台詞、二次元でしか聞いたことがない。


「というのは冗談。唇を怪我しているから、治してあげようと思ったんだ。ほら、ボクの唇には癒やしの力があるからさ」

「そんなアホみたいな言い訳が許されるのはフェオネンだけだから! ……痛っ」


 とっさに側頭部を押さえる。そのあたりに、ずきりと痛みが走ったのだ。


「大丈夫? 急に起き上がって大声出すからだよ。怪我人なんだから、安静にしないとね」


 あなたのせいでしょ、と言ってやりたいのを堪えながら、私は俯きがちに頭を押さえる。

 って、怪我人? 私が? なんで……?

 次々に噴出する疑問の声が聞こえたかのように、変態の人は緩やかな口調で続ける。


「覚えてる? キミ、昼休みに階段から足を踏み外して落ちたんだよ。目立つ外傷はないけど、頭を打ったみたいでね。意識を失って医務室に運ばれてきたんだ」


 言われてみれば私が寝かされていたらしい白いシーツも、鼻先にほんのり漂う薬品のにおいも、学校の保健室を彷彿とさせるものだ。どうやら変態が話しているのは本当のことらしい。


 どうでもいいけどこの人、やたら美声だなぁ。まるでプロの声優さんの声みたい。

 そんなことを思っている間に、少しずつ頭部の痛みが引いていく。頭に手を添えたまま、注意深くゆっくりと顔を上げたところで、私は口を半開きにして固まった。


「……は?」

「どうしたのかな、ボクのことを一心不乱に見つめちゃって。ああ、やっぱりキス――」

「そうじゃなくて! あなた……フェオネン、だよね?」


 おずおずと、その名前を口にする。


 肩に流れ落ちる、毛先にウェーブがかかったセミロングの紫髪。眼鏡のレンズ越しに私を見つめるのは、背筋がぞくりとするほど蠱惑的な蜂蜜色の瞳だ。


 身にまとう白衣もやたらと色っぽい、妖艶な雰囲気を持つ男性――『ハナオト』攻略対象のひとりであり、エーアス魔法学園の校医として勤めるフェオネン・シャンテールが、ベッドに座る私を見下ろしていた。


 イラストレーターさんが描いた絵は平面なわけで、私の知るフェオネンがそのまま目の前にいるわけじゃないけど……二次元を三次元にそのまま引っ張ってきたかのような、すばらしいクオリティであるのは間違いない。


 私は感心して身を乗りだすと、目の前で不思議そうな顔をしているフェオネン(?)を食い入るように見つめる。


「うわー、すっごい美形。『ハナオト』がハリウッドで実写映画化されたら、フェオネンってこんな感じなのかも。右目の下の泣きぼくろもしっかり再現されてるし」

「よく分からないけど、ボクのことを称えてくれているのかな? 美貌で知られるリージャス家の令嬢からお褒めの言葉を賜るなんて、なんだか面映ゆいね」


 と言いつつ垂れ目を細めて笑う表情は他人からの褒め言葉に慣れきっていて、まさにフェオネンそのものだと感心する。

 うーん、演技も抜群にいいな。これはフェオネン推しもきっと納得……とうっかり見惚れていたせいで、私の反応は遅れてしまった。


「ん? リージャス家……?」


 そのおしゃれな家名にも、何やら聞き覚えがあるような。

 眉間に皺を寄せる私に、フェオネンが心配そうにテーブルから何かを持ってくる。


「もしかして頭を打った影響かもね。自分の名前、ちゃんと言えるかな?」


 向けられた手鏡の中には、当然ながらが映しだされている。


 光沢のある、銀色の長い髪。清らかな湖を思わせる青く大きな瞳。

 すっと通った鼻梁に、桜色の艶々した唇。顔立ちはややきつめだが、それこそ芸術品のように整っているし、身体つきは華奢さと女性らしい柔らかさを併せ持っている。


 まさに、あらゆる女子が理想として掲げるような完璧な容姿の美少女。

 この顔と身体を持つ人物を、私は知っている――。


「まさか、とは思うけど」

「うん」

「……アンリエッタ・リージャス?」

「良かった、正解」


 安堵するフェオネンとは真逆に、顔面蒼白の私は「どええーっ」と女子らしからぬ悲鳴を上げていた。



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