第3話.校医の誘惑

 

 決意を固めて勢いよくベッドから出る私に、フェオネンが声をかけてくる。


「起き上がって大丈夫かい?」

「はい。そろそろ教室に戻ります。ありがとうございました、フェ……オネン先生」


 ぎこちなく敬称をつければ、出来の悪い生徒を見るような表情で微笑まれる。


「それにしても」


 と言いながら、フェオネンが近づいてくる。

 立ち上がって制服の皺を伸ばす私の前にやって来ると、上背のある彼は少し屈んで――。


「顔に、目立つ傷がつかなくて良かった」

「……っ!?」


 その骨張った指先が、私の顎を掴む。


 驚きのあまり呼吸が止まる。そんな私に構わず、フェオネンは整った顔を躊躇わず近づけてくる。

 起き上がった直後と同じ、キスされるのではないかと錯覚するほどの距離。眼鏡のレンズ越しに注がれる視線。酩酊しそうなほど甘い香水の香りが、私の鼻腔をくすぐった。



 心臓がどくどくと早鐘を打つ。

 ち、近い近い。本当に近すぎるから!


「ちょ、せ、先生っ」


 私は声を上擦らせながらも、必死に抵抗する。

 真っ赤になっているだろう私の顔を覗き込みながら、フェオネンが緩やかに笑む。


「でも唇からは血が出ているね。落下したときに、自分で強く噛んじゃったのかな。それとも、ボク以外の不届きな男が……?」

「……っ」


 下唇を骨張った指先で優しくなぞられて、ぞくりと全身の鳥肌が立つ。

 逃げたいのに、慣れない状況にびっくりして身体が思うように動かない。そんな私の唇を、フェオネンの指が好き勝手に弄ぶ。


「や、やめっ……」

「――はい、治療終わり」


 え? 治療?

 そう言うと、フェオネンは何事もなかったように私から離れる。


「唇によく効く軟膏を塗っておいたよ。一日すれば腫れも引くでしょう」


 下唇をちろりと舐めてみれば、苦い味が口内に広がる。呆然自失している私に、フェオネンは軽くウィンクしてみせた。


「それと今日のキミ、なんかいつもよりおもしろくて。つい、からかっちゃった☆」


 拳で口元を隠しながら、私は真っ赤な顔でわなわな震える。

 この、この……「からかっちゃった☆」じゃないわ、お色気垂れ流し校医めぇっ! と怒鳴りたくなるのを、なんとか堪えた。


 フェオネン・シャンテールは相手が女の子と見れば口説いてしまう、生粋のナンパ男である。正直、そんな男は教師になっちゃいけないと思うのだが。

 実は彼には隠された過去がある。とある貴族家の妾の子として生まれたフェオネンは、幼い頃より義母に虐げられてきた。そんな義母の支配から逃れるために家を飛びだし、エーアス魔法学園で校医として働く道を選んだのだ。


 眼鏡をしているのも、幼い頃にひどい虐待をされて片目の視力がほとんどないからだという。彼の女遊びの激しさは、周囲から愛を与えられなかったゆえの――強烈なコンプレックスの裏返しでもあるのだ。


 そんなフェオネンが初めて本気で惚れてしまうのが、ヒロインのカレン。やや天然気味のカレンは、フェオネンに誘惑されてもまったく動じない。むしろわざと奔放に振る舞うフェオネンを怒ったり、案じたりする。

 どんな女性と過ごしても満たされなかったフェオネンは、カレンという存在を得たことで初めて、本当の恋を知っていく……そんなフェオネンルートに、私も何度ハンカチを濡らしたことか分からない(エルヴィスルート以外はCG回収のために一度しかクリアしてないけど)。


 そしてヒロインのカレンなら余裕で受け流せるのかもしれないが、男性への免疫がなさすぎる私には、フェオネンの度を超えた色気はただの毒である。喰らいすぎたらたぶんHPが尽きて死ぬ。


 でもこんな美形に甘く囁かれながら唇を触られたりしたら、誰だって冷静じゃいられないと思う。私は羞恥心を隠すように、ぼそりと呟いた。


「どうせなら、治癒魔法を使ってくれればいいのに」


 フェオネンの使う治癒魔法なら、あっという間に傷は治っていたはずだ。独り言のつもりだったが、椅子に腰かけるフェオネンには聞こえていたらしい。


 彼は私の唇に軟膏を塗ったばかりの小指に、これ見よがしに唇で触れる。


「だから、最初に言ったろう? ――キスで治してあげようか、って」


 ヒェッ。この校医……スケベすぎる!


 私は早急に医務室から退散することに決める。これ以上ここに留まっていては、私の心臓が持たないだろう。第二の生を生き抜くと決意した直後に、心臓発作で死ぬなんていやすぎる。


「それじゃあ、どうもお世話になりました」


 頭を下げれば、フェオネンが思いがけない名前を口にする。


「そうだった。キミ、同じクラスのエルヴィス君にお礼を言っておくといいよ」

「エ、エエ、エルヴィス様っ? ですか?」


 突然出てきた推しの名前に、声が裏返る。心臓はみっともないくらい、ばくばく騒いでいた。


「ああ。階段から落ちたキミを医務室まで運んできたのは、彼だからね」


 そんなイベントあったっけ、と首を傾げるが、ゲーム本編はまだ始まっていないのだ。『ハナオト』クリア済みの私でも知らない出来事なのは当然だった。


 それにしても、まさか本編開始前のエルヴィス様とアンリエッタの間に交流があったとは。だけどアンリエッタみたいな嫌われ者を助けてくれたというのは、いかにもエルヴィス様らしい。


 エルヴィス・ハントはフェオネンと同じく、『ハナオト』の攻略対象のひとりだ。柔らかそうな茶髪に宝石のようにきらめく翠色の瞳を持つ彼は、由緒正しき辺境伯家の次男である。


 優しくて穏やかで、清く正しく美しい美青年。そんな彼こそ私の推し。

 アクの強い攻略対象が多い中、最初はあまり期待していなかったエルヴィス様のルートに心底癒やされて、きゃーきゃー言いながら悶えていた。普段はぽやぽやして弟っぽいところがあるエルヴィス様だが、いざというときはきっちりヒロインを守ってくれるし、ときどき見せる嫉妬や独占欲が堪らないキャラクターなのだ。


 そうか。アンリエッタに転生したってことは、フェオネンだけじゃなくエルヴィス様にも会えるってことなのね。

 しかも二年生に進級する前の、一年生のエルヴィス様に、だ。


 それってだいぶ役得なのではなかろうか。自分でも現金だとは思うけど、むくむくとやる気が漲ってくる。


「すぐにお礼を言いにいきますっ!」

「ボクに対する態度とはぜんぜん違うね。妬けちゃうなぁ」

「はい。失礼しますっ!」


 推しとの出会いという奇跡を前にした私は、鼻先に人参ぶら下げられた馬も同然である。今だけはフェオネンの甘い言葉にも翻弄されることはない。

 しかし医務室のドアを開けて外に出た私は、そこですぐに立ち止まった。


 なぜかというと、ゲームの背景で何度も見た広い廊下が私を待ち受けていたからだ。


「う、うおお……」


 野太い呻き声を出しながら窓に駆け寄って、周囲の景観を見る。窓からでも、その偉容の一部を視界に収めることができた。

 私がいるのは、ひとつの街かと見紛うほどに広大な敷地を持つ城だ。鋭く尖った青い屋根に、白く上品な壁。ドイツ三大美城のひとつとされるノイシュヴァンシュタイン城を参考にデザインされた、『ハナオト』の舞台となる学園――エーアス魔法学園である!


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