第7話 母、千早佳乃

 佳乃には女としての自信があった。

 ぱっちりとした目と豊かな唇は町の男達をとりこにし、その美貌びぼうは「小野小町の再来か」と言わしめたほど。

 見目が良いだけではない。男性を扱うにも長けていて、彼女のワガママに振り回されたいという男性は数知れなかった。

 さらにはセンスが良くて流行にもさとく、佳乃は他の女学生たちから憧れの眼差しで見られた。

 佳乃の最大の失敗は、千早家に嫁入りしたことである。寛治とは世紀の大恋愛をした。

 燃え上がる愛情の前には、どんなことだって障害にはならないわ。寛治さんのお母様にもきっと結婚を認めさせてみせる。

 華族には自由恋愛など許されないとは知っていたけど、佳乃は勇足いさみあしで千早家の門をくぐった。

 寛治の母親である久慧ひさえは、そんな佳乃に何度も確認した。


「千早家に入るということは、貴女もお蚕仕事を担うということです。それでも構いませんか」


 久慧は千早家を取り仕切る女男爵だった。真白というお蚕の精霊の加護を得て、女だてらに千早家の当主を務める傑物けつぶつ

 そう聞いていたけれど、実際の彼女は穏やかそうな老女だった。

 もちろん、精一杯お勤めさせていただきますわ、お義母様!

 そう返事をしたけれど、実際にやってみるとお蚕の世話は苦痛だった。絹は好きだがお蚕の幼虫はうねうねと気持ち悪いだけだし、毎日コツコツと仕事をするのは性に合わない。

 次第に佳乃の足はお蚕部屋から遠のいた。

 久慧は何か言いたげだったが佳乃は知らないフリを決め込んだ。姑の視線が鬱陶うっとうしいとは思ったけれど、それもほんのしばらくの間だけだった。


 佳乃は寛治の子どもを身籠みごもったのだ。悪阻つわりは苦しかったけど、佳乃は努めて笑顔で過ごした。親類や友人達が見舞っては、「幸せいっぱいの次期男爵夫人」を誉めそやしていったからだ。

 難産ではあったけれど無事に女児を出産し、「紗代」と名付けた。花や珍しい果物、ベビードレス……屋敷には様々な贈り物が届けられた。

 しかし。それらが途絶えた頃、佳乃は急に飽きてしまった。誰に会っても佳乃を「母親」扱いして、まるで自分が主人公ではなくなってしまったよう。

 あれだけ熱烈に愛し合ったはずの寛治も、妊婦となった自分を女として見なくなった。それどころか毎夜花街に繰り出しては新しい情婦を作っているというではないか。

 子どもを産めば自分も母親になるのだと思っていたけれど、そうではなかった。

 だって紗代が泣くのを見ても何の感情も湧かないし、手を差し伸べたいとも思えない。幸せな母親を演じるのも疲れてしまった。


 佳乃はさっさと床を上げると、百貨店へと繰り出した。香水や紅を新調して、そのまま夜の街へと繰り出す。

 アルコールの香りが漂うジャズホール。身体をくすぐる紫煙しえんのゆらめき。そして、男達の熱のこもった視線。佳乃は生き返るような心地がした。

 そうそう、これだわ!殿方との駆け引きが、わたくしをもっと美しくするのよ!

 佳乃は夜遊びにのめり込んでいった。お蚕部屋どころか、千早家に戻ることすら珍しくなった。


 転機が訪れたのはその三年後のこと。佳乃は再び「一生に一度の大恋愛」をしたけれど、相手は結婚のために佳乃のもとを去ったのだ。

 佳乃は涙に暮れた。愛情が欲しいだけなのに、この世はなんとままならぬのか。終わらない愛が欲しい。ひたすらに自分を愛してくれる存在がほしい。

 そんなとき、彼女はやっと紗代のことを思い出した。自分にはお腹を痛めて産んだ子がいるではないか。  

 まさか母親を愛さない娘がいるだろうか。自分の娘なら、きっと自分を欲しがってやまぬはず。

 そんな思いで佳乃は初めて紗代のもとへと向かった。しかし、そんな希望は容易く裏切られる。


「まあ、紗代や。あなたのお母様ですよ」


 紗代が久慧の後ろに隠れ、久慧はオドオドする孫をたしなめた。

 三歳になる紗代はずっと祖母の久慧の養育を受けており、佳乃が尋ねた折もお蚕仕事の手解きを受けていたようだった。

 久慧の後ろから、黒曜石のような瞳が怯えをはらんでこちらを見上げる。まるで他人を見るような目。

 久慧が申し訳なさそうに言う。


「佳乃さんも、毎日会ってくださったら紗代も慣れると思うのよ。今は誰にでも人見知りをするから……」


 佳乃はかっと頭に血が昇るのを感じた。

 人見知り?母親であるわたくしに?これは母親も分からぬほどに愚かなの?これは母親に愛を持たぬようなひどい娘なの?

 大きな音を立てて襖を開け、どすどすと足を踏み鳴らして佳乃は部屋を後にした。

 そして以後、再び紗代を訪ねることはなかった。


 その代わり、彼女は再び子どもを胎に宿した。次こそは自分を愛する子を産むのだ。

 次女の美弥子はそれはそれは可愛らしかった。顔の作りは自分によく似ていて、幼い頃の自分を見ているかのよう。

 ドレスを着せれば舶来のビスクドールみたいだし、振袖で楚々と笑う様はまるで大名家のお姫様。

 世話は使用人たちに任せきりだったけど、美弥子は佳乃によく甘えた。そんな様子も可愛いかったし、泣いている顔も自分の愛情を求めてのものだと思うと愛おしかった。


 紗代は失敗作。本当の娘は可愛い美弥子だけ。いつもこの娘が自分に笑顔を向けるように育てよう。


 そんな風に考えていたから、美弥子が顔を真っ赤にして部屋に飛び込んできたときは驚いた。


「あああん、お母様ぁ!」

「まあ、美弥子ったらどうしたの。せっかくの可愛い顔で、そんな表情をしてはいけないわ」

「だって、だって……!」 


 迎賓館でのパーティーが終わってから今日までの五日間、美弥子はずっと上機嫌だった。

 なんでも子爵家の若様に口説かれたとかでデートに出ずっぱりだったのだ。

 彼は若くして精霊を受け継いでおり、プレゼントもたっぷり買ってくれるし、とても頼りになるのだとか。

 まさか子爵様とめたのだろうか。

 そう思ったけれど、美弥子は「お姉様が、お姉様が」としゃくりあげるだけだ。


「紗代が?アレがどうしたの。なにか粗相そそうでもしたというの?」

「粗相なんてものじゃないわ!お姉様ったら、勝手にお嫁に行ったのよ!」

「……お嫁に?紗代が?」


 あれは一生、屋敷で飼い殺すのだと決めていた。もちろん嫁に出すつもりもないし、婿むこを取るつもりもない。それなのに、勝手に出ていってしまった?

 首を傾げる佳乃に、美弥子は涙声で訴えた。


「やっぱり、お母様もご存知なかったのね?わたくし、お姉様にお食事を運んでさしあげたのに、離れにはお姉様もお蚕さえもなかったの。使用人に聞いたらパーティーの夜に家を出たというし……」


 美弥子は恋に夢中ですっかり紗代のことなど忘れていた。

 でもさすがに五日も食事をさせなかったら死んでしまうかしら。

 そう思って久々に膳を運んだらこの様だ。


「パーティーの夜に……?わたくし達になんの挨拶もなく?いいえ、どうやってあんな見窄らしい娘が嫁入り先をみつけたというの」

「分からないわ……。でも、お父様ったら許可を出したらしいのです。支度金をたんまりもらったからと、西旺寺伯爵へのお嫁入りを許したと……!」

「西旺寺伯爵ですって……?」


 帝国を守護せし四神の一柱、白虎。それを代々受け継いできた西旺寺一族。

 彼らは精霊の力で、そして財閥の強大な資金力で国の屋台骨を支えている。

 しかしその当主は公爵だったはずだ。だが噂ではその息子が伯爵位を与えられ、本家を離れて生活しているとか。

 婚約者がいるという話は聞かなかったが、まさか紗代がその座を手に入れるとは。


「……うっふふ」

「お母様……?」

「いやあね、美弥子。それは何かの間違いよ」

「でも……確かにお父様は、婚約承諾証にサインをしたと……」

「それは、間違いなのよ」


 佳乃が真っ赤な紅で彩られた唇を、ぐいっと引き上げて微笑んだ。


「いい?それは、間違いなの。だってそんなのおかしいって、少し考えれば分かるじゃない。……そして間違いは、正さねばならないわね」


 美弥子は母の思惑を察した。

 そうだ、自分たちが間違いだと思っなたら、それは間違いなのだ。

 佳乃も美弥子も、これは紅だといえば白い薔薇すら赤くなった。

 ときに家柄をひけらかし、気位の強さで圧倒し、どちらも通用せぬ者には可憐に愛らしく振る舞うことで自分の要求を通してきたのだ。


「……ええ、お母様。お姉様は一生、この家でお蚕を飼って、わたくし達に仕えなければいけないわ。それが正しい在り方よね?」

「さすが美弥子は物分かりがいいわ。早いうちに、アレを連れ戻しましょうね」

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