第2話 出会い

 迎賓館げいひんかんの大まかな場所は知っていたし、さかきを買うためのへそくりで電車賃は工面くめんできた。

 しかし電車を降りたところで紗代さよは途方に暮れる。駅から先の道がわからない。

 必死に通行人を捕まえては道を尋ねて先を急ぐ。

 迷っているうちにパーティーが終わってしまったら、それこそ笑い話にもならない。

 美弥子たちが帰るまでに自分も離れに戻っていなければ、きっとひどい目にう。

 大通りには瓦斯燈ガスとうが整備されていたが、空がじわりじわりと藍色あいいろに染まりゆく様は、紗代の心を不安にさせた。

 急がなきゃ。この道を、とりあえずまっすぐ──。

 さらに急足になりかけたとき、紗代はどぼんと暗闇の中に放り投げられた。


「え……」


 そこは見渡す限りの闇だった。

 街灯の光もなく、建ち並んでいた商店も通行人の姿も見えない。

 それどころか天も地もなく、まるで空に浮かんでいるような心地がした。

 ああ、これは現実ではない。

 紗代は即座に悟った。きっと貧血を起こしたついでに幻惑に囚われているのだろう。


──紗代、糸をつかみなさい。


 どこからか祖母の声がする。

 お婆様、春蚕はるごはまだ卵からかえってもおりません。糸が取れるのは一ヶ月も先でございますよ。

 そう答えようとしたけれども声が出ない。

 その代わり、漆黒しっこくの空間に光るものを見つけた。

 七色に輝く糸。

 虹のような光沢が、闇に強くきらめいている。


──紗代、掴むのですよ。


 何も疑念は抱かなかった。

 紗代はぐっと手を伸ばし、まるでオパールのように輝く糸を──。


「危ないっ!」


 車が急ブレーキをかける音がして、紗代は現実へと引き戻された。

 三寸先では深緑色の車がエンジンを吹かしており、ライトが紗代の姿を照らしあげている。

 かれかけた──そう理解すると同時に紗代の腰が抜け、へなへなとその場に崩れ落ちる。

 車中の人物は慌てて紗代に駆け寄った。


怪我けがはないかね、お嬢さん」


 紗代はその人物をぼんやりと見つめ返す。二十代半ばごろの美しい若者だ。

 羽二重はぶたえのように白い肌と色素の淡い黄白色の髪。目元は涼しげで鼻梁びりょうが高い。中性的な顔立ちをしているが、しっかりとした肩幅が男性であることを示している。

 黒い立ちえりに揺れる金モール。腰には金細工が施されたサーベルを下げている。陸軍のなかでも立場のある人間だと、すぐに分かった。紗代は慌てて地面に手をついた。


「も……も……申し訳ございません。軍人様の車をお止めするなど……」

「いや、君に非はない。わたしがほうけていたのだ。ぶつかってはいないようだが、立てるかね」

「あ……あの……」


 紗代は恥ずかしさに顔を赤らめた。ひざが笑って言うことを聞こうとしない。自力で立つことはできそうになかった。


「すまなかったね。わたしが責任を持って君を送り届けよう。行き先はどこだね」

「いいえ、そんな。勿体もったいないことでございます」

「こんなときの遠慮はむしろ無礼というものだ。行き先を教えたまえ」

「その…………迎賓館に……」

「迎賓館?」

「はい……。その……、今日はパーティーがあると」

「……奇遇だね。わたしもそこへ向かっていたところだ」


 男性をよくよく見れば、胸元には階級章のほかに勲章くんしょうがずらりと並んでいる。どうやらパーティーに出席するための正装らしい。

 こんなに立派に装ったお方と同じ場所に行こうだなんて。

 紗代は自分の格好を思い出してさらに恥じ入った。

 参加者の衣装をのぞき見て帰るつもりだったけど、自分のような人間は迎賓館に近づくことなど許されないのではないか。そんな気さえした。

 でも、今日を逃したら美しい絹を拝む機会などもうないかもしれない。


「さあ、肩を貸して。自動車は初めてだろうか。安心してくれたまえ、怖くはないから」


 男性はその心情を知ってか知らずか、紗代をするすると助手席へと座らせた。


「あ、あの……!」

「目的地が一緒なら、遠慮する理由はないだろう」


 車がエンジン音を唸らせ走り出す。


「ありがとう……存じます……」

「いいさいいさ」


 男はなんでもないことのように答える。

 車は帝都においても未だ高級品。国内ではあまり製造されておらず、購入できるのは一部の富裕層か官公庁に限られていた。

 深緑色の車体からして、軍の持ち物ではないだろう。つまりはこの車の所有者はこの男性で、そして迎賓館に向かっているということを考えても、彼は尊い身分の人間だろうと思われた。

 離れでお蚕仕事ばかりをしてきた紗代は、高貴な方に対するマナーを学べなかった。

 知らぬ間に粗相そそうをしてしまったらどうしよう。そんな不安が胸をかすめたが、なぜだか緊張はしなかった。

 彼の隣は不思議と心地が良い。


「わたくしは千早ちはや紗代さよと申します。……正直なところを申しますと、迎賓館までの道が分からず難儀なんぎしておりました。重ねて御礼申し上げます」

「ああ、そうだったのかい。わたしは西旺寺さいおうじ霧央きりおという。短い道行みちゆきだけれどもよろしく」


 西旺寺。その苗字はどこかで聞いたことがあった。もしかして、ご近所の方だったかしら。紗代が考え込んでいると、霧央は軽い口調で切り出した。


「迎賓館にはどんなご用事かね。ご招待でもいただいたのかな」

「……いえ。千早家には招待状が来たようですが、わたくしは……」


 霧央はぴくりとまゆを動かした。

 彼は紗代のことを使用人だとばかり思っていた。てっきりパーティーに向かった主人が忘れ物をして、彼女はそれを届けようと迎賓館に向かっているのだろうと軽口を叩いたが、それを少し後悔する。

 家族はパーティーに呼ばれるほどの身分であるらしいけれど、彼女はまるで襤褸ぼろのような着物を着ている。何か事情があるのだろうとは、簡単に察せられた。


「おや、家族に遅れてパーティーに向かうとは、まるで灰かぶり姫だ」

「……いいえ、そのような上等なものではございません。わたくしはただ……、綺羅きらを見たいのでございます」

「……綺羅というと、霊力が込められた絹の、綺羅?」

「……はい。わたくしは……お蚕の精霊の加護をいただいておりますが、未熟者ゆえ三等綺羅しか織り上げることができません。……パーティーには豪華なご衣装のお客様がたがいらっしゃるかと存じます。……良い絹を、綺羅の美しさを、少しでも目に焼き付けられたなら……わたくしは良い絹を取れるような気がするのです」


 まさか、精霊付きか。霧央はわずかに目を剥いた。

 確かに紗代からは清廉せいれんな気を感じる。しかしそれは風前の灯火ともしびのように、今にも消えてなくなりそうな頼りないものだ。

 紗代のけた頬、着物のそでからのぞく細い腕。十分に食事をらせてもらえていないのだろう。

 契約者の有り様は精霊にも影響する。精霊付きが不幸であるなら、精霊は十全じゅうぜんに力を発揮できない。精霊が力を振るえなければ、その家だって恩恵を得られぬだろうに。

 それなのに、千早家はなぜ、精霊を、彼女を大切に扱わない?

 霧央には理解できないことだったが、それを彼女に問うてもせんなきことだろうとも思う。


「君は、お蚕仕事が好きなのだね」

「……はい。稚拙ちせつな技なれど、わたくしにはこれしか取り柄もございませんし……。何より、上質な絹糸を取ることが真白様に報いることだとも考えております」


 真白様。それが彼女の精霊なのだろう。そして彼女は家族と違い、精霊を愛しているようだ。

 霧央は言葉を選ぶように、ゆっくりと彼女に問うた。


「勝手な推測で申し訳ないのだが、どうやら君のご家族は精霊についてあまり理解しておられぬようだ」

「……お恥ずかしいことでございます。わたくしは真白様への供物くもつにも困る有り様で。……しかし、わたくしの妹は、精霊のご加護がなくとも一級綺羅を織り上げる力量の持ち主でございます。おそらく、千早家は真白ましろ様がおられずとも立ち行くのでございましょう」

「……それはそれは」

「精霊様をいただいてなお、わたくしにはその高みには至れませんのに……。千早家でのわたくしは、ただの穀潰ごくつぶしでございます。本当なら家から消えてしまった方が、家族にとっても幸せなのです」


 霧央はちらりと助手席を盗み見た。背筋をすっと伸ばし、ただ真っ直ぐに前を見つめる黒曜石こくようせきのような瞳。

 街の灯りが眼の中でゆらめき、まるで泣いているように見えた。

 思わず路肩に車を停め、紗代に向き直る。


「君、家を出たまえよ」


 紗代はびくりと肩を震わせる。そうだ、家族にとって自分は邪魔者だと自覚しているのなら、自分は千早家を出るべきだ。だけれども。


「し、しかし……わたくしには他に行く当てもございませんし……。世話しているお蚕たちを放っていくわけにも参りません」


 それは言い訳だった。現状を変えられない自分を、正当化するためのみにく建前たてまえ

 辛い辛いと現状をなげきながら、自分では何も行動しない。

 ああ、この方の前で自分は恥いることばかりだと、紗代は惨めな気持ちになる。

 ぐっと唇をみしめた紗代に、霧央はこともなげに言った。


「では、わたしのところへ来たまえよ」

「え……」

「わたしの屋敷には部屋が余っているからね。人ひとり、お蚕が少し増えたところでどうということもない」

「で、ですが……殿方のお屋敷に未婚の娘が居候いそうろうするなど、西旺寺様にとって外聞がいぶんが……」

「それならば、結婚でもするかね」

「な……」


 あまりにも簡単に結婚という言葉を出すので、紗代は言葉を失った。

 思わず霧央の顔をうかがってみたけれど、彼は微笑んで見せるだけ。

 まるで西洋の彫刻のように美しい顔立ちをしているが、その表情はまるでイタズラものの猫のようだと紗代は思う。


「うん、結婚というのは我ながら妙案だね。わたしにとっても利が多い。君が結婚してくれるというのなら、わたしは周囲からわずらわしく言われることもなくなるだろう」

「そ、そんな……」

「君は千早家への負担を減らせるし、わたしの屋敷で自由に養蚕ようさんができる。わたしは妻がいるというだけで何かと都合が良い。どうかね」


 紗代は躊躇ちゅうちょした。それでは自分にとって利益が大きすぎるのではないか。

 周囲を黙らせるためだけにまさか結婚までするなんて。


「ああ、お互いに良い人ができたときのために、結婚するではなく婚約にとどめておいた方が賢明かもしれないね。それならいつでも破棄することができるから」


 愛のない、お互いの利益のためだけの婚約。

 辛い境遇から抜け出せるからといって、この提案に乗るのは浅ましくはないだろうか。

 良家の子女として恥ずかしい選択ではなかろうか。

 しかし、それがこの親切な人にとっても都合が良いことだというのなら。

 浴びせられる罵声ばせい、暴力、無関心。自分は役立たずだからとそれらを甘受かんじゅするしかない毎日。

 消えてしまいたいといつも思っていたけれど、この方のお屋敷に行けば何かが変わるかもしれない。

 紗代は姿勢を正すと、深くこうべを垂れた。


「……西旺寺様のご慈悲に感謝いたします」

「決まりだ。紗代さん」

「はい。不束者ふつつかものではございますが、よろしくお願いいたします。……旦那様」


 霧央はにっこりと笑うと、再び車を走らせた。

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