精霊の国の花嫁御寮

楠千晃

第1話 蚕の旅立ち

 紗代さよはまさか自分が伯爵さまに嫁入りすることになるとは、夢にも思っていなかった。

 更に言えばつい先ほどまで千早ちはや家を出るななんて考えてもいなかったし、出会って間もない男性との生活を選ぶなど、想像したこともなかった。

 紗代は今年で十九になるにも関わらず、これまで一度も縁談が来たことがない。帝都において良家の子女は十代半ばで結婚相手が決まるにも関わらず、だ。

 男爵令嬢として生まれたけれど、きっと家族の誰も自分の結婚のことなんて考えてくれていないのだろう。

 自分はこの家でさげすまれながら一生を過ごすのだ。そう思っていた。

 今日も辛い毎日の延長のはずだった。

 事実、今朝も妹の罵倒ばとうから一日が始まったのに。


「お姉様のような穀潰ごくつぶしがいらっしゃるから、当家はすっかり貧しくなってしまったわ」


 朝の静謐せいひつな空気を妹の甲高い声が切り裂く。妹の美弥子みやこは美しい娘だ。

 ぱっちりと大きな瞳にふっくらとした唇。豊かな髪には傷んだところが一つもなく、鮮やかな友禅ゆうぜんの着物を優雅に着こなしている。

 そんな彼女が、まゆひそめて紗代を見下ろしていた。


「……申し訳ございません」


 紗代に許されるのは謝罪の言葉をべ、頭を板間にり付けることだけ。

 もし少しでも反論しようものならその何倍もの罵声ばせいが返ってくることになるし、妹の機嫌次第ではたれることもある。

 これは毎朝のことだったので、紗代はすっかり心を殺すことに慣れてしまった。

 諾々だくだくと謝罪を繰り返すだけで妹の癇癪かんしゃくが治るのなら、それでいい。

 ただ、この時間が終わらないと美弥子は朝食の盆を渡してくれないので、紗代は毎度貧血でくらくらしながら説教を聞いた。

 昨晩は食事にありつけなかったので、いつもより体調が悪い。

 美弥子はいつも桜色のほほをしているので、きっとたらふく食べさせてもらっているのだろうなぁと紗代はぼんやり思う。

 それに比べて自分は。

 普通ならば雑巾ぞうきんにでもしてしまうようなボロボロの着物に、枝毛だらけの黒髪。せて骨張った体は見栄みばえが悪く、肌は水仕事で荒れている。

 そもそも実の姉妹だというのに、紗代と美弥子は似なかった。

 美弥子の華やかな容貌ようぼうは母譲りで、紗代の地味なところは亡くなった祖母に似ている。

 そういえば、母とはどれほど顔を合わせていないだろう。

 母は姑である紗代の祖母を嫌っていた。

 祖母に似た紗代ともどうやら顔を合わせたくないようで、紗代が暮らすこの離れには近づくことすらない。


「お姉様の糸は品質の悪い三級絹糸けんしばかり。いつになったら一級絹糸を取れるようになるのかしら」


 千早家は絹の生産を生業としている家だった。かいこを育て、糸を取り、「綺羅きら」と呼ばれる絹布けんぷに織り上げる。

 紗代も千早家の娘として養蚕ようさんに従事しているが、ここ何年も質の良い絹を作ることができていない。

 紗代が暮らすこの離れには蚕棚かいこだなが並び、そこには八千にも渡る蚕の卵が安置されていた。

 彼らは五月の暖かい陽気を受けて、今か今かと孵化ふかの時を待っている。

 しかしそれも自分の手に掛かると三等絹糸しか吐けないお蚕になってしまう。そんな事実が紗代には悲しかった。


「わたくしにすら一級綺羅きらが織れるのに、小さな頃から養蚕を学んだお姉様にはできないなんてね。きっとお婆様も草葉くさはの陰で泣いておられるわ」

「……申し訳……ございません」


 自分の絹の方が品質が高いと言われると、紗代はもう口をつぐむ他ない。

 そして祖母のことを持ち出されると、鈍麻どんまさせたはずの心がキリリと痛んだ。

 お蚕のことを教えてくれた祖母。

 紗代をいつくしんでくれた唯一の肉親。

 この体たらくではお婆様の顔に泥に塗ることになるのではないか。

 そういえば、今日は久方ぶりに夢でお婆様にお会いした。

 悲しげな顔をしていた。

 なんと言っておられたのだろう。

 お婆様も自分を責めておられるだろうか。

 一層体を縮こませた紗代を見て、美弥子は満足したようだった。


「もっとマシな糸を取って、せめてご自分の食い扶持ぶちくらい稼げるようになってくださいませね?お姉様」

「はい……申し訳ございません」


 美弥子は朝食の盆を床に置くと、楽しげに母屋おもやへと戻っていった。

 足音がすっかり聞こえなくなったのを確認して、長いため息を吐く。 

 わずかな米が盛られた茶碗に、申し訳程度の味噌。紗代はすぐにははしを取らず、盆を祭壇へと供えて手を合わせた。

 祭壇といっても、そこにあるのは枯れかけたさかきと苦心して手に入れた安い酒。そして今し方供えたわびしい食事の盆だけ。

 しかし、たとえどれだけ供物が貧かろうと、そこに感謝と敬愛がある限り、尊き存在は契約者を見限らない。


「我ら千早の宝、真白ましろ様。どうぞお蚕様たちをお守りください」


 紗代が手を合わせて静かに祈る。

 するとあたりを光の粒子が漂い、祭壇に蚕の成虫が姿を現した。

 白く分厚ぶあつはね。触覚には何本もの繊維せんいが生え、胴体は太くふわふわとした毛に覆われている。形は蝶に似ているけれどずんぐりとした印象の御姿だ。

 真白様、と呼ばれたそれは人間の両掌りょうてのひらほどの大きさをしていて、ただのお蚕と異なることは誰の目にも明らかだった。

 それを裏付けるように、真白というお蚕は紗代の祈りを受け取ると、ふっと姿を決してしまう。


 それは精霊だった。


 この国は古来より八百万の神々と共に在る。神々は天におわしその御姿を見せることはない。

 しかし精霊は人々にとってずっと身近な存在だった。

 神秘の力で特定の家を代々守る精霊もいれば、気に入った人間とだけ契約する精霊もいる。

 いずれであっても、精霊の加護を受けた人間は幸福な人生が約束されていた。

 狐の精霊がおわすお家には商売繁盛が約束され、牛の精霊と契約すれば学問の道が開かれる、といった具合だ。

 精霊によって加護は異なるが、人間がきちんと精霊をまつり敬えば、必ずご利益をもたらしてくれるのだ。

 それだけではない。精霊と契約した者はその神力の影響を受け、常人じょうじんよりもうまく霊力を操れるようになる。

 真白という蚕の精霊は、千早家が代々受け継いできた精霊である。蚕を守り、絹をより一層美しくする力を持ち、この家を富み栄えさせてきた。

 さらに、お蚕の精霊の契約者は霊力のこもった特別な絹を織ることができた。

 その「精霊綺羅せいれいきら」と呼ばれる絹は、身にまとった者の霊力をさらに高めたり、よこしまな存在から守ったりしてくれる。

 ただ、契約者の技量によって精霊綺羅の品質は左右される。

 それは主に込められた霊力の量によって格付けされた。

 ぎっしりと霊力が込められたものを一級とし、それより劣るものは二級、最低ランクのものは三級といった具合だ。


 そして紗代は三級綺羅しか織ることができなかった。

 お蚕を教えてくれた祖母は一級綺羅の織り手だったし、そんな祖母から教えを受けていない妹でさえも一級の絹を仕立てることができるという。

 それなのに紗代はお蚕仕事をどれだけ熱心にやっても、良質な絹を作ることができない。

 その事実は紗代の心に重くのしかかった。

 もし美弥子が真白様を受け継いでいたらどうだっただろう。

 加護がなくとも一級綺羅を織れるのだから、もっとすごいものを作れたかもしれない。

 たとえば、帝がお召しになられる特級綺羅のような。

 そうだ。役立たずの私なんかよりもきっと──。

 そう考えて、紗代は頭を振った。

 精霊と契約者は感情を共有している。こんな暗い気持ちを真白様に伝えてしまうのは良くない。

 こんなときは身体を動かすに限る。

 そうだ。今日は卵が孵化するかもしれないから、念の為に桑の葉を取って来ておこう。


 質素な食事を終え、かごを背負う。

 くわみは紗代に許された唯一の外出の機会だった。

 お蚕は桑の葉しか食べない。

 しかも新鮮なものにしか食指しょくしを示さないので、どんな時でも畑に行って青々とした葉を取ってくる必要があった。

 監視役の使用人を同行させないと美弥子にたれるので、盆を返しがてら母屋に向かう。

 すると女中たちが妙に慌ただしくしていることに気がついた。


「パーティーは夜からだってのに、今から大わらわだね」


 そんな言葉が聞こえて、思わず紗代は耳をそば立てた。


「美弥子お嬢様が正式な社交会に出るのは初めてなんだろ?それなら仕方ないさ」

「なんでも、あの迎賓館げいひんかんで開かれるんだってね。そりゃあ気合も入るさね」

「でも西陣もだめ、友禅もだめってんじゃねぇ」


 迎賓館というのは高等小学校で習ったことがある。

 外国からの要人をもてなすためにみかどみことのりで建造された豪華絢爛ごうかけんらんな洋館のことだ。

 そんなところでパーティーを。そこに美弥子が、出席を。

 紗代の心は震えた。


「お召し物で他のご令嬢に負けるわけにはいかないってさ」

「はは、美弥子お嬢様らしいわ」


 花のように着飾ったご令嬢たちが、その美しさを競うようにしてパーティーにやってくる。

 お召しになるのはきっと、色とりどりの宝石に珍鳥の羽飾り。緻密ちみつな模様のレースにリボン。そしてあふれるように咲く花々を、複雑に編み込んだ髪に飾り付けるのだろう。

 そして、絹。

 格式の高い場の装いといったら、やはり絹に限る。

 真珠のような光沢を帯びた絹を、ご令嬢方はどのように身につけるのだろう。フリルをたくさんあしらった西洋のドレスかしら、それとも王道の振袖かしら。

 それはどれも上質なものに違いない。

 三級綺羅?いいえ、二級綺羅……もしかすると一級をお召しになる方もいらっしゃるかもしれない。

 紗代が一級綺羅を見たのは随分昔のことだ。

 祖母がまだ元気な頃は、彼女のそばで一級綺羅が織り上がっていくところをつぶさに見ていられた。

 しかし今では祖母が手掛けたものはすべて売り払われているし、美弥子が織ったものは見せてもらえない。


 見たい──。


 強い欲望がくっきりと心の中に浮かび上がる。

 もしパーティーで本物の絹というものを見られたなら、自分だってよりよいものを作り出せるかもしれない。

 きっとパーティーでは参考になるような絹がたくさん見られる。どんな絹を目指すべきか、目標だって定まるだろう。


 行きたい。いや。行かねばならない。


 紗代はこの日そればかりを考え、そわそわと過ごした。

 そして両親と美弥子が迎賓館へと出発し、使用人たちが肩をで下ろした頃──密かに紗代も家を出たのだった。

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