第3話 父の承諾

 霧央きりお紗代さよを乗せた車が、軽快に黄昏時たそがれどきの道を行く。


「パーティーには君のお父上の来ているのだったね」

「はい。……両親と、妹が」

「うん、都合が良いな。早速さっそく、千早のご当主に婚約の許可をいただこうではないか」

「これから……でございますか」

「そうさ。決断も行動も早い方が良い」


 日はすっかり暮れて空はすみれ色になっていたが、霧央が車を停めた場所はまるで地上に数多あまたの星を降ろしたかのようなきらめきに満ちていた。

 帝国が大金を投入し、その力を誇示こじせんと建造した迎賓館。霧央は躊躇ためらいもなく、その入り口をくぐる。


「どうぞお手を。婚約者殿」 


 尻込みしている紗代に、霧央は右手を差し出す。

 そうだ、自分はこれから家を出ようというのだ。こんなところでうじうじしていることに意味はない。紗代はその手をそっと取る。

 霧央はボーイにパーティーの招待状を見せると、応接室を用意させた。金銀きらめくシャンデリアに、紅の絨毯じゅうたん。ふわふわなソファに二人並んで座る。

 霧央はボーイに千早家当主を呼ぶよう言い付けると、「紗代さんは堂々と座っていてくれたまえ」と微笑んだ。

 堂々となどしていられるだろうか。不安になったけれど、とりあえず紗代はうなずく。


「千早男爵閣下、おいでにございます」


 ボーイの声に顔をあげてみれば、笑顔を浮かべた紗代の父──千早ちはや寛治かんじがそこにいた。

 寛治は霧央の姿を認めてにやにやしていたが、そこに紗代も同席していると悟って一転、困惑の表情を浮かべる。

 こうして父と顔を合わせるのはいつぶりだろう。

 彼は紗代に無関心だ。普段は花街回りに忙しく、あまり家にいることはない。

 父に関する記憶といえば、子供の頃に受けた暴力。

 少しばかり生糸きいとが取れるからといって大きな顔をするなと、酔ったついでに顔を何度も打たれたのだ。

 紗代の体が固くなる。恐ろしい記憶のせいで、呼吸が浅くなっているのがわかった。

 霧央はその隣で美しい笑みを作った。


「お初にお目にかかる、千早男爵殿。西旺寺霧央と申します。どうぞお見知り置きを」


 寛治はもうすでに笑顔を取り繕っていて、紗代は父の外面の良さに少し驚く。霧央と寛治の二人はにこやかに握手を交わした。


「初めまして、千早寛治でございます。いやあ、西旺寺伯爵にお声掛けいただけるとはなんたる光栄」


 伯爵──その言葉に紗代は目を見開いた。

 西旺寺。そうだわ、なぜ忘れていたの。

 紗代がその名前を知っているのは当然だった。なぜなら帝国の人間ならば必ず小学校で習うからだ。


 この国は精霊の力に守られ繁栄してきた。

 数多の精霊が存在する中でも圧倒的な神力を誇るのが、青龍、白虎、朱雀、玄武の四獣だ。

 四獣は契約者に幸運をもたらすばかりでなく、国家をも守護する強大な精霊だ。

 四獣を代々受け継ぐ者は公爵の位をいただき、一族は国家の中枢ちゅうすうになう。

 西旺寺は白虎を受け継いできた一族で、破邪はじゃの力で帝国の安寧あんねいを守っている。

 西旺寺家当主ともなれば雲の上の存在で、表に姿を見せることもほとんどない。


 霧央はきっとご当主の親類縁者なのだろうと紗代はあたりをつける。

 彼を取り巻く清浄な空気。それはもしかしたら、白虎の神力を身近に浴びた影響かもしれない。

 もし彼が西旺寺家当主に近い者ならば、伯爵位を持っているのも不思議ではないような気がした。

 わたくしは、なんというお方と巡り会ってしまったの──。

 焦りとも後悔ともつかぬ感情が紗代の心を騒がせる。しかし霧央はました顔で歓談かんだんを続けた。


「千早家の評判は聞いておりますよ。そちら様には素晴らしい娘御がおられると」

「おお、それは下の娘の美弥子みやこのことですな。姉とは違って器量も良く、教養や芸事にも秀でた自慢の娘でございます」


 寛治はもう紗代のことを見ようともしない。紗代はうつむいてぐっと唇をんだ。


「家業でも才覚を表していると小耳に挟みました。美弥子殿の織る綺羅きらはまさに星のごとく、と」

「ええ、ええ。当主であるわたくしが申すのも恥ずかしいことではありますが、千早の家は愛娘まなむすめの働きで成り立っております」


 この若造は、明らかに美弥子に興味を持っている──そう考えると寛治の頬は自然とゆるんだ。

 伯爵家と縁を結ぶことができればこれ以上のことはない。

 家の負債だってきっと淡雪のように消えてなくなるだろう。

 自分はこの男を美弥子に引き合わせさえすればいい。今日はいつもより華美に着飾らせているのだから伯爵もきっと娘を気に入るはずだ。

 美弥子もこの美形の伯爵を見れば飛びついてくることだろう。

 そう考えて寛治は唇をめた。


「どうですかな。娘もこのパーティーに参加しておりますから、是非にともお目に──」

「いや、結構。それより、わたしは紗代さんに一目惚ひとめぼれしましてね」

「紗代に……?」


 寛治がこちらを不審そうな目で見たので、紗代はどっと冷たい汗をかいた。こんな娘に一目惚れなどありえないだろうに。そんな疑念が表情から透けて見える。

 しかしそこで霧央は一層美しく微笑んでみせた。それは自信に満ち溢れていて、他者に有無を言わせぬ迫力があった。


「ええ、一目惚れです。そこでわたしは思わず結婚を申し込んでしまったのですよ。紗代さんを困らせてはしまいましたが、婚約ならばとお約束いただきました」

「婚約、ですか……?」

「ええ。つきましては、紗代さんを西旺寺でお預かりする許可をいただきたい。花嫁修業もしてもらわねばなりませんし、家のことも覚えていただきたいのです」

「しかし……紗代には蚕の世話が……」

「どうやら千早家の養蚕は美弥子殿だけでもまかなえるということではありませんか。紗代さんには才がないようですし、何よりご本人が千早家に留まってこれ以上の迷惑をかけたくないとおっしゃっていましたし……」


 寛治はそれをつまらなさそうに聞いた。紗代の結婚だとか花嫁修業だとかに、少しの興味もないのだ。

 関心があるとことといえばただひとつ。

 寛治は口を歪ませてじっとりと笑った。


「そんなことを突然おっしゃられましてもねぇ。紗代も大事な愛娘なのです。これまでどれだけの手をかけてきたことか」

「ええ、理解しておりますよ」


 霧央は胸元のポケットから紙束と万年筆を取り出した。

 それは小切手で、霧央はそこにさらさらと数字を書き込んでいく。

 紗代は驚きのあまり小さく悲鳴をあげた。


「だ、旦那様……!」

「可愛い婚約者のためならばこれぐらい、お安いものだ」


 数字の末尾に付け加えられていく大量のゼロ。

 只人ただびとが馬車馬のように働いてもとても掴むことのできない金額。

 寛治は小切手を夢見るように眺めた。


「支度金にはこれくらいをと考えておりますが、いかがですかな」

「しっ、仕方ありませんな。伯爵閣下にそこまでの誠意を見せられたとあっては」


 寛治の鼻の穴が広がっている。どうでも良い娘が大金に化けたことに、喜びを隠しきれていない。

 さらに霧央は別紙に細かく文言をつづっていく。


「ではこちらの書類にサインを。千早殿が我々の婚約を認めたという証左しょうさを願おう」


 ちらちらと小切手を見せつけられて、寛治はかぶりつくように筆を執り、婚約許可証にサインをした。


「紗代や、幸せになるのだぞ」


 小切手を受け取った寛治は、まるで良き父親であったかのように紗代に微笑みかけた。

 金をたかるような真似をするなんて、我が父ながら恥ずかしい。

 そうは思ってみたけれど、紗代は何も言うことはできなかった。

 ただ消え入りそうな声で「はい」と答えて迎賓館を後にした。

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