第4話 精霊たち

 まるで雲の上にいるかのよう。

 西旺寺家の布団の上で、紗代さよはそんなことをぼんやりと思った。

 まだ空は白みはじめたばかりで部屋は薄暗い。

 けれど千早ちはや家の離れのような陰鬱いんうつさはここにはなく、いぐさの香りが紗代を清々しい気持ちにさせてくれる。

 物は少ないけれど、手入れの行き届いた清潔な和室。

西旺寺さいおうじ邸には洋室もあったが、紗代には畳の部屋が良いだろうと霧央きりおがこの部屋を割り当ててくれたのだ。


 きびきびと起き上がり、布団を上げる。昨日はひどく慌ただしかったというのに、身体にはほんの少しも疲れが残っていない。

 千早家にいた頃はいつも身体が痛かった。

 今日はもしかするとふかふかの布団が紗代を癒してくれたのかもしれないし、家を離れた解放感が疲労感を払拭させてくれたのかもしれない。


 昨晩、霧央はすぐに行動を起こした。寛治のサインを受け取るとすぐさま千早ちはや家に向かい、紗代の荷物を引きげたのだ。

 千早家の使用人たちは混乱していた。

 離れで大人しくしていたはずの紗代が突如、婚約者を連れて帰ってきたのだ。

 しかも当主が不在の間に。

 使用人たちは紗代を引き留めるべきかとも思ったが、霧央の手には寛治のサインが入った婚約許可書があったし、伯爵閣下に意見できるような者など誰もいない。

 霧央があらかじめ男衆を千早家に向かわせていたのも効果的だった。紗代の私物は微々たるものだったが、お蚕たちや蚕棚かいこだなを運ぶには人手が必要だ。

 そこで霧央は千早家に部下を呼び寄せておいたのだ。

 軍服をきた筋骨隆々きんこつりゅうりゅうの男たちが並ぶ様は人々を圧倒し、引っ越しは滞りなく進んだ。


 荷物をまとめてやってきたのは霧央の私邸である。住宅街から少し離れた丘の上。

 こじんまりとした屋敷で、広い庭には躑躅つつじ芍薬しゃくやくが乱れ咲いている。

 屋敷は文化住宅と呼ばれる和洋折衷わようせっちゅうの建物で、西洋建築の要素が多分たぶんに取り入れられていた。

 霧央は本家を離れてここに住み、軍人として生活しているらしい。


 帯を締め、髪を一つにまとめる。たすきを握りしめると、紗代は足音を立てぬようにくりやへ向かった。

 そこにはすでに女中の少女がいて、紗代の姿を見て目を丸くする。


「あらまあ、奥様。おはようございます。こんなお早くにどうされましたか?」


 彼女は西旺寺の女中で、名を史子ふみこといった。

 十三歳という若さだったが、この屋敷の家事一般を彼女は一人で取り仕切っていた。


「その……、史子さんのお手伝いをと思いまして」

「奥様が……お手伝いを?そんな、奥様が使用人のお仕事をなさる必要はございませんのに」

「あ……その、大したことができるわけではございませんが。火おこしやら、水汲みならできるかと思いまして」


 紗代が暮らしていた離れにはかまどがなく、食事は美弥子が運ぶものに頼っていたため、煮炊にたきの経験はほとんどない。

 それでも厨の下働きくらいなら。そう思っていたけれど。


「まあ、奥様。ありがとうございます。しかしここの厨は仕事が少ないのですよ」


 そう言うと、史子はくだのついた丸い鉄のかたまりを指差した。


「このお屋敷には瓦斯ガスと水道が通っておりますから」

瓦斯ガス……?!」


 紗代は思わず、史子の手を包むように握りしめた。


「お、奥様……?」

「瓦斯は……瓦斯は、爆発することがあると聞いたことがございます」


 史子は少し驚いたけど、紗代が瓦斯から自分を庇おうとしてくれたのだと思って微笑んだ。


「なんてお優しい奥様。史子を守ってくださろうとしたのですね。でも、大丈夫でございますよ。取り扱いを間違えなければ、瓦斯は爆発することなどございません」

「……そ、そうなのですか……」


 紗代は恥ずかしさで顔が赤くなるのを感じた。

 厨仕事はこの少女の方が手慣れているのに、一人前のような顔をするだなんて。

 しかし史子はそんなことを気にした様子もなく、快活に笑う。


「わたくしも、このお屋敷に来て初めて瓦斯というものを知りました。当時はそれはそれは仰天したものでございます。だって、燐寸マッチ一本の火種でお湯を沸かせるんですもの!」


 史子が大袈裟おおげさに言い、紗代は思わず微笑んだ。

 こん色の着物にフリルのついたエプロン。そしてきっちりと結い上げたおさげ。

 笑う顔には愛嬌あいきょうがあって、見るものを安心させる。


「さあ、奥様。せっかくですから朝茶を召しませ。朝一番のお茶は一日の災難を遠ざけると申します」

「……ありがとう、ございます」


 紗代はお茶を飲みながら、史子が朝食を作るのを眺めていた。

 手際の良さに感心しながら、自分の不甲斐なさを恨めしく思う。

 婚約したとはいうものの、それは愛のない仮初かりそめのもの。

 少しは役に立たなければ霧央にも愛想を尽かされるかもしれない。

 自分は何をすれば良いだろう。何ができるのだろう。

 そう考えているうちに、屋敷はやおら活気づいてきた。どうやら霧央も起きてきたらしい。


「ささ、奥様も居間へどうぞ」

「あ……このお膳も運んでよろしいですか?」

「まあ、それは助かります!」


 霧央は居間で朝刊を読んでいた。

 眼はしっかりと開き切っておらず、ぼんやりと視線が活字をなぞる。

 朝が苦手でいらっしゃるのかも、と紗代は考える。

 昨晩の毅然きぜんとした態度が嘘のようだ。

 霧央はぼうっとしながらも紗代に微笑みかけた。


「おはよう、紗代さん。昨夜はよく眠れたかね」

「はい、おかげさまで……」

「そうかい。……うん、それはよかった」


 それでも史子の煎れた濃茶をすすると次第に目が冴えていったようで、朝食の準備が整う頃には霧央はすっかり覚醒かくせいしていた。

 卓上には膳が四つ。

 そこには白米と味噌汁、明日葉のおひたしや焼いたメザシの皿が乗せられ、残りの二膳にはさらさかきの葉と日本酒のさかずきが乗っている。

 榊は朝露を弾いて青々と輝き、日本酒からは甘く芳醇ほうじゅんな香りが漂っていた。


「……旦那様、こちらのお膳は……」

「ああ、そうだね。紗代さんとは作法が違ったかな」

「そ、それは、どういった……」

「わたしも精霊付きなのだけど、朝食の時間に毎朝の供物くもつを捧げているんだ。精霊と一緒に朝食を摂るスタイルだね。しかし、紗代さんの分もつい自分と同じように用意させてしまった。すまないね」


 紗代はこれまで自分の膳を供物として捧げ、そのお下がりという形で朝食をいただいていた。

 でも精霊と食卓を囲むだなんて素敵だし、紗代にはそれを拒む理由がない。


「それがこのお家のお作法でしたら、わたくしはそれに従うまででございます」

「そうかね?それでは……」


 そう言うと霧央は大きく柏手を打った。

 それとともに金色の光が現れ、食卓を照らす。

 まるで太陽のような輝き。

 その赫灼はただまばゆいだけではなく、強い生命力のようなものを感じさせる。

 紗代は目をすがめたが、光は間も無く収まった。


〈 ぐるるん 〉


 姿を見せた精霊は黄金の虎だった。

 中型犬ほどの大きさの、こどもの虎。

 太い尻尾をぶんぶんと振り回しながら、楽しげに紗代を見ている。


「おや。朝の供物にがっつかないとは、珍しいことだ。婚約者殿に興味があるかね?」


 仔虎は紗代の膝下に駆け寄ると、ふんふんと鼻を鳴らして匂いを嗅いだ。

 紗代は虎を驚かせまいと動かずにいたが、虎がてのひらに小さな頭をり付けるので恐る恐るでる。


「まあ、なんて柔らかな……」 


 ふわふわな毛並み。

 忙しなく動く耳。

 首の辺りをさすると、虎はまるで仔猫のようにぐるぐると喉を鳴らした。


「どうやら菊亮きくすけは紗代さんを気に入ったようだね」

「旦那様の精霊様は、菊亮きくすけ様とおっしゃるのですね」

「ああ。毛の色が黄色い菊のようだろう」

「ええ、本当に」

「こいつは気に入った人間には際限なく甘えるからな、紗代さんも気にせず食べたまえよ」

「そんな……」

「少なくとも、君の真白ましろ様には供物を捧げた方が良いのではないかね」


 紗代ははっとした。

 真白様はもしかしたら違う環境にやってきて弱っているかもしれない。

 そうならば、少しでも早く神饌しんせんをお上りになってもらった方が良い。

 紗代は菊亮を膝の上に座らせると、手を合わせた。

 真白様、千早家を出るなどと勝手をして申し訳ございません。

 お怒りでしたらどんな罰でも受けます。

 そんな贖罪しょくざいちかいを祈りに乗せる。

 次の瞬間、紗代のまぶたを貫いたのは銀色の光だった。

 目を開けると、そこには一等星のように輝く真白がいる。

 まるで真珠のように優しく純真な輝きに、紗代は思わず息を呑んだ。

 そうだわ。このこはこんな風に輝くのだった。


 紗代は思い出していた。祖母が当主であった頃、真白がどんなに美しく光を放つのかを。

 それは月のように静謐せいひつで、星々のように絢爛けんらんで、太陽のように力強かったはずだ。

 自分にこの精霊が受け継がれ、満足な供物も環境も整えられなくなり、このこの光は急速に失われていった。

 わたくしが、わたくしがちゃんとおまつりできていなかったせいで──。


 菊亮が紗代の膝を降り、真白にじゃれかかろうとする。

 その前脚が白い翅にかかろうとした刹那せつな、真白は姿を消してしまった。


「まだ君の精霊様は万全ではないようだね。しかしこうして供物を捧げ続ければ──」


 霧央が紗代に向き直ると、彼女はぽろぽろと涙をこぼしていた。


「……どうしたんだい。供物に不満でもあったのだろうか」


 契約者なら精霊の気持ちもわかるはずだ。

 霧央は胸ポケットからハンカチを取り出すと、紗代の頬をそっとぬぐった。


「いいえ、いいえ。真白様はとても満足しておられました。真白様は、本来はあんなにも美しい精霊様でいらっしゃるのです。なのに、わたくしは、わたくしは──」

「……君が悪いのではない」


 真白が紗代の中でささやいている。紗代が精一杯に尽くしてくれたことを知っている、と。

 なぜ、あなたはそんなにも優しいの。自分はこんなにも不甲斐ないのに。

 そう思うと紗代は泣けて泣けて仕方がなかった。

 涙をぬぐう霧央の指先が、ふと紗代の右頬に触れる。菊亮がざらざらとした舌で左頬を舐めた。

 そんな彼らにありがとうと何度も伝えようとしたけれど、喉がつっかえて言葉になってくれなかった。

 涙を流し続ける紗代を、霧央も菊亮もただ黙って見守った。

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