第5話 新しい生活

 少し涙がおさまって、紗代さよは己の中に使命感のようなものが芽生えたのを感じていた。

 それは霧央の恩に報いなければならないという気持ちだ。

 彼は真白の美しさを思い出させてくれたのだもの、紗代は恩を返せるならなんでもできると思った。


「旦那様……、わたくしは、旦那様のために何をすればよろしいでしょう」

「何をすれば……というのは?」

「旦那様はわたくしの、真白様の恩人でございます。わたくしにできることならば、何だっていたしましょう」

「そんなことを簡単に言ってはいけないよ」

「いいえ、旦那様のためならば……わたくしは、なんだっていたします」


 紗代の双眸そうぼうには強い光が宿っている。昨日のあの弱々しい姿からは想像できないほどのきらめきが、そこにはあった。

 そんな彼女を見て、霧央は上機嫌になっている自分に気付く。

 当然だ。しおれた花が生気を取り戻そうとしているのだ、これほど素敵なことはない。

 霧央は少し考えて言った。


「……ならば君は、綺羅きらを織りたまえよ」

「綺羅を……」

「きちんと食べて、適度に仕事をして、きちんと寝るのだ。君の生業はお蚕仕事で、それを全うすることが君の幸せに繋がるのだろう。精霊というのは、契約者が幸せであればより力を増す」

「わたくしの幸せが……真白様を……」

「君はお蚕仕事が好きなのだろう。ならばよくお蚕の世話をして、美しい綺羅を織るのだ。時間が余るのなら、それは人生をより楽しむために使いたまえ。できそうかね?」

「は、はい……!」

「それは重畳ちょうじょう。まずは君もしっかり朝食を摂りたまえ。足りないものがあれば史子君に言うこと」

「はい。……旦那様、ありがとう存じます」

「いいのさ」


 霧央はにこりと微笑むと、急いで朝食の残りをかき込み、職場へと出掛けていった。

 自分が泣いてしまったせいで、お時間をとらせてしまった。申し訳なく思ったけれど、気持ちが楽になったのも確かだった。


 朝食を済ませてから向かったのは、庭のすみにある納屋である。それは納屋というには広めに造られていて、しかも赤い屋根に白い壁という可愛らしい外装をしていた。

 蚕棚をどこに置くか、というのは大きな問題だった。風通しがよく、ネズミの出ない場所。できれば水場も近い方が良い。

 ただ、屋敷の中に運び込むのには抵抗があった。なにせ数は多いし場所は取る。居候の分際で、それは許されぬだろうと思ったのだ。

 そこで納屋を間借りしたいと申し出たら想像よりも立派な建物で仰天したが、そこはお蚕たちにとってもおあつらえ向きな環境だった。換気もできるし、すぐそばにはポンプ井戸まである。

 庭師もあまり使っていないというので、納屋はお蚕小屋として使われることになったのだ。

 棚から蚕の飼育箱をそっと外して様子を見る。昨日は白い卵しか板上になかったのに、今日は蚕の幼虫が一斉に孵化して黒い体を懸命けんめいに動かしていた。


「まあ……!」


 喜びで大声を出しそうになったのを必死でこらえる。同時に、蚕の孵化を純粋に喜べたのは久々だったと気づく。

 あの離れにいたときは、楽しいはずの養蚕がただの作業になっていた。本当は蚕たちの短い一生を見守る尊い仕事なのに。

 とりあえずはくわの葉だわ。

 蚕は一生を通して桑の葉しか食べない。だから桑の葉摘みはお蚕仕事の大部分を占める重要な仕事だ。

 紗代は庭で躑躅の剪定をする辰爺たつじいに声を掛けた。彼は西旺寺家の庭師で、この広い庭の管理を一手に任されている。


「はいはい、桑の葉でございますな。桑畑くわばたけにご案内いたしますぞ」


 辰爺は皺が刻まれた顔をさらにしわくちゃにして微笑んだ。白髪頭には手拭いを巻き、法被はっぴを着ている。格好こそは昔ながらの庭師だが、彼が育てている植物は海外から来たと思しき品種も多かった。

 さすが西旺寺の庭師は並の腕では務まらぬのだわと紗代は嘆息たんそくする。この屋敷の使用人は史子と辰爺の二人。少数精鋭というやつだ。

 かごを担いで丘を二人で降りる。辰爺はのんびりと紗代に話しかけた。


「ご希望の植物があれば取り寄せますが、奥様はどのような花がお好みでしょうかな」

「ど、どのような……ですか……」


 何が好きかだなんて、久々に聞かれる質問だった。昔は祖母にどんなお菓子が好きかよく聞いてもらった気がする。

 紗代の答えはいつも決まりきっていたが、祖母は紗代とのやりとりを単純に楽しんでいた。

 祖母が亡くなってからは、紗代のことを慮る人間はいなくなった。だから、どう答えるのが正解なのか分からない。


「その……、わたくしは物を知らぬのです。高等小学校を出てからは自由な外出も許されず、お蚕仕事ばかりをしておりましたから」

「なんとまあ、それは」

「……でも、西旺寺のお屋敷は夢のようです。お庭には色とりどりのお花が咲いていて、わたくしなどには名前が分からぬお花もあって……」

「ほうほう」

「久々にお花をゆっくり眺めましたが、心が洗われるようでした」

「ええ、花というのは良いものでございましょう」


 辰爺は笑うとぐっとしわが深くなる。そんなところが祖母に似ているなと紗代は思った。

 美弥子に罵倒される以外、紗代は他者と関わることがほとんどなかった。だから会話の仕方なんかもすっかり忘れていて、辰爺に質問を投げかけられたときはどうしようと思った。

 だけれど話をするうちに、不思議と素直な気持ちがするすると口かられてくる。


芍薬しゃくやくというのは、間近で見ると迫力がございますね。美人の例えに出されるのも納得というものでございます。……そういえば、あの、八重咲きのお花、つるとげがある……あれはなんという植物でしょう」

「棘があるなら薔薇ばらでございましょうか。舶来はくらいの品種でございますよ」

「まあ、あれが薔薇でございますか。ハイカラでございますねぇ」


 桑畑は丘を降ってすぐの場所にあった。よく手入れされた桑が整然と並び、風を受けてそよそよと葉を揺らしている。


「さて、奥様。どのような葉を摘めばよろしいので」

「えっ…………」


 紗代は予期していなかった言葉に固まった。

 千早家でも、桑の葉摘みには使用人と連れ立って向かったものだ。

 しかし、彼らは監視役だったので紗代の仕事に手を出そうとしなかった。

 一日に何度も桑を摘みに出る紗代を見張り、ただ気怠そうに突っ立っていただけ。

 だから、まさか辰爺が手を貸してくれるだなんて考えてもみなかった。

 辰爺は紗代の困惑を感じ取ったのか、即座に頭を下げる。


「あいすみませぬ、手出しは余計でしたかな」

「いえ、そんな。……その、よろしくお願いいたします。蚕の幼虫はよく食べますので……お手伝いいただければ、とても助かります」


 西旺寺家は、千早家とは違う場所なのだわ。

 そんな驚きに包まれながら、紗代は辰爺に桑の葉摘みをお願いした。

 なるべく柔らかい新芽をと注文をつけても彼は嫌な顔一つしなかったし、どれだけたくさんの葉を摘むようにお願いしても文句一つ言わなかった。

 使用人なのだからそれは当たり前、だとは紗代には思えない。

 祖母が亡くなってしばらくは紗代も千早家で令嬢として扱ってもらえたが、それも長くは続かなかった。

 母親と美弥子が紗代を離れに追いやると、使用人たちも彼女を軽んじるようになったのだ。

 母親には昔から嫌われていた。美弥子はそんな母親を見て育ったので、紗代のことを格下だと思っているきらいがある。

 そんな空気は徐々に使用人にも伝染したのだろう。

 それでも使用人に打たれるようなことがなかっただけ良かったと紗代は思う。

 ずっとそんな環境にいたから、桑の葉摘みを手伝ってくれる辰爺が仏様のように見えた。紗代は拝むように手を合わせた。


「ありがとうございます、本当に……」

「奥様にそこまで感謝されるなんてなぁ、寿命が伸びちまいます」


 今までは何度も桑畑と離れを往復しなければならなかったが、辰爺のおかげで桑の葉摘みは一度で済んだ。

 その分、丁寧に蚕の世話をし、ゆっくりと昼食を食べる。

 少し庭を眺め、お蚕たちに二度目の食餌を与えたら一日の仕事は終わりだ。

 ちょうどその頃に霧央も帰宅したのでお出迎えをする。

 心なしか紗代の表情が晴れ晴れしているように見えて、霧央は目を細めた。


「紗代さんは今日はどんな一日を?」

「今日はお蚕たちが孵化しましたので、辰爺さんと桑の葉を摘みに──」


 和やかな食卓だった。こんな穏やかな時間を過ごすは何年振りだろう。

 今日一日の些細なことを報告し、相槌を打ってもらう。


「じゃあ、心行くまでお蚕仕事を堪能したわけだ」

「はい。それはもう」

「うんうん、良いことだ」


 食事を終えたら洗い物を手伝い、早々に布団に入る。紗代の一日はこれで終了である。

 良いのかしら、こんなに恵まれた一日を送るだなんて。

 そんなことを考えたりしたけれど、心地よい疲労感に包まれて紗代は速やかに眠りに落ちた。


 一方、霧央は書斎で仕事をしていた。

 夕食後はここで書類に目を通すのが彼の日課である。

 個人的に所有している会社から決裁けっさいを求めるものや、報告などが日々上がってくる。夜のうちにそれらを確認する必要があった。

 史子が霧央のデスクに紅茶を置く。金縁が上品に光る白磁はくじのティーカップ 。そこに淡い水色すいしょくを浮かべているのは、まだ市場には出回っていないダージリンのファーストフラッシュ。

 霧央はその香りを堪能たんのうすると、琥珀こはく色のお茶を少し口に含んだ。

 霧央はその芳香ほうこうにため息をつくと、史子に「どうかね、紗代さんは」と曖昧曖昧に尋ねる。

 史子は待ってましたとばかりに口を開いた。


「奥様はお優しい方でございます。物腰は柔らかく、使用人わたくしどもにも親切で。しかし……」


 史子が珍しく険しい顔をしたので、霧央は「おや」と思った。


「……旦那様には奥様の朝食のご様子をお伝えしなければなりません」

「何か問題が?」


 そういえば、今朝は紗代が朝食を食べるところを見ていない。

 遅刻すまいと自分の膳を平らげることで精一杯だったし、そのあとはすぐに家を出てしまった。


「……奥様は茶碗に半分の白米と少量のお味噌汁のほかは、すべてお残しになってしまいました」

「……ほう」

「お口に合わなかったのかと思いましたがどうやら違うようで、奥様は食べることに慣れていらっしゃらないようなのです」

「慣れていない……?」

「はい。千早家でのこれまでの食事は朝と夜の2回。しかも茶碗に少しの白米と味噌が少しだけといった内容で、夕食にありつけない日も多々あったようなのです」


 あまりに華奢な身体つきだとは思っていた。満足に食べさせてもらっていないのだろうとも。しかし、あまりにも、それは。

 そういえば夕食がひどく少ないと思っていたのだ。でも紗代はそれで満腹になったようだし、大方、八つ時に菓子でも食べすぎたのだろうと思っていたのに。


「胃が縮んでしまっていて量を受け付けない可能性もありますし、野菜や魚の消化を身体が忘れている可能性もあります。事実、明日葉あしたばのお浸しを食んだ後の奥様は、ひどくお疲れのようでした」

「……なんということだ」

「健康のために食事量を増やす必要がありますが、それまでに長い時間がかかるでしょう。

とりあえずは朝夕の食事は無理のないものにして、昼食を食べることを習慣にしてもらおうと考えております。

昼は空腹を感じないということでしたが、薄い粥とくたくたに煮た大根ならお召し上がりいただけましたので」

「……報告、ありがとう。史子君はやはり頼りになる」

「恐れ多いお言葉です」


 考えていたよりも、紗代の状態はひどい。まるで飢饉ききんった貧農ではないか。

 どす黒い感情が心の中に渦巻いていることに気づき、霧央は頭を振る。これでは菊亮にとって悪影響だ。精霊と自身の感情は共有されているのだから。

 飢餓きが状態の人間にいきなり重い食事を摂らせると、却って健康を害すると聞く。この件に関しては、史子に任せるのが一番だろう。

 事実、それから毎日、史子は紗代のために完璧な献立を用意した。繊維質の少ない食材を柔らかくなるまで煮て、米もゆるめに炊く。そして量をほんの少しずつ増やしていった。

 さらにいつの間に買ってきたのか、朝餉あさげの膳には肝油ドロップまでつくようになった。

 そのおかげか、青白かった紗代の顔はどんどん血色を取り戻していった。


 しかし霧央には、食事のほかにも気になっていることがあった。

 ある朝、霧央は食事を終えると、美しい笑顔で紗代に問いかけた。


「紗代さん。今日のご予定をお聞きしても?」

「あ、えっと……今日はあまりやることがございません。お蚕たちが脱皮しはじめているので……たまにお蚕部屋の湿度を確認する程度でございます」

「なるほど。わたしも今日は非番でね。よろしければ、婚約者としてわたしの予定にお付き合いいただけるかな」

「は、はい……!それはもちろんでございます」


 婚約者としてのお役目。自分の果たすべき責務。旦那様には大恩があるのだから、見事に勤め上げなければ。

 紗代はひざの上でぎゅっと拳を握り込む。

 しかし、そのお役目とは紗代が想像してもいないものだった。

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