第6話 戰慄

 午後になって史子に呼ばれ、応接間に出向かう。

 応接間はきらびやかな部屋だ。シャンデリア風の電灯が柔らかな光を放ち、マホガニー材のテーブルと赤いベルベットを張ったソファが堂々と並んでいる。

 モダンでハイカラ、そして高級感漂うこの部屋は、何度立ち入っても慣れることがない。

 そんな場所に今は美しい反物たんものや着物が並んでいる。

 そのかたわらでは藤色の着物を着た老婦人が使用人を従えて微笑んでいた。

 豊かな白髪を緩やかに結い上げ、真っ赤な紅をひいているその女性には、そこはかとなく気品のようなものが感じられる。


「紗代さん。こちらは大島屋の大女将の千鳥さん」

「あ、は、はじめまして。わたくしは千早紗代と申します。どうぞお見知りおきくださいませ」


 霧央に大女将を紹介されて、紗代は慌てて頭を下げた。老婦人はたおやかにお辞儀をした。


「まあ、ご丁寧なご挨拶、痛み入ります。わたくしは大島屋から参りました、大島おおしま千鳥ちどりと申します。本日はお呼びたていただき、誠に恐悦至極きょうえつしごくでございますわ」 


 紗代は訳が分からず、霧央を見る。


「今日は紗代さんにいくつか着物を作ってもらおうと思ってね」


 霧央が気になっていたこと。それは紗代が毎日、同じ着物を着ていたことだ。

 そういえば、千早家を出るときも持ち出した私物は驚くほど少なかった。

 しかし、まさか彼女が着たきり雀だとは思ってもみなかった。しかも生地がすっかり薄くなり、ところによっては擦り切れている着物しか持っていないなんて。

 それは霧央には信じられないことで、いち早く替えの着物を作ってやらねばと思ったのである。

 しかし当の紗代は着物の仕立てに乗り気ではないようだ。


「だ、旦那様……。その、わたくしにはお着物を仕立てるようなお金は……その……」

「君は何を言っているのかね。わたしが婚約者に着物の一枚も買ってやれないような甲斐性かいしょうなしだとでも?」


 婚約者といっても、自分はお世話になってばかりの居候で──。

 紗代はそんな言葉を飲み込んだ。事情を知らぬ人間がいる場所で、こんなことを大っぴらに言ってはそれこそまずい。だから紗代は黙るしかなかった。

 うつむいた紗代の顔を、史子がまゆを八の字にしてのぞき込む。


「もしや紗代様は、そのお着物でなくてはならぬご事情があるのでしょうか。一生をそのお着物で過ごす誓いを立てただとか……」

「そのようなことは……まったくございませんけれど……」


 これは紗代の手に残った最後の着物だ。祖母が亡くなってから着物を新調させてもらえず、手持ちのものを手入れしながらずっと大切に着てきた。

 しかし長く着るうちに破れたりしてしまったので、その多くを布巾ふきんに作り変えてしまった。

 最近はこの一枚しか着られるものがないので思い入れはあるけれど、丈があっていないからつんつるてんだし、本当ならばこの格好で人様の前に出るべきではないことも分かっている。


「では、お召しのものは大事に取っておくとして、新しいお着物を作りましょう!」

「え、で、でも」

「そうだ。必要な分だけ作りたまえ」

「そ、そんな……」


 そんな贅沢、許されるはずがない。だって自分は十分な食事に温かい寝床までいただいている。お蚕小屋までもらっておいて、これ以上求めることができるだろうか。

 逡巡しゅんじゅんしていると、史子がふっと顔を伏せた。


「そんな……。奥様にちゃんとしたお召し物がなければ……わたくしには立つ背がございません……!」

「えっ、あ、ごめんなさい……。あの、それはどういうことですか、史子さん」

「奥様は今をときめく西旺寺伯爵が婚約者であらせられるのに、わたくしの方が良いお仕着せをいただいているなんて……。わたくしはきっと、主人の婚約者様をいじめる『いびり女中』と後ろ指を刺されるのですわ」


 紗代ははっとした。そういえば自分は曲がりなりにも伯爵の婚約者なのだ。このような格好かっこうをしていては、史子はもちろん、霧央にも恥をかかせることになる。


「ご、ごめんなさい、史子さん。わたくしったらそんなことにも気付かないだなんて……」

「着物を仕立てる気になったかね?」

「はい……。その、着物のお代金は必ずやお返しいたしますので……」

「代金のことなど、気にすることはないさ」


 話がまとまった空気を読んで、千鳥が着物を広げてみせる。


「西旺寺の若様から、奥様はお蚕仕事をなさるとお聞きしましたわ。すぐにそでを通せるものをいくつかと承りましたので、古着のつむぎをお持ちいたしました。古着といっても傷んだところもございませんし、良いものばかりでございますよ。丈は……まあ、ピッタリですわね」


 シックな辛子からし色に清楚な薄桃、鮮やかな空色に気品漂う深緑。

 姿見の前で、千鳥がさまざまな色彩を紗代にあてていく。


「暖かいお色の方が顔色が良く見えますわね。こちらのあかね色はいかがですかしら」

「ああ、それも買おう」

「えっ……あっ…………」


 うまく答えられない紗代に代わり、霧央がどんどん購入を即決していく。


「反物から仕立てますと一月以上かかってしまいますけれど、こちらの柄は夏の訪問着にぴったりですわよ」

「ではそれも仕立ててくれ」

「待っ……えっ…………」

「それなら、帯はこれに決まりですわね」

「いただこう」

「そ……そんな…………」

「でしたら、かんざしはこちらがピッタリ」

「ふむ、良いな。いただこう」

「はわ……わ……わ…………」


 どんどん品物が積み上げられていくのを見て、紗代の顔色がどんどん青くなっていく。これはまずいと史子が霧央と千鳥に待ったをかけた。

 総額はいくらになったのだろう。紗代は気が気ではなかった。ここにあるのは霊力の込められていない一般の絹。しかし、どれも上等な品だ。

 霧央は値段など気にしていないようだが、紗代にはほいほい買えるような代物ではない。紗代の唇は血を失ったように真っ青になっていた。


「お、奥様。少し外の空気を吸いましょうね」


 史子が気を利かせて紗代を応接間から連れ出す。


「お……お蚕たちを……見たいです……」


 ふらつく紗代を史子が支えて、なんとかお蚕小屋にたどり着く。

 お蚕たちはまだ脱皮の途中だった。発育の邪魔にならぬよう、食べ残しの桑の葉や糞はすでに綺麗に取り除いてある。小屋の湿度も程よいし、やることはない。

 しかしお蚕たちの様子を見ると、心がなんだか安らいだ。


「奥様、温かいお茶をお持ちしましたよ」

「あ……ありがとう……ございます……」


 瑞々みずみずしい緑茶の香りが鼻腔びこうをくすぐる。一口飲むと、思わず長いため息がこぼれ出た。


「申し訳ございません、奥様……。旦那様は少々、行き過ぎることがございます」


 行き過ぎ。そう、ちょっと行き過ぎだった。

 紗代も子供時代を男爵令嬢として過ごしたけれど、一度にこれほど散財したことはない。

 祖母は堅実な人だったからだ。


「旦那様はあの白虎びゃっこ公爵閣下のご長男でいらっしゃるので……。時折、西旺寺財閥の金銭感覚が顔をのぞかせることがあるのです」


 霧央が、帝国を守護する公爵のご子息──。

 紗代は息を呑んだ。一門の縁者だろうとは思っていたが、まさか公爵家直系の血筋とは想像だにしていなかったからだ。

 しかし。紗代は首を傾げる。

 霧央は本来ならば、白虎を継ぐべき人間のはずだ。それなのに彼はすでに菊亮きくすけという精霊と契約している。

 精霊付きの一族は、親から子へと精霊を受け継いでいくはず。特に長子ともなれば、精霊の継承から逃れられるものでもないだろうに。

 しかも、公爵のご令息が家を離れ、軍人として生活しているのも不思議だった。

 ふと沈黙が降りた小屋の中で、史子が口を開いた。


「……わたくしにも、過分かぶんに良くしていただいております。もともとはただの行き倒れでございましたのに」

「……行き倒れ?」


 不穏な言葉に、紗代は思わず聞き返す。史子がこんなにも静かな声で話すのを初めて聞いた気がする。


「はい。……わたくしの父は、家族に暴力を振るう男でございました。あるとき、殴られた母は……当たりどころが悪かったのでございましょうね。そのまま息を引き取ったのでございます」

「そんな……」


 暴力。その言葉だけで紗代の身体は固くなる。しかし史子の語り口は淡々としていた。


「このままでは父に殺されると思い、祖母はわたくしを連れて家を出ました。住み込みでご奉公できる場所を探し……でも老いた祖母を、小さな孫を連れた者を雇ってくれるお方はなかなか現れませんでした。ちらちらと雪の降るなか……わたくし達は途方に暮れました」


 史子は窓から遠くを見ていた。彼女の目に映り込む日差しが、雪のように冷たく光る。


「もう歩く力も尽き果てて……路肩で倒れ込んでいるとき、声をかけてくださったのが旦那様でございます。

 春に士官学校を卒業される予定で、ちょうど寮を出なければならぬとおっしゃっていました。

 旦那様はこれも巡り合わせだと仰って、卒業を待たずにこの屋敷へとお住まいを移されました。

 そして祖母はここで女中としての仕事をいただき、旦那様のお世話をさせていただくことになったのです」

「その……お婆様は、今……」

「一昨年に亡くなりましたが、良い最期でございました……。お坊様にもお経をあげていただきましたし、お墓にも入れてあげることもできました」

「それは……よかったです。お婆様も、お浄土で幸せにしていらっしゃることでしょう」

「はい。……わたくしはもうこれ以上のことは望むべくもございません。しかし……」


 史子は言葉を切るとおかしそうに笑った。


「旦那様は、祖母の代わりにわたくしを立派に育てるとおっしゃって……。高等小学校やら、女学校やらに入れようとしたのですよ」

「まあ、それは良いお話ですね」

「はい。でも、わたくしは尋常小学校に通わせていただけただけでも幸せでしたし、なにより家事仕事が好きでございました。

 旦那様のことは実の父親以上に尊敬しております。わたくしは自分にできることで旦那様のお役に立ちたかったのです」


 史子は尋常小学校を卒業した頃にはすでに一通りの家事が身についていたらしい。

 しかし、伯爵家により相応しい女中になりたいと、西旺寺公爵家本家で使用人としての特別な教育を受けたのだとか。

 なるほど。史子も自分と同じだと紗代は思う。どうしようもない窮地に手を差し伸ばされて、その大恩にどうにか報いようと考えている。

 縁もゆかりもないに人間に迷わず手を差し伸べる、どうしようもなく優しい人。

 西旺寺家ほどの財力があれば、屋敷を買って使用人を雇うことなどさしたることではないかもしれない。

 それでも、実際に自らの身を削って他人を救える人は少ない。

 まして、結婚までして……ともなれば話は別だ。

 いくら身を固めないと親族がうるさいと言っても、自分のような人間を家に迎え入れれば風当たりがさらに強くなるのは明白だ。

 ぱっとしない男爵家の、能力も低い女を選ぶなど。

 だって、世の中には伯爵夫人に相応しい未婚女性がたくさんいるのだから。

 史子は真っ直ぐに紗代の瞳を見た。


「史子は果報者かほうものでございます。よき主人に恵まれ、主人は素敵な奥様をめとられました。旦那様は、奥様にも幸せになってほしいと思っておられます」

「……ええ、わたくしも、旦那様がお優しい方だと分かっております」

「しかしその優しさがお嫌なときは、どうぞ奥様もお断り申し上げてくださいませ。旦那様が行き過ぎるときには、わたくしもできる限りおいさめいたしますから」

「……ふふ。あい分かりました」


 二人でちょっぴり笑いあい、応接間へと戻る。

 よし、着物のお仕立てをいくつか取り消していただこう。やはりいくらなんでも買いすぎだと思うから。

 紗代はそう意気込んでいたが時すでに遅く、大島屋の一行はすでに引き上げた後だった。

 霧央は着物の他にも山ほどの雑貨を購入したようで、応接室には大量の品物が残されていた。

 鳩麦の化粧水に白粉、流行りの紅。椿油に薔薇のサボン。レースのハンカチにリボン、つげの櫛……。

 どれもこれも一級品だと、紗代ですら一目で分かった。


「女将がこれくらい伯爵夫人ならば持っていなければならんと言っていたのだ」


 霧央が何でもないことのように言い、紗代は卒倒しそうになる。

 これほどの贅沢品、妹の美弥子ならばいざ知らず、自分には使い切れる自信はない。

 それよりも自分の働きで代金を返せるかしら。そんなことを考えると、紗代は気が遠くなった。

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